はてなキーワード: エマ・ワトソンとは
まあ3年も前のエマ・ワトソン演説が突然持ち出されたのも、一見男性に歩み寄る姿勢を見せたかのようだった美少女が実は強者男性と付き合ってたとかいうことを叩きたかっただけみたいだしね。
正直弱者男性がどうのこうの言う言説見てても「甘ったれんな」としか思えないのは確か。
例えるなら、昔から大地主たちが土地を独占してきたのを時代が開放した結果、商才のあった地主は相変わらず裕福な生活できてるけど、権利におんぶだっこで甘ったれてた連中は食い扶持をなくして貧乏になってしまったようなもん。
そんで「昔は自分らくらい能力がないやつでもちゃんと食えてたんだからもっと社会は自分らを救うべき」とか的はずれな主張してるだけっていうね。
フェミニズムの一段階目の成果として、「女なので職業が選択できない」「女なので参政権がない」といった男なら選択できることが女であることを理由にできないのはおかしいのではないか?という疑問から、その権利を獲得するという歴史がある。素晴らしいと思う。男性オタクや弱者男性は反対するだろうか、しないだろう。
二段階目として男性と同様の権利を得て社会に出たあとにジェンダー問題にぶちあたる。「女なのにそんな格好をして!(あるいは化粧をしないの?)」「女なのに子供を生まない、無価値じゃない?」「女なのに御茶汲みしないの、なんで?」。それは法律では縛れない社会的な性別役割、つまりジェンダーだ。これを乗り越える戦いはまだ続いてる。
エマ・ワトソンは2.5段階目の人だ。
女は、あるいは男は、男のあなたや兄弟や友人に言う(言われる)。「女より稼ぎが悪いなんて」「女より年収の低い男は結婚できないぞ」「男なのに趣味が生け花なんて!」。
日本はある程度、成熟した社会なのでフェミニズムが解決しこれから解決しようとしてる問題は上記二段階目、2.5段階目であるように思う。
ジェンダーによって苦しい男も女も(あるいはそれを甘受して変えたくない人も)いる。
追記)女性参政権を否定するほどオタクや弱者男性が愚かだとは思わないよ。あなたのフェミニズムの範疇がどこかは知らないけど、私は18~19世紀の女性文学にまつわるフェミニズムが範疇です。
追記)フェミニズムが当初問題とする事項が解決するにつれ、男女ともに性別によって社会的な役割が縛られていることがわかった、というのが私の解釈です(男の方が稼ぎがなくてはいけない、という役割から解放されれば弱者男性のなかにも恋愛から救済される人が出て来るかも)。フェミニズムのクライテリアが広がったので、femaleから
「女というだけで不当な扱いをしないでよ」っていうのは、「社会的弱者(この場合は女性)を不当な扱いしないでよ」っていう思想が背景に本来あるのね。ここで分岐するんだけど
本当にその背景を持っている→だとすると女性以外の社会的弱者も全部同じように救おうとしているはずなので、「弱者男性はわたしの問題じゃない」という言葉は自己矛盾している。
本当はそんな背景を持っていないで、要するに「女であるわたしたちの権利を増大させてよ」というだけ→それってただの自己利益誘導であって、倫理的な正当性を自ら放棄している。
もちろん「女であるわたしたちの権利を増大させてよ」と主張するのも行動するのも自由だしむしろ社会でサバイバルする以上当然だよ。けど、そう主張した時点で、他者の自己利益誘導を否定する根拠を持たなくなるわけ。それはすなわち権利というジャンルでの弱肉強食に同意したということを意味しているし、歴史的に見てこのジャンルの強者は成人男性であり家父長なわけだから、「女性の権利が少ないのはいままで権力闘争で負けたてきたから」ってことで「男性優位社会も家父長制も正しい」という主張も正当化される。すなわち、今後ずっと弱者の権利拡大は無理という結論が出て(だって強者は自分たちが強者で居続けるためのルール作りを現在保有の権力でするだろうから)お話終了になる。
つまり「女というだけで不当な扱いをしないでよ」っていうフェミニズムの主張は、それがどんなに険しく困難なルートであっても「世界のあらゆるジャンルのすべての弱者とともに戦い、互いに救い合いながら、不当な扱いのない幸福な社会を目指す」以外に正解がないわけ。
