はてなキーワード: 漢文とは
人のこととやかく言えるような喋り方をネットの連中、リアルのジジババ、おばちゃん、アラサー、クソガキ、誰ひとりやってねえってことだよな。
ババァ共はいまだに太宰の文法真似ときゃ格好良くなると信じてるし、
アラサー共はバラエティとネットのキメラ見たいな喋り方だよな、
そんでガキ共は淫夢語録だったりVtuberの真似をしやがる。
お前らのその喋り方も十分気持ち悪いっての。
昔の日本の書物がなんでもかんでも文語体の日記だったり、漢文至上主義見てーのだったり、宮廷で流行りの和歌っぽいのを取り入れ匂わせだったり、そういうのが歴史的な観点外してみるとその時代ごとの流行りが丸出しで「無駄に特徴的すぎる文章ばっか」だってのは何も変わらんだろ?
ソレに対して「お前の文章wwwお前の世代滲み出すぎてるだろ(核爆)」とか言うのはなんか違うよな。
「黒人って唇分厚すぎるだろwwwwだからジャズで管楽器吹かせると上手いんだなwwwww」ってのとどう違うんだ?
いいか。
まあ時代によっちゃあ「兎にも角にも差別された奴の負け」ってルールの時代もあったな。
まあそれってつまりは生まれたままの知能、詰まるところは幼稚園児レベルの感性から変化してねえってことだけどな。
おっと俺もまた「子供のほうが知能が低い」っていう差別をしてしまったな。
これは年功序列が激しかった時代は単なる区別だってことになっていたんだが、今の時代は怪しいものよな。
どうだ?
漢文はそれ自体はそこまで重要ではないけど漢文の書き下し文が読めないと戦前の文章がほとんど読めなくなる。嘘だと思うなら終戦の詔勅でも読んでみればすぐ分かる。そして古文だけど、これの実用性は皆無。
それと世界中でエリートの素養として自国の文化を作った言語を理解していないといけないというのがある。ヨーロッパならラテン語、中東ならアラビア語みたいな言語はエリートはなんだかんだで一度は触れてるしそれなりに読めるし読めないといけない。そして日本では漢文や古文がそれにあたる。これが出来なくても日常生活では問題ないけど、これをやらないと世界でバカにされる。
アホくさいと思うけどあるものはしょうがないし俺もそう思う。でも文句を言ったところで改善するには世界革命でも起こしてエリートを抹殺するしかないんだからしょうがない。
漢文はそれ自体はそこまで重要ではないけど漢文の書き下し文が読めないと戦前の文章がほとんど読めなくなる。嘘だと思うなら終戦の詔勅でも読んでみればすぐ分かる。そして古文だけど、これの実用性は皆無。
それと世界中でエリートの素養として自国の文化を作った言語を理解していないといけないというのがある。ヨーロッパならラテン語、中東ならアラビア語みたいな言語はエリートはなんだかんだで一度は触れてるしそれなりに読めるし読めないといけない。そして日本では漢文や古文がそれにあたる。これが出来なくても日常生活では問題ないけど、これをやらないと世界でバカにされる。
アホくさいと思うけどあるものはしょうがないし俺もそう思う。でも文句を言ったところで改善するには世界革命でも起こしてエリートを抹殺するしかないんだからしょうがない。
”エリート”の水準に届かない人は、当然行かなくていい
法律分野に優れているなら一橋からでも中央大からでも法律の大家になれる
ここでは単にハクがつくブランドとしての東大を論じているだけだろうから、以下その話だが、
東大ブランド価値は、古文・漢文もサラッと理解するような水準の人が獲得すればいい
必死こいてレ点を覚えて、というが、高校レベルの教科書に必死にならないと届かないなら(教科問わず)、勉強は得意な分野ではないんだよ
その水準の人がブランド価値を手にしてどうするよ、社会も困るだろ
たとえば、法律に興味があって、東大を出て弁護士になりたい高校生がいたとする。彼らは必死こいて下二段活用やらレ点を覚えて、受験に挑む。受かったら数週間で綺麗さっぱり忘れて生涯思い出すこともないだろう。まぁ、百歩譲ってそれはいいよ。でも、落ちたらどうする? 他の科目は合格点に達していたのに、ただ古文・漢文ができなかったせいで、落ちたらどうする? 本当に法律が好きで、法律について学びたくて、東大に行こうとしたのに、全く関係ない「古文・漢文」のせいで行けない。
「"取り急ぎお礼まで"は失礼」とかいう急に出てきた謎マナーに対して国語辞書編纂者、飯間浩明氏の見解
https://togetter.com/li/1705695
こういうので夏目漱石とか古い例を持ってくるのは、ただ知識を振りかざしたいだけで間違いだからな。
そこで「夏目漱石もそうなんだ。ふ~ん、じゃあそれが正しいんだね」となるやつも鵜呑みにしてるだけか、自分に都合の良い例を肯定してるだけ。
明治と令和でどれだけ離れてると思ってるんだよ。
今どき「御座候」とか使わないだろ?
