昔の彼氏との思い出なんか聞きたくない。
苦言呈したら逆に怒られた。
その彼がいなかったら今のあなたはいないかもしれない。それはわかる。
だけど、そのストーリーをいちいち教えないで欲しい。
嫉妬しすぎだろうか。心狭いだろうか。
いやだから求職者って求職先の企業に対しては消費者じゃないでしょ、って話なんだけど…
力関係はともかく、少なくとも一緒に仕事をするかどうか互いに考えるという点においては対等なんだよ。どの程度身銭を切って心尽しをするか、企業によって差はあるが義務じゃねえよ。
私が好きなジャニーズのアイドルが出演するコンサートには「ファンサ」という文化がある。
それは「ファンサービス」の略で、ステージ上のアイドルがファンに、例えば手を振ったり、指差したり、投げキスしたり等の"サービス"を行うことを言う。
(ちなみに、この「ファンサ」は特定の個人に向けられる仕草を指す言葉で、辺り一帯のファンに向けたお手振りなどは「空気ファンサ」「エアファンサ」などと呼ばれ、ありがたみが一段どころか十段くらい落ちたものとされている。)
ジャニーズのコンサートと言ってもベテランから若手まで色々だけれど、このファンサ文化は色濃いものらしく、どのグループにも必ずと言っていいほどファンサをするための時間がセットリストに組み込まれている。
それは大体アイドルがトロッコに乗って会場のファンの座席近くを移動する曲のときで、トロッコに乗ったアイドルは目の前を流れるファンに、手を振ったり、指差したり、投げキスしたりする。
ツアー名に自分たちのグループ名を冠したデビュー組は、会場全部のファンを楽しませなくてはいけない(という建前)に対し、先輩グループの後ろで踊るジャニーズJr.は、自分のファンを増やすきっかけの一つとして積極的にファンサを行う。
…と言うのが、本題に入る前の「ファンサ」のざっくりとした説明。
本題は、「アイドルにファンサを求めるファンを心底バカにしていた自分がファンサを求めるようになってしまう」までの心境の変化だ。
これまで私は、コンサートにファンサを求めるファン(いわゆる「ファンサ厨」)に対して、
構ってもらえれば誰でも良くて大してそのアイドルのこと好きじゃないんだろ、
他のJr.に手厚いファンサもらったらさっさとファン鞍替えするんだろ、
薄情なやつらめ、と思ってバカにしていた。
コンサートでファンサを第一に求めるなんて彼らのパフォーマンスの足引っ張ってるようなものじゃないか、なんて憎々しくも思っていた。
自分は、ファンサなんてもらえなくても良い、ステージで精一杯ダンスしてるアイドルを見ているだけで充分幸せだし、誰かにファンサ貰ったからってサクッとファン止めるとか絶対ない。自分こそが"正しい"ファンだと思っていた。
だから、私はコンサートでもアイドルの名前が書いてある団扇は持つけど、「○○して」という要望を書いた「ファンサ団扇」的なものは持たなかった。
そんな私が変わったのは今年の春。
好きなアイドル、ジャニヲタ的に言うと自分の担当するアイドル=自担、が出演するコンサートツアーが始まった。
今まではチケットが当たった席でコンサートを観ていたけれど、せっかくのコンサートツアーなんだから自担がよく見える席に座りたい!と決意を新たにして、ここぞと思う場所を選んでチケットを手に入れるようになった。(チケットを定価以上で買っている時点で一般社会を生きる人間として一線堕ちたとも言える。)
自担がよく見える席とは、すなわち自担の視界に入ることのできる席でもあるので、だいたい公演の度に自担が私の団扇を見つけると、「あ、気づいてくれてる」と私が実感することのできる反応が貰えた。もちろん、それは私個人を認識しているわけではなくて、自分の名前団扇を持ったファンがいるな、という反応だけれども。
でもこれまでのコンサートでは、自担に気づいてもらうなんて発想はまったく無かったから、「こっち見てる!!!」って実感する衝撃はとても大きかった。
ファンサが手厚いアイドルはお手振り指差し投げキスに留まらず、エアハグとかエア壁ドンとかファンと2人で指でハート作ったりとかetc、もはやファンサ自体も一つの見せ場であるかのように張り切って色々見せてくれるので、そういうのに慣れている人から見れば私が喜んだ自担のファンサなんてファンサとも言えない仕草かもしれないけれど、でも喩えようのない嬉しさだった。
それは華やかなステージ上のパフォーマンスと同等か、それ以上の興奮で。
全国に何万人いるか分からないファンの一人でしかない私だけど、自担に私が応援しているということを知ってもらえる嬉しさ、あなたのファンがここにいると分かってもらえる喜びは、自己満足だけど抜け出せない快感で。
そのおかげで、今春のコンサートツアーの概要はほとんど覚えていない。
いつ自担が私の方を見てくれるか分からないから自担の視線から目を離せない。○○くんがバク転したというレポートを読んでも、そのバク転が会場の視線を集めている内にもしかしたら自担はこっち見てるかもしれないなんて思ったらよそ見なんてできない。豪華なステージセットも、今話題のJr.の活躍も、迫力ある大人数でのダンスも、全部観れてない。自担の視線しか追ってない。
これは"正しいファン"と言えるのか?と疑問が浮かぶようになった頃。
自担に干された。
「干され」とは、わざと自担にファンサしてもらえなかったの意で、私のように自担が私個人を認識していない状況ではわざとも何もないので、厳密に言えば「干され」と言うより、きっとただ単に気づいてもらえなかっただけなのだが、福岡も横浜もほぼ同じ席入って反応くれていたことを踏まえるとショックだった。
そして、自担に反応貰えたかどうかがコンサートの満足度に影響するようになったことを自覚した。
ただ平穏にパフォーマンスを観て自担のかっこよさに感動していた今までの自分とは違ってしまっていた。
もう"正しいファン"ではなくなっていた。
自担も、コンサートに出演している皆も、一回一回の公演に全力で臨んでる。
その努力と熱意のステージを目の当たりにしてもなお、自担が私に気づいてくれなかっただけで、そのコンサートは色褪せてしまう。
自担の気まぐれとサービスである「ファンサ」を何よりも望んでしまう。
これは、自分が何より馬鹿にしていた「ファンサ厨」ではないのか。
「○○して」というファンサ団扇を持たないことで自分はファンサばかり求めるファンとは違うと自負していたが、心の中では誰よりも「自担こっち見て!気づいて!何かファンサして!」と念じて会場に突っ立っている自分は立派な「ファンサ厨」ではないのか。
「アイドルがグループとしてどんなステージを魅せてくれるのか」よりも「自担が私にどんな反応をくれるのか」なんていう些細でちっぽけなことが自分の中で重要になっていく。
アイドルヲタクなんて、アイドルの夢に乗っかってばかりの自己満足でしかないけど、それにしても自己満足、自己完結過ぎる。私のファンサ欲を満たした所で自担の道はどこにも繋がらない。自担の道はファンサとは別の場所にあるべきだ。でも、私はファンサが欲しい…。
というファンサ沼に腰まで浸かったところで、ファンサに溺れて初めて気づいた悩みの種がもう一つ。