「あれはわたしたちの問題じゃない」と言った瞬間、フェミニズムってのは足元に墓穴をほって、ただの権利よこせ乞食になっちゃう。そういう性質を内包した活動なのよ。
そこがわかってるのが本来の賢いフェミさんで、それがわかってないのはただの権利ゴロなのよ。
Ps.エマ・ワトソンの演説はその意味ですごく良かったのね。「弱者男性の問題も切り離したりしない。彼らの問題はわたしたちの問題(フェミニズム)と地続きなんだ! 両方解決しないと真の解決ではないんだ!」って指摘した部分が正しかったし、素晴らしかったポイントなの。彼女の提案は実現レベルではおそらくほとんど無意味(そんなので弱者男性救われるわけない)だったんだけど、ただひたすらに「見捨てないことを表明したこと」に価値があるわけ。だから、あの演説に対する「素晴らしい」という評価も「でもそれ実現性も救われる人もゼロよね」という評価も、どちらも正しい。上記の文脈をおさえれば「見捨てない宣言」ってのがどうあっても必要だってのも、理解はできるはずだけれどね。
https://anond.hatelabo.jp/20170731152739
リベラルが言っていることを要約すると、「俺の個人的なことは個人的なこと。お前の個人的なことは政治的なこと」っていう話になる。
他人を批判するときには「個人的なことは政治的なこと」と叫びながら土足で踏み込んでくるのに、いざ自分が攻められる側になったら、「プライバシーの侵害だ」と騒ぎ立てるのがホントに糞すぎる。
エマ・ワトソンの個人的な恋愛について文句をつけるのが不当な言いがかりならば、リベラルはこれまでオタクに文句をつけてきたのを謝れよwww
エマ・ワトソンがどんな男に欲情しているとしても、それは彼女がプライベートでやっていることだし、差別じゃないって?
ふーん、そうなんだ。
だったらオタクも現実の女性に向かって、「お前たちはこの漫画のキャラクターみたいに男に媚びろ」とか、「レイプされたら喜べよ」なんてことを主張しているわけではない。それなのに差別だのなんだのと言われて文句をつけられるのは心外だ。
オタクがプライベートで楽しんでいるものに差別だのなんのとイチャモンをつけるのは、エマ・ワトソンのプライベートな恋愛について批判することと同じである。
ぶっちゃけ、リベラルやフェミが「オタクの性的嗜好は差別だ」という指摘をしてくるだけでも不愉快なんだが、それに加えてオタク側に改善・反省を求めるって、もう完全にセクハラじゃん。
まあ、人がリアルでやっている恋愛・セックスとは違って、表現物が批判の対象になるのは分かるんだけどね。それでも表現物の作成者・消費者に人格攻撃するのはセクハラになりうるし、もうすこし慎重になってくれよとは思う。
リベラルに言わせれば、エマ・ワトソンは自分の性的嗜好を恥じる必要はなく、堂々としていればよい。
それならばオタクが「男に媚びるような萌えキャラ」を愛好しているとしても、オタクはこの性的嗜好を恥じたり隠したりする必要はないのではないか?
もちろん、その結果として「男に媚びるような萌えキャラ」が公共機関とコラボするのだとしたら、それはまた別の問題となる。
だが、オタクにはエマ・ワトソンと同じ程度には自分の性的嗜好を開陳してみせて、そのうえで堂々と開き直ってみせる権利があるということになるのではないか。ポリコレもこの基準にもとづいて再考されねばならない。
エマ・ワトソンを批判している人たちは、最初からこの増田みたいな論調だったと思う。
それなのに、リベラルが勝手に、「エマ・ワトソンとセックスできないのは差別だと言っている男たちがいる! 頭がおかしい!」と誤読した。
ほんと、クソだわ。
https://anond.hatelabo.jp/20170802001234
ほんとそれ。
男らしさからの解放も、女らしさからの解放も、現代人はみんなが勝手にやっているじゃんw
女性が学校・職場で女らしい制服を強制されたり、就活のときに化粧が半強制になっているのは差別かなーとおもうけど、それ以外にどうしろっていうんだろう?
まさか男が彼女や妻にたいして女らしさを求めるのをやめろ、ってことか?
