2024-11-01

キャリアパスなんてクソくらえ。押し付けられた生存を捨てろ、今すぐ

と、こう書くと過激に聞こえるかもしれませんが、今の私は、確信を持ってこれを言えるようになりました。昔の私は、まるで迷路の中でキャリアパスというゴールを探し求める鼠のように、必死に進むことしかできなかったんです。

思い通りにならなかった「理想キャリア

大学生の頃、未来は明るく見えていました。周りが言う「立派なキャリア」「安定した生活」が手に入れば、幸せがやってくると信じていたのです。でも、社会に出た瞬間、私はその幻想いか儚いものかを痛感しました。理想現実ギャップに苦しみ、職場の過剰な期待と要求に押し潰されそうになり、次第に自分自分じゃなくなっていくのがわかりました。そこから鬱病が始まったんです。

この病気は私の世界を変えました。生きている実感がなくなり、ただ「何とか耐えている」だけの毎日が続きました。生きることが苦しくて、死をちらつかせることさえあったのです。通院を続け、薬を飲み、無気力な日々に追い打ちをかけるように、社会は「キャリアを築け」「もっと努力しろ」「もっと頑張れ」と命じてきます。それに従わなければ、何も価値がない、存在する意味がないとさえ思わされていたのです。

社会価値観に気付いた「違和感

けれども、どこかで「違和感」に気づき始めました。なぜ、誰もが同じゴールを目指して、同じように苦しんでいるのか。私たちの生きる意味価値が、どうして収入地位で決まるのか。この疑問は頭から離れず、心の中で次第に大きくなりました。

仏教に興味を持つようになったのもこの頃です。仏教では、「今の自分が本当の自分ではない」と教えてくれます私たちが抱える苦しみの多くが、社会や周囲から押し付けられた「こうあるべきだ」という幻想から来ているというのです。目から鱗でした。

特に無常」と「無我」という考え方に救われた気がしました。すべては移ろいゆくものであり、私たち自身もまた、固定された存在ではない。自分が「成功しなければならない」「立派なキャリアを積まなければならない」という固定観念から少しずつ解放されるようになったんです。

そして、Memento Mori

私がたどり着いたのは「メメント・モリMemento Mori)」、つまり「死を忘れるな」という言葉です。人生はいつか終わるものであり、私たちはその終わりを見据えて、今この瞬間をどう生きるかを考えるべきだという視点です。

多くの人は「キャリア」や「将来の安定」に執着し、必死未来を確保しようとしています。でも、「今この瞬間」が本当に大切だと気づいた私は、そこに人生意味があるように感じ始めたのです。死ぬことを恐れず、むしろ「いつでも終わらせることができる」覚悟を持つことで、私の中で生きることへのプレッシャーが軽くなりました。

「今すぐ死んだって構わない」というのは、決して自暴自棄気持ちではありません。むしろ、今ここにいる自分自由にし、どんな時でも自然体で生きる覚悟を持てたという意味です。

社会とどう関わるべきか

こうした考えに至った今、私は社会と一線を引きながら、自分に正直でいることができています。もちろん、社会の一員として働かなければ生活はできませんが、だからといって自分をすべて犠牲にする必要もないのです。「無理にキャリアを追わなくてもいい」「成果を出さなくてもいい」と言い聞かせ、自分らしい生き方を探すことで、自然と心の負担が軽くなりました。

いわゆる「普通労働者である私が、キャリアを追うことをやめて、ただ「ここにある今」を大事にして生きる。それは社会から見れば「やる気がない」ように見えるかもしれませんが、実はその方が、私にとって本当の意味で生きることなのです。

最後に:キャリアパスなんてクソくらえ

こうして振り返ってみると、鬱病と向き合い、苦しみ抜いた時期があったからこそ、今の私がいるのだと思います。「キャリアパスなんてクソくらえ」と言い切れるようになったのは、社会他人価値観に自分を縛られず、自分にとっての「意味」を探す勇気を持てたからです。

もしも、今を生きることに苦しんでいる人がいるなら、少しでも「メメント・モリ」を思い出してほしいと思います未来ばかりを追わず、今の自分に正直でいること。いつかすべてが終わることを忘れず、押し付けられた生存の重荷を少しでも降ろせるように、生きていくのも一つの選択です。

  • YouTubeの防災系や陰謀系ばっかりみてるとサバイバルしたくなるで これまでの悩みがどうでも良くなる 明日地震が来るんじゃないかという不安が先に来る 人間は単純

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん