はてなキーワード: リンチとは
いじられっ子の42歳引きこもりがインターネットではネットリンチに立ち向かう自称正義の味方を気取っていたが、はてなからも居場所が無くなり最後は殺人者になって自首か。低能先生らしい低能な人生だったんだね…。
その「低脳先生」は「ネットリンチの被害者」でも何でもないけど、彼が「死ね死ね」言って戦ってた相手が「ネットリンチしてる連中」だったんでしょ
俺もハテブユーザー長年やってるけど「低脳先生」から「死ね」ってコール来たこと無いよ
彼なりの正義感でやってた荒らし。少なくとも彼にとっては「炎上煽り」の記事やコメントに対抗しようとする手段。Web荒らしに終わるならいいけど殺害はあり得ないが
結局これだよ。
ネットリンチを主導して、扇動して、自分は相手の土俵に上がるわけでもなく、安全圏から一方的に攻撃して、小馬鹿にして、賢いつもりで、良い気になって、それで殺された。
敬意が無いんだよ。人間に対する敬意が。
ウォッチャーだなんだと称してずーっと誰かを小馬鹿にし続けた報いだ。ネットリンチの親玉じゃねえか。それに乗っかって色んな人間を叩いてたお前らもお前らだよ。イジメの報道があると全力で叩くくせに、お前らがやってるのはイジメの親玉にそそのかされた子分のふるまいそのものじゃねえか。集団で、寄ってたかって、自分はリスクを負わずに、安全圏からひたすら罵詈雑言を投げる。これがイジメじゃなくてなんなんだ?否定出来んのか?親玉に同調して、人を小馬鹿にするコメントをつけてたお前らのことだよ。
あのおっさんがスイッチを入れると、お前らは安心して、大喜びで集団リンチを開始してたよな。相手が何を言おうが聞く耳を持たない。一度攻撃のスイッチが入ったらずーっと粘着してな。ヘラヘラ笑いながら、バカだなクズだのって小馬鹿にするんだよ。そのイジメに耐えかねた、ナイフを隠し持ったいじめられっ子の反撃がこれじゃねえか。
もうイジメはやめてくれよ。お前らが本当に怒ってるなら、相手とtwitterで、一対一でやり合う方がよっぽど上等だよ。匿名と集団を隠れ蓑にして、人の後ろから石を投げるような、ああいうのはもうやめようよ。見ててずーっと気分が悪かったよ。
:追記
相手が何かしらの疾患を抱えているのは行動から明らかだっただろ。学校の教室にバカバカってずーっと叫んでるやつがいて、そいつに「バカ先生」ってレッテル貼って「またバカ先生が出た~!」って集団で煽るのはイジメじゃないのか?それが適切な対応と言えるのか?粛々と通報するだけならまだしも煽るエントリまで書いてんだぞ?
それに乗っかって「ここにコメントするとIDコール貰えるらしいから記念カキコ」なんて書いてた連中もいたじゃねえか。
結論を先に述べると、人にとって分け隔てなく愛するということは不可能で、愛することはすなわち差別することにつながる。
それでもなお、それを理想として追いつづけていくしかない。それが神を捨てた人の宿命。
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愛には、対象を特定せずに広く与える愛と、対象を選り好みして特定のものにだけ注ぐ愛とがあるという。
前者の愛は、一神教における全知全能の神が人々に与えるものであるし、日本においては万物に宿る神が織りなす世界からの加護、あるいはお天道様が見て下さるという感覚が近いものだろう。
前者の愛をもたらす対象が人ならざるものであることからも分かるように、物事の如何に区別なく愛情を注ぐというのは、人にとって不可能にも近い不得手なことがらである。
人が織りなす愛というのは、何かと何かを区別する、あるいは誰かと誰かを差別することで特定のものに注ぐものである。それは肉欲によるようなものばかりではなく、優れたもの・素晴らしいものを愛でるときにも当てはまる。なぜなら、そのとき人は、劣ったもの・醜いものを選り好みして差別しているからだ。勿論、その選り好みは外見だけの評価とは限らず、内面や行動などで判断される場合もある。
美術が美術として評価されるのは、他のものと比べて美しさが秀でているからであって、誰か素人が作った作品よりも他人からの愛を受けているからだ。平等に愛を注ぐのなら、そうした素人作品と美術品すら区別なく差別なく、愛を注いでしかるべきだ。残念ながら、選り好みをしてしまうということ自体が、平等に愛を注ぐということに反しており、結果としてそのように世界を愛するというのは一般の人には到底不可能なことなのである。
それが不可能で、それでいてなおかつ愛を受ける身としては理想的であったからこそ、全知全能の神という概念を人々は作り出したとも言える。なにしろ、どんな存在であっても愛を受ける資格はあるのだから。たとえどんな悪事を働いていたとしても、無為な存在であったとしても、そんなことは関係ないというのだから。人々が与える愛は、相対的な肯定はあっても、絶対的な肯定はありえない。それは秀でたものがより愛され、劣ったものがより愛されないという状態であり、その基準は各々異なっていても、対象によって愛を与える程度が異なるというのは変わらない。その優劣は非常に恣意的で、単に身近にいるかそうでないかという差異であったりもする。親が子を無条件で愛すると言っても、子として存在しているからこそ他人より差別して愛するのであって、どんな人であっても同様に愛するというのとは全く異なっている。そうした相対的な愛ではなく、絶対的な愛を誰も分け隔てなく与えてくれる存在、それこそが理想でなくてなんなのだろうか。
かような神という概念を創出したことで、人々は平等に愛を得ることが可能になった。その愛が空想上のものであったとしても、構わない。重要なのは、当人が愛を受けていることを感じているかどうかであって、実体として誰かが愛を与えているかどうかではないのだから。
このように考えてみると、万物に対する差別なく区別ない愛というのは、人々の空想上のものに過ぎないと分かる。ただ、それは空想の産物であったとしても、非常に賢い発明であったことは確かだ。それに、実体がなかったとしても何の問題があるだろうか。愛を与える存在がいるかいないかに関わらず、愛を受けているという感覚があるということこそが重要なのだから。
いずれにせよ、これまでの議論から導き出されるのは、人は区別・差別することなしに愛することはできない、ということだろう。言い換えると、区別することで初めて愛することができる、とも言える。それは人種や国籍・身分その他という分け方でなくても、ヒトかヒトでないか、動物かそうでないか、生物かそうでないか、石ころだって特定の、例えば花崗岩や砂岩などと判別することで初めて対象を特定化て愛情を注ぐことができるのではないか。漫然と、自分の子供と野良猫とそのへんの石を全く平等に愛するというのは不可能なのだ。そのへんの石だって、他の石と区別することで初めて愛しうる対象になりうる。区別できなければ、その対象にすらなり得ないのだ。
故に、人を愛するにはその人を他人と区別することが必要となり、集団を愛するにはその集団を他のものと区別する必要があり、地域を愛するには他の地域と区別する必要が、国を愛するには他国と区別する必要が…となっていく。愛国心などと言っても、日本という概念があまり一般的ではなかった江戸時代には、諸藩における郷土愛はあっだだろうけれども日本を愛するという考え方はごく一部の外国を認識している人を除いて存在しなかっただろう。列島を束ねる存在(日本)が当たり前過ぎて、認識するに至らなかったというほうがより正確なのかも知れない。
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左翼のというより、人権思想などの近代思想の出発点は、フランス革命の自由・平等・友愛から始まっている。ここで友愛とは博愛とも同胞愛とも訳され、仲間に対する愛を示しているのだけれども、これも特定の集団に対する愛を唱うことで他の集団を差別している。平等とはあくまでその集団の中だけで適用される概念で、他の集団に対しては平等であることは必要ではないのだ。だからこそ敵であるフランス王家は斬首になったし、信条が異なる集団に対してはリンチが横行した。これは左翼思想を発展させた共産主義に引き継がれ、今なお信条の正統性を主張する形で争われている。
この近代思想は、神が行ってきた(と人々が空想した)分け隔てない愛を与えるという行為を、人が自らの意志で執り行おうとして産み出したものであろう。それは確かに理想ではあるけれども、実態として分け隔てなく愛するということが不可能であるが故に、ときに空想となり、あるいは夢想となって人々を混乱に陥れたようにも思う。
結局、現代人はその理想を、限定して扱うことで現実と妥協しているのではないだろうか。
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人は誰も、差別されることは拒絶するが、他人を区別することなしに過ごすことはできない。
基本的人権として求められるべき最低限の平等を規定しつつ、それ以上の区別は互いに棍棒で殴り合う、もっと文化的に折り合うなどして勝ち取るものではないだろうか。
日大のアメフト部の声明文、けっこう厳しめのコメントがついててびっくりした。
たまたまそこに居合わせてしまっただけの他の選手までこんな厳しいこと言われるんだなぁと。
中身がないとか、ふわっとしてるとか、そんなんだから奴隷のままだとか。
なんでそこまで言うのかよくわからないので、ちょっと理由を考えてみた。
これはいつものやつ。ひとつ非があると、どれだけ叩いてもいいっていう、いつものネットリンチ的なやつ。