エマ・ワトソンがどんな男を選んでも自由なんだから、男がパートナーには若くて綺麗な女を選んだり、家事育児をやってくれる女を選ぶのも自由だわw
これが実現してたら、少なくとも個々のおっさんたちの生きづらさは軽減されてそう。極端な話、俺は違うって言ってもいいわけだし。
そうじゃなくて、外側から押し付けられた序列に従わされて最下層に押し込められてる理不尽さじゃないかな。
エマ・ワトソン的に言うのなら、「従わされる」状態=ジェンダー・ロールから一抜けしてもいいんだよ、ということだし
反論としては「従わせてるのはお前たち女だろ?ふざけんなよ」ということになるんだろう。
ここがいわゆる女性運動的な文脈とキモ金おっさんたちの決定的な相容れない点だよね。
女性運動は、20世紀以前に長く続いた男性優位社会のジェンダー・ロールから自由になろうというのが出発点で、
そのはじめにすでに「男性優位」という戦う対象があって成り立つ理論なんだけど、
男性の場合は、ジェンダー・ロールから自由になるためには、女に返還した力や金や選択権や諸々を埋める
新しい考え方を作ってかなきゃいけないから、女性運動よりもしんどそうではある。
だからついフェミニストを「戦う対象」と設定して、奪い返してやるという考えになる人が出るのも当然かもしれない。まーでも糞ではあるけど。
「黒人や東洋人が虐げられる映画は見ていて不快になるしやめたほうがいいよね」と
今更かよって感じだけど、あれは非モテが恋愛の何が欲しいのかってところを理解しないといけない
非モテが恐らく恋愛や結婚を究極の承認と見なしているであろうことすら分からないのなら駄目駄目だ
人の評価は間違ってるということを
人の評価を正すことや努力を減らし極力自然体で生きてもいいってのは
評価は括弧付きの動物的本能を超えて相対的に、そしてなによりフェアなるべきだというのが彼らの主張だ
んで、それに対して、努力しろよだとか社会に併合しろというのは
私はサンクコスト払ったんだからお前もやれよという横暴でしかない
そう言った態度は極端にいえば結局恋愛工学を肯定することになる
社会に併合し、努力するってのはシステムの一員たれということだし
エマ・ワトソンの周りにはセレブしかいないからエマ・ワトソンはセレブと付き合ってるだけなんだと言えばいい
セレブは歯の矯正する金も肉体改造に勤しむ時間があるからカッコよくマッチョなだけで
もし、あなたと私に交流があって気が合えば私はあなたの恋人だったかもしれないから
そして話し合いましょうと
ちなみに私はというと嫌々合コンにでて適当に話していたら恋人ができた、3度も
盛り上がろうぜという場所で黙ってるだけで出来るんだぜ恋人なんてそれもポンポンとさ
だから、余計に努力しろとか社会に併合しろとか、システムにハックしろとかアホらしくてしかたない
一応、非モテの皆さんにも理解して欲しいが恋愛は究極的承認ではない
あらぬ誤解で恋人になろうとする人もいるのだから結局スタートは自己満足で、恋人を選ぶのは相手への承認じゃない
それは確かに酷く加害的でどうしようもないことだが
社会の最下層に自動的に名づけられるもの、という定義は、少し乱暴な気がする。
昨日、キモ金おっさんを自称する増田がいたが、まったくキモく感じなかった。
キモ要素を除けば比較的シンプルな経済的弱者問題になり、罵りコミュニティであるはてな界隈ですら罵り合い要素などが減少するはずで、
例えば、キモくて金のないオバハンとはむしろ共闘関係が結べておかしくないのだが、キモ金おっさんは「いざとなればウレるくせに」と牙をむく。
エマ・ワトソン的なものへの憎悪の仕方も「お前はキモ金おっさんを選ばないくせに」というセクハラ混じりの悪態になる。
この辺が、「キモ」の発生源でありやっかいさがある。性的な社会階層というか。
社会的階層の最下層であると定義するには、キモくて金のないおっさんの3要素の意味を改めて考えてみる必要があると思う。
おっさん=可塑度・取り返しのつかない度
と、上記のようにに素因数分解し、其々の戦闘力を合計15点(各点5点ずつ。高いほど残念)と設定、
合計10点程度のおっさんAとおっさんBを、仮に勝手に作ってみる。これは架空のおっさんである。
