はてなキーワード: リベラルとは
意味だよ? 俺はリベラルだが、アファーマティブアクションという主張にな
びいたりしねえよ。そんなもんクソくらえだ。俺はリベラルとして抑圧のな
い社会を望んでいるだけだよ。リベラルを主張している政党や運動家の有象
無象などと一緒くたに扱われるのなんて、まっぴらゴメンだね。
そのように妥協をすると
「Aという制約が存在する場合には、自由意志はないとみなすが、Bという制約が存在する場合には、自由意志はあるとみなす」
「文化的、経済的な制約が存在する場合には、自由な意思決定はできない」
という主張をするものは
「物理学的な制約(世界は物理法則に従って動いているという制約)が存在するため、そもそも人間に自由意志はない」
という主張も肯定しなければならないはずだ
認めると
という主張ができなくなるからね
「構造的な要因」に原因を求めるということは、人間の行動は構造によって決定されるという考え方をとっているわけで、自由意志を否定している
例えば、アファーマティブアクションとして、理系の大学に女子枠を作る話などもそうである
構造的な要因で、女性が理系の大学に進学できないという説明をするのならば、当然にしてそこに人間の自由意志はない
しかし、リベラル派は「女性は構造的な要因で理系の大学に進学できない」「女性の自由意志で大学を選べるようにするべき」という二つを主張しているのである
自由意志を認めるならば、有名大学に黒人が少ないのも、経済格差があるのも、議員に女性が少ないのも、全て「自由意志の結果」のはずである
自由意志を認めないのならば、「自由意志による選択ができるようにするべきだ」という主張は不可能である
なぜなら自由意志を認めない立場からすれば、自由意志はこの世に存在しないため、自由意志という言葉と事実はなんの対応関係も存在しないからである
よって自由意志を認めない立場の人間が、「自由意志による選択ができるようにするべきだ」と主張するのは、言葉の定義が不明瞭な一種の疑似問題であり、棄却される
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⚪︎ここに反論を載せておく
「差別が構造的なものであるという主張が個別の行為に関して構造によって決定されるという主張を含意するわけではないでしょ。構造によって選択肢は制限されるがその限られた選択肢からどうするかは自由とか、個々人は自由に行為を選択するがマクロ視点では一定のパターンが生まれるとか、いろんな考え方ができる。藁人形論法じゃない?」
という主張を認めるならば
「物理学的な制約(世界は物理法則に従って動いているという制約)が存在するため、そもそも人間に自由意志はない」
という主張も認めなければならない
なぜなら構造とは最終的には物理的なものに還元できるわけだが、前者を認めて後者を認めないというのは
「特定の物理的影響によっては自由意思は制限されるが、その他はされない」
リベラルでないものをリベラル認定すればリベラルの主張と矛盾するのは当たり前のことである。
実際には彼のような人物がリベラルの定義を都合良く操作している」
←構造的要因を持ち出さないとアファーマティブアクションは主張できないだろ
アファーマティブアクションを主張するリベラル派の理論武装の中に確実に含まれているが
2023年くらいから、男女混合システムになって一気にクソ化した
普通に考えて女子が男子と同レベルの技術や身体能力を持っているわけないじゃん?
パックに女子が混ざってくるせいで男子の当たり引ける確率が減るし、
単純に自分の好きな選手が聞いたこともないような女子選手より弱いのがマジで許せない
ボンマティは可愛いし好きだけど、デブライネやベリンガムよりサッカー上手いわけないよな?
野球で言うと、稲村亜美が佐々木朗希より上とか、それくらい無茶苦茶なことやってるよ
はっきり言って俺はかなりリベラルやフェミニスト寄りの考えを持ってるけど、
この件に関しては今でも許せないしすぐにでもやめてほしい
そもそもサッカーは男女混合でやるスポーツではないので女子だけのモードを作ればいいだけの話
なんでこんなクソ仕様にしてしまったのか、なぜこの件にもっとユーザーが声を上げないのか
https://ohtabookstand.com/2024/08/kansosaiko-3/
かいつまんでいうと、北村紗衣という大学教授がダーティハリーをつまらないと感想を述べたのだ。記事はつまらないという結論から始まり、公開当時の映画界の潮流やダーティーハリーの立ち位置などを説明し、彼女がなぜ本作をつまらなく感じたかという分析をするという構成であった。
この映画評に対して、須藤にわかというブロガーが反論記事をnoteに投稿した。
https://note.com/niwaniwaniwaka/n/nf5fd97890657
北村の記事内容を「ウソ」と言い切り、反論記事を書いたものだが、これが北村の目に留まったのだ。元々のタイトルが「北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事」という完全に喧嘩を売ったものであったので、北村が反応するのは当然であった。こうして戦いの火蓋が切って落とされた。対戦はTwitter上で繰り広げられた。
