はてなキーワード: イコールとは
ここには概ね同意。
ことあるごとに「世間体が世間体が」「世間に笑われたくない」という。
世間なんてものがなければ、いくら自分の子供でも自由にすればと言う。
あと実家や地元と全く関わらなくなるのであれば、都会や違う地域に行って
しかしそう言ってる本人もTVでセクシャルマイノリティの人間が出れば
気持ち悪いと言っているんだが・・・。
おいおい、自分と世間の目に関係なければ気にしないんじゃないのかよ・・と。
結局、本当は自分自身の好みや価値観が先にあるのに、世間体という言葉を都合良く使って自分が恨まれないようにしているんだと思う。
いっそのこと、世間がどうであれ、「私が許せるか許せないか」
まだそう言ってくれた方がスッキリするのに。
ちなみに、その母は「女は男になってもいいが男は女になっちゃ駄目」とも言っていた。
自分自身が世間と同じ価値観だと思っているからこそ、相対的に世間体という言葉を使っても、
自分自身の気持ちとイコールなんだと思ってる面もあるのだろう。
それに自分の気持ちでなく、世間体という言葉を使えば同情してもらえるor自分が恨まれないと少なからず思っているのだろう。
(そういう意図はなくても、根底にそういう意思があってそれが普通になっちゃってるのだと思う)
そしてこういった母の弱点を指摘することはできない。
本気ですか?
飢え死にでもせん限りね。健常児だったらそうするでしょ。同等の扱いを要求しているだけだ。
飢え死にしない限りにおいて、障害者が健常児と同等の扱いを受けるよう要求している。んですよね?
とのことですが信じられません。
確かに「余裕がある」と「飢え死にしない限り」はイコールではないですよ。
しかし、状況を限定しているという意味で同じであり、前提付けなんかしてない、ことは無いと思います。
一貫して余剰が前提にあることを確認しようとしましたが、あなた自身も何らかの状況が限定されることを容認するような発言があったにも関わらず、共通の認識を得ることができなかった事を残念に思います。
この文脈で発言することは終わりにします。たぶん。
http://anond.hatelabo.jp/20110721202932
ファッション云々以前に、人を下に見るという感覚に疑問があるので、多くの人と共有できない部分があるかと思います。
他の方のTBを見ても、無論昔からファッションは差別化のためにある、という見解が多いようです。これは勉強になりました。
ファッションの中には多く差別が含まれている。(封建時代の価値観と直接イコールにするには無理があると思うけど)
またそういったTBの場合(よく読まず)お前の被害者意識が問題だ、という人格否定含みの指摘は、なるほど差別が好きそうな人々の言葉、とも感じました。
ただこれら意見は「ファッション指向が強い>はてな匿名ダイアリーに書き込む」というかなり偏った属性ろ過を経たものなので、その分割り引かなければなりませんが。
それにしても、差別のために服を着てるという感覚が、意識無意識にしろ、彼らにはあるのですね。
むしろ可哀想な気がしますが。
この現代においても、何故ファッションに依存し、差別しないとならないのか。
震災以降ずっと気になってる事。
不謹慎厨に怒られそうだと思って
ツイッターじゃ言えない事。
あの
淡々と具体的に しかも死んだ直後に話すことができるのだろうかという
よくわからない疑問。
あれだけの震災で人が死ぬと
実感も無く、そういうもんなのかもしれない
悲しみがどうこうって そういうもんなのかもしれない
でもなんか疑問。
それと
原発もそう
菅総理についてもそう。
全部がそう見える。
理由を見つけて
悲しんだふりをする 綺麗に見られたい層と
理由を見つけて
別に悪い事じゃない
誰にでもある欲求で 別にそれを咎めるつもりはないが
日本人にとっては切ってもきれない
一生つきまとうであろう問題があっての事。
それをまるで他人事のように処理し
欲を晴らす行為は 本当に 綺麗なのか正義なのか。
