はてなキーワード: 全員とは
民主制において、政治責任を背負うのは有権者全員である。政治家が、勝手に物事を決めてしまい、その責任だけを有権者である国民が背負うというのでは、任期制の王制と変わらない。民主政体における政治家の役割は、有権者のコンセンサスを形成する事であり、独裁をする事ではない。戦後、2回以上の解散総選挙を行って連続して信任を得た首相は、吉田、池田、佐藤、中曽根、小泉の5人だけであり、これらの権力者は、独断専行をやれる立場にいながら、私利私欲の為にそれを望む官僚や同僚議員、支援者からの要求を、世論に諮ってからでなければやれないと、拒絶する事に多大な労力を費やしていた。
それゆえに、国民からの支持が集まって、二度目の解散総選挙においても支持を得られたと言えるし、二度目の選挙で勝った後でも、独断専行を避け、国民主権を実現する為に働いた為に、任期満了によって辞任した後でも、政界において多大な影響力を残せるようになっていった。
独裁者になれるのに、その権力を自分達の為に使ってくれなかったという逆恨みを持つ者は官界を始めとするあちこちの業界に居るが、それらは少数派である。それらの口車に乗って便宜を図っても、国民からの支持を失って地位を奪われるだけという実例が沢山あるのに、それをやってしまうというのは、学習能力が無いか、自分だけは大丈夫という過信があるかのどちらかであろう。国民主権という本質を理解していないだけなのだが、そこに、過信や無能が加わると、悪影響は留まるところをしらない。
政治家が自分の頭で判断して、正しい結論が出せるというのであれば、王制でやっていける。それができないほど、世界が広く、社会が複雑になっているから、王制でも貴族制でもない、民主制が必要とされている。民主制によって選ばれた議員は、人民の代弁者であって、頭脳ではない。代弁する為には、人民の声を聞かなければならず、声を聞くには、十分な情報の公開と、議論の記録によって、堂々巡りや不確実な情報による憶測を排除していかなければならない。
情報の公開と言論の自由、そして、議事録の記録と公開は、国民に意思表示を求める際の、必要条件である。争点を形成し、民意を問うという技術こそが、選挙で勝つ為の技術なのだが、利権を独り占めして選挙区にバラ撒きをやりたいという目的においては、それらは邪魔な事となってしまう。
日本の民主党は、社会主義者と自民党を追われた土建族の野合政党であり、どちらも、民主主義とは相容れない体質であり、民主主義国家の与党には、ふさわしくない。独裁しておいて、頑張っていると主張しても、その頑張る方向性が明らかに間違えている以上、国民は認めない。民意を形成するという手続きを行わなければ、国民の支持は得られない。これは、政治だけでなく、事業においても同じである。良い製品を出荷し続けていても、それだけでは国民の支持を得られない。民意を味方につけなければ、外資系企業と同じ扱いにしかならない。
あの馬鹿にこれ以上喋らせるな。
民間企業ならば、地方に飛ばすとか、子会社に押し出すといった温厚な手段から、リストラって放り出すといった手段まで、いろいろとあるが、そういった手段が無いのが国会議員である。
喋れば喋るほど、馬脚をあらわし、嘘の上塗り、恥の重ね塗りをやっている状態になっているという事を自覚できないほど馬鹿だから、止まらないのであろう。
本人は精一杯やっているつもりなのだろうが、根本で捻じ曲がっている為に、全部が無駄な努力となってしまっているのである。
職業選択の自由という建前を鵜呑みにして報酬や名誉に釣られた人が、適性が無いのに職についてしまうと、劣化が始まる。個人の劣化であれば、その個人を排除すればよいが、社会の劣化だと、劣化している事が、その社会では日常化してしまい、修正が効かなくなる。
以前、同じような事を書いたが、数学の問題文を聞いている間に答えにたどり着いてしまう人も居れば、3ヶ月考えても答えにたどり着かない人も居る。適性とは、そういうレベルのモノで、努力でどうにかなるようなモノではない。絶対音感は幼少期の音楽教育で身につくが、音楽を生み出す能力は教育では身につかない。デッサンは量を描けばそこそこのレベルにまでは行くが、描いたモノで人を感動させる能力は、教育では身につかないのである。
本人は努力でこうなったと主張する。それは、電力会社が原発は安全だと言い続けているうちに、安全なんだから、安全の為にこれ以上投資するのは無意味であると自己欺瞞を本気にしてしまったようなモノで、建前として主張していた事が、いつしか真実になってしまうという、プロパガンダの悪影響と言える現象のせいである。
努力さえすれば適性は補えるというのは、努力ではどうにもならない適性の差を否定するという結果に繋がっている。
