生きづらい系創作物に自己を重ねるのはやめなさい。あれはエンタメなんです。商業製品なんです。"読ませてしまう"魅力がある。人に伝える技術がある。たくさんの人に愛されている。その時点でもう自分と違うのだ。本当に無価値な自分と同じであると錯覚するな。
私はサブカルチャーが大好きだった。ありがちな話で、発達障害を持っており、人の輪に馴染めず学校では友達もできず孤独に耐えていた。その現実と同期してガロ系の漫画が好きで、特に、生きづらい人間ここに極まれりみたいな山田花子という作家がいるのだが、その人の作品を見て"これは私だ"と耽溺した。
現実世界があまりに空虚だと、エンタメとして割り切って消費することができないくらい作品の世界観に没入してしまう。そして傲慢なことに作者に共感して漫画家や作曲家の人となりにすら「自分の気持ちを言語化してくれた!自分と同じなんだ!」と同一視してしまった。
一介の消費者はただの消費者にすぎない。同一視するのはおこがましい。しかし、普通のエンタメならわかっているはずのことがこれが苦しみの最中にあるとバグってしまう。ただの苦しんでいるだけの凡夫が、クリエイター妄想に取り憑かれてしまった。自分がこんなに苦しいのは、感性が普通の人と異なるのは、実はクリエイティブな才能なんだと。そして、曲や漫画を作ろうとした。
作ろうとして初めて、あれらは感性の世界のものではなく、現実的な技術によって作られたものだと知った。普段脳内世界で目まぐるしく動く妄想の漫画ストーリーやメロディーと、あれらは全くの別物であった。まずリズムを打ち込もうとしてもカッコいいドラムのパターンも知らない。漫画を描こうとしてもデフォルメの体ですら見本がないとどういう構造なのかわからなかった。
そして、より根本的に、どれだけ下手でも自分のものを作りたい!と思えるほど作ることに楽しみがなかった。人様の作った出来のいい作品を読むだけでもう十分満足していたのだ。愚かな私は、そこでようやく、自分はただの変な感性を持っただけの凡夫でクリエイターなどという価値のあるものではないと知った。
現実逃避の深みにハマっていくと、どんどんと現実と妄想が曖昧になっていく。登場人物と自分を重ねて今は苦しくても将来は成功するぞー、という妄想。ありのままでいいんだ。孤独や怠惰ですら物語世界では肯定されている。自分は特別な感性と才能を持った人間で、目の前の人に無理に自分を作って話しかけなくてもいいし、つまらない社会の歯車になるためにやりたくないことをコツコツ勉強とかもしなくていい。と。
そして、また現実が上手くいかなくなり、どんどん物語にのめり込む負のループにハマっていく。体も動かしてないのにダイエット本を読み漁ったって痩せるわけないんだよ。それが分からなくなる。
書いていて本当に自己嫌悪だ。
ようするに、感性だけ変でなんの才能もない人間は、自己が自己であることへの執着をやめ、感性を大衆寄りに矯正して社会適合への努力をするべきなのだ。
そりゃそうだよ、でも世の中にはイエス・キリストや釈迦その他教祖に憧れて宗教に入る奴らもいる、 アイドル他カリスマのファンもしかり。そんなもんだよ
感性の矯正なんていう心の根幹部分に手を入れようとするから苦しくなる 大事なのは行動の矯正 生きづらさを分かち合う創作をやってる奴も行動の矯正でひとまず期限までになにかしら...
でも自殺しましたよね 山田花子という作家がいるのだが、その人の作品を見て"これは私だ"と耽溺した。 現実世界があまりに空虚だと、エンタメとして割り切って消費することがで...