はてなキーワード: 探究とは
NHK クローズアップ現代の『どう教える”放射線”』にて、放射線に関する出張授業を取り扱っていた。
「アルファ線がヘリウム原子核のこととは知らなかった(意訳)」とインタビューに答えていて、
「おいおい、教師が教える内容を知らなくてどうするよ!?」とツッコミをいれたくなったが、ふと考えた、
(あれ?中学の理科で原子核とか放射線って習ったっけ?もしかして、高校では?)と。
学習指導要領を見ると、案の定、中学ではあくまで「物質は原子からなる」レベルの話しかしておらず、
高校になって
理科総合A「原子力に関連して,天然放射性同位体の存在やα線,β線,γ線の性質にも触れること。」
物理II「光や電子の波動性と粒子性,原子や原子核,素粒子における現象を観察,実験などを通して探究し,量子的な考えなど基本的な概念や原理・法則を理解させる。」
と定めているに過ぎない。
いやいや、これまずくないか?
高校生が通常のカリキュラムにおいて、放射線のことを学ぶ機会は理科総合Aか物理IIしかない。
自分が高校の時、1年は総合理科B(生物・地学)が必須で、2年から文系理系に分かれ、理系科目は物理・化学・生物・地学からの選択だった。
現在の一般的な高校も同様のシステムとすると、「理科総合Aを受けさせない高校に通っている、文系高校生または物理IIを選択しない理系高校生」は放射線に関して、中学生と同程度の知識しかない(=冒頭の教師みたいに原子核云々を知らない)ということだ。
うわあ、これじゃあ放射線に関するパニックが広がっても仕方ないわ。
「放射能が染る」とか言っちゃう人が出るのも当然だわ。
今なお、商店街に店を構えていたり、住居として住んでいる人たちは、生存戦略の勝者なんよ。
商売していなくても生きていける。
ある意味勝ち組なわけで、そんな選ばれた人たちが、腰を低くして商売を続ける理由はあまりない。
生存戦略として、大手のフランチャズに加盟して、コンビニに転身した酒屋もいたし、郊外のロードサイドやショッピングモールに出店した本屋や靴屋もいたし、何も手を打たずに倒産して、街を出ていった人もいたし、それぞれが生存戦略にしたがって、行動した結果が、今のシャッター街だったり、歯抜けの駐車場だったりするわけです。
そこを活性化するとかいっても、どちらかというと勝ち組の地主さんしか残っていないわけで、その人にとっては、今の状況が一番収益が高くて手間がかからないのだろうし、新しいことをはじめるだけの探究心が残っていればいいのだろうけど、一定の年齢以上では無理でしょう。
個々の家とか店から見たら、今の状況は必然的な成功だけれども、駅前とか街の中心地に公益性があるとしたら、失敗なんだろうなと思います。
自由意志を持った蟻は
今日もせっせと砂を運び出す
巣を広げるために
小さな顎で砂を咥えて
せっせせっせと働き続ける
自由意志を持った蟻は
時にはふらりと旅に出る
灼熱に熱せられたアスファルトの上を
大きな影がどしんどしんと踏み鳴らす風景の中を
ふらりふらりと旅に出る
食物のために
帰り道もわからないまま
ふらふらふらりと旅に出る
自由意志を持った蟻は
何でもできると信じている
溢れんばかりの探究心で
希望と夢とを見上げている
恐ろしい敵にも
辛く苦しい悲しみにも
みんなで立ち向かって
みんなで分かち合って
巣の繁栄を結実させている
何でもできると信じ切ったまま
果敢に勇猛に
生きて生きて生きていて
今日もぐっすり眠っている
すでにレスにもあるけど、それはあなたが「あなたのことを好きじゃない」から。
たまに、「あなたのことを好き」な人がいても、あなた自身が「あなたのことを好きじゃない」ので、その人とは、気が合わない。「あなたのことを好き」なんて、おかしい、趣味が悪い、と思う。
だから、「あなたのことを好き」と言ってくれる人がいても、その人のことを気持ち悪くなってしまう。
また、あなた自身が「あなたのことを好きじゃない」から、「あなたのことを好きじゃない」人とは気があう。憧れる。好きになる。
あなたが好きになる人は、必ず「あなたのことを好きじゃない」。常に片思い。
解決法としては、あなたが「あなたのことを好き」になるしかない。好きになれるような理由がなくても、無根拠に「あなたのことを好き」になるしかない。
もしかして、あなたは親に「ダメな子」と言われて育ったのかもしれない。そのため、自分はダメだなあ、こんな自分は嫌だなあ、と思うようになったのかもしれない。
それでも、少しずつ、「あなたのことを好き」になるように努力すること。そうすれば、「あなたのことを好き」な人と気が合うようになります。
というのはいかがなものでしょう。
ささやかかもしれないけれど、なにか新しいものをつくるだとか、そうでなくても製造工程を見直して製造効率を高めるというだけでも、すごく立派なことだ。
事故なく発電所が稼働してくれてることで、こうして夜更かしだって出来る。
教育機関の中では、特に大学では、アカデミズム至上主義がある気がします。
現在教鞭をとっている人間のほとんどは、高等教育機関から高等教育機関の教員になった人間で、アカデミズム至上主義から一歩も出ていないことがほとんどです。
一方、民間企業に勤めると、利益至上主義の洗礼を受けたりします。
金があれば幸せか?