災害の記事を読んで無関心なわけではない
悲しい出来事だと感じるくらいの余裕は俺にもある
でもそれはそれなんだ。
その自殺を利用して
マスコミは どんな結果を欲しがったのか。
それが気持ち悪くて仕方がない。
俺がどうこうじゃない
棚にあげるつもりはない。
俺もアホなのは承知の事。
そう思う。
思考は自我の中にある。
考え方を忘れたら
人はただの道具になる。
そうなりたいなら自由だけど。
そうなりたくないなら 脊髄反射をやめるべき
プロパガンダのようなニュースや動画サイトの情報に踊らされるのをやめるべき。
いや、むしろ見ないべきだ。
もし誰かがその記事を読んで
悲しんだり怒ったりって事をしなくても
明日は同じようにやってくる。
明日をコマとしてではなく、人として生きたいのなら。
なんでこうも理解力に欠けた人ばかりなんだろう。
理解力がどうとかではなく、結局、一体何が言いたいのか分かりづらいのだが...。
具体的にいうと、タイトルがいう放射線だけを気にする連中と、本文でいうチェルノブイリと同じレベル7という言葉で騒いでいる連中とは論理的にイコールではないはずなのに、まぜこぜに書いているのが分かりづらい。
・チェルノブイリと同じレベル7という言葉で騒いでいるが、福島はチェルノブイリよりマシといいたい?
(そういう連中は「レベル7」認定報道の直後はそれなりにいたかもしれないが、今やかなり激減していると思う。
個人的には、現時点では総合的にチェルノブイリよりもマシだと思っているが、まだ事故そのものも終わっていないので評価しようがない。
で、そもそもチェルノブイリと比較しても誰得感が否めない。それこそ一番じゃなきゃいけないんですかw)
・放射線を気することは正しいが、副流煙、排ガス、他にも発がん性物質があるから、それらも気にしたほうがよいといいたい?
・それとも副流煙、排ガス、他にも発がん性物質があるから、放射線が加わったところで気にするなと言いたい?
(そういう主張ならば、「それはそれ、これはこれ」だと言う話に尽きる。
しかも、その手の論理展開は、ポピュラーな詭弁法のひとつで、免責臭がぷんぷんするのが気になる。
すでに借金が900兆円あるのだから、数兆円バラまいたってかまわないということにはならないのと同じ。
人間は、既成事実として存在するものと、新たに加わるものは別物と認識するのが普通であり、
さらに、今回は、識者でも言うことが見事にバラバラで、パンピーにとってリスクの把握は不可能に近いことが問題を深めているし、
事故直後、報道、政府、識者は、自らの発言のデタラメぶりで信頼を失墜させてしまった。
放射線量にしても、以前は原発作業員が労災認定されていたほどの放射線量を自分もあびせられて、はいそうですかとは引き下がるのはなかなかできないのが人間というものじゃあないだろうか。
でもそのうち、放射線が「あたりまえ」かつ「どうしようもない」となり、既成事実に転化するフェーズになれば、排ガス程度の認識になるかもしれない。新型インフルエンザの流行のとき、最初は、成田空港入った、いや出たみたいなんで大騒ぎしたのが、何百人でてもニュースにもならなくなったのがいい例。
ただ、一方で、副流煙、排ガスも、リスクである以上抑制しようという方向に世の中が動いているのも見過ごしてはならないと思う。
顕在化するリスクはやっぱり叩かれるもの。ほったらかしにはできない。)
・それとも、これだからこうと言うように特に何か主張するでもなく、単なるぼやき?
(ということは、
じゃぁ本質を詳しく語ってもらおうかw
まあどうせ語れないのだろうけどね(笑
ってのも釣り?それともマジ?)
決して東電を擁護するつもりはないけれど、あまりに叩かれ過ぎている気がするのと、単純に最近のニュースなどでよく見る日本語に疑問を持ったので書いてみる。
今回の大震災、マスコミは散々「想像を絶する津波が来ました」とか言っている。
想像を絶するってことは、想定できないっていうことじゃないのかな?
