相対的貧困、多浪、自衛官、医学生という経歴をもつ私(見る人が見れば特定できるだろうがあえて触れないでいただきたい)が最近思うことがある。それは自分が所属する集団がいかに変わろうとも自分が見えている世界は変わらないということである。
多浪時代に感じていたこと、自衛官の時に思っていたこと、そして今医学生として感じていること。これらは全て表現型を変えてはいるものの残念ながら同じことなのだ。医学部進学をあきらめて180度違う世界に入っても、自衛官を辞して再び学問の世界に入っても、自らが原始に望んでいた世界に入るために高齢ながら19,20の学友と轡を並べつつ予備校へ行き受験し医学の道へ進んでも、私の価値観に対して大ナタを振るってくれるものなど在りはしなかった。
ある程度歳を取り、貧困を経験し、凝り固まってしまった人格というものは、多少の衝撃では矯正し得るものではないということを身をもって痛感させられた。
逆説的に、若く平凡以上の、所謂親ガチャなどと自分の生まれを揶揄できるほどの親に恵まれている諸兄にとってみれば、自分の所属する集団の如何によって「目覚めた」であるとか「本当の自分・人生を見付けた」であるとかといったことがいえるのではないかと思う。自分が固まっていない、価値観を固定されるほどの幼年時代をおくっていないものであればあるほど、頭を殴られるような経験はしておくべきなのだろう。
集団によって「本当の」自分を見つける体験って、オウム真理教とかによくあった話