コンサートツアーで今まで反応を貰えてたのに初めて干されたことで、「応援すれば自担は喜んでくれる」という今まで信じてきたことが揺らいでしまった。もしかしたら、毎公演の様に視界にねじ込まれる私の団扇は自担にとって気持ち悪いものではないのか。自信を持って作り上げるコンサートは一人でも多くのファンに観てもらいたいのに、なんで同じ奴ばっかなんだよ!って憤っていないとも限らない…そう思うと、足がすくんだ。
もし次の公演でまた反応もらえれば「毎回同じような反応を求めるのは贅沢だし、スルーされる時もあるよね」と前向きに思えるけど、次も干されたら、「やっぱり私の応援は必要とされてないんだ!」って気持ちがメキメキ大きくなって、これまで通りに自担を応援できなくなってしまう。
コンサートで披露されるパフォーマンスも、自担の視線という局所的にしか楽しめなくなってしまうと同時に、自担に干されたら即ち自担は私の応援なんて必要としていないんだぁぁぁわぁぁぁん的な袋小路に突っ走ってしまう私は、きっとファンサなんて知らなかった頃より地雷が多いし、コンサートを楽しめてない。"正しいファン"が聞いて呆れる。
たった半年前までは、ファンサ厨は自分の幸せしか考えてないからファンとしての質が低い、くらい思って見下していたのに、自分がファンサを貰ったらその魅力にあっさり堕ちた。
そんな自分をとても情けなく思うし、この先ファンサを貰えなければすぐ「自担にウザがられてるかも...」と疑心暗鬼になってしまうし、何より自担に気づいてもらえる席を買い続けるお金のことを考えると頭が痛い。ファンサ厨なんて自縄自縛の沼だ。
でも、もう戻れない。自分がいることを担当が気づかない席でコンサートなんか観たくない。
時間は不可逆で、自分がいることを気づいてもらえた瞬間の興奮を味わってしまったら、その瞬間が無いコンサートなんて気の抜けた炭酸だ。
こうしてファンサ厨が一人できあがりました。
http://anond.hatelabo.jp/20150622205638
これも2ちゃんねるでよく言われるけど
派遣先が人を取捨選別して採用可否決めたりしているしこの理屈は通用しないよな~
採用後の待遇や契約更新可否もほとんど派遣先による影響が大きいし
2ちゃんねらがテレビ番組ディスる時にテレビ局だけじゃなくてスポンサー企業にも突撃するのと同じ
ケースバイケースだけど派遣先も巻き込んで交渉した方が有利ならそうすべし
霞ヶ関で働いてるんだけど、経済産業省前で毎週ドンドンドンドン太鼓叩いている人を見る。
経産省とか財務省は下手したら終電後まで働いているのに、よくもまぁ毎週遊びにこれるよなぁと。
彼らを見ているから、僕の中ではデモをする人=暇な人 という認識。
生活保護もらってそうな外見の人も多くいる。
プライベートには踏み込まず、皆適度に距離を保って淡々としている職場に、新しく入社してきた人。
結婚しているのとかどこの保育園に通っているのだとか、プライベートなことを
躊躇なく聞いてきて、戸惑っている。
そういう話したくないんだけど、と言ってしまうと角が立ちそうで、
でも必要以上にコミュニケーション取りたくないと思っている自分がいる。
いや、必要な人もいるかもしれないけど、せめて爪楊枝無しの割り箸を選べるようにしてほしい。
理由は怪我をするから。捨てるとき、そのまま捨てても折って捨てても、紙袋やビニール袋を圧縮するとき破って飛び出てきて、自分が怪我をするかもしれないし、清掃員や子供が怪我をするかもしれない。
製造現場でも爪楊枝を入れる工程を無くせばもっと効率的になるし。
なんで爪楊枝入ってるのが基本なの?
大したこと書いてない俺のTwitterが、ここ3カ月ほどで15人くらいにぼつぼつフォローされてる
誰に監視されて陥れられようとしているのかこわい
まあそこからスタートして、持つ者は持つことによる限界を、持たざる者は持たざることによる限界を、智恵と努力で克服しようとする姿勢と営みが人間の本質だよね。
人間とか言ったって所詮は動物の端くれで、原始的な力の支配下にあるんだから、神のような崇高な精神の中にあるのが人間、みたいな思考は、人間だと勘違いしてる飼い犬のように滑稽で愚かしいわ。
でもまあ、だからこそ愚かな人間は愛くるしいんだけども。愚かな犬コロのように。
不満と嫌悪と怒りの中にこそ、嗜癖することを耐え難い刺激が存在することに、気付かずとも本能が反応するからこそ、犬コロ達は引き寄せられるように憤懣と戯れる。
恐らくいつも通り円山公園から出発して四条を通り河原町を上がっていくのだろう。
ゴールは三条大橋下かあるいは市役所前広場辺りか。子供の頃から見慣れた光景だ。
彼らの主張する内容もまた聞き慣れたもので、戦争反対、安倍辞めろ、その他諸々、駅前で毎日共産党が叫んでいることと大して変わらない。
変わることと言えばやたらポップな雰囲気を醸し出していることといつにも増して大人数であることくらいで、四条河原町を封鎖して市民の足であるバスの往来が出来なくなるのも、外国人観光客が興味深げに写真を撮るのも普段と同じである。
その点だけ抜き出せば祇園祭とそう変わりはなく、この形態があと1100年ぐらい続けば時の京都市が伝統的無形文化遺産として指定するかもしれない。
それはそうとして。
実際、彼らが主張すること自体に対しては何の不満もない。
そもそも言論の自由は何人にも保証されており、彼らの口を封じようとする勢力とは断固として戦わねばならない。
僕個人としても立憲主義プロセスを無視しようとする現政権に対する不信感は非常に強いし、安倍晋三という政治屋ボンボン三代目がまともな政治家であるとも思わない。
しかし。
果たしてこの現代版踊り念仏が政治指向を持たない人々の心に響くかどうかは怪しいと言わざるを得ない。
理由は簡単だ。
「迷惑」と「聞き飽きた」。
ただでさえ混雑していた四条が行政の手で更に渋滞するよう作り替えられたのは記憶に新しいが、それに加えてデモによる道路封鎖が起こると四条だけでなく烏丸や川端、果ては堀川辺りまで波及する。
『主張しはんのは勝手やけどせっかくの休みやのに他人に負担掛けてまでやらんといて』と。
その時点で彼らの耳に主張は届かなくなるのだ。
これが良いことであるとは僕には到底思えない。
重要なのは政権批判そのものではなく、政権批判を行う仲間をいかに増やすか、であるはずだ。
左派には民主主義、国民主権を叫びながら国民に主権があることを忘れて政権そのものと戦おうとする人が多く、その点ではいわゆるネトウヨの方がむしろ主権者たる国民に向けて語っているのではないかとさえ思う。
『○○人はこんな悪事を働いてる!』というのは政権ではなく民衆に向けられた言葉だ。
この違いこそ日本のリベラルと呼ばれる勢力が弱い理由だと僕は考える。
より深刻なのは「聞き飽きた」ということだ。
彼らは先述のようによく政権批判の演説を行っているがこれがむしろデモの主張を陳腐化させているように思える。
またこの手の奴か、と。
普段から聞き慣れた言説に『多くの人が集まっているから』という理由だけで耳を貸す人間がどれだけいるだろうか。
これが大人しい田舎なら話は別だ。
ただ大規模なデモを行えばそれだけである程度衆目を集められるだろう。
その解決策は僕にも分からないが、飽きられているのは確かだと思う。
こんな風に書くと「典型的スノッブ京都人」扱いされるのかもしれないが、今回敢えて書かせていただいた。
重ねて言うが、僕は彼らの主張にもその内容にも文句はない。
と言うより京都は一種のアジールでなければいけないし、地方のサムライ・マチズモに由来し明治以来続く国内外に対する植民地主義に対抗する存在でなければならない、と強く思っているので、こういった主張はどんどんしてほしい。
