はてなキーワード: タトゥーとは
当方、東京に住んでもう十年以上になるが、地元に帰省する度、近所の温泉に出かけているのです。
が、近年そこにいる人の質が落ちている気がした。
今回は
私はともかく、容姿端麗な方や、ガチムチのアニキが入ってきたら撮らないという根拠はあるのか?
・刺青禁止なのに当たり前の様に入る人
タトゥーを入れようとしている人は公衆の目に触れる場所へ訪れる機会を捨てる覚悟を持つべきだ。
・明らかに虐待を受けているのが丸わかりの全身青アザだらけの少年
見ていて痛々しいよ。
親よ、そんな教育をして恥ずかしくないのか?
などなど、ガッカリさせられる事が増えてきている。
人と人が然程関わりあわなくても生きていけるのが容易になった時代だから
周りを気にすること無く、やりたいようにする人が増えたのだろうか。
今まで数多くの可愛い女の子たちのアナルを見てきた(全員で数100人くらい)。その全ての可愛い女の子たちには当たり前のようにアナルはあった。
そのため、俺は可愛い女の子はうんこをしないと信じているにも関わらず、アナルはあると思っていた。
実は無いかもしれない。では今まで見てきたアナルは何だったのか?考えてみたい。
1. シール説
可愛い女の子の尻にある穴らしきものはただのシールである。タトゥーシールのようなものだ。
2. 実は可愛くなかった説
俺が確認した可愛い女の子のアナルは99%AV女優のものである。
世の全ての可愛い女の子から無作為に抽出したものではない。つまり、サンプリングが偏っているのだ。
この統計から言えるのは、「AV女優は可愛くてもアナルがある」ということだけである。
しかし何故、可愛いAV女優にはアナルがあるのだろうか?ここでAV業界にはある裏事情があると推測できる。
アナルが無ければ作品が売れないため、AV女優は採用時にアナルがあるかどうかチェックされるのだ。無ければどんなに可愛くても不採用となる。
結論から言うと、「セックスはいいけど恋人にはなれない」とか情事の後で言われた。
なんで俺じゃダメなのか聞いたら「そもそもオフ会なんて遊び」とか「大人の付き合いにマジになるほうがおかしい」とか意味不明。
オフ会の前からずっと気になっていて、いざ会ったら本当にいい人だったから二次会で隣の席になったとき誘ったら意外とノリノリでビビった。
これがワンチャンってヤツかと思って即効ホテル行ってヤリまくった。
ああマジ書いてて意味わかんなくなってきた。
なんか普通に「昨日は楽しかったね」とか来るけど全部既読スルーしてる。
太ももの内側にでっかいハートのタトゥーがあったからビッチかもしれねーって思ったけど、やっぱりただのビッチじゃん。
もう女なんて信用しない。
昨日、駅でニッカボッカ履いて、金髪、タトゥー入れたDQNがいた。
通勤時間なので、電車の停車位置にはもちろん行列ができていた。
そのDQNが階段を降りてやってきた。ずっと電話で話している。まあそれはいい。
で、階段横にできている窮屈そうに折れ曲がった列の方に行ったので、
「DQNでもちゃんと並ぶんだな。えらいぞ」
と思っていたが、そのまま隣の列に行き、ドアの前まで行ってしまった。
「おい、こいつこんなに人並んでるのに、ドアの前で待つの」
「いや、この人は次の電車に乗るつもりなんだ。」
と自分に言い聞かせていたが、ドアが開いたらそのままDQNは電車に乗り込んでしまった。
そして、真っ先に席に座った。2人がけのシートで股開いて座っている。邪魔だ。
いまどき、こんなやついるんだな。恥ずかしいと思わないんだろうか。
まあ、そんな価値観は皆無だろうな。カッコいいと思ってやってるんだし。
ここ2、3年風俗通いを続けている。
本番できる確率は、デリヘルが80〜90%、デリエステでは30%くらいだ。基本追加料金は払わない。
デリエステではできないことのほうが多いが、オプションでオールヌードが可能なら、できる確率は若干上がる。要はパンツを脱がせることができるかがポイントだ。
毎回店のホームページを見て予約するが、詐欺写メやパネルマジックも多いし、タトゥーがあったり肌が汚かったりすると萎えるので、本当に自分好みの女とセックスできるのは10回に1回程度だ。
料金は1回の利用で平均20,000円。ということは、自分好みの女一人とセックスするのに200,000円も使っていることになる。まあ、セックスだけが目的ではないが。
結婚して、そろそろ子供を作ろうかなんて話もしているから、そろそろ風俗通いは止めたい。
毎回自分好みの女とセックスするたびに、これで終わりにしよう、終わりよければすべてよし!なんてつぶやきながら風俗サイトのブックマークを削除するのだが、1ヶ月もしないうちに我慢できなくなってしまう。
もう、これは中毒なのだろうか?タイガーウッズと同じ、セックス依存症かもしれない。
妻とのセックスでは到底満足できない。満足できないどころか、勃たせるのもひと苦労なのだ。
そして、昨日もデリヘル嬢とセックスをした。18歳の大学生で、普通のバイトもしているという新人の子。擦れておらず、初々しい。色白で細い割に胸が大きく、感度も良かった。声が出ないようにタオルを口にあてて我慢する姿が可愛らしく、興奮した。
だけど、今度こそ、本当に、本当に、これで終わりにしよう。
【追記】
>お気に入りの嬢を指名しないの?
するときもあるが、あまりしない。やっぱり初回と比べると興奮しないから。
>嫁を開発
いまさら嫁を開発する気にはならん。
嫁に対する愛情も感謝の気持ちも持ち合わせてはいるが、それとこれとは話が別。
欲しいな。子づくりのために必要だ
>本番できる方法
自分なりのコツみたいなのはあるが(ただしイケメンに限る)ってやつかもしれないからな
>なんでやめたいのか
一番は金の問題かな。今は共働きだから問題ないっちゃないが、嫁が子づくりで仕事を辞めたりしたら金銭的に風俗通いは難しくなる。
そうなれば必然的に止めざるを得ないのかもしれないが、やっぱり止めるなら自らの意志で止めたいよね。
>素人にすればいいじゃない
>性病
一回だけ淋病になった。ちんこの先から膿が出て、おしっこするたびに激痛が走るんだ。
泌尿器科で処方された抗生剤を飲んだらすぐに治ったが、数ヶ月は風俗から足が遠のいたな。また戻っちゃったが。
>なんで嫁で勃たないのか
そのとおり。嫁に飽きたんだ。
勃たないとまでは言わないが、みんなも嫁に飽きてるんだろう?
いかにも顔がヤンキーっぽい5歳時とかを2,3名、見かけて。
目がつり上がってたり髪型がマレットだったり、変なソリコミ入ってたり。
案の定、先生の言うことを聞かずに大暴れしたり、隣の子供に暴力振るったりしている。
ああ、こいつらが将来、不良になってうちの子をいじめるようになったらどうしようと、
親父はでかいグラサンにキャップを斜めにかぶり、だぶだぶの服を着ている。
で、子供のためにもちょっとは親同士仲良くなっておこうと思い、
普段だったら絶対に話しかけないであろうその父親と会話をしてみると、
その親はDQNであることに誇りを感じているらしく、子供にそういう格好をさせたときの周りの目のデメリットは
重々承知しているし、それがむしろかっこいいし、子供を強くすると思っているようだ。
逆に勉強などしてるからストレスで暴れたり他の子に暴力を振るったりするんだと思っているらしく、
子供を塾に通わせている妻を苦々しく思っているとのこと。
あああ、もうダメだ。一生分かり合えない。
このエントリについて。
彼の頭が良すぎて萎えて別れた
わかるような、わからないような。読んですっきりしない部分があったので少し考えてみた。
このエントリの続編で触れられているように、この話の出発点には「高学歴と低学歴の世界の溝」の問題がある。
そもそもの問題として、「低学歴」対「高学歴」の世界の話というのはなぜ「低学歴」ポジションからの発言が多いのだろうか。それも「高学歴の世界」をポジティブなものとみなして、自分の所属する「低学歴の世界」をネガティブなものとして演出するという態度で書かれてるものが多い。
こういうタイプの文章がはてブを集めて多く読まれているのは、それを読むと読んだ人が心地良く感じるからではないかと思う。「高学歴の世界」の人はこういうのを読んで単純に優越感を感じる。一方こういう文章を読む「低学歴の世界」の人は、「低学歴の世界」にいながらにして自分は「低学歴の連中とは違うんだ」という意識を持っているような人なのではないだろうか。だから「低学歴の世界」が「高学歴の世界」に対して否定的に書かれていることに溜飲を下げる。「低学歴の世界」を批判することで、自分がそこから離れて「高学歴の世界」に近づけるような気がするんじゃないか。「低学歴の世界」に満足している人は、おそらくこの手の文章を読んでもピンとこないだろう。
では、自分自身は、こういう文章と向き合う時なにを感じているのだろう、と思った。こういう文章を読んだ時、私の胸には優越感などの心地よく単純な感情ではなく、言うも言われぬ複雑な感情がこみ上げてくる。
私自身はおそらく「高学歴の世界」に属する人間だろうと思う。曽祖父の代から大学教授の家系で、女性も祖母の代から高等教育を受けている。私は大学付属の小中高に通ったが、クラスメートの父親はおおむね医者か弁護士、研究者、大企業勤務のどれかだった。大学に入るときは、東大、京大、早慶上智、国立医学部までしか選択肢になかった。実際にクラスメートの大部分はこれらの大学に進学した。残りのMARCHレベルに進学した人たちが、私にとってとんでもなく「低学歴」の人たちだった。親類のなかでは東大京大以外は大学ではない、というくらいの認識であったし、私自身、ちょっと勉強すればだれでもMARCHくらい入れるものだと思っていた。この認識が変わったのは、大学に入って予備校でバイトを始めた時だった。どんなに必死で努力してもMARCHはまだ夢の夢という生徒が大勢いるのに衝撃をうけた。
こうして書くと自分は嫌な人間だなと思う。けれどこういった「高学歴の世界」が居心地のいいものだったかというと、そんなことはない。「高学歴の世界」は息苦しいものだ。「高学歴の世界」を定義づけるのは「今日よりも明日」だ。今日よりも明日、より良くなっていなければならない。より良く、より賢く、より豊かになっていること、それが「高学歴の世界」が求めるものである。失敗は許されない。一度失敗したものは、この日々の前進のルートから脱落し、また追いつくためには絶望的な努力を強いられる。「高学歴の世界」は失敗に敏感だ。私の両親はよく「一事が万事」と言っていた。たった一度失敗すれば、それは全て失敗したのと同じ。このスローガンに、子供の私は恐怖しか覚えなかった。遊びも教育の一環だった。教育的でない遊びは排除された。常に成長することが求められた。それは大人になっても続く。昨日よりも今日、今日よりも明日、より成長して改善していること。「高学歴の世界」を統治するのはこの原理である。
このような世界が自分にとって当たり前だったのだが、それはまたひどく息苦しくもあった。そこには「明日」と「未来」はあっても、「今日」と「いま」はない。なにもかもが「明日のため」であるとき、いまここに生きているという感覚はどんどん摩耗していく。今、この瞬間どんなに成功していても、それを100%として認めてもらえることはない。明日さらに良くなること、明日さらに成功することが求められる。それは絶え間ない自己否定でもある。この自己否定がなければ、改善も成長も望めないから。
やがて神経衰弱のような状態になって、ふとある趣味をはじめた。そこには私と同じような育ち方をした人もいれば、そうではない人たちもいた。このとき私ははじめて「低学歴の世界」に触れたのだと思う。その「低学歴の世界」のひとたちは、多くが高卒で、男も髪を染め、女性はミニスカートや露出の多い格好をしていた。タトゥーを入れている人もいれば、道端でケンカをする人もいた。この仲間のなかに入って、私ははじめて「今を楽しむ」ということを知った。お酒を浴びるように飲んで、馬鹿な話をして、大笑いして、そういうことをしても、明日のためにはならない。明日に残るのは、二日酔いだけだ。けれどその瞬間は、ものすごく楽しい。彼らは遊ぶことがものすごく上手だった。季節ごとにいつも楽しい遊びを考えていた。バーベキュー、花見、キャンプ、スノーボード。「今、この瞬間を楽しんで生きてもいい」ということを知ったのは、自分の人生が大きく変わるほどの体験だった。
こういう経験を通して考えてみれば、「うちらの世界」の価値観も理解できる。「高学歴の世界」は未来の為にという価値観がとても強い上に、一度失敗するとその損失を取り戻すのが非常に困難であるという認識を共有している。彼らにとって「バイト先での醜態を公衆に晒すこと」は大変な過ちでありなんとしても回避されるべきものである。一方「低学歴の世界」にとって大事なのは今この瞬間である。今この瞬間を楽しむことが何より大切でなので、その行為が未来にもたらす影響は考慮しない。今、バイト先の飲食店で食材をおもちゃにすることが楽しくて、目の前にいる友人を楽しませることができるのであれば、そのことがなにより重要なのだ。
「明日のために生きること」と「今を思う存分生きること」は、本来両立しうるものであるけれど、どちらかにかたよるとそれぞれ問題をひきおこすのだなと思う。自分の生きてきた世界のことは、みなよく知っている。だからこそあらも見えるし、別の世界に憧れもする。それはもちろん幻想なのだ。どの世界にも光と影がある。ユートピアはいつだって「どこにもない場所」なのだ。
さて冒頭の「彼の頭が良すぎて萎えて別れた」というエントリーであるが、これを読んで再びなんとも言えない気持ちになった。この人はなぜこんなに彼との間に線を引きたがるのか、そこに溝を認めたがるのか。なぜそこに溝を認めた上でそれでも相手を受け入れることができないのか。この場合、二人の間にあるのは「学歴の溝」ではなくて彼女の方のコンプレックスなのだと思う。自分が手に入れたくて仕方がないものを、もう自然にもっているように見える相手への嫉妬なのだろう。けれどそれは「毎日より良く」という価値観のなかで研鑽されてきた結果なのであって、同時にそのなかで切り捨てられてきたものも存在するのだと思う。そういう自分が切り捨ててきたものを恋人に求める気持ちが、私にはよく分かる。私が強く惹かれるのは同じ世界の人ではなくて、別の世界の、ある種の「生きる智恵」を持っている人だ。多く笑い、気楽で、今を楽しむ人だ。この話で、彼は彼女にたとえばそういう魅力を求めていたのかもしれないのに、紋切り型の階級差を持ちだして自己完結する姿になにか割り切れないものを感じる。
一方で、このエントリーで語られている話自体がすでに紋切り型のものであるとも言える。語り口が現代風であるというだけで、話の中身は明治時代からでもありそうな話だ。とりわけ語り手を男にしてみると、既視感が強くなる。身分差のある恋をした男が、バックグラウンドの違いを感じて、女を捨てる。「彼女の頭が悪すぎて萎えて別れた」と男が語る。あるいは女が男を思って身を引く。でも私達が生きているのは現代日本だ。好きなように生きればいい。相性が悪ければ別れればいいし、よければ付き合えばいい。けれど「高学歴」「低学歴」という単純な構図に当てはめて自分の生き方を縛るのは、愚かなことだと思う。自戒を込めて。