馬鹿が無駄な努力を続ける姿を目の当たりにしている現状は、反面教師として最高の教材となっているが、それが日本に与える国益の損失という点で、許容できない損害となっているのである。
馬鹿なのに頭脳労働者を目指したり、テンカンなのに重機や自動車のオペレーターになったり、食品事業においては衛生管理は最低限度のサービスという意識が無いのに焼肉屋をやっちゃったりといった、適性の欠缺を放置されるというのは、人的資源の有効利用という観点からは、不適切となる。
ドイツのように、本人の適性に応じた教育制度という、根本的な改革が必要なのかもしれない。全員に同じ教育というのは、一般常識や教養のレベルでのみ通用することで、生きていく上で必要となる能力・技術については、個人のレベルにおいて平等という基準が変わっていく。
政治家として適性が無いのに政治家を目指した馬鹿でも、万年野党の末、敵失によって政権が転がり込むという盲亀浮木の如き偶然で首相や大臣・官房長官・副長官といった要職についてしまう事が実現してしまった以上、適性に応じた職業訓練を教育課程に取り込んでいくべきなのかもしれない。
http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/e3ad8b0a11acf9c195d542929f8b86d0
>>「これは賃金も同じ。サービスの買い手である国民が値下げしろと言えば下げるしかなく、イヤなら転職するしかない。
>> サービスと価格の折り合ったところに、適正価格が形成されるわけだ。」
一応、転職以外に価格を釣り上げる方法がある。但し、条件が厳しい。
売り手側にいる全員が「(こんな安い価格で買い叩きやがって、俺っちが納得する金額を提示するまで)労働サービスを提供してやらないぞ」と脅す方法である。世間一般にこれは「ストライキ」と呼ばれる。
但しこの方法は、全員の行動が一致してなければ効果がない。(抜け駆けして)労働サービスを提供する人がいれば、そこで終わるのである。
A(割と良くしってる人)とB(あんまり知らない人)がケンカしたんだって。
で、Bが、君はAと仲良いから仲裁してくれっつうわけ。正直知らねえよと思うよ。でも、あんまり知らない人だけに、無碍にも断れないじゃないですか。話を聞くと、自分はAに良かれと思って色々しているけど、それが裏目にでちゃって、もう自分からのアプローチはダメだと。でも別に関係を切りたい訳じゃないから、仲裁をしろと。いやーまあー、それとなく話してみるわーなんつって帰宅。
で、Aに会ったときに、軽くBの話をするわけ。そうすると、AはAで、Bは取り扱いがめんどくさいんだよねーみたいなことを言うわけ。AはあんまBのこと好きじゃねーのかなー、ちょっと態度わりーなー、でもじゃあBは関係切っちゃった方が楽なんじゃないかなーと思うけど、何しろ頼まれてるから。それで、Cという全員と共通の知人を入れて(Cには軽く事情を話して)ちょっと飯でも食いに行こうやと誘うわけ。Aはちょっと渋るけど、まあCは知っているし、CがBに会いたいつうならしょうがねーな、ということで、飯を食いに行ったわけ。
でね。
俺の期待としては、まあAとBが和解しないまでも、間に人が入った状態で一回飯食ったら、じゃーケンカの続きすっか、とはならないだろうと。
そうだよね?ここが唯一不安といえば不安なんだけど、大人としては、「ちょっとうまい飯を一緒に食いにいく」は、「内心はどうあれ、まあそこそこ今後もお付き合いしましょう」の意味あるよね?美味しんぼだったら心底和解するくらいのアレだよね?
あと仲良くするかそれなりに距離を持つかはしらんけど、これで義務は果たした、と思ってたら、
Bが中華料理とかふざけんなっつうわけ。いやそこ?料理の種類はどうでもよくねえ?
100点の回答はわかんないけど、仲裁してくれっつわれて、ここが小学校でAとBが小学生同士で俺が担任、だったら、まあ違うやり方をするかもしんないけど、まあそこそこの大人同士の関係で、(…仲裁?この年で?)みたいになりながらも、知らない振りでしかも共通の知人を入れてみんなで飯、って60点くらいはいってない?しかも、「その方法はねえよ」っつうなら、「じゃあ方法まで指定して頼んでくれよ」って思うは思うけど、まだわかるんだけど、「中華料理はねえよ」は本当に知らねえよとしか言いようがないんだけど。
で、「じゃーなんでもいいよ和食でもフランス料理でもよー」ってちょっと投げやりに言ったら、「そのくらい考えてこいよなー」だってよ。
AがBをめんどくさがるのもちょっと分かるわー と思ったけど、ここでケンカになると無駄に火種が広がるので、まあなんとかごまかして食事終了。解決?多分してないんじゃない…。
とどめが、後でCに、なんか変な感じになってごめんなーって言ったら、「あれはお前が悪いよ」「こういうときはAかBが決めればいいんだよ」だって。あれえー?「いやいやお前も大変だな」は?
誰かこのときの正解を教えて下さい。
対人依存って別に絶対的に他社を必要とする脆弱な人間の精神病とかの類じゃないのね。
なんだよなんだよそーなのか。
あんたのこと責める。
お前はいいこなんかじゃない、なかった。
あんたがなかなか良い頭だけは持ってるくせに福祉系の大学にいこーが知ったこっちゃねえや。めんどうくせえ。お前なんかボロボロになってろくでもない男にDVでもうけやがれ
社会的底辺層の仲間入りでもしちゃえ、
他人に心をすこしも開こうとしない奴なんて大嫌いなんだよ、このメンヘラ女が
そのくせ体裁だけつくろって記号上のオトモダチつくりはすんげえうまい。
告ってくれて泣くほどうれしいとか、バッカジャネーノ、うそばっか。
さんざ振り回してくれちゃってさ、俺なんかトラウマの大量生産だよくそったれ。なんで俺がお前なんかにびくつきながら生活おくんなきゃなんねえんだよ。
よわっちいのにすがりもしねえ、何にもいわねえ、強がりばっか、察しろってか?この野郎。知るか。
自分のこともまともに制御できないない奴が何が福祉だよ。お前が患者だろw
お前みたいのを対人依存症って言うんだよ、さんざん人のせいにしやがって。されたぶんだけしてやるよ
どれだけ俺がおれてきたかわかんねえだろうな
敵の味方は敵、あんたと俺の先輩だった人も共通の女友達だった奴も俺にとっては全員敵。
中立なんか認めない、信用できなくなった、できなくしてくれたよ本当。
敵ばっか増やしてくれやがって、首くくれ、死んでくれ。
http://d.hatena.ne.jp/nanjou/20110515/1305416629
>ガイガーカウンターで、郡山市の自宅や友人宅などの放射線量を計測。
>屋内:0.1~0.2
>ベランダ床表面:0.4~1.0
>屋内:0.1~0.8
>屋外:1.0~2.6
>庭の土表面:2.4~3.6
ここの数値を参考にして、郡山市民の幼児のリスクを考察しましょう。
【ケースA】
屋外=2.6マイクロシーベルト/時と仮定。
(3×2.6+21×0.8)×365=8,979マイクロシーベルト/年
【ケースB】
屋外=1.8マイクロシーベルト/時と仮定。
(3×1.8+21×0.4)×365=5,037マイクロシーベルト/年
【ケースC】
屋外=1.8マイクロシーベルト/時と仮定。
(3×1.8+21×0.2)×365=3,504マイクロシーベルト/年
郡山市内でも、数百メートル離れると、線量が大幅に変わったりします。
ヨチヨチ歩きの2歳児がいる場合、
2歳児の場合、身長が低いので実際の線量が増加することも考えられますし、
こういう場合、ケースAで通常生活するのは、いささかリスクがあります。
(因みに2歳児ですので、学校通ってませんから、今回の校庭土壌入替の影響は受けません)
であれば、郡山市全地域において線量検査をし、比較的低汚染のスポット、
ケースCのRCマンションに住めば、リスクは3分の1になります。
(ケースB、ケースCの家屋を行政が確保するなり、家賃補助するなりという次善策)
あるいは、「今の職場」と「乳幼児児童の安全」を両立させるため、
会津地方に仮設住宅を設け、パパは磐越西線で通勤する、という手法だって考えられます。
「中通りから全員疎開」という案もありますが、疎開費用の捻出が出来ないのであれば、
このように次善の策、三番目の策を皆で知恵を出すべき、ということを言いたいのです。
なぜ死ぬ必要があるのかわからない。
もしも彼らが全員死んだら明日から電気使えなくて首都圏パニックだけど。
彼らが死ぬことによって誰にどんな得が?
twitterに問い合わせた人の話
http://nanomomonga.posterous.com/who-to-follow
IPアドレス使ってたのかどうかは結局知らんのだけど、
この返事はIPどうこうよりも
全員に同じサービスが提供されてる、という暗黙の前提にしがちなことが
保証されないことを公式に言っているよね、とか
今後もこういう一部の人間をサンプルとしたテストが行われた時、
それがどういうものか検証するのが難しい(当たり外れがあるよね)とか
逆に一部の人間に対してすごいテストが行われたということを捏造できる可能性まで考えちゃったり、
いろいろ。
ただ、たぶん「分かる人」と「分からない人」てのはあるんだと思う。
惣菜のパックの透明なフタを製造したりナニしたりっていうバイトをしてたんだけど、
先輩に言われても、最初はさっぱり分からなかった。どう違うのかと。
しかしある日突然、ウラとオモテの違いがはっきりと分かるようになってしまった。
本当に突然の出来事。光沢が違うのが分かった。完全に分かった。
多分それまでずっと脳の中ではパターンマッチの学習が行われてきたんだと思う。「子猫が単純な図形を識別するのに必要な学習」と大体同じような理屈による学習。そしてある瞬間、ついにその学習の成果が、どっか「俺の意識」に関連する神経と繋がったんだと思う。
今では「分からなかったあの頃の自分」が分からない。ウラとオモテがどう同じように見えていたのか、さっぱり思い出せない。
そういう劇的な体験の他に、今、俺はプログラマやってるんだけど、コーディングに詰まっている人を見かけるたびに「どうしてそこで単純な配列に突っ込んで単純にループで回すだけ、という単純なアルゴリズムが思いつかないんだろう」と思う事がある。俺も偉そうな事は言えないけど、これも経験によって「分かる」「分からない」が如実に現れてるんだと思う。
そういうのが、あるんだと思うよ。
※ 惣菜のプラ板の話はフィクションがまぎれていますw 本当は別業種の別材質のウラオモテ。新人さんの全員が、まずこれのウラとオモテが見分けられない。
春風ちゃんのツイートで思い出したんだけど、小さい頃私の学校にも全員で遊ぶことを強制するしくみがあった。
全学年1〜6年を縦に割って12個の班を作り、年に何回かその班で遊ぶ週間があったり、遠足にいったりする。
うちの学年は1クラスしかない上に少人数だったので、同じ学年が自分1人だけ…なんて班ができてしまった。
班は年度が変わるごとに再編成が行われるから当然「学年自分だけやん!」の子も毎年変わる。(はずだった)
そのころは低学年のきゃわいー私ちゃんだったので、6年生が話しかけてくれたり、遠足でも先生が一緒にお昼食べてくれたりするからなんとも思わなかった。
てかよく覚えてないけど、単に泣かなかっただけだと思う。
泣かなかったせいなのか分からないけど、次の年も一人だった。その次の年も一人だった。
4年にもなると他学年の子も気軽には声かけてこなくて、先生もそんなには気を使ってくれないし結構つらかった。。。
母親に話して、それ以降その班で遠足がある日は毎年欠席してた。(お母さんに超感謝)
先生はそんなことにも気付かず、結局卒業するまで1人だけ〜の刑を受け続けた。
この年になると1Pなんて何とも思わないんだけど、小学生の自分にとってはきつかったんだよねー。
性格も明るかったし勉強も運動もできる方だったから私が任されたんだろうけど(とでも思わないとやってられない!)
そういえばこういうことこれ以前にもあったな!!
1年生のときにクラスに暴れん坊の男の子がいたんだけど、(今で言えば多動症かな)
隣の席になった女の子がすぐ泣かされて苦情が学校やその男の子の家にいくからか、入学して数ヶ月で何回も席替えをやるはめに。。
で、ある日自分がその子の隣になったんだけど、、
まあお察しの通り学年が変わるまでその子の隣の席だった。。。
授業中しつこく机を揺らしてくるときには
「あと20秒後ならたくさん揺らして良いよ」って言って、ノートに書き終えた後に思う存分揺らさせてあげたり、
「これはお母さんのだからやめて。明日折っても良いやつあげるから。」と言って、
使いにくいほど小さくなった消しゴムや短いえんぴつを翌日あげてた。(なぜだかうちの文房具消費量はすごい)
ちなみに6、7歳の子の力じゃ小さい消しゴムやえんぴつって折れないんだよねぷぷぷ。。
しかしこの件のせいで、先生は前述の1人班の役目とかも私に託したとおもわれるので、
小学生の頃はよく「くそ、、嘘泣きしとけばよかった、、」とか後悔したものです。
叩かれるのを承知で言うと、大学もまあいいとこ出たけど、小学生時代はとくに賢かった。
同じぐらいの子の意味不明なモンスター行動を一休さん的頭の回転で回避したりはできたし、
そもそも友達には恵まれていたのでいくらモンスターがいようとも楽しく過ごせたんだよね。
でもねでもね、冒頭に書いた、班で1人・・・の件!!
あれだけは本当に無理!いまだに先生むかつくわーーー!とかたまに思うぐらい。
1人からのいじわるに我慢できるからって、1人ぼっちが平気な訳じゃないの・・・!!
大人から見たら小学生なんてみんな神童なんだろうけど、この件のせいかわからんが、私いざというとき意識的に余っちゃって自ら辛い思いする時期もあったぞ!