「想像を絶する」状況だとマスコミも言っているのに、なぜ東電が「想定外」というとここまで批判されるんだろうか。
そして思うのが、「想定」って、どこまで想定できるんだろう。
ちょっと前、大手ゼネコンのCMで「人間が想像できるものは、人間は実現できる」なんていうコピーがあったと思うけれど、そのレベルで想定っていうと、無茶苦茶な論理が通ることになる。
例えば小学生みたいに「500mの津波が来る!!!www」なんてものでも、口にして言う人がいれば想定できたことになるんだろうか。
想定できないことはすべからく悪、というのも安全理論として分かる。
だとしたら、交通事故や殺人が容易に想定できる自動車や包丁はどうして同じ理論で禁止にされないんだろう。
その物体がもたらす利益とリスクを鑑みて、何が悪で何が許容か、というのは、リスクマネジメントであって、「想定外があってはならない」説とは矛盾する。
結局、「想定外」と言う東電を叩く人たちは、どこまで東電が想定していて、その結果どうなっていればよかったんだろうか。
その人たちは、今回の災害を、想像を絶することなく想定できていたんだろうか。
そして、東電は事故前からずっと今回のような災害を想定していなかったわけだから、その時にもっと強いメッセージを発することなく、どうして事故が起きた今になって「想定外は許されない」と叩くんだろうか。
なんとなく、「想定外」と言う東電を叩く人はイコール反原発派で、なにがどうであれ原発停止、という結果でないと満足しないような気がしなくもない。
ここに報告される妻の行動ですが,「愛してる」と言われたら感激の涙を流して,夕飯は旦那の好物を作り,夜は子作りをするのが普通だそうです。
逆に「そう,ありがとう」だけで終わらせると,勇者は「orz」するそうです。
涙を出すほど感激する妻のほうが異常ではないのでしょうか。
「そう,ありがとう」で終わらせる方の妻は,普段から愛されていると感じているので「何当たり前のこと言ってるの?」という状態になります。
逆に感激して涙を流す妻は「だんなに愛されていると感じていない妻」ということになります。
つまり,「感激させよう!」と意気込んでいる勇者さんは,イコール「普段は愛していないぞ!」と高らかに宣言しているのです。
つまり,意気込んで「愛してる」と言われても「そう,ありがとう。私も愛してるよ。それで今日の夕飯どうする?」って聞き返しただけで落ち込むなよ面倒臭いんだよクソが。
福島に、日本のあちこちにあるビンボーな地方に、原発が必要だったわけじゃない。
強力なカンフル剤としての役割が期待できるものだったとしても、少なくとも福島の地域振興の手段がそれ(=原発)でなければなかった理由などないはずだ。
たぶん、かつてのお国や県のエライさんたちはそう言ったんだろうけどね。
上記のエントリを書いた人は原発のある県にいながら、数年前までそのことについてほとんど意識したことがなかったらしい。
たぶんこの人自身は原発を受け入れた自治体の人じゃないんだろうから仕方ないかな、とも思うし、安全だとしつこく刷り込まれたとしても不思議でないが、それにしてもこの人は無邪気だ。例えば原発のある町長の歓迎コメントを引いて、
って。町長が歓迎しているんだからイコールそれが町民全体の総意だ、って。そんなおおざっぱな視点でこれまでの40年間のアレコレを総括するな! といいたい人は、沢山いると思う。少なくとも福島同様古くからある原発のお膝元で20年近くを過ごした自分は、ちょっと涙出そうだった。
ただ、それにもかかわらず、この人は実に率直に自分の態度の変転をあらわにしたと思う。皮肉ではない。増田でしかコメントできない自分と比べれば、この人の方が肝がすわっている、と素直に思っている。
っていうかネタだよね。まあ御免ね。
現在の中国には天子はいないので国家主席は天子では無いし、天命を受けてないよ。
違うよ。
天子やその一族がどんな要望を持っていようが徳が去ってしまえば皆殺し。
