はてなキーワード: ガンダムseedとは
考えすぎかな?
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ガンダムSeedシリーズおそよ20年ぶりの新作となる劇場版SEED Freedomを鑑賞し、自分の中でガンダムSeedという作品を供養できたので記念に置いておこうと思う。
子供の頃からガンダムが好きだった自分はワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると酷い出来に落胆した。
設定やMS、一部キャラの溢れる魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと世の中に対する解像度の低さが目立った。
1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
しかし従来のガンダムとは異なる客層を呼び込むことに成功し、爆発的な人気となったが、その内容に伴い多くのファンとアンチを生み出した。当時のネットはまさに阿鼻叫喚の様相だった。
ガンダムSeed Destinyと出会った時、自分は大学生になっていた。
今度こそは失敗を取り返してくれるはずだ。ワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると輪をかけて酷い出来に大きく落胆した。
設定やMS、一部キャラの魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと 世の中に対する解像度の低さ が目立った。 1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
続編であるDestinyの酷さはここでは語り尽くすことはできない。大勢の方が語っているはずなので割愛するが、アニメ雑誌のインタビューで声優が出演作品をボロクソ言ったりしていたアニメはあまりないだろう。
ともかくこの魅力的な要素を持ちながらそれを活かしきれなかったSeedシリーズは、多くのファンに絶望や怒り、憎しみ、無念、悔恨などを与え、感情が渦巻き、ネット上でまともに語ることは不可能であった。
その後ゲームやコミカライズ、ノベライズなど様々な媒体で、救済が図られ、ファンは喜んだり記憶を呼び起こされて怒ったりしていた。
前作で生み出された多数のファンとアンチはDestinyという作品を消化することができず、行き場を失った悪霊となって20年感彷徨うことになった。
ところで私は幼少期に放送していた新世紀GPXサイバーフォーミュラというレースアニメが大好きだった。
近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、続編のOVAも完走していた。このサイバーフォーミュラという作品とSeedには共通点がある。監督と脚本家が同じなのだ。
福田監督とその妻である両澤千晶である。(星山氏や電童については脱線するため割愛する)
極めて似通っていて欲しくない共通点もある。上手くいかないことを周囲に当たり散らしていた主人公が悟りを開き、良いものとして描かれていく。展開もどうにもスッキリしない。はっきり言ってしまえば失速していく。
これは両澤千晶が本格的に脚本に関わりだしてから起こっていると当時から感じていた。
今にして思えばそんな1人の介入で質が下がったのなら監督の責任なのだが当時はとにかく嫁が悪いのではと考えていた。
近年の監督のSNSでの振る舞いなどを見てやはりこいつのせいだったかと思い直したりしていた。
それから20年の間、親しい友人とSeedをネタにし続けることで楽しんでいた。いや、都度思い出してマジギレしていたかもしれない。その間映画の話も出たり消えたりしており自分の中では無かったことになっていた。
この20年の間に私生活は大きく変わっていた。就職し、転職し、家庭も持っていた。今さらそんなことを言われても困るぞ。
Seed関連での大きな変化といえば脚本家の両澤千晶が亡くなっていたことだった。私にとってアークエネミーだった人物が亡くなってしまったことに大きな喪失感を覚えた。
当時プライベートな場でとはいえ汚い言葉で罵倒し怒りをぶつけていた人間が亡くなってしまった事実に申し訳なさや後悔のような感情もあった。
どこ目線だと思われるだろうが、責任のようなものを感じていたかもしれない。
この間ガンダムシリーズは作り続けられており、全て視聴していた。
ユニコーンを楽しんだり00やAGEに怒ったりしていたが、Destinyのときほど熱くなることはなかった。何を見せられてもあらゆる意味であれほど酷い作品には出会えなかった。悪い意味で忘れられない作品になっていた。
そんな中両澤氏の訃報を聞き、Seedという作品が永遠に消化できないものとして残ってしまったという感覚、しこりのようなものがあった。
私は困惑し、20年来の怒りを思い出し、また困惑し、さらに困惑していた。
なぜ今?本当にやるのか?そんなことがありえるのか?どうして墓から掘り起こすのだ?えぇ……?
多分観ちゃうんだろうなという予感はありつつもとても向き合えないと感じていた。
Seedシリーズの主題歌を担当し、自身も声優として出演していたTMRevolutionの西川貴教氏は20年間劇場版を待っていることを公言し続けていた。
そんな西川ニキは劇場版発表後、自身のTwitterでこれは我々の「業」です。と発言していた。
自分も業と向き合うべきだ。そう考えた私は20年ぶりに無印からDestinyまでを通して100話見てみることにした。
やはりクソだった。20年ぶりに怒りが湧いてきた。巻き込んだ初見の家族もキレていた。
しかしリマスターは業が足りない。絵が綺麗になっているじゃないか。アスランはハゲてないしクルクル回りながらビームもあまり撃たない。ストフリが汚れているじゃないか。そんな歴史改変は許してはいけない。
それはさておき20年来の友人と自然な流れで観に行くことになったが、
20年間溜まり続けていたおこりのようなもの、あるいは悪霊、地縛霊のようなものが覆い被さっているような気分だった。
何を着ていけばいいのか?喪服なのか?タキシードなのか?私服でいいのか?ネクタイは何色?