肯定するなら「御座候」も使えよ。口語じゃなく漢文使えよ。それが正しいんだろ?ってことになるよ。
なんなら平安まで戻って「ありおりはべりいまそかり」とか使うのかよ。
などという疑問を抱く時点で後れを取っているのだ。
自分語りをさせてもらうと、僕は幼稚園の頃から勉強ができたので、親族や先生や同級生からとてもとてもちやほやされた(客観的に見てどうだったかは知らん)。幼いころから勉強ができることのメリットを感じまくっていたので、勉強の価値を疑うということが無かった。勉強ができること、すなわち頭が良いことこそ至上の価値があるという一種の信仰を持っていた。刷り込まれていた、と言ってもいい。
それを刷り込んだのは教育に命がけだった母の影響が大きく、情緒不安定なところのある彼女は、普段は聖母のような包容力を示すことがある一方で、息子が勉強を疎かにすると神罰を下すのだった。小1の頃、「三角形の内角の和は180度なんだね~」と無邪気に告げたところ(褒められると思ってた)、「なんでそんなことも知らなかったの!」と、叱声とともに回し蹴りされたことは今でも根に持っている。
なんて書くと毒親!と思われそうだけど、普段は別に高圧的でもないし話もしっかり聞いてくれるしで良い人だったと思う。ただ本当に情緒不安定というか癇癪持ちだったので、飲食店での喫煙は当たり前だった当時に、隣席の喫煙者に喧嘩売って出禁になった、なんてこともある。突発的に他人に喧嘩を吹っ掛けることがままあり、子供としては気が気ではなかった。ただ、その怒りも母が隠していた病気によるものでもあったのだろう。病状が悪化してついに隠せなくなっても「受験が終わるまでは」と病院に行くのを渋り、父に強制連行されてはじめて末期癌だと分かった。母は教育に命がけだったのだと、心から思う。女子の大学進学率が20パーセントを切り、女性は勉強なんてしなくてもいいと言われていた時代に、母はその風潮を押し切って田舎から上京し、東京理科大学に進学した。両親は小卒、上二人の兄は高卒なので、突然変異の様相がある。
母の話が長くなったが、ともあれ勉強のできる層というものは、そもそも勉強の価値には疑問を抱かないものではないだろうか?もちろん面倒になってサボることはあるけれど、それは体に悪いと分かりつつ家系を食べるようなもので、勉強すべきという前提は疑いなくあるのである。疑問を抱く時点で後れを取っているというのはそういう意味だ。(なので僕の持論として、子供には就学前に漢字と九九を叩き込むことで、勉強できることで得られる優越感を早めに覚えさせることが重要)。
そのように当たり前に勉強をしていた層にとっては勉強する意義などそれこそ言うまでもないことだし、逆に意味などないという結論に至ることもまた自然だろう。
以上を踏まえて、そのうえで「なぜ勉強をしなくてはいけないのか」への答えを考えてみたい。その際に大きく分けて、(1)勉強の価値が分からない人(2)勉強の価値自体は分かっている人、それぞれに向けた答えを用意すべきだろう。このうち(1)については書いててアホらしくなったので割愛する。一つだけ言うと、知見が広がるとか知らないことが分かるようになるとか人格が陶冶されるとかいった答えはビール飲めない人にキレやらコクやら説明するぐらい無意味。
重要なのは、そもそもの問い「なんで勉強しないといけないのか」は多義的だということ。
すなわち(1)「なんで勉強(なんてものを)しないといけないの?」(2)「なんで(こんな)勉強しないといけないの?」の二つ。