しかし、主張する人間が自ら居場所を減らしているのではないか? と感じるのである。
報道によるとこのデモは若者が主催したもので、この日は2000人を超える人が集ったと言う。
彼らの心意気に敬意を表すると共に、彼らの心意気が無駄にならないことを祈る。
胸に液状の鉛が溜まった感覚と、吐息にスピリチュアルなものが混じってる感覚で理解するが鬱が来た。
毎年記憶する限りでは7月くらいに来るけども、今年は体内時計が狂っているのか暑くもないのに鬱が来た。
楽しかった趣味も今は視界に入れたくないし、ゲームも初めて10分持たない。
歩いてるといつでもその場にしゃがみこみたくなる。
そもそもこの文章すら完結させる自信がない。
平日は仕事から帰ったらベッドの上から動けないし、休日もベッドから動けない。
理屈で割り切れるものより感情が追いつかないものの割合が増えた。
これまでは単位とか研究とか仕事とか人間関係とか、具体的に自分を押しつぶすものがあったのに今年はそれらが全てない。
全てないとどうなるかというと、理由もないくせこれまでどおり心が苦しい。
お前どうしたいの?って自分の心に問い詰めたいけど、そんな辛く当たったら心がしょげるのでどうしようもない。
どうせ一月待っとけば躁がくるから、これまでどおりただ漫然と時間がすぎるのを待つことにしてやろう。
尿管結石と一緒だこんなもん。
「どうせ勝つんだろ」と思ったらネタバレした状態でミステリ読んでるような気分になる
男だけど某スマホゲーのCMを見てると、女の子を愛玩動物みたいに扱っているように見える。
あのゲームの世界では、女の子を危険な目に合わせて、その報酬が頭を撫でるだけ。
これって割に合わなくないか?というかブラック企業と同じことしてなくないか?
戦争ならなんでもいいってわけじゃない。
今やろうとしてる戦争は底辺をコマに使って上層部だけが潤う戦争。
格差解消どころか拡大する。
とっくにお役御免になってるのに「先生」「先生」呼ばれた日々が忘れられないんだよ。可哀想な職種さ。教師やめると、違う分野で1から生徒として生きるか、元教師をいつまでも引きずって生きるかの二つになる。
初めての家電量販店かあ。
記憶に残ってるのは、親と一緒に行って、ドラクエかフラッピーを買うかで
すごい混雑した店内で迷って、結局フラッピーを買ったことだなあ。
土曜日発売で授業終わってすぐに買いに行ったが売り切れてたんだよな。
んで結局近所のデパートのおもちゃ売り場で定価で買ったんだったな。
FFIIIも手に入らないだろうと思って近所のおもちゃ屋で予約して定価で買ったが、
たくさん作ったからかふつうに量販店でも手に入ったと聞いた気がする。
メガドラ持ってなかったけどいつかファンタシースターIIはやりたいと思ってたときに、
雑誌に一回乗り換えないと行けない量販店に2,000円くらいで売ってるって情報が載ってて買に行ったけど、
売ってなかったんだよな。東口とか西口とかの店舗が違ってたんだろうか。
結局ヴァーミリオンを2,000円くらいで買って帰った。
戦争法案だ!という批判がアホくさいのは、戦争=悪という前提で発言しているからだ。
しかし、戦争はそもそも悪なのか?戦争が悪でなければ戦争法案というレッテル張りは批判足りえない。
ここで思い出されるのはピケティの資本主義の歪みが外的要因=戦争で解消されるという論である。
現代日本において格差はもはや行き着くところまで来ており、この社会は崩壊寸前だ。
格差によって未来を奪われた底辺層が日々絶望し、憎しみを募らせて暮らしている。
底辺層を救い、日本にかつてのような活力を取り戻させるには格差の解消=戦争しかない。
つまり戦争は悪どころか、日本を救うための銀の弾丸でり、善である。
もし、安倍ちゃんがやろうとしていることが憲法違反であり、戦争法案の作成であるなら、
日本人はそのことを歓迎し喜ぶべきだ。戦争だけが日本を救うのだから。
いやしかし、これを書いてて思ったけど、