人望か?
よき伴侶か?
答えなんかないんです。
「戦後半世紀、日本の社会は「教養」という概念の意味を創造することができなかった。この文化的空隙に乗じて、教養とは専門のための準備であり、予備であるという間に合わせのその場しのぎの解釈が流通して、大学のカリキュラムの予算の基本となり、時には人事にまで影響を及ぼした。しかし、このいかにも官僚的事務的な解釈はもう廃棄すべきであろう。それに代わって、教養と専門との関係を知識と意見という観点から眺めてみてはどうだろうか。つまり、専門的知識の探究が専門的研究の仕事であるのに対して、意見の形成や鍛錬が教養の意味だと考えるのである。もちろん、意見の形成や鍛錬にはその主題について十分な知識が必要であり、その知識は専門知識のストックから供給され修得される他はない。・・・そうだとすると専門と教養の関係は従来の解釈の場合と逆転する。教養が専門への準備なのではなく、専門知識が教養のための準備なのである。(略)。
・・・
その[教養]の訓練とは第一に、できるだけ多くの意見に接してそれを理解し、批判し、比較する力を養うことであり、第2には、できるだけ多くの主題について自分自身の意見を形成し、それを明確な言葉で述べることである。教養とは物知りになることではなく、優れた意見を持つことなのである。そのような訓練はかつてレトリク(修辞学)と呼ばれて中世西欧の学校では全人的教科とされていたと聞いている。実際現代でも、自然について、歴史について、人間について、科学について、宗教について、税法について、脳死についてと人生全般についてバランスのとれた意見を持つことこそ全人的な教養の意味ではなかろうか。その意見を単に漠然としたフィーリングであるのではなく、自分の胸の底から言葉で述べることができ、討論することができ、あわよくば説得することができる意見でなければならない。つまり、意見とは実は「思想」であり、言語こそその思想の中核なのである。」
参照Url
Q.マンホールが丸いのはなぜか
Q.同じ大きさのボールが8つある。そのうち、7つは同じ重さで、残り1つはほかより少し重い。この中から重いボールをどう探す?使っていいのははかりのみ、ただし、2回しか使ってはいけない
A 落下防止
B 3個 3個の重さを比べ 重かった方を 1個1個で天秤に比べる 均等だった場合は 残った物を重いとする。
「なんでそういうことを聞くんですか?」
という発想にはならないと思うが?
A.地球上では3次元空間の空間ひずみが0であるから。 = どの3次元空間上でも物が大きくなったり小さくなったりしないから
=ブラックホール近くでは物の形が変わる可能性があるが、それを考慮しなくて良いから
A. 1回で十分 2つの皿が付いた天秤という指定ではないので、8個の重さを個別に同時に量れるはかりを作ればよい。
という程度の回答を求められると思うが?