これは勉強そのものの存在意義に疑問を呈していることになるのだが、発問者が勉強の価値は分かっているという前提を踏まえると、「大切なのはわかってるけど生理的に無理」という状態である。こういう状態のときは発問者に勉強の楽しさに立ち返らせるか、あるいはもう休ませるほかない。
この問いに関しては、「こんな」の意味内容によってさらに二つに分けられる。「こんな」が勉強方法を指す場合と、勉強対象を指す場合とである。
前者の場合暗記が代表例だろう。暗記にうんざりして勉強が嫌になるというのは一般的だと思う。それに対し僕なりに思うのは、九九を覚えていなくて計算できるか?単語を覚えてなくて文章読めるか?年号覚えてなくて歴史の流れ分かるか?ということ。数学の公式なんかがいちばん分かりやすいけど、暗記は発展的応用的な問題に取り組む際の補助ツールなわけで、全部一瞬で足し算出来たり文脈からあるいは語形成から意味を正確に読み解けるような天才でもないなら寧ろ感謝するべき。全く勉強方法というものは凡人でもなんとかついていけるように先人が遺してくれた財産なわけで、そのありがたみをかみしめましょう。
最後に後者。代表例はよく槍玉にあがる古文漢文。僕は古文漢文大好きなので、純粋に読んでて楽しいとか、一般教養としてとか言いたくもなるけど、まあ不要だと思うならやらなくてもいいんじゃない?友人に古文漢文を一切勉強せず東大行った奴いるし。ただ彼は数学と化学が河合偏差70超えてるような人間だったけど。ちなみに今になってやっとけばよかったと勉強している。
結局ずば抜けた能力のある人間なら、古文漢文やらなくていいし暗記にも頼らなくていいし、あるいは家柄が凄ければ内閣が立法府だと思っているような馬鹿でも総理大臣になれるわけだし、勉強なんてしなくても良いと思うんだけど、家柄が並みで親が資本家でもなくスポーツや芸術の才能も無くずば抜けた頭脳も無い凡人にとって救いになるのは勉強だよねってだけの話だった。
と言いながら結局この増田も米国では〜ということにのみ言及していて、中国やシンガポールやドイツやフランスからの視点をまるっと無視して完結しているのが、自ら「米国だけ見ている日本人」を体現していて面白い
中国の漢文化を広めようとしている〜とか的外れもいいとこだよ 中国人は中国製品の安全性に全く信頼がなくて外国製品の安全性を過剰に信頼してるし、イギリスのカツカレーの話は唐突すぎて何が言いたいのか全く不明
外交官や、オリンピックのような国際イベントのときには、海外の文化やスタンダードを理解しておく必要があるのはわかる。
米国発の製品やサービスをいち早く取り入れるのがステータスだ。
欧州に住んでライフスタイルを日本に発信するだけでお金になる。
米国に至っては、米国内の問題までも輸入するようになってしまっている。
米国から海外旅行に行こうかなと思ったときには、欧州が1番であり、中国であり、その次が日本だ。
米国に住んでいる日本人経由で情報が入ってくるので、日本食が流行っているように見えるが、向こうからすると、それほど意識していない。
サムスンが米国で逃れられているのは米国内で開発しているからだし、トヨタも同じだ。
日本人に刺さるのは日本人であり、日本人の上位国民を作っている。
一方で、日本から海外に向かっての発信は、思想だったりがない。
海外サービスを日本人相手に商売するのに使っていたら、なんとなく海外まで広まってしまったといったところだろう。
東アジアの人達が、ウケそうな物をパクるために日本に注目していたり、中国の漢文化を広めようとしているのとは異なっている。
ご飯に合う料理を求めて世界中を探すのであり、イギリスでカツカレーのご飯とカツの上下反対になりカツが下でご飯が上になっていても、多くの人はへーこうなるんだ、で済ますだろう。