はてなキーワード: らくだとは
数日前、Quoraで日本語ユーザーが大量にBANされた件がホッテントリに入っていたのを見て思い出したのだが、実は数年前に本名規定違反で数回BAN→復活を繰り返していた。英字の名前も登録していたし先頭だけ大文字のルールもきちんと守っていたので本件と同じ理由でのBANではない。
おそらくだが、「ローマ字表記すると苗字と名前が完全に一致」という理由でBANされたようである。確かにQuoraを見ているとアカウント名を何回も変えている明らかな偽名アカウントで苗字と名前が同一のものがたくさんあるので、まあ通報されること自体は仕方ない。1回目は素直に身分証明書をスキャンして送ってブロックを解いてもらったのだが、その後も2回(つまり通算3回)本名規定違反でBANされたのには閉口した。どうもQuoraは「この人は身分証明書で偽名でないことを確認済みですよ」という事実を記録していないらしい(少なくとも2018年夏の段階ではしていなかったと思われる)そんなに本名にこだわるなら身分証明書の提示を義務付けるか確認が取れたアカウントにはVerifiedマークを付ければいいのに……と思うのだが。
最終的にはどうせまた通報されるしと思ってそのままアカウント削除したのだが、今回の件の運営側の見解を見ていると少々がっかりだ。
"大文字というのは実名に見えない(何かの略語に見える)ため、Quoraがというより他の英語版ユーザーからみてルールが不公平と思われるからです。"
"大文字の姓にフェイク感を感じる人が多いのは端的に言って事実で、実際に「偽名」と問題報告を送ってくるのはユーザーなんです。これはもう感性の領域なので、文化的ギャップとしか言いようがないのですが。。。"
"私が言ってるのは、バスの中で騒いでいるツアー客に「あなたたち声が大きいよ」という無自覚な事実を伝えたい、ということです。それを知って「ここではバスでは静かにする文化なんだな」と改める人もいるだろうし、「うちはバスで騒ぐ文化圏から来たんだ!」と改めない人もいるでしょう。これはとりたてて「異文化の排斥」という大きな話にしたいわけではなくて、まずは声が大きいと思われてるということを自覚しましょう、ということです。そのあとどうするかは自由だと思います。"
"その人がグローバルで活躍するようになって、all caps表記が恥ずかしいということに気づけば改める人もいるでしょうし、それを貫く人もいるでしょう。それはパターナリスティックに正解を与えてあげなくても、子供がやけどして危ないものを知るように、自ら納得して体感することが大切なのだと思いました。all capsキモーとか言われて傷つくぐらいの経験は、できる機会を与えてあげたほうがいいのでは?と。"
苗字と名前が同一というのは実名に見えないため英語ユーザーに違和感を与えるんだろうし、苗字と名前が同一であることにフェイク感を感じる人が多いのは端的に言って事実だろう。
「英語母語話者から見て違和感を覚える」という理由でのBANが罷り通るなら不適切な本名を持つ人間は改善しないといけないことになる。結局Quora的には本名規定と英語圏のユーザーに違和感を与えないことどちらの方が優先度が高いルールなのだろうか?
ところでこのKenn Ejima氏が日本人だと仮定すると、1954年12月9日内閣訓令第一号によって「ん」はn一文字と定められているため、公的にはこの人の名前はKenなのではないか? パスポートと同じ法的に正しい表記の名前がBANされてパスポートの表記と違う表記は可ならそれはもう「英語母語話者が見て本名に見える名前規定」なんじゃないのか? まあこの人が実は外国籍だったり特殊な事情がある可能性もあるし、内閣訓令第一号は文化庁の「姓名のローマ字表記についての考え方」と同様に英語圏では通用しない間違った規則であるという見解なのかもしれないが。
もちろん、過大なリスク評価は損失を生むため、必要以上に恐れるのはよろしくない。
その点は同意なんだけど、、、
やたら、
インフルエンザでは1万人死んでるぞ、
○○では○万人死んでるぞ?
新型コロナウイルスではまだ700人ちょいじゃん。
ホントにインフルエンザと同じ軽い風邪みたいなものなら、どの国も検疫なんて面倒なことはやらないんだよ。
昨年末に警告を発した医師は、最初からヒトヒト感染の恐れを警戒していた。
それでも無症状の患者から感染してしまい、発症から1ヵ月で亡くなられた。
あれ?死ぬのは持病のある高齢者だけと言ってる人居ませんでした?