人間の心には、混乱や脅威をもたらす刺激から、自分を守ろうとする働きがある。こうした心の防御機構があるために、私たちは、一見、混沌とした印象をあたえるこの宇宙の中で、秩序感を保ちながら生きることが出来る。人間の脳は、毎瞬毎瞬、諸々の刺激に曝されている。膨大な刺激が生み出す情報を処理するとき、脳はまず日常生活の中で馴染みのあるものから処理していく。
しかし、日頃は接することのない新しい刺激に曝されたとき、脳はどう対処するのだろうか? 脳はそれ自身にとって馴染みのある現実の枠組みに沿って情報を処理する。そのために、脳にとって「異質」と見なされる情報は、後々の処理と分析のために、まずは潜在意識に入れられる。しかし、こうして潜在意識に入れられた情報の大半は、そこに保管されたまま決して顕在意識には送られない。顕在意識が日常的な現実への対応に追われて忙しいために、潜在意識にある情報に注意を振り向ける余裕が無いからである。
人類はこうした現実認識の仕方を、過去何千年にわたって続けてきた。実はそれによって、私たちは数多くの新しい体験に気づく機会を取り逃してきたのである。
異質な情報に出会うと、人間の脳はその情報をすぐに潜在意識にしまい込む。自我はそうした体験が起きたことを受け入れようとしないのだ。もし人類のこうした情報処理の仕方が、今後も変わらずに続いたとしたら、私たちはごく限られた現実の領域の中で起きる出来事だけしか自覚できずに生き続けることになるだろう。
脳は、それ自体に混乱を与えるデータを隠す術に長けてるとも言える。異質な刺激を防ぐための脳の防御機構とは何か?
異質な刺激や情報に接したとき、私たちは理由のない不安に駆られるなどの、無意識レベルの抵抗を味わう。不快感を伴なう感情的な反応は、「心の奥深くにあるものを探りたい」という私たちの探究心を阻む赤信号のような働きをする。もしこうした妨害さえ無ければ、私たちは心の深部の探求を通して、数多くの驚くべき発見をするだろう。
私たちの心には、自我のレベルでは自覚できない無意識の抵抗が数多く潜んでいる。それらは、私たちが大いなる現実に心を解き放つことを妨げる「心のなかの壁」である。
関連:
モンスターの正体:
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/07/post-5989.html
きっかけは、暇でやる事無いから楽器始めた。
当時家は遺産で揉めてて、リアル昼ドラみたいな骨肉の争いだったのだけれど、それは大したコトじゃなかった。
そっちの揉め事より、自分の鬱屈した感情・憂鬱としてるコトの方がなんとかしたかった。
ゲーム、漫画、映画etc・・・。インドア系ばかり好きだった自分にとって、当時音楽は憂鬱を解消する救いであり、向上心、心の拠り所だった。
誰かが言ってた「宗教」みたいなもの、それに近かった。
でもかなりの下手糞。だから、思いっきり練習した。カッコ悪いし。
「演奏技術を高めよう」「もっと音楽として聴けるものに近付こう」「オレは不細工だしコレしかない」
そんなコト思いながら、学校から帰って22時ぐらいまで練習の日々だった。
良く聞く、一晩寝ずに練習とは自分は違った。
血豆の数が嬉しかった。血豆が破れた時の風呂は痛いけど楽しかった。
あぁオレバカだったんだなって思えて笑ってた。ここで初めて心から人生って楽しそうと思えた。
要領がいいヤツなら、これと並行して学生生活もエンジョイするのだろうけど、バカだから練習漬けだった。
脳内も音楽漬けで、通学時ウォークマンの電池が切れたらイライラしてた。替えの電池パックに感動してた。
でも幸い彼女は出来た。バイトもやった。今思えばアレはアレで良かった。
当時、闇雲に色んな曲をコピーした。自分の技量に見合った曲、見合わない曲。見合わなかったら練習した。
好きと思えたらなんでもやった。ジャンルも良く分からなかったので本屋行ったりして、子供の発想で色々調べた。
その過程で音楽から色々な考え方、テーマ、歴史、感情を学んだ。今でもアレは良い経験だと思う。
Alternativeからは追求する精神を。
PoPからは聴きやすさの基準を。
Glindcore,ska,GAME…(略)
上みたいに、あくまで自分の目安で色々なジャンルを漁っていった。
そのままコレで飯を食うと決め卒業し、現実の壁を実感しながらも、バイトしたり派遣したり、会社に入ったり色々バカやって歳をとった。
だが歳をとるにつれて練習量も減っていき、音楽に対する探究心が薄れていった。所詮若気の至りかと。見苦しいけど続けた。
そういう人脈もか細いが増えた。
そして今、また転機に差し掛かっているが正直なところ疲れた。
贅沢なコトを・・・という自覚はある。
でも疲れた。
なぜそんなくだらない遊びにハマり込んでしまったんだ?