両者の記事を読んでいただくとわかるが、北村の記事からウソを見つけるのは難しい。というのも、彼女の論はこれまでのニューシネマ研究にそったオーソドックスな説明の引用に過ぎなかった。北村はニューシネマに対する専門家ではないため、自論を述べることに慎重であったのだろう。ちなみに北村はシェークスピアをはじめとした芝居や演劇の専門で、映画に関する論文や書籍を執筆していることは補足しておく。いずれにせよ、須藤が北村にたいしてウソというなら、これまでのニューシネマや映画史と対峙することに等しかった。
一方須藤の記事はニューシネマに対する熱量と敬愛は感じられるが、感想と意見と事実とが混同していて、素人目から見てもツッコミどころが山ほどあった。北村は須藤のロジックのほころびをみつけては、ボコボコにしていった。はっきりいって、ロジカルな勝負は数回のラリーでついていた。
ここから戦いは違った様相をみせていく。Twitterでの論争に苦戦したためか、須藤およびその周りのアカウントは北村を映画評以外の部分で攻撃。直接的な攻撃だけでなく、スクショでの晒しや別SNSでの陰口大会が始まった。中には露骨な女性蔑視を匂わせるものもあり、ロジカルな議論とは程遠かった。
しかし、北村はそれらを全て捕捉し仕留めていった。陰口がバレて「北村さんのことじゃないですよ〜」と言い逃れをしようとしても、ロジックで詰めていってトドメをさした。
興味深いのは北村を攻撃していた男たちの中には、日頃はどちらかというとリベラルな考えの持ち主もいた。いつもは保守派の女性蔑視を嘆いたり、女性の地位向上を望んでいるアカウントも、女性に論争で負けること自体は気に食わなかったようだ。
お前らが実現して欲しいって言ってた選択的夫婦別姓やってくれるってよ
自民党って色んな立場の人がいるから、結局誰が総裁になるかで、リベラルが言ってるような政策もカバー出来るんだよ
お前らが言ってるような政策結局のところ、自民党が全部やってくれるんじゃん
やだー
実際やろうと思えばできちゃうんだよね、なんせ中国にはその資格がある
植民地支配の歴史という立派な弱者ポジションだって持っちゃってるから
インドはじめ同じく植民地支配を受けた国々にしても、そもそも西側の民主主義なんかありがたがる義理ないんだし
弱者や被害者をここまで持ち上げる風潮が広まり、そして元祖マイノリティのユダ公に今更手のひら返すこともできない以上
結局アレ脚本家が本当に描きたいことを描こうとするたびに、史実要素が全部邪魔になるんだよな
だってそうじゃん?
寅子はどこまで行っても、所詮いいとこのお嬢様が生まれ持った文化資本を存分に使い倒す、そういう話でしかない
あの時代としてはたいへん理解のあるパパに恵まれ、ママにも恵まれ、結婚を二度もして子も孫もできて
まあ朝ドラの伝統で身内を失うテンプレじみた苦労はあれど、あくまで既存の社会秩序に属した権力の手先風情に過ぎない
二言目には人権や反権力を謳うリベラル左翼勢力が、大嫌いでしょうがないはずの国家権力の一端をまぎれもなく担っていて
反体制ガチ勢の皆様から見れば、彼らもまた国家の走狗でしかない
そういう一見矛盾した事態ぐらい、制作側だって当たり前に自覚してるわけよ
そんな奴がいくら小手先でフェミニズムらしきものを唱え、差別と闘うポーズ見せたってね、あの毒親持ちのメンヘラツイフェミ連中が「これ私のことだ……」ってなるようなもんじゃねえの、本来は
そこ受け持ってるのよねだよね
まあ連中に司法試験受かるようなオツムはなさそうだけど
ぶっちゃけ本当はオリジナルであいつだけやりたいんじゃねーかとしか思えない
あれは主人公が裁判官なんかにならず、弁護士兼活動家の道をひた走るifルートそのものなんだろう
とことんフェミに寄り添うならもちろん結婚も出産もご法度だが、史実が史実なんでそういうわけにもいかない
プロパガンダとしては余計なものが多く、さりとて今更いつものイージーな朝ドラにも戻れず、なんとも軸がブレてしまった
例えば、同じく思想むき出しでおなじみのはだしのゲンにしても、そういうとこがある
俺は全部読んだから知ってるけど、一番後ろのゲンが絵描き目指して上京するだの恋愛するだの、そういうのは割とどうでもいいわけ
そんなものよりゲンが何かに噛みつく姿の方が面白いに決まってんの
ガンダムもドラゴンボールもみんな同じで、一度バトルで受けた作品っていうのは、もう永久にバトル以外まともに見向きもされない
いやドラゴボの教習所とかハイスクール編とか面白いだろうが、という奴も決していないわけじゃないけど、じゃあそれで映画が一本できるかと言われりゃ無理があるし、残念ながらノイジーマイノリティでしかない
視聴者はこの男社会に虐げられた女たちが立ち上がり、近藤隆太みたいに暴れ回るリーガルバイオレンスドラマ見てひと時スカッとしたいだけなのに、それを満たしてくれないんだから、当初みたいに盛り上がらないのも残念ながら当然
西遊記で言うところの前半と後半の違い
頭に輪っかはめられた寅子なんてだーれも見たくないのよ
だいたいが轟とのバディというのからして、女の「ゲイの友達欲しい願望」丸出しなわけだしさ
三淵嘉子とかどうでもよくて、それこそこの先の違憲裁判全部よねにぶん投げて、ドクターXみたいに「私TUEEEので」と無双したいだけなんじゃなかろうか
そういうわけにもいかない苦渋が感じられてならない