このおっさんAとおっさんのBについて、それぞれ勝手に想像してみる。仮定の架空のおっさんなので許して。
すると、Aのおっさんのほうが深い問題を持っていそうな感じがしないだろうか。
金の無さが最下層でもキモさがマシであると、やっかいさが無さそうだし可塑性が高そうに見えたりしないだろうか。
本増田は、「キモ」が、キモ金おっさん問題の要諦なのではという仮説を立てた。
個人的には、コミュニケーション不全力、それから弱者男性と自己定義する割には過剰なプライドの存在が「キモ」の源泉じゃないかと思っている。
放っておいてくれというスタンスのおっさんは「キモ金おっさん」じゃなくて、「金ないおっさん」なので、ジャンルが違う(シンプルな経済弱者)としてもいいぐらいなのかもしれない。
ちなみに、本増田は、断言はしないが、容姿については「キモくて金ないおっさん問題」のあまり多くを占めていないのではと考えている。
見た目に難があっても性格が魅力的とかそれなりに稼いでるなどのプラス要素によって平穏な家庭を持ってる人は少なくないし、
自称キモ金おっさんたちの意見を読んでいると、おそらく彼らが手に入れたいだろう「旧来的なごく普通の家族」において
夫・父がイケメン、というのは、彼ら自身にとっては必要条件ではないと考えているのではと思ったので。
女性サイドがイケメン要素を求めてくるから悪いんだ!という怒り方をしている意見があるのが、逆説的だが証左になるのではと思う。
自らイケメンでありたいというよりも、市場の要請で仕方なくイケメンを頂点としたヒエラルキーの最下層に閉じ込められたと考えている一群がありそうなので。
したがって、容姿については、キモ・金・おっさんのどれかの改善でカバー可能な従属的要素だと考えている。
もちろん十分条件しては欠かせないのだろうが、それが「キモくて金ないおっさん」状態を解消・軽減するための必要条件ではないというか。
あの演説も「エマ・ワトソンが弱者男性に救いの手を差し伸べた」ってものじゃないでしょ
ただの「男女平等には男性も無関係ではないから協力しましょう」というあたりまえの提言だよ
「それでは俺は救われねーぞ」って
誰も救うとは言ってねーんだよ「自分の力で一緒に闘ってみようよ」って話だよ
自らの在り方を自らの手に取り戻すための運動でそれを他人に委ねてどうする
「でもエマ・ワトソンはいい男とばっか付き合ってんじゃん」って
いいんだよべつにエマ・ワトソンは男らしさや女らしさを評価することを否定してるわけじゃないんだから
それに囚われすぎることで苦しむことは辛いよねって程度の話だよ
「男らしさは女がそれを求めてるからだ」って
「じゃあやっぱりエマ・ワトソンは俺を救ってくれないのか」って
https://anond.hatelabo.jp/20170731152739
「個人的なことは政治的なこと」というフェミニズムの主張において、個人的なこととはpersonalであって、privateのことではないらしい。
原文はたしかに、"The personal is political."となっている。
で、具体的に何が違うわけ?
エマ・ワトソン関連で、クソフェミっぽい宇野ゆうか(id:yuhka-uno)というヤツが主張していたから、めっちゃ気になったんだけどさ。
フェミニズムでは伝統的に、personarlとprivateがどのように区別されてきたの?
本人に直接聞けばいいのかな……。知っている人、おしえてくれ。
「個人的なことは政治的なこと」という言葉のことを仰っているのだと思いますが、元の言葉は「personal」であって「private」ではなかったはずですが…
エマ・ワトソンが「男らしさ・女らしさからの解放」と言っていたけど、もう解放されているんじゃないの?
男は無理してまで妻子を養わなくていいし、女は結婚せずに仕事に生きることだってできる。
たとえば現代では男がナヨナヨしていたり、女がサバサバしていても、それは個性・性格ってことで許されている。
男らしくない、女らしくないってことを理由に、もしその人を差別したり、いじめが横行しているなら問題だと思う。
追記
LGBTを除くと、普通の男女はもう完全に"らしさ"から解放されているよね。