答えは簡単だ。自分自身で確信できる考えを持てないから、他人を否定しないとアイデンティティを保てない。
独力では確信できる考えを持たなくても、他人と建設的な話し合いを通じて盲信に近い確信を得るくらいなら出来るはずで、
そのあたりで妥協している人間も少なくないんだがな。
ところがオマエはそれさえも捨ててる。
自分で考える喜びもなく、他人と建設的に話し合う喜びもなく、必死に他者を否定するだけのマシーン。
真理探究が主目的ではなく、他者との良く言えばディベート、悪く言えば重箱の隅つつきが主目的なのだとすると、
そういった遊びはひどくパターン化されており、そこから理解の深化が得られるとは到底言い難い。
本来のディベートは双方が事前にきちんとデータを集め、理解を深めてこそ成り立つ。
行きずりの他者の意見に議論をふっかけたところで、得られるものはたかが知れている。
自分で考えて確信に至れるかを問題にしてるのだから、主体的という言葉の意味には当然、
オマエの言うような「主体的に真理探究を捨てる」ということは含まれないのだよ。
.
こういう、感情的反応に左右され過ぎて、素直な受け止め方ができなくなってる人間が非常に多い。
それは何故かというと、自分が(借り物にしろそうでないにしろ)何らかの価値観・思想・行動規範に属しているという
帰属意識が過剰にあって、中立的な立場で外部からの情報を受け止めることが出来なくなっているからだ。
自分の属する立場と反する考えを言ってる人間が現れると、意識的にしろ無意識的にしろ敵であるとみなす。
だが、真理探究という立場からすれば、向かいあうべきは、対立する立場の人間ではなく、真理なのである。
向かいあうべき方向が狂っている、ということになる。
.
一応念を押しておくが、だからと言ってオマエのその生きる姿勢を全否定しているわけではない。
ただ、あくまでも一つのヒントとして言っておく。それでは苦しいだろうと。
「敵」に向かいあう前に、じっくりと真実と向き合う時間を取ったほうがよっぽど有意義だし心も落ち着くのに。
そのことをよく考え直してもなお、借り物のほうが楽というならあえて止めはしない。
それくらい真実と向き合うのは難しくて苦しいことであり、一部の選ばれた人間にしか実践しにくいところがあるのは確かだ。
一度向き合ってしまえば、以降は楽になるから勧めてるんだけど。
自分で物事を考えられない人間は、より所にする価値観・思想・行動規範を外部に求める。
ネットメディアはテレビ・新聞といったメディアと違って、大衆に多様な価値観・思想・行動規範を与えた。
多様性というと聞こえはいいが、要は自分に都合の良い価値観・思想・行動規範を、自分で考えるまでもなく入手可能になったということだ。
ネットで検索すれば簡単に自分に都合の良い考え方が手に入る。簡単に借り物の人生が歩めるという寸法だ。
借り物の人生を一度選択すると、そう簡単には元に戻れない。
自分の足で立つことも出来ないような人間が、いまさらネット無しで生きていけるだろうか?
これがまさにネットメディアの負の側面なのである。
.
よくよく考えてみてほしい。
自分でものを考えられる人間であれば、わざわざ価値観・思想・行動規範を借りずに済む。
たとえネットからヒントとなる情報を得るにしても、最終的に考えるのは自分自身だ。
そういった人間はごく一部、比率で言えば、1/1000以下の人間が自分の頭で考えられる側の人間だ。
思考力の優れた人間は世の中にたくさんいるが、自分で考えられるかというのは実は別問題なのである。
いくら緻密で的確な論理を展開できる人間でも、しょせんは借り物の知識と哲学にとどまっている人間も少なくない。
自分で考えられる人間というのは、そういう人間たちとは一線を画する。
つまり、自分で考えて確かめ、自分自身の考えに確信を持てるかどうか。そこに違いがあるのである。
.