蒼天巳死という通り、天命と政治や王朝には大抵の場合タイムラグがある。
徳が失われている天子や王朝の政治が続くことはままあり、その場合世が乱れ民が苦しむってことになってる。
「ちゃんと禅譲しないから皆殺しにするしかなかったじゃん、テヘッ」というのも新たな天命保持者のコードとなってる。
残念ながら、これも間違い。
本朝で天命と言えば八州を治めることで、天子と言えば皇室のこと。
日本はつーねーに、海の外から取り入れたものを日本に適した形にカスタマイズして使うのだ。
日本人は感覚でそれをやりこなすので、そのあたりの勘を理解出来ない元増田のような間違いはむしろ中国人に多い。
もはや天命が云々ではなく人民解放軍の武力こそが支配権の背景となっている。
こういうと「なんで遠い辺境のミカドに?」と思う人もいるかもしれないが
代々そういう外部から来た民族の天子が平原に入ってきたのが中華の世界なので、理屈としてはマジでそうなる。
もちろん彼らとしても、今更そんなことするわけがない。
http://www47.atwiki.jp/goyo-gakusha/pages/13.html?pc_mode=1#
あのさ。バカじゃねえの。
東大で、「親原発」的な(そうとも思えないのもあったけど)発言してればイコール御用学者なのかよ。
ここに挙がってる人たちは、俺の観測範囲で見た限りでは、あくまで政府発表に基づいて、科学的な解説をしていたと思う。
科学的素養がある人が、その時々に公表された範囲のデータを解釈すれば、そりゃみんな同じような結論になるよ。
今「反原発」に傾いてる人たちは、その政府発表が実はいろいろ隠蔽したもので、御用学者はそれを知りながら安全安全と喧伝してる、とか考えてるんだろうか。
もっかい言うが、バカじゃねえの。
http://www.u-tokyo.ac.jp/index/b02_03_j.html
東大にいれば、「真実の情報」とやらが通達されてくんのかしら。
原発事故が怖くてどっか逃げたいんなら、学者センセイの言うことにいちいち反応しないで、さっさと逃げたら?
第一、大槻教授の肩書き、何よ。
いまこんなこと書いてるときじゃねえんだろうけど、いい加減腹立ったので書く。
自分はいま英語ができないくせに英語を使わなければいけない部署で苦労している。たまに日本語だったら…などという妄想をして無駄な時間を過ごすことがある。少し長い英文を作るときは、いまだに日本語を書いてからそれを元に英作文をするなどしているから時間がかかる。たまに日本のある本社にメールを送るときは当然日本語だから全くストレスなく送れるのだけれど、今度はそこからの返信メールの日本語に腹が立つときがある。本社と関わるときもほとんどが海外系の部署の人なので英語ができる人ばかりなのだけれど、もう個人的な感覚で断言しちゃうと、英語ができる人は日本語が下手だ。学歴が高くても下手だ。まず日本語の文章の書き方のルールがわかっていない。小学校のときに習っただろうということができない。おまえが言うなと言われてしまうかもしれないが、ちょっと想像以上にひどいよ。逆接の連発とか、ビジネス文書で話し言葉が入ってたりだとか、下手したら文頭の書き方までおかしい。ちょっといらいらするのを通り越して、それで今までよく怒られなかったねというレベル。先日、トンボ鉛筆の人事がメールの内容で怒られていて、あれは確かにそもそも意味がくみ取れないけど、文章力だったら大して変わらんよマジで。