斯くして、Freedomを鑑賞した私はすっかり浄化された。憑いていた悪霊も成仏し、20年熟成させたヴィンテージワインを開け、みんなと笑いあうことができた。面白かった。いや、楽しかった。みんなで見た走馬灯のような映画だった。
キラは人間に戻り、ラクスは人間になり、アスランはネタになり、ヒーローになった。
特にシン・アスカというキャラクターが躍動することで私は救われた気持ちになった。20年間の無念がようやく報われた、そんな気がしたのだ。
映画終盤、唐突にクロスアンジュが始まり、西川ニキのMeteorをバックにフリーダムが神になった瞬間、私はもうこれで良い、と強く思った。
Destiny終了後すぐにこれをやられていたらキレていたかもしれない。でもこれは20年という時間が与えてくれた最高の贈り物だった。
気づけば劇場で涙を流していた。
監督夫妻が生み出し、2人に壊されたと思っていたSeedという作品をファンに、俺たちに、みんなに返してくれた。
劇場を出るファンたちはみんな笑顔で楽しそうに映画を振り返っていた。いや、アスランの話をしていた。明日はシンの話をしているだろう。
みんなが笑ってSeedの話ができるまで20年も必要だったのだ。
今まではお前はSeedが好きなんだろうと言われたら即座に強く否定していた。でも今なら本当は好きだったのかもしれないと思えるようになった。
監督も気持ちの整理に時間が必要だったのかもしれない。この映画は監督から奥方への追悼であり、想いを綴った恋文だったのかもしれない。
いや、許さんが。
ガンダムSeedシリーズおそよ20年ぶりの新作となる劇場版SEED Freedomを鑑賞し、自分の中でガンダムSeedという作品を供養できたので記念に置いておこうと思う。
子供の頃からガンダムが好きだった自分はワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると酷い出来に落胆した。
設定やMS、一部キャラの溢れる魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと世の中に対する解像度の低さが目立った。
1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
しかし従来のガンダムとは異なる客層を呼び込むことに成功し、爆発的な人気となったが、その内容に伴い多くのファンとアンチを生み出した。当時のネットはまさに阿鼻叫喚の様相だった。
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今度こそは失敗を取り返してくれるはずだ。ワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると輪をかけて酷い出来に大きく落胆した。
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ともかくこの魅力的な要素を持ちながらそれを活かしきれなかったSeedシリーズは、多くのファンに絶望や怒り、憎しみ、無念、悔恨などを与え、感情が渦巻き、ネット上でまともに語ることは不可能であった。
その後ゲームやコミカライズ、ノベライズなど様々な媒体で、救済が図られ、ファンは喜んだり記憶を呼び起こされて怒ったりしていた。
前作で生み出された多数のファンとアンチはDestinyという作品を消化することができず、行き場を失った悪霊となって20年感彷徨うことになった。
ところで私は幼少期に放送していた新世紀GPXサイバーフォーミュラというレースアニメが大好きだった。
近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、続編のOVAも完走していた。このサイバーフォーミュラという作品とSeedには共通点がある。監督と脚本家が同じなのだ。
福田監督とその妻である両澤千晶である。(星山氏や電童については脱線するため割愛する)
極めて似通っていて欲しくない共通点もある。上手くいかないことを周囲に当たり散らしていた主人公が悟りを開き、良いものとして描かれていく。展開もどうにもスッキリしない。はっきり言ってしまえば失速していく。
これは両澤千晶が本格的に脚本に関わりだしてから起こっていると当時から感じていた。
今にして思えばそんな1人の介入で質が下がったのなら監督の責任なのだが当時はとにかく嫁が悪いのではと考えていた。
近年の監督のSNSでの振る舞いなどを見てやはりこいつのせいだったかと思い直したりしていた。
それから20年の間、親しい友人とSeedをネタにし続けることで楽しんでいた。いや、都度思い出してマジギレしていたかもしれない。その間映画の話も出たり消えたりしており自分の中では無かったことになっていた。
この20年の間に私生活は大きく変わっていた。就職し、転職し、家庭も持っていた。今さらそんなことを言われても困るぞ。
Seed関連での大きな変化といえば脚本家の両澤千晶が亡くなっていたことだった。私にとってアークエネミーだった人物が亡くなってしまったことに大きな喪失感を覚えた。
当時プライベートな場でとはいえ汚い言葉で罵倒し怒りをぶつけていた人間が亡くなってしまった事実に申し訳なさや後悔のような感情もあった。
どこ目線だと思われるだろうが、責任のようなものを感じていたかもしれない。
この間ガンダムシリーズは作り続けられており、全て視聴していた。
ユニコーンを楽しんだり00やAGEに怒ったりしていたが、Destinyのときほど熱くなることはなかった。何を見せられてもあらゆる意味であれほど酷い作品には出会えなかった。悪い意味で忘れられない作品になっていた。
そんな中両澤氏の訃報を聞き、Seedという作品が永遠に消化できないものとして残ってしまったという感覚、しこりのようなものがあった。
私は困惑し、20年来の怒りを思い出し、また困惑し、さらに困惑していた。
なぜ今?本当にやるのか?そんなことがありえるのか?どうして墓から掘り起こすのだ?えぇ……?
多分観ちゃうんだろうなという予感はありつつもとても向き合えないと感じていた。
Seedシリーズの主題歌を担当し、自身も声優として出演していたTMRevolutionの西川貴教氏は20年間劇場版を待っていることを公言し続けていた。
そんな西川ニキは劇場版発表後、自身のTwitterでこれは我々の「業」です。と発言していた。
自分も業と向き合うべきだ。そう考えた私は20年ぶりに無印からDestinyまでを通して100話見てみることにした。
やはりクソだった。20年ぶりに怒りが湧いてきた。巻き込んだ初見の家族もキレていた。
しかしリマスターは業が足りない。絵が綺麗になっているじゃないか。アスランはハゲてないしクルクル回りながらビームもあまり撃たない。ストフリが汚れているじゃないか。そんな歴史改変は許してはいけない。
それはさておき20年来の友人と自然な流れで観に行くことになったが、
20年間溜まり続けていたおこりのようなもの、あるいは悪霊、地縛霊のようなものが覆い被さっているような気分だった。
何を着ていけばいいのか?喪服なのか?タキシードなのか?私服でいいのか?ネクタイは何色?
斯くして、Freedomを鑑賞した私はすっかり浄化された。憑いていた悪霊も成仏し、20年熟成させたヴィンテージワインを開け、みんなと笑いあうことができた。面白かった。いや、楽しかった。みんなで見た走馬灯のような映画だった。
キラは人間に戻り、ラクスは人間になり、アスランはネタになり、ヒーローになった。
特にシン・アスカというキャラクターが躍動することで私は救われた気持ちになった。20年間の無念がようやく報われた、そんな気がしたのだ。
映画終盤、唐突にクロスアンジュが始まり、西川ニキのMeteorをバックにフリーダムが神になった瞬間、私はもうこれで良い、と強く思った。
Destiny終了後すぐにこれをやられていたらキレていたかもしれない。でもこれは20年という時間が与えてくれた最高の贈り物だった。
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劇場を出るファンたちはみんな笑顔で楽しそうに映画を振り返っていた。いや、アスランの話をしていた。明日はシンの話をしているだろう。
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今まではお前はSeedが好きなんだろうと言われたら即座に強く否定していた。でも今なら本当は好きだったのかもしれないと思えるようになった。
監督も気持ちの整理に時間が必要だったのかもしれない。この映画は監督から奥方への追悼であり、想いを綴った恋文だったのかもしれない。
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ガンダムSeedシリーズおそよ20年ぶりの新作となる劇場版SEED Freedomを鑑賞し、自分の中でガンダムSeedという作品を供養できたので記念に置いておこうと思う。
子供の頃からガンダムが好きだった自分はワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると酷い出来に落胆した。
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前作で生み出された多数のファンとアンチはDestinyという作品を消化することができず、行き場を失った悪霊となって20年感彷徨うことになった。
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近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、続編のOVAも完走していた。このサイバーフォーミュラという作品とSeedには共通点がある。監督と脚本家が同じなのだ。
福田監督とその妻である両澤千晶である。(星山氏や電童については脱線するため割愛する)
極めて似通っていて欲しくない共通点もある。上手くいかないことを周囲に当たり散らしていた主人公が悟りを開き、良いものとして描かれていく。展開もどうにもスッキリしない。はっきり言ってしまえば失速していく。
これは両澤千晶が本格的に脚本に関わりだしてから起こっていると当時から感じていた。
今にして思えばそんな1人の介入で質が下がったのなら監督の責任なのだが当時はとにかく嫁が悪いのではと考えていた。
近年の監督のSNSでの振る舞いなどを見てやはりこいつのせいだったかと思い直したりしていた。
それから20年の間、親しい友人とSeedをネタにし続けることで楽しんでいた。いや、都度思い出してマジギレしていたかもしれない。その間映画の話も出たり消えたりしており自分の中では無かったことになっていた。
この20年の間に私生活は大きく変わっていた。就職し、転職し、家庭も持っていた。今さらそんなことを言われても困るぞ。
Seed関連での大きな変化といえば脚本家の両澤千晶が亡くなっていたことだった。私にとってアークエネミーだった人物が亡くなってしまったことに大きな喪失感を覚えた。
当時プライベートな場でとはいえ汚い言葉で罵倒し怒りをぶつけていた人間が亡くなってしまった事実に申し訳なさや後悔のような感情もあった。
どこ目線だと思われるだろうが、責任のようなものを感じていたかもしれない。
この間ガンダムシリーズは作り続けられており、全て視聴していた。
ユニコーンを楽しんだり00やAGEに怒ったりしていたが、Destinyのときほど熱くなることはなかった。何を見せられてもあらゆる意味であれほど酷い作品には出会えなかった。悪い意味で忘れられない作品になっていた。
そんな中両澤氏の訃報を聞き、Seedという作品が永遠に消化できないものとして残ってしまったという感覚、しこりのようなものがあった。
私は困惑し、20年来の怒りを思い出し、また困惑し、さらに困惑していた。
なぜ今?本当にやるのか?そんなことがありえるのか?どうして墓から掘り起こすのだ?えぇ……?
多分観ちゃうんだろうなという予感はありつつもとても向き合えないと感じていた。
Seedシリーズの主題歌を担当し、自身も声優として出演していたTMRevolutionの西川貴教氏は20年間劇場版を待っていることを公言し続けていた。
そんな西川ニキは劇場版発表後、自身のTwitterでこれは我々の「業」です。と発言していた。
自分も業と向き合うべきだ。そう考えた私は20年ぶりに無印からDestinyまでを通して100話見てみることにした。
やはりクソだった。20年ぶりに怒りが湧いてきた。巻き込んだ初見の家族もキレていた。
しかしリマスターは業が足りない。絵が綺麗になっているじゃないか。アスランはハゲてないしクルクル回りながらビームもあまり撃たない。ストフリが汚れているじゃないか。そんな歴史改変は許してはいけない。
それはさておき20年来の友人と自然な流れで観に行くことになったが、
20年間溜まり続けていたおこりのようなもの、あるいは悪霊、地縛霊のようなものが覆い被さっているような気分だった。
何を着ていけばいいのか?喪服なのか?タキシードなのか?私服でいいのか?ネクタイは何色?
斯くして、Freedomを鑑賞した私はすっかり浄化された。憑いていた悪霊も成仏し、20年熟成させたヴィンテージワインを開け、みんなと笑いあうことができた。面白かった。いや、楽しかった。みんなで見た走馬灯のような映画だった。
キラは人間に戻り、ラクスは人間になり、アスランはネタになり、ヒーローになった。
特にシン・アスカというキャラクターが躍動することで私は救われた気持ちになった。20年間の無念がようやく報われた、そんな気がしたのだ。
映画終盤、唐突にクロスアンジュが始まり、西川ニキのMeteorをバックにフリーダムが神になった瞬間、私はもうこれで良い、と強く思った。
Destiny終了後すぐにこれをやられていたらキレていたかもしれない。でもこれは20年という時間が与えてくれた最高の贈り物だった。
気づけば劇場で涙を流していた。
監督夫妻が生み出し、2人に壊されたと思っていたSeedという作品をファンに、俺たちに、みんなに返してくれた。
劇場を出るファンたちはみんな笑顔で楽しそうに映画を振り返っていた。いや、アスランの話をしていた。明日はシンの話をしているだろう。
みんなが笑ってSeedの話ができるまで20年も必要だったのだ。
今まではお前はSeedが好きなんだろうと言われたら即座に強く否定していた。でも今なら本当は好きだったのかもしれないと思えるようになった。
監督も気持ちの整理に時間が必要だったのかもしれない。この映画は監督から奥方への追悼であり、想いを綴った恋文だったのかもしれない。
いや、許さんが。
ガンダムSeedシリーズおそよ20年ぶりの新作となる劇場版SEED Freedomを鑑賞し、自分の中でガンダムSeedという作品を供養できたので記念に置いておこうと思う。
子供の頃からガンダムが好きだった自分はワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると酷い出来に落胆した。
設定やMS、一部キャラの溢れる魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと世の中に対する解像度の低さが目立った。
1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
しかし従来のガンダムとは異なる客層を呼び込むことに成功し、爆発的な人気となったが、その内容に伴い多くのファンとアンチを生み出した。当時のネットはまさに阿鼻叫喚の様相だった。
ガンダムSeed Destinyと出会った時、自分は大学生になっていた。
今度こそは失敗を取り返してくれるはずだ。ワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると輪をかけて酷い出来に大きく落胆した。
設定やMS、一部キャラの魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと 世の中に対する解像度の低さ が目立った。 1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
続編であるDestinyの酷さはここでは語り尽くすことはできない。大勢の方が語っているはずなので割愛するが、アニメ雑誌のインタビューで声優が出演作品をボロクソ言ったりしていたアニメはあまりないだろう。
ともかくこの魅力的な要素を持ちながらそれを活かしきれなかったSeedシリーズは、多くのファンに絶望や怒り、憎しみ、無念、悔恨などを与え、感情が渦巻き、ネット上でまともに語ることは不可能であった。
その後ゲームやコミカライズ、ノベライズなど様々な媒体で、救済が図られ、ファンは喜んだり記憶を呼び起こされて怒ったりしていた。
前作で生み出された多数のファンとアンチはDestinyという作品を消化することができず、行き場を失った悪霊となって20年感彷徨うことになった。
ところで私は幼少期に放送していた新世紀GPXサイバーフォーミュラというレースアニメが大好きだった。
近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、続編のOVAも完走していた。このサイバーフォーミュラという作品とSeedには共通点がある。監督と脚本家が同じなのだ。
福田監督とその妻である両澤千晶である。(星山氏や電童については脱線するため割愛する)
極めて似通っていて欲しくない共通点もある。上手くいかないことを周囲に当たり散らしていた主人公が悟りを開き、良いものとして描かれていく。展開もどうにもスッキリしない。はっきり言ってしまえば失速していく。
これは両澤千晶が本格的に脚本に関わりだしてから起こっていると当時から感じていた。
今にして思えばそんな1人の介入で質が下がったのなら監督の責任なのだが当時はとにかく嫁が悪いのではと考えていた。
近年の監督のSNSでの振る舞いなどを見てやはりこいつのせいだったかと思い直したりしていた。
それから20年の間、親しい友人とSeedをネタにし続けることで楽しんでいた。いや、都度思い出してマジギレしていたかもしれない。その間映画の話も出たり消えたりしており自分の中では無かったことになっていた。
この20年の間に私生活は大きく変わっていた。就職し、転職し、家庭も持っていた。今さらそんなことを言われても困るぞ。
Seed関連での大きな変化といえば脚本家の両澤千晶が亡くなっていたことだった。私にとってアークエネミーだった人物が亡くなってしまったことに大きな喪失感を覚えた。
当時プライベートな場でとはいえ汚い言葉で罵倒し怒りをぶつけていた人間が亡くなってしまった事実に申し訳なさや後悔のような感情もあった。
どこ目線だと思われるだろうが、責任のようなものを感じていたかもしれない。
この間ガンダムシリーズは作り続けられており、全て視聴していた。
ユニコーンを楽しんだり00やAGEに怒ったりしていたが、Destinyのときほど熱くなることはなかった。何を見せられてもあらゆる意味であれほど酷い作品には出会えなかった。悪い意味で忘れられない作品になっていた。
そんな中両澤氏の訃報を聞き、Seedという作品が永遠に消化できないものとして残ってしまったという感覚、しこりのようなものがあった。
私は困惑し、20年来の怒りを思い出し、また困惑し、さらに困惑していた。
なぜ今?本当にやるのか?そんなことがありえるのか?どうして墓から掘り起こすのだ?えぇ……?
多分観ちゃうんだろうなという予感はありつつもとても向き合えないと感じていた。
Seedシリーズの主題歌を担当し、自身も声優として出演していたTMRevolutionの西川貴教氏は20年間劇場版を待っていることを公言し続けていた。
そんな西川ニキは劇場版発表後、自身のTwitterでこれは我々の「業」です。と発言していた。
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それはさておき20年来の友人と自然な流れで観に行くことになったが、
20年間溜まり続けていたおこりのようなもの、あるいは悪霊、地縛霊のようなものが覆い被さっているような気分だった。
何を着ていけばいいのか?喪服なのか?タキシードなのか?私服でいいのか?ネクタイは何色?
斯くして、Freedomを鑑賞した私はすっかり浄化された。憑いていた悪霊も成仏し、20年熟成させたヴィンテージワインを開け、みんなと笑いあうことができた。面白かった。いや、楽しかった。みんなで見た走馬灯のような映画だった。
キラは人間に戻り、ラクスは人間になり、アスランはネタになり、ヒーローになった。
特にシン・アスカというキャラクターが躍動することで私は救われた気持ちになった。20年間の無念がようやく報われた、そんな気がしたのだ。
映画終盤、唐突にクロスアンジュが始まり、西川ニキのMeteorをバックにフリーダムが神になった瞬間、私はもうこれで良い、と強く思った。
Destiny終了後すぐにこれをやられていたらキレていたかもしれない。でもこれは20年という時間が与えてくれた最高の贈り物だった。
気づけば劇場で涙を流していた。
監督夫妻が生み出し、2人に壊されたと思っていたSeedという作品をファンに、俺たちに、みんなに返してくれた。
劇場を出るファンたちはみんな笑顔で楽しそうに映画を振り返っていた。いや、アスランの話をしていた。明日はシンの話をしているだろう。
みんなが笑ってSeedの話ができるまで20年も必要だったのだ。
今まではお前はSeedが好きなんだろうと言われたら即座に強く否定していた。でも今なら本当は好きだったのかもしれないと思えるようになった。
監督も気持ちの整理に時間が必要だったのかもしれない。この映画は監督から奥方への追悼であり、想いを綴った恋文だったのかもしれない。
いや、許さんが。
ガンダムSEED FREEDOMが例によってSEEDでひどい内容だったんだけど
「SEED〜DESTINYはこんなんじゃなかった!ひどい!」とか言ってる感想がならんでて
あれを真面目に見てる人いたんだと思ったんだけど
真面目に見てるのもわかるし
現在劇場公開中のガンダムSEEDFREEDOMを当時土6にテレビに張り付いていた人達にこそ見て欲しい。
何故なら心が若返るからだ。
不満な点はいっぱいあるし、ストーリーも他の人が言うほど最高!とは思っていない。
カガリの声優交代やキャラデザに対する不満の声を聞き「見終わった後、こんなのだったら映画なんて作ってくれない方が良かったと思ったらどうしよう……」と楽しみよりも不安を抱え劇場に行った。
そして上映中はただただひたすらに懐かしかった。
そして思い出した。
制服を着ていたあの頃を……
学校の廊下でキラ派の私とシン派の友人でケンカしてたあの頃を……
リアタイ視聴後に二つ折り携帯でメールの文字数が足りず二通三通と分割して長文メールを送りあっていたあの頃を……
ガンダムシリーズは再放送も多いし、DVDもある。今時サブスク配信でいくらでも見れる。
だけどそれらの方法で過去作を視聴した時には得られなかった何かが劇場にはあった。
消えこそしていないが、酷く弱々しく、今にも儚く消えてしまいそうだった「ガンダムSEEDが好き」という心の火に薪をくべられた。
今日は休日な増田は、ガンダムSEEDを観てきた。名作!!とは言い切らないがまあ面白かった。
いやはや、あれから20年か。とかなんとか感慨に浸ったりしてる増田はもちろんおっさんなわけだ。つーかジジイだ。
映画館から出たところで仕事のメールが来た。毎日ほぼ同じ時間に来る引継メールだ。
明日からまたお仕事なわけだが、20年前かーと思ってたせいか、いつもなら全く気にならないことが気になった。
ビジネスメールのマナーとして、それこそ20年前に教わったメールの書き方についてだ。
まあ、職業柄や年齢でピンと来ない人もいるかもなので一応例文を書いておく。
「
増田各位
お喜び申し上げます。
さて、こういった、ある程度の文節などで必ず改行を挟み、
ために、時に文節とか無視して改行しとけよ、さもなくば
わけだ。
」
これに何のメリットがあるかというと、先述の通り、「携帯電話で見やすいように」ということだが、ここで言う携帯電話はガラケーだ。
今の時代どこにガラケー使ってて、それで長文メールを送る会社がどこにあるんじゃヴォケェ!!
もう一つのメリットは小さいウィンドウで見た時だが、だいぶ前から全てのメーリングソフトで拡大縮小機能は当たり前。
それでも特に機械に疎い爺さんどもが、「拡大?わからないお😢」というパターンもありえるかもしれないが……
見てきた。SNSで感想をさっと見たがまだ出てなさそうな話をしたい。
キラがシン達の眼の前で彼らを指して「弱いから」と言うところのキラのいけすかなさが印象的だった。
「サイが僕にかなうはずないでしょ」というSEEDでのセリフと一貫性があって、何かの拍子に出てくる本音で、他人の能力の部分を見下している。
完璧超人だからこその短所であって、キラに人間らしさを持たせるために必要な短所なのだろう。
それがアンチを作る要因でもあるかもしれないが、当時も今も新しい主人公像だろう。SEEDを新しいガンダムたらしめた特徴ではないのか。
劇場版本編の話にもどると、あの場ですぐ殴ってくれるアスランの相棒としての価値がですね。
頼もしくもありエンターテイナーでもあり。言い換えると今回は葛藤のないキャラだった。
SEED DESTINYでも途中までゼータにおけるクワトロの立ち位置だった。
黒背景でゆっくり動くズゴッグを見てキラが「アスラン?」と気づくのはオマージュというより笑い要素を含んだパロディかと思った。
真面目にツッコむとキラはズゴックのどこからアスランを見出したのか?これが人の愛?
キラと殴り合うのはよく考えたら逆襲のシャアの殴り合いシーンから来ている?これは考えすぎか?
ただ、吹っ切れて戦えている姿が良い。自分の目的と合致した戦いができていることが良い。
ステラがシンの心を守ったところ、「どんな闇を抱えているんだ」⇒SEED DESTINYでのシンの物語の積み重ねが無駄じゃなかったところにグッと来た。
劇場版の物語はキラとラクスが中心だったが、キャラクターとして報われたのはシンとルナマリアだと思う。
アグネスの物語上の役割は、SEED DESTINYでアレだったルナマリアの恋愛部分を着地させること。
正直アグネス周りの話は蛇足に感じたが、よくよく思い返してみればあれはクエス・パラヤのオマージュだ。
アムロに興味を持って、拒絶されたと感じて脱走し、シャアにその価値を見出される。
スポンサーから押し付けられた枠か?Gアーマーの合体シーンやシュラク隊を思い出した。
ジャスティスに至ってはアスランに乗ってもらえずシンにディスられる始末。
デュエルブリッツやデスティニーのカラーリング(これは鑑賞後にSNSで見た情報)など、テレビ版で退場した機体の要素を、そのパイロットに縁のあるキャラが受け継ぐところが良い。
デュエルはアサルトシュラウドないと他より特徴がない部分をブリッツ要素でカバーとしてるので、なんか説得力あった。
でもわざわざ旧型のデュエルとバスターを核エンジンにしてコクピット周りをザク系統にするのは非合理だよなと。合理性よりお祭り感を演出する分には良し。
インパルスのシルエット全部来て良い。カラーリングのアップデートは何か元ネタあるのか?
ミーティアやデスティニーの換装など、外部装備の共有はなんかガンプラ系の番組の表現っぽかった。でもガンダムってそうだろう。
視聴者にとって悔いが残ったところをキチッと終わらせて、キャラクターやメカの見せ場をこれでもかと出し切る。お祭り、同窓会。
復活のルルーシュ、グリッドマン、シン・エヴァンゲリオンなど、最近のTVアニメの完結編としての劇場版は大体そうだし、そういうものが求められているというか、これが完成形なのではないか?
いや別に嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、特別好きでもない。無に近い。
そのことに、映画を観てやっと気が付いた。
20年前、思春期だった自分の周りには、SEEDが好きな友人たちがたくさんいた。
MSが好きな人、キャラが好きな人、CPが好きな人……皆それぞれ何らかの形で熱を上げていた。
みんながこんなにハマるのだから面白いのだろう。素晴らしい作品なのだろう。私自身も毎週リアタイしながら、そう思っていたつもりだった。
で、20年越しの映画ガンダムSEED FREEDOMを観た。
ビッッックリするくらい盛り上がらなかった。私だけ。
周りの人たちは終映後、早速盛り上がっていた。あれがよかった!これがよかった!スゲー!神作品!そんな声まで聞こえてきた。
私はというと、「こんなものか?」くらいの気持ちでボケーと座席に座っていた。
映画自体の出来は素晴らしかったと思う。映像は見応えがあった。ストーリーもまあいい話だった。
私はSEEDシリーズが好きなんだとずっと思っていた。でも確かに、思い返すと「何が好きなのか」は長年よくわからなかった。
MSのカッコよさは私にはわからなかった。キャラクターも誰が好きとか特になかった。映画を観て好きになったキャラとかもなかった。みんながんばってるなあ、とボケ〜と眺めるだけだった。
映画を観た後、興奮気味に感想を語ってくれる友人たちの話を聞きながら、私はそんなにSEEDに興味なかったんだなあ、ということをぼんやり自覚していた。
でも周りの人たちは私のことを「SEEDが好きな人」となぜか認識しているので、四方八方からすごい語られてきて今ちょっと困っている。
漫画家・芦原妃名子さん死亡の報を受けて「脚本家のせい」がトレンド入りするのは最悪の流れ(篠原修司) - エキスパート - Yahoo!ニュース
https://l.pg1x.com/bicy1dabR4VrDiAf9
芦原妃名子さん訃報めぐり元放送作家が私見「脚本家への誹謗中傷は絶対にやめてください」(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース
https://l.pg1x.com/JqS7JZGDVKk1cyBf7
漫画家で参院議員の赤松健氏 「セクシー田中さん」芦原妃名子さん訃報受け「脚本家を責める流れになってはならない」(よろず~ニュース) - Yahoo!ニュース
https://l.pg1x.com/HXfrcG5gk3p8LeGS8
いや。おかしいやろ。
監督やプロデューサーの言い分が「大正義」だったとしても「原作というもう一段上の大正義」があるんだからな、表立っている。
制作契約のことなんぞ視聴者もスポンサーもしらんわ、マジで(笑)
スポンサーは「放送される」っていう契約だし、視聴者は「TVを見るだけ」っていう緩い契約しかない。
心配するのは連鎖やろ。だが、連鎖でも起こらん限り、というか「TV屋の畑に流れ弾で人死が出る」ことでも無い限り絶対に改めんのがTV屋や。
まぁ、死んでも気にしないけどなアイツラ。だって「制作なんてのはトカゲのしっぽ以下」なんだもの。
バイタルパートは「スポンサーと仲良くやっていつもどおり、いつも以上に金を引っ張れるプロデューサー」と「スポンサーの趣味と、プロデューサーの性癖をしっかり理解して制作会社含めキャスティングするディレクター」だけだからね。
後は全員ただの兵隊。なんぼでも取り替えが利くし、取り替えられないディレクターは取り替えられるだけ。
ってのは簡単。
原作を読み込んで、原作の芯を捉えて、その芯をベースに再構成して、DやPの趣味や性癖、スポンサーが望ましいと思われるものを統合して入れること。
こんなもん「ゲームのノベライズ作家」なら全員普通にやってるぞ。できない奴はいなくなるだけ。
あんだけ作品をやってるのに、それができていない脚本家を排除できていない、あるいは脚本家オリジナリティがウケるDやPとのツルみが問題になるかな。
『ガンダムSEED』や『サイバーフォーミュラ』の監督と嫁脚本が、当時のオタクにぼっこんぼっこんにされていたんだけど、当時小学生~中学生の平成キッズにウォッシュされて「傑作!名作!」って扱いになってるのを苦々しく思ってる古参オタクは大勢いいるだろ。
まぁ、嫁が死んだのは可哀想だとは思うけど、今の映画の出来が良くなっているという話もあるので、嫁がキラやハヤトを偏愛しすぎていたのではないか、というのは今更だが、ちゃんと指摘していいでしょ。
https://anond.hatelabo.jp/20231218011659
【マッチングアプリをはじめた】
・懲りずにマッチングアプリをはじめた。メッセージが全く続かなくてとても辛い。自分がもらういいね数が増えるほど、相手からいいね帰ってくる率も上がってくるのは理解したが、何故か少し嬉しくなってしまう自分が嫌になってきた。いいねが増えても会えないし面白くないメッセージの応酬で縁が切れてちゃんちゃんってだけ。
・敗因はメッセージが下手すぎること。マッチはするが途中で切られてるなということがわかった。1月は結局一度もデートはできていない。ちなみに1月にもらったいいねの数は56だった。でも実際に会えた数はゼロ。おそらくだが誘い方が下手な気がする。遅いとか通話への移行が下手とか。
・しかし、数日前にとある女の子と通話からスタートするとトントン拍子でLINE交換まで進んでしまった。その子はめちゃくちゃ一方的にしゃべる子だった。その時はひたすら聞き役に徹していた。2月半ばに会ってみようみたいな話をした。んー。あまり私に興味を持ってくれているような感じはしない。多分会えない気がする。
・2月に一個下の子とランチ行く約束をした。デートの前に通話をする予定だが、そこで切られる気がしないでもない。懇切丁寧にメッセージを送ってくれるものだから、こちらも堅めな文章を返しているが、うーん。仲良くなれるのだろうか。
・プロフィールに上げた自炊した料理の写真は褒められるし、素直に嬉しいんだけど、結局メッセージが世界で一番下手なので料理ができてもなんのアピールにもなんねぇなといった感じ。
・とはいったものの、プロフの写真や趣味は相手がこっちに話を振りやすくしてくれるための道具なので、自分の話をふくらませて相手にぶん投げるよう話題提供をするべきだなというのが1月学べたこと。しかしメッセージでそれをやるのは至難の業と思った。
・自分語りはキモいから普段からしないようにしてるけど、こういう場だと油断すると質問攻めなってそれまたうまくいかないしどうしたもんだか。
・マッチングアプリではない通話アプリを始めてみた。社会人になって偏った人付き合いをしているのがなんとなしにまずいと思ったのと、ボケ防止だったり、ボキャ貧防止だったりという理由ではじめた。
・声を褒められることが多かった。わー。多少わざとらしく声のトーン落としてたのもあるけど。
・おもしろいって言われたのも嬉しかった。どういうノリだったかボケが始まっているので当然忘れてしまったが、コブラ(漫画)の「いるさっここにひとりな!」とか言ってふざけてたら相手が何故かツボった。ゲラの人と結婚したい。
・LINE交換しよと言ってくる人がかなりいた。結論としてはメッセージはめちゃくちゃ苦手だが、通話のほうが適正があるっぽいことがわかった。基本的には聞き役ばかりやっているが、たまに派手にボケることができる自分に驚いた。
・LINE交換は一応応じるが、だいたい数回やりとりしてどうでもよくなるため意味がないということがわかった。(出会いを仄めかす年下の女性もいるが、色々調べて見るにトラブルの種になりがちなんだなということも理解した。全力で回避した。
【その他】
・趣味のボルダリングを今年はめっちゃ頑張ろうと思って1月は4回ほどジムへ通った。登れないのはわかっていても誘いには乗るようにし、行ったことのないジムを開拓できた。が、社会人2年目は勉強ばかりしていたため保持力が当然消えていた。先は長い。
・化粧水と乳液をわしわし使い始めた。お肌つやつやになって草。ニキビとかできてたけど、そもそも乾燥がよくなかったんだな〜という学び。
・自炊技術がもう少しほしい。とりあえず2月の目標は3万以下の食費を目指そうと思う。
・浮いたお金ですぐに皿とかマグカップとかキッチン用品を買うのやめろ。外に出るための服を買え。行ったことのない店にいけ。家から出ろ。
・そういえば、お金がかかったとしても余力がある限りカフェ勉しにいくのありだな〜と思った。ちゃんと普段から服着るようになるし、人の目あるからちゃんとした服着るようになるし、でいいことばかり。
・だれか俺に統計学を教えてください。
・2月のデートに失敗したら美容院の兄ちゃんのせいにすることにした。その時はヘラヘラしながら謝罪してくれるらしい。兄ちゃんに初めてのパーマを依頼する際に、良い話を持ち込めるように2月は頑張る。
【追記】
増田見てくれる連中優しいやつらばかりか〜〜〜?自身へフィードバックのために適当にコメントをば掻い摘んでいきます。
すぐ彼女できそう
HAHAHAHAHAHAHAHAHA。次。
馬鹿野郎。お前らに殴られに来たのになんだお前ら。ちゃんとなじってくれないと困るんじゃ。次。
ボルダリングなら御岳デートとかでもいいのでは。忍者岩とかチッピング騒動以降触っていないけど、下地がずいぶんと上がって登りやすくなったとは聞く。忍者返し失われたのは痛いけど、影響受けた課題以外登ろう。
上京したばかりの1年目に御岳に行ったが、その時ですら忍者返しの岩は何も登れなかったので今行くと悲惨な目に遭うのが想像に難くない。それと御岳に行くより都内のジムにコンスタントに通うような習慣をつけたいから御岳に行くモチベは今のところない。そもそも御岳にクライミングデートしたがるような女性は相手だいたいいる気がする。次。
会うまで長すぎなんじゃね。
メッセージから次のターンへ進むタイミングが遅い気がするので2月は3回こちらからメッセージ送るまでに「メッセージではこれ以上お互いのことわからないので通話しましょう」とか言ってみるつもり。メッセージがつまらねぇのはゆるせサスケ。。。次。
会うのが億劫そうな印象
これよ。これな。これなんだよ。そうなんですよ。
今の生活で完成してしまっているもんで、生活自体は安定はしているものの新しいことを始めることに対する腰の重たさは感じている。故にメッセージも当然つまんねぇし、だらだら続けようとしてしまっている。直すべきは出不精からか?と思って土日は外に出るようにしている。都内のおすすめのカフェ(できれば勉強とか読書とかできるとこ)あったら俺が喜ぶから教えてくれると泣いて喜ぶ。次。
そんなことはない。俺より頭のいい女性は全員素敵に見える。ちなみに書いたからといってメッセージが(ry
統計2級くらいを今はゆるゆる勉強している感じ。ベイズとかは大学か大学院でやったような気もするけど頭からはすっぽ抜けてる。なんで勉強しているかというとDSコンペとかに出たいのでそれが目標。
だけど副業とか始めちゃったし、友人巻き込んで個人開発も始めてるからコンペに腰を据えて参加するのは当分無理だけど、まぁ気合いで参加して気合いで勉強して気合いでなんとかできればいいんじゃないかなと思ってる(雑)。次。
1個下の「子」
そうね。細かいけどこういう敬意の足りてない言動は減らしていきたいね。まだまだおつむが足りてない。感謝。次。
こんなところかな。そういえばガンダムseedの映画最高だったからみんな見に行こう。また来月も書くからその時はお前らのツッコミを待ってるぜ!
ガンダムSEEDの映画、相当よいらしいじゃないですか。いいなぁ~って。
当時アニメ・ゲームその他コンテンツを両親にボコボコにけなされて、触れないようにされて育って、
開放された今はもう立派にコンテンツに首まで浸かって一人暮らししているんだけど。
やっぱり「20年寝かされた上で新作に触れると~」とか「当時○○が嫌いだったけど今は~」とかいう感想を見かければ見かけるほど悲しい気持ちになる。
同じ時期に普通に生きていて、何ならTV放送を見ていれば金も払わずに経験できたものが失われたこと。
オカルト要素がなく人のエゴとか欲望とかが絡み合う素晴らしいストーリーが魅力のガンダムSEEDまでオカルトになってしまうとは、、、
20年待ってこんな酷いおバカ映画を観させられることになるとは…(褒めていない)。完全に蛇足。
確信犯的に笑わせに来ているところとか、痛くて失笑ものだった。設定がオカルト過ぎるし、ストーリー展開が雑過ぎる。アクション・メカ描写は質量ともにハイレベル。
言いたい事は山ほどあるし、ツッコミ所多いんだけど、SEEDってガンダムシリーズで一番オカルト要素無い作品だったのに、やっぱそういう感じなの?
ガンダムSEED映画の感想その7。ほぼネタバレなし。ニュータイプ概念の拡大解釈し過ぎで敵キャラがテレパスとか憑依霊みたいになってるし、後半はご都合主義を超越してユニコーンみたいなオカルトガンダムの世界に踏み込んでます。これはそろそろどうにかした方がいい。
https://twitter.com/rein_rainydoll/status/1750772629781565627
種自由の完全版が見たい(あのボリュームを2時間で詰め込もうってGO出したん誰私はもっとSEEDが見たい特に生々しい人間関係とよく分かんねえオカルトでは解決できない限界の世界観が好きなんです)
個人的には盛り上がる箇所は非常に盛り上がったという印象です。
令和の時代にSEEDが公開された事で最高に嬉しいですし、映像、曲、演出共に最高だったと思いますが最後のオカルトパワー全開の展開が残念に感じました。
本日1本目『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』鑑賞終了。
楽しかったけど……いや、なんだこれ。
あと最近のガンダムはどうにもオカルトに走る傾向があって、それは嫌いじゃないけど、今回のクライマックスはやり過ぎ。
流石に若干引いたぞ。
https://twitter.com/44nekozegawa44/status/1751079507044569120
ガンダムSEED映画、ユニコーンの呪いでオカルト化してるのが不愉快。ズゴックの中にあんなもん仕込んでるなんて、まさにオカルト(笑)
https://twitter.com/rein_rainydoll/status/1751191551001473402
ガンダムSEEDの映画はUCのようにオカルトっぽくなって世界観が崩れたように思えたのが残念だった😾
https://twitter.com/sakurav_198605/status/1751309629064392984
※ 始めにこの文は現在公開されている映画「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」の内容やSEED本編には全く関係が無い、ただの人生の半分以上を同人という世界に身を浸してきたオタクの同人懐古話である事を注記する。
20年越しでのSEED映画公開に対して某先生がコメントしていたというのを見て、走馬灯のように思い出した昔のBL同人界と同人誌の話をする。
まだインターネットが一般に普及しきっておらず、当然Twitterやpixivも無く、2ちゃんねるも出来たばかりぐらいの2〇年前の話だ。
当時の情報媒体はまだ雑誌が主体であり、同人誌の頒布方法はイベントか通信販売だった。
書店委託(当時はアニメイトかまんだらけ)で買えるのは一部の大手だけであった。(書店委託できるサークルは大手の証であった時期)
では大多数はどう通信販売をしていたかというと「自作同人誌の情報を雑誌(ぱふ・アニメーシュ・COMIC BOX ジュニア・ファンロード等)に掲載・ペーパーを配布(イベントかアニメイトかまんだらけ)し、欲しい人は記載された住所に手紙を出し、サークルと直接取り引きをする」だった。
前述通り、住所で調べたら行き方や家の画像が出てくるNAVITIMEやgoogleMAPは勿論無い時代で、むしろ住所は載せなければ通販はできない時代だった。(個人情報保護の考えや法案等は勿論無い)
この「サークルと直接取り引きをする」というのは、つまり当時通販作業は殆ど全て作者本人の手作業でやっていたのである。同人誌の梱包作業の為の資材準備から、何十・人によっては何百・何千件の郵送手配まで全て。
当時は資材準備に便利な百均や郵送を遅い時間や土日祝でも受けてくれるコンビニも無かった(コンビニ自体はもうあったが郵送受付は2004年以降)為、生まれた同人界のマナーがあった。
「通販を頼んだ同人誌は1ヵ月以上待つ事もある、だからと言ってサークル主さんにせっつくのは辞めよう!貴重な時間を使わせているし様々な事情もあるだろうから」
ここまで前提として話した上で、当時同人界隈の問題の一つとしてあったのは「サークルで予告された同人誌が出ない」だった。
中には予約まで受付して代金を徴収していたにも拘らず、作者がやる気を無くした、または別ジャンルに移る等様々な事情で発行できなくなったケースがあり、仲間内で話されるも表沙汰にはなかなかならなかった。
何故かというと前述した理由により、何ヶ月でも待つ方が多かったというのと、予告はサークル側の口約束であり、法に問える可能性は少なく、被害額も一人何百円程度が殆ど、そもそもが同人活動という一種のグレーゾーン社会の中での出来事と有耶無耶になってしまい、結局は通販を頼んだ側の泣き寝入りになっていたことが多かった。
某先生の話に戻す。
某先生は既に商業誌で活躍されていらっしゃる中、漫画ジャンルのかなりマイナーなカップリング(A(攻)×B(受)と表すると、B受自体が少数派の中、B受の主はC×Bだった)の同人誌を出されており、高い画力と美しい表紙で人気だった。
シリーズ長編として銘打たれた分厚いA×B本を発行し、「続きは次のイベントで発行します!」と宣伝。
売り子さんだったとは思うが発行延期になったという話にガッカリはするも楽しみに待ち続けた。
Bはその当時、最愛キャラとして推していた(当時は「推し」という単語は無かったが)のと、某先生の美しい絵での貴重なカップリングでの重厚な物語にすっかり虜になっていた。
友人も某先生の大ファンであり、その本については予約もしたと得意気に話していたのを覚えている。
自分の中での妄想を(今でいう三次創作になるだろうか)ノートに綴ったりもしていた。
その後、ペーパーにて「発行が遅くなってすみません」の言及で、出す気はあるんだと少しの安心と、「○○の本は出すのにこっちの本は出さないんだな」とモヤモヤした思いを抱き続けていた。
月日は経ち、ペーパーからはその本の発行予定は消え、ガンダムSEEDが放映され人気ジャンルとなり、人気サークルの中に某先生の名前をお見掛けし、ガンダムSEEDの推しキャラAへの愛を綴っているのを見、自分の中で
「あの本はもう出ないんだ」とやっと諦めが付いた。
あの当時同人誌を出されていた方々で、今では一般誌やBL商業誌で活躍されている方も多数いる。
この件についてはとっくに時効でもあるだろうし、自分も今更問い質すつもりは毛頭無い。
当時の同人界隈ではサークル規模の大小拘らず「良くある事」だったのだ。
ただ、某先生の名前を見かけるたびに未だに思ってしまうのである。
「あの本は出なかったな、せめてどんな話だったかは見たかったな」と。
※2〇年前の話なので勿論齟齬や記憶違いも多分にあるかとは思うが、記録として残したいとも思い投稿した。訂正、指摘は歓迎する。
勿論、「某先生を侮辱するな、あの本は発行されている」の話があれば喜び勇んで検索の旅に出てこの文は全消去する。
※また、蛇足ではあるが、当時同人誌の通販をした人が何ヶ月でも待つ方が多かったというのは、決して我慢強い方が多かったという訳では無いと言っておく。
そしてその経験があるからこそ、自分は今の同人文化については「良い時代になった」という思いでほぼ占められている。自分の欲しいカップリングやジャンルの同人誌を探し手に入れる為に作者本人に手紙を出し、通販希望のみだと作者に失礼に当たるからと感想を捻り出し郵送を時には何ヶ月も待つ、あるいはイベントでのパンフレットのサークルカットの絵やジャンルカップリング表記だけを頼りにするしかなかったあの頃になんて戻りたくない。
劇場版ガンダムSEEDから思う「今のアニメの作画」※ネタバレ無し
ガンダムSEEDは、DESTINY終盤が放送されている時期に友人から勧められてハマった。私は当時小学生。人生で初めて買ったCDは玉置成実の『Reason』だった。
…こんな書き出しだが、「ガンダムSEEDシリーズは私の世代にとって革新的で思入れが強くて〜」といった話ではなく、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』を見て感じた「近年のアニメの作画」に対する率直な思いについてまとめたもので、作品評価は含まない。
できれば拡散されたい。
人の意見が聞きたい。
劇場版SEEDの情報が解禁されるにつれ、SPOT映像も順々に公開された。
そのうちのひとつ、海辺で語らうキラとラスクのシーンで、キャラクターの動き・表情が機械的で実に不気味だと感じた。特にラクスが顕著だった。人が手で描いたはずなのに、瞬きなどはまるで3Dモデルに見える。例えるならVtuberのモーションに近い。
結論から言うと、劇場版SEEDは全編をとおしてほぼそのような絵でできていた。
昨今のデジタル作画特有の「完璧に均一で色に溶け込むほどの極細な線」が、画面内をなめらかに動き続ける。
メカ類は基本的に3Dなので、ピタリと止まることなく常に画面内を揺蕩っていた印象だ。
正直行って、絵(?)が動き過ぎだと感じた。
やたらに動くだけでその動作に意味を伴わないため、少し酔うほどだった。
これは果たして、作品の演出として本当に必要な手間なのだろうか?とつい考えてしまった。
ただし「SEEDシリーズの作画」に関しては、テレビシリーズの頃よりオタク達からよく指摘を受けていた。
週ごとに絵柄が変わったり、バンクを多用して展開上違和感のある映像になったり…(ムウのヘルメットの話ではない)。
これらを今の技術で改善し、あの頃からのファンへ自信を持って作品を発表することも、製作陣の課題のひとつだったのだろうと想像している。
ネットに触れていれば「ヌルヌル動く作画」といった表現はよく目にするだろう。昨今の制作サイドにおける流行りの表現方法であり、今の視聴者層に響く華のある映像なのだろう。
ただ、劇場版SEEDはいわば「ニュルニュル動く作画」で、私にその手の専門知識はないが、全ての絵に凄まじいコマ数を詰め込んだ映像なのだろうと思わされた。
おそらく手で描いていない部分もある。きっと今の技術を使えばそれもできてしまうのだろう。
少し大袈裟に言えば、3Dロボット・デジタル効果・ニュルニュルと動くキャラクターの映像が流れる中で、たまに手描きっぽく思える絵が混じって目立つ感じだ。
私が幼少期に見たデジモンやゾイドのような、手描きの絵の中にゴリゴリの3Dが混ざっていた時代からは見事に逆転したような印象を受ける。
芸術分野のことばに「不気味の谷」というものがある。簡単にいうと「決して3次元ではないが2次元の域は超えつつあるリアルな創造物」のことで、例えばAI生成の人物画像に対して抱く感情のことだ。
「ヌルヌル作画」を超えつつある昨今のアニメ映像…薄給と聞くアニメーターにとって本当に必要な手間なのか?手描き丸出しのアニメはもう古いのか?それとももうできないのか?それは技術・人員・時間、どれが原因か?