はてなキーワード: 学問とは
覚えている限りで、自分が見た夢の中で印象的だったのが
というものだ。
自分は人生の中で1浪しただけで退学などしていないし、別段学歴や学問に不足を感じているわけではないので
直接的な記憶や願望ではない。なんでこんな夢を見るのだろうか?
まず、現実で浪人した理由が「1年目の結果に両親が満足せず、半ば強制的にやり直させられた」
からというもので、その時の人生が脇道にそれてしまったような感覚が再現されているのだと思う。
もう一つ、新卒で就職した企業がブラックでそこから2回転職をしてようやくそれなりの生活にありつけた
というのもありそうで、人生の軌道修正を行ったのが成功体験になっているのかもしれない。
この二つがくっついた結果、退学だの大学入り直しだのって夢が生成されているんだろう。
何を教えるかにもよるんじゃないのかなぁ。
バラエティを通して学問を市民の身近なものとして伝えてきた実績はあると思うし、そういうことを学生に向けて講演することがあってもいいんじゃない。(少なくともQuizKnockは、メンバーに須貝さんみたいな博士号持ちもいるし、学問に対してはそれなりに真面目な集団よな。)
ぶっちゃけクイズ王なんて実務家教員のたぐいでは例外的に「学術的な」方向じゃん。
「芸能人を雇った」話の1つとして捉えていいのか?失礼かもしれんけどyoutubeとか見てる範囲では「頭がよく学問的なことに親和性の高い学者気質な人」よりの人に見えるし、
でも言葉を洗練したものが数式だとして、数式という道具を発明したからこそ扱える領域があるのでは?多様体とかエキゾチックな球面とか言葉を持ってなかったころの人類が扱えたとはとうてい思えないんだけど。
そもそもAIやら気象予報の技術たらだって1人の人間だけの思考では完成するものじゃなくて、研究結果を複数人で共有していって考えを出し合うことによって生まれたものじゃないの?そして思考の共有には言語が必要。
AIや気象予報自体が生存に必須ではない便利なものという意味では意味では「言葉は必要じゃない」「なぜなら言葉によって派生したものも必要じゃないからだ」と、むしろあなたの考えを補強することになりかねないけど。
しかしそれでも文体の問題じゃないし、言葉だけでの問題じゃなくて、言葉を操ってそういう学問的に高度な領域に至ることができるような知性も必要で、そこには才能の比重が大きいと思う、俺なんか多様体の本どころか松坂の集合位相論で20ページでつまづくような数学の才能皆無な人間だったけど、こういう本によって人類は着実に深遠な方向へと思考を到達させていることは感じられるよ。
そもそも数式なんかは「写経」したところでその数式の言わんとすることを自分自身が分かったうえで出力できるようになるわけじゃないからなあ。門前の小僧習わぬ経を読むからの論語読みの論語知らずよ。写経することによって得られた数式の暗記や受け売り的な出力は記憶力はともかく知性については何も保証しないよ。
男脳と女脳というのがあってね。
男性の思う「論理的」な世界でこれまで学問も制度も作られてきたけど、これからは違った形の論理も求められているよ。
男脳からは出てこない、女性ならではの視点が今社会のあちこちで求められている。
性別関係なく採用すれば女性だらけになるから仕方なく男女別の枠を作っていたと、企業面接官も市役所の採用担当者も口を揃えて言うよ。
男性はたとえ社会的被害者でも、一箇所の施設に集めておくとお互いを攻撃しあうけど、女性センターは平和的で上手くいっている。
それどころかコロナウイルスへの対応も、女性リーダーの国ほど上手くいっている。
女性と男性はたまに例外もあるけど、身体だけでなく基本的な脳の作りからして違う。
本来は女性の方が優秀で、放っておけば女性が多数派になるはずだった入試試験(日比谷高だって東大だってそう、理系学部もそう)や採用試験、あるいは将棋の昇級試験。
それを、男性のプライドを守るためだけに女性に不利な制度にしたり、周囲の大人や社会文化が「女らしくない」と陰に陽に抑圧する形で、現在の不公平な環境になっていた。
それを止めようよというだけ。
ジェンダー論って対立構造作って議論させたりしないし、反論される事に弱そうだよな。
アレフとかとかカルト宗教、共産主義系の団体にありがちだけど、
とにかく、学問的根拠のない「お気持ち」だけでやってるわけではない社会学も多いよってことがいいたいだけ。
それも言い過ぎだし表現が難しいところではあるとか色々あるんだろうというのはわかるけど。
いま話題になっているニュースの一つに「3600年前に滅んだ町の遺跡が、聖書に書かれているソドムとゴモラのモデルになったのではないか」というものがある。