それで英語ができない人を見下してたりするんだから始末に負えない。もう書きながらさらに怒りがわいてきたから、言ってしまうけども、貴様たちができていると思っている英語コミュニケーションは、ノンネイティブだから多少の間違いは許されるという免罪符のうえに成り立っていることを知っておいたほうがいい。貴様たちは「これだから日本は」とか「海外の場合は」などの日本を軽視、及び見下した発言ができるほど、コミュニケーション能力も仕事処理能力も高くない。それぞれの部署の人間はそれぞれの部署でプロフェッショナルとして働いておるのであって、英語ができるだけの貴様たちがほいほい入ってできるほど甘いもんじゃない。周囲の手助けがあってまわっているはずの仕事を、英語ができる自分だからできていると勘違いするのは大概にしていただきたい。海外のやり方が正しいんじゃない。その国にはその国のやり方があって、それが多少非効率であったとしても、効率的でないことがイコール悪であるという単純思考しかできない貴様たちが対応できるとは思えない。日本の営業をやったことがない人間が、何故それを非難できるのかわからん。我々日本人は日本語ネイティブなわけだ。ネイティブだからこそ難しいことが多々あるということを知れ。
ちゃんとみんな仕事してんだから、泥臭い営業したっていいじゃないすか。直接話さないとわからない人だっているんすよ。メール数回で作る売上がえらいわけじゃないんすよ。何度も足を運んで、何度も話して、時間がかかっても売上は売上ですよ。そういうものの積み重ねで会社の売上は成り立ってんだから。そういう考えしかできないのなら、外資系の会社で海外赴任すればいいじゃない。
ミクの声に違和感?とかなんとかって違うんだよな、人は人それぞれで声が違うもので、ミクの声の人との違いはその個人差の中に埋没すると思うんだよ。
人それぞれで済む程度の違和感なら好き嫌いの範疇に収まります。そんな問題じゃないんです。
はっきり言って俺はあれを声とは呼べません。声に聞こえないので。
違います。漠然とした言い方ですが整ってるかとか、違和感がないかどうかとかそんなレベルの話です。例としてはあまり適切ではありませんが、ゴム人間的で写実とは程遠くとも手塚治虫は上手いです。
下手に見えるのにこっちの方がいいなーっていうのは、可愛いをちゃんと表現できてるってことなんだよね。
むしろ萌え絵としてはより完全に近いと言っていいと思うよ。
萌え絵としてなら可愛いを表現できていればそれは完全と言えるのでしょうが、ただ、萌え絵として完全であることは、描かれている対象が完全であることとイコールではないと思います。
こうして隔月刊化第一号を、装いも新たに、皆様のお手元にお届けすることができました。ご講読いただきました読者の皆様、そして社内外を問わず、この号に関わった全ての方に御礼申し上げます。
誠にありがとうございます。
これからの「コミック百合姫」が目指すこと、それは到ってシンプルです。百合人口を増やすこと、これに尽きます。
繰り返しになりますが、もはや百合が今までほどに特別なものではなくなった今、本誌自体が特別な存在とならなければいけません。そして、今まで百合に興味がなかった人に、その存在を知らしめることが使命だと考えています。
百合人口を増やす、それは必ずしも、本誌の読者を増やすことイコールではないとも考えています。ですので、万が一、本誌をお気に召さなかった方は、他社の百合アンソロジーを手にとってみてはいかがでしょうか。ひょっとしたら嗜好が合うかもしれません。気に入ったら、ぜひそちらを続けて講読して頂きたいと思います。
同業他誌の講読を勧めるのも変な話かもしれませんが、現状、百合業界は全く狭い世界です。今は、その世界全体を少しでも広げていくことが急務です。また、類誌とは、市場の多様性を示すバロメーターにすぎず、ライバルではありません。
ライバルは、我々と同じく、百合を追い求めて止まない人たち。すなわち、読者の皆様方なのです。
これからも、ともに歩んで参りましょう。
そして、末筆となりましたが、『ハーモニー』のコミカライズ企画は次号以降からの開始となりました。楽しみにお待ち頂きました皆様、また関係者各位に御詫び致します。申し訳ございません。我々としても忸怩たる思いではありますが、全力を尽くしてまいりますので、引き続きお待ちいただければ幸甚の至りであります。
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