震災以降ずっと気になってる事。
不謹慎厨に怒られそうだと思って
ツイッターじゃ言えない事。
あの
淡々と具体的に しかも死んだ直後に話すことができるのだろうかという
よくわからない疑問。
あれだけの震災で人が死ぬと
実感も無く、そういうもんなのかもしれない
悲しみがどうこうって そういうもんなのかもしれない
でもなんか疑問。
それと
原発もそう
菅総理についてもそう。
全部がそう見える。
理由を見つけて
悲しんだふりをする 綺麗に見られたい層と
理由を見つけて
別に悪い事じゃない
誰にでもある欲求で 別にそれを咎めるつもりはないが
日本人にとっては切ってもきれない
一生つきまとうであろう問題があっての事。
それをまるで他人事のように処理し
欲を晴らす行為は 本当に 綺麗なのか正義なのか。
災害の記事を読んで無関心なわけではない
悲しい出来事だと感じるくらいの余裕は俺にもある
でもそれはそれなんだ。
その自殺を利用して
マスコミは どんな結果を欲しがったのか。
それが気持ち悪くて仕方がない。
俺がどうこうじゃない
棚にあげるつもりはない。
俺もアホなのは承知の事。
そう思う。
思考は自我の中にある。
考え方を忘れたら
人はただの道具になる。
そうなりたいなら自由だけど。
そうなりたくないなら 脊髄反射をやめるべき
プロパガンダのようなニュースや動画サイトの情報に踊らされるのをやめるべき。
いや、むしろ見ないべきだ。
もし誰かがその記事を読んで
悲しんだり怒ったりって事をしなくても
明日は同じようにやってくる。
明日をコマとしてではなく、人として生きたいのなら。