閑話休題。
おそらくだけど、早期に死ぬのは弱ってる高齢者だけど、若くて元気な人は死ぬまでにかなり時間が掛かるだけ。
SARSもMARSもいったん終息したからこそ、後付けで適正なリスク評価ができるだけで、
まだ感染拡大が始まったばかりの新型コロナウイルスについて、正しいリスク評価ができるとは到底思えないので、
ぜったいに油断してはいけない。
大学時代の友人
「被告は『職員が死んだ魚の目をして希望なく働いている』と話すこともありました。しかし『でも障害者はかわいい。いつも寄ってきてくれるし俺がいないと生きていけないんだ』とうれしそうな口調で言っていて、ようやく被告が楽しく仕事をするようになったと安心しました」
大学時代の後輩
「就職活動について相談したところ、被告は『仕事は金のためじゃなくやりがいだと思う。入れ墨を入れている自分でも、障害者の人たちはきらきらした目で接してくれる。自分にとって天職だ』と話していました」
自己の尊厳の低さを、障害者という依存的存在への奉仕という行動で自己の尊厳を満たしてるんだろうなって感じが見受けられる。
「俺がいないとこいつら生きていけない」という状態に喜びを感じているんだろうなと感じた。そこに健全さを感じない。
恐らくだが、被告は当時の自分に自己肯定感は抱いていないんじゃないかな。
「入れ墨を入れている自分でも、障害者の人たちはきらきらした目で接してくれる。」は高い自己評価を持つ人間だったら出てこない発言。
「2年ぐらいたったときに、『障害者はかわいそう。食べているごはんもひどくて人間として扱われていない』と話すようになりました」
3年経過。社会に貢献している、素晴らしい仕事に従事しているという認知フィルターが外れた状態。
もし健常者が体験するなら地獄のような非人間的環境に対する冷静な評価。その状況に対するリアクションを行えない事に対する重度のストレスも見受けられる。
「6月ごろ突然『意思疎通できない障害者は生きている意味がない』と私に言うようになりました。あんなに仕事に満足していたさとくんがそんなことを言うようになったので仕事で何かあったのかなと思いました」
地元の友人
仮説1:
『何もできない障碍者をケアするという社会的意義のあり、必要とされる仕事に従事している』(入社時)
↓
『地獄のような環境に障碍者を隔離、放置する倫理的に許容しかねる状況に加担している』(2,3年経過)
↓
「正しい事は何だろうか」
↓
主張
想定しうる主張の論拠
・社会的情勢として、社会に対する生産性の低い、貢献度の低い人間が積極的に排除されている
・介護従事者が現在の倫理的に許容しかねるような非人間的環境の維持、加担というストレスフルな状況から解放される
・障碍者の尊厳死という考え方。障害者施設に隔離され、介護従事者から「尿と便の詰まった袋」扱いされながら一生を終える状態を人間として尊厳を保ってないのではないかという考え方
多分被告は死ぬ直前まで自説の正しさを疑わないだろうなと思う。
・非常に高ストレスな環境にも関わらず、相応の報酬が得られない
こういう環境なわけでしょ?よほど自己犠牲的な傾向が高くないとやれない仕事だと思うわ。
俺は絶対こんな仕事就かないし、働いているやつはホントすごいと思うよ。
れいわの議員さんとかがこういった構造に対する認知を広めていってるけど、
結局のところこれ、こういう福祉に対する予算、人員、ルールをどう整備するかって所でしか解決できない問題だよな。
後期高齢者に対する医療費が天文学的に膨れ上がってて、他の予算がshrinkしてる現状だと、
正直現場の人や、障碍者の人達は報われて欲しいと思うけど、多分そうはならないんだろうなって思う。
別に動物愛護が悪いと言っているわけではない。むしろ動物は保護されてしかるべきだと思うし、保護活動に勤しんでいる方々は漏れなく称賛されるべきだと思う。
それでも自分がどうしても「動物愛護」というものに違和感を覚えるのは、彼らの「愛護する」動物とは一体どこまでなのだろう、と考えているからである。
おそらくだが、彼らの家にはゴキジェットがあるだろう。食卓に小蝿が飛んでいれば潰すだろう。
要するに、いくら動物愛護をしているとはいえ、必ず彼らにも「動物の好き嫌い」は存在すると思うのだ。少なくとも自分は犬や猫やその他の愛護活動をしている人間が「ゴキジェット撲滅!」などと活動しているところは見たことがない。
別に自分はこの「生命に対する好き嫌い」を抱くことに関して否定するつもりはない。生理的に無理なものは無理、それは当然だと思うからだ。
確かに犬猫の処分は無い方がいい、それはそうだ。だがおそらく日本中で殺されているゴキの数の方が圧倒的に多い。工事に伴って巣を壊されている蟻の数の方が多い。
「動物愛護」という理念を掲げる人々に、そうやって「救う生命を選択している」という認識があるのだろうか、という疑問がいつも抱かれるのだ。
別に自分はすべての生命を救おうなどと考えている理想論者ではないし、家にはゴキジェットがあるし、食卓のハエを潰す。それでいてネットで猫や犬の動画を見ては喜んでいる人間だ。
ただ、やはり、それでも「認識」はしている。自分は生命を区別していて、「平気で潰してもいいもの」と「潰してはならないもの」に分けている、と認識している。認識して、これがもしかするととんでもない罪なのではないか、と思った上で、それでも区別することを続けている。
小学生?くらいの弁論大会で犬猫の処分を批判する人を見るたびにそういう嫌悪感に陥った。結局「生命が大切だから」批判しているのではなく、「可愛い生命が大切だから」批判しているのだろう、と。繰り返すが別にそれでもいいのだ。「可愛い生命を助ける」ことを選択するのは個人の自由だし、それも一つの善であることには変わりはない。自分が嫌悪感を抱くのは、本当は後者の理由であるのに、まるで前者のように振る舞うことだ。
繰り返すが、別に動物愛護自体を批判する意図も、愛護団体及び活動家を批判する意図もない。認識していようがしていまいが、行動を起こしている人が偉いということは事実なのだから。