これは上とほとんど同じだと思うけど、まあ、何か叩けるものを見つけてただストレス発散してるだけって感じ。
(よく考えると、これ自体も自分に関係ないことへの義憤だな、まあいいか)
新入社員には妙に偉そうになる人、どこの会社でも見かけると思うけど、それに近い心理。
この3つかなぁと思うのだけど、さっきも書いた通り、他の選手は何か具体的に悪いことをしたわけではない。
たまたま問題を起こした会社に勤めてた会社員とか、いじめのあったクラスにいた子供と同じ立場ではなかろうか。
お前らが隷従するからそんな事件が起きたんや、そんなんならいつまでも変わらないぞみたいなコメントもあるけど、
そういう体育会系のやり方とか、日本の年功序列で閉鎖的な組織のムードってずっと昔からあるものだから、私ら大人も同じじゃないんやろか。
そんな日本的組織の空気と、監督コーチ固有の問題、日大固有の問題が不幸にもひとつの場所に歪みとして重なってしまって、あんなことになったんじゃないだろうか。
だけど時代的には、起こるべくして起こったような事件という気もする(高橋まつりさんの自殺で、広告業界が変わる必要性に気づいた、的な)。
そんなインターネットのいやなとこを目にすることも多いけど、一方で検証的な増田もあったりする。
https://anond.hatelabo.jp/20180525221000
この検証がどこまで合ってるかはわからないけど、検証的に見ようとする人がいるのはいいなぁと思う。
(この記事も良かった。
https://m.huffingtonpost.jp/2018/05/28/american-football-coach_a_23444448/ )
声明文がふわっとして見えるのは、第三者委員会の検証待ちだから具体的なこと言えないせいもあるかも。
まあ結局何が言いたいかって言うと、私らだってホットエントリに入ってきた記事斜め読みして、ムードに乗ってふわっとコメントしてるだけだし、
この会社ブラックだ、おかしいって言いながら、隷従してるだけの社会人だって多い。ブラックに所属してるだけで反省を求められることはないし。
それに、もし3つ目の「学生、目下だから」って理由でやってるとしたら、それこそ体育会系部活の偉そうな監督や先輩と同じやん!ってことかな。
とりあえず、私ら社会人(←主語大きいのはごめん)、そんなに偉そうなこと言えんよなって思った。
もやっとしてたので吐き出した。すっきり。
追記:
トラバ見て、就職が有利な日大アメフト部選手への妬みというか、ルサンチマンもあるんだなと知った。
全く気付いてなかったけど、これもよくある理由だよなぁ。
ということで、叩く理由は4つはありそう。
昔は義憤にかられて炎上状態にさせることはネット(特に旧2ch)だけの話だったけど、最近はマスコミも嬉々として加担してる。
だいたいどうでもいい話題なんだけどね。
日本社会の縮図?いや、それ言うならまだモリカケ問題や電通問題のほうが重要。働き方改革法案のほうが大事。
マスコミの視聴率稼ぎと大衆の無責任なストレス解消のスケープゴートにされて、それも自己責任なんですかね?
大衆のネットイナゴ化=聖戦士化とネットリンチ。扇動するマスコミ。
それこそ日本社会の縮図じゃない?
炎上に加担してる人たち、恥ずかしくないのかな?
夕刻娘と公園に散歩に行くと、またヒスパニック系の方々が陽気な音楽でパーティーをしているのです。彼らのお祭に欠かせないのがピニャータ。しかしそのピニャータ。星型、ボール型、そしてロバでさえも現代っ子を十分に興奮させるのが不可能になったようです。結果、ボール紙の張り子で作った愛くるしいアニメキャラクターにお菓子を詰め込んだものを吊し上げ、それを無垢な子供が棒でひたすらぶっ叩くというなんとも凄惨な光景が展開されるわけです。今宵の生贄はピカチュー。三歳の我が娘は、スペイン語の囃子歌をバックに浅黒い肌の子供が交代でピカチューを散々にリンチするのを不思議そうに、そして興味津々に眺めておりました。油断して少し距離を縮めすぎたら、世話好きそうなメキシコ人のおばさんが「お嬢ちゃんもやるかい」と打ち棒を勧めてくるのです。流石に娘もこれはホラーだと感づいたらしく、棒を辞退して事なきを得ました。その後ピカチューは年長の男の子に腕を打ち落とされ、その殺気に刺激された対抗心旺盛の次の子の一撃でとうとう首が半分もげ、金色の体が大地に崩れ堕ちたのです。瞬間、「わーっ」という声とともに満身創痍のピカチューに群がる子供たち、いやあれはゾンビの一群。瞬く間にピカチューは八つ裂きにされ、子供たちはその体内から溢れ出るキャンディーの奪い合いという地獄絵巻の最終章に突入したのでした。娘を抱き上げて脱出を図る私に彼女は一言、「わたしもキャンディー欲しい!」実は、一番恐れていた言葉がこれだった。