これの真偽はさておき、聖書と考古学を結びつけて、考古学的に聖書の内容を考えようという学問に「聖書考古学」というものがある。
聖書考古学のテーマとして、ノアの方舟やエデンの園、バベルの塔の実在性などが挙げられる。
日本ではこの聖書考古学に関する情報は驚くほど少なく、マイナーだ。
というのも、日本において聖書考古学を研究している大学はとても少ない。本格的に研究しているのは一部のキリスト教系大学だけなのだ。
日本人として聖書考古学(とその問題点)を直感的に理解するのはとてもむずかしい。なぜならばキリスト教系の価値観の土台と歴史があって、やっと感覚的に理解できることだからだ。
さて、例えばアダムとイブの起源やノアの方舟の実在性などと言った話題は、われわれ日本人からすればなんだかすごくワクワクするものだ。
本当かどうかはわからないが、大昔に似たようなことがあって聖書に書かれて……という経緯があったならわかりやすいし、ファンタジーが現実と繋がった感覚がしてとても感じが良い。
しかし、アメリカやヨーロッパといったキリスト教が深く根付いた(そして克服してきた)国家からすれば、聖書と現実が地続きであるというぼんやりとした感覚は、日本より実際的な問題となっている。
というのも、あちらでは数百年前までは「聖書は単なる神話であり、現実ではない」という主張をするだけで異端と認定され、ガチで殺されたり、社会的に抹殺されることが普通にあり得たからだ。
今日では、流石に聖書がまるまる真実だと信じている層は少なくなってきてはいるが、その余波は残っている。
例えば聖書では、神は自分の姿に似せて人間を作ったとされている。それなので、人間が徐々に進化して今の形となったという進化論は、今でもあちらでは反発が強い。
ということで、宗教と科学の分離というものは、日本ではあまり逼迫的な問題ではないが、あちらではより実際的な問題なのだ。実際にキリスト教が科学を圧迫してきた時代があることは、言うまでもない。
聖書考古学はその性質上、研究に従事する研究者のほとんどはキリスト教徒となっている。
そこで思うのは、「聖書考古学は科学的なのだろうか?」という疑問だ。聖書は歴史的に正しい事実だ、という前提で聖書を証明するために研究を行うのは科学的態度とはいえない。
実際のところ、聖書考古学はこういった懸念から、主流の考古学からは「宗教的な動機から生まれる擬似科学」としてみなされることが少なくなかった。
そこでアメリカやイスラエルを巻き込んだかなりデカいドタバタ騒動(これはメチャクチャ長くなるので書くのはやめる)があった後、やはり宗教的な前提を持ち込むのはやめて、より科学的なアプローチで取り組もう、となったのが現在の聖書考古学となる。
だがやはり、キリスト教も一枚岩ではない。より原理主義的な団体もたくさんある。そういったところが、「聖書を正しいと証明するために、科学的な態度を装って」聖書考古学を利用するというケースは今でも多々見られるのだ。
もちろん、冒頭の研究については調べていないのでよくわからないが、「聖書」と「考古学」という単語が繋がって出てきた場合、少し立ち止まって考えてみてほしい。
相対的貧困、多浪、自衛官、医学生という経歴をもつ私(見る人が見れば特定できるだろうがあえて触れないでいただきたい)が最近思うことがある。それは自分が所属する集団がいかに変わろうとも自分が見えている世界は変わらないということである。
多浪時代に感じていたこと、自衛官の時に思っていたこと、そして今医学生として感じていること。これらは全て表現型を変えてはいるものの残念ながら同じことなのだ。医学部進学をあきらめて180度違う世界に入っても、自衛官を辞して再び学問の世界に入っても、自らが原始に望んでいた世界に入るために高齢ながら19,20の学友と轡を並べつつ予備校へ行き受験し医学の道へ進んでも、私の価値観に対して大ナタを振るってくれるものなど在りはしなかった。
ある程度歳を取り、貧困を経験し、凝り固まってしまった人格というものは、多少の衝撃では矯正し得るものではないということを身をもって痛感させられた。
逆説的に、若く平凡以上の、所謂親ガチャなどと自分の生まれを揶揄できるほどの親に恵まれている諸兄にとってみれば、自分の所属する集団の如何によって「目覚めた」であるとか「本当の自分・人生を見付けた」であるとかといったことがいえるのではないかと思う。自分が固まっていない、価値観を固定されるほどの幼年時代をおくっていないものであればあるほど、頭を殴られるような経験はしておくべきなのだろう。