確信と言っても盲信ではない。盲信というのは、しょせんは自己欺瞞である。
自分の中ではある程度間違ってそうな気もしてるにも関わらず、「考えるのめんどくさいし、間違いを認めるのが怖いから、正しいってことにしておこう」
と考えて、自説を頑なに信じ込もうとする。それが盲信である。
確信というのは、盲信とは違って、自己暗示なしに疑いようもなく素直な気持ちとして正しいと信じられるということである。
もちろん、100%正しいと信じていなくてもよくて、高確率でもっともらしいと信じているという意味である。
.
そのような確信を、自分自身の考えに対して抱ける人間が果たしてどれくらいいるだろうか?
これは自信家であるかという問題ではなく、個々の考えに自信を持っているかという問題でもなく、
秘仏(数十年に一回、仏像を一般解放する)見学しに山奥へいったりだの
面白い仏像についての語りイベント会へ参加だの、確かにアニヲタとなんら変わらないんだが
だってヤツラは仏像に対して、けいおんの唯萌え~なのを抱ける人種なんだから。
知的探求心が俗に言う境目なんだろうとは思う。
例えば仏ヲタは仏像を見て、これいいわと種類(何の仏か)や年代、
なんで並べられているか(配置、仏像同士のの関係性)を調べる。
これはアニヲタがキャラのプロフィールや関係性、別作品との関連を調べるのとなんら変わりがないんだけど
対象が歴史的価値や学術的資料価値のあるものだとサブカルヲタで、対象がそうでないとキモヲタになる。
この「知的探究心レベル」「学問的価値」が高尚っぽさがサブカル扱いにされてしまうんだろうが、
高尚でもなんでもない。
勿論中にはサブカルを高尚だと思っている人はいるだろうけど、今の社会では
アニメと仏像では後者の方が「知的探究心レベル」「学問的価値」が高いだけで。
・ネットでアクセスするサイトといえば、2ch、エロサイト、そしてオンライントレードである。
・他人に干渉されず、ひとりで売り買いできるデイトレードの気軽さがいい。
・株式投資・FXのシステムは公営ギャンブルより勝っている点が多い。
・市況板を開いた瞬間に襲ってくるノイズの嵐に気合が入り、銘柄選びに集中する自分に武者震いがする。
・自分のことを心配する身近な人に、「プラマイ0か少し勝ってるくらいかな」などと言った。
・しょっちゅう負けていても、今日勝てば気分が良い。
・弱気になってる時に大当たりするとほっとするし、諦めずに頑張った自分を誉めたくなる。
・自宅は冷房がよく効いているので、一仕事した後もぐっすりだ。
・金融業の黒い噂を聞いても、ちゃんと大当たりするから気にならない。
・負けたから泣きつくのではなく、次に勝つために借りるのが消費者金融の正しい利用法。
・連続して大負けしても、長期的にみれば取り返すことは可能である。
・勝ちつづけるには、探究心・向上心、時間と資金の他に、投資のための学習才能に目覚めなければ駄目だ。
・株・FXでの「儲け」は決して運によるものではなく、実力で勝ち取った立派な「稼ぎ」だ。
・自殺しそうな若者や、社会適応できないニートこそ株・FXを一度やってみるべき。
・自分のお金で金融業界の高給取りが生活できていると思うと、誇らしく優しい気持ちになれる。
・市場に人生を感じ、哲学的な考えを深める時間がたびたび訪れる。
少なくとも自分が付き合った範囲で言えば、相手の男がそこまでセックスに支障をきたすってことはなかった。上手い人も下手な人もいたけど。
誰でも、だいたい最初の1-2回は余裕がないのでそんなにうまくはいかない。その後、探究心とか洞察力があって回数を重ねるほどこちらの体の情報量が増える=上手い男、ある程度で満足してマンネリ化する=下手な男、だと思ってる。そもそも、一人の女だって体調や精神状態によってまったく反応が違うし、たとえば上付き下付きの何センチかの誤差なんて、体が堅くこわばってるときと柔らかいときの違いぐらいで簡単に吸収されてしまうもんだと思うよ。
理系大学生でやる実験でも、研究室にて行うような実験でない限り、教授が既にプロットを考え済みであるものが多い。
そして、そのプロットをなぞる様に最低限の測定しか行わない。
時間、費用は有限だし、学生は大量にいるのだから致し方ない話だ。
一方学生は自由に実験を行いたいと願っている。レポートの観点で考えても、自由に行える実験の方が深く考察できる。
私は、レポートが満足に書けないこともあってか、自由に実験出来ない学生実験は馬鹿馬鹿しいと思っていた。
しかし、宇宙に目をやると大きく話は変った。
衛星に乗せて、測定機器を宇宙に持っていくのもやっと。ちょっと離れた場所になると動かす命令でさえ覚束ない。
人が居ないところで測定する訳だから、測定だって最小限になる。
実験室とは人類にとって不自由な宇宙空間の一部で、学生実験とは衛星による最低限の測定の模擬である。
こうして、学生実験は経済的束縛から離れ、宇宙のロマンへと誘う舞台装置に変化してしまうのだ。
-
こうした考えを自分で捻出しなくとも、
いい教授がふっと吹き込んでくれていたら、学生実験をもっと楽しめたのだと思う。
-
論理飛躍してるよ。
「効率よく物事をこなす能力」がある人間を「頭が良い」というのはわかるけど、「物事の本質の探究にエネルギーを注ぐタイプ」って、そりゃただの性格でしょ。大学で研究者になれるようなレベルの人なら、「効率よく物事をこなす能力」は前提として持っていて、かつ「物事の本質の探究にエネルギーを注ぐタイプ」(=研究者向きの性格)なだけ。
んで、研究者向きの性格がすべからく社会でデクノボー扱いかというと、別にそうじゃない。
「じっくり時間をかけて考えたり」することに問題があるんじゃなくて「限られた時間で何かしら答えを出す必要がある状況なのに、それを理解できていない状況判断力の低さ」に問題があるんだし、「小難しい本を読んで悦に入」ってる奴は別にどこだって疎まれる。
あとこれはどうでもいいけど、効率を問う典型はむしろ早慶クラスの入試。
東大入試に関して言えば、設問の本質的な理解がさらに問われる。
「頭がいい(≒成績がいい)」ことがもてはやされるのは、いい会社に勤めていい仕事をする能力があり、いい給料を稼ぐことができる、とみなされるから。
言い換えれば、頭のいい人は(資本主義社会の)良質な労働力として社会から期待されているわけだ。金稼げよ、って。
だから親も国家も教育に「投資」するんだよね。塾行けよー、とか。国立大学の授業料は安いよー、とか。
でも、頭の良さにはざっくり言って二種類ある。
一つは、効率よく物事をこなす能力。最小の努力で最大の成果、みたいな。東大の入試問題とか、この能力を測る典型でしょ?(たくさんある問題から簡単に解けるものを効率よく正確に迅速に解いていく競争)
もう一つは、物事の本質の探究にエネルギーを注ぐタイプ。「どーなってんだこりゃ?」って疑問に思うことを徹底的にじっくりと掘り下げていく。研究者系。
後者の方がカッコよくみえるよね?本当の学力ってのはこーゆーものだ、効率重視なのは見かけ倒しのハリボテに過ぎん、って。はてなスノッブのみなさんはもちろん、一般的にもそう思われてる。気がする。
でも実際は、明らかに前者の方が優遇される。だって、後者は労働力として役に立たないもん。
だから大学で哲学博士とかとっちゃうと、そりゃまあ普通の人より「賢い」んだろうけど、「労働力」としてはバッタみたいなものだからどこの企業も欲しがらない。
じっくり時間をかけて考えたり小難しい本を読んで悦に入る人たちは世間から疎まれる。
「大学でハイデガーの研究をすることで将来何の利益を生むんですか?われわれの税金も使っているんですよ?科学技術なら将来なにかに化けて国に貢献するかもしれません。でも実存主義を教えたところで自殺者を増やすだけじゃないですか。だから科研費は人文・教養系全部カットね」
結論を言うと、じっくり考えるタイプの頭のいい人は、社会に出ると単なるデクノボーっていうこと。増田の僻み?
要するにあれだ。「足が速い人」と同じぐらいの価値。へ~すごいね~、ぐらいの感想しか持たれない。でも小学校ではチヤホヤされただろ?でも会社で「俺、100m10秒台出せるっす」とかいっても合コンの時の話の繋ぎぐらいにしか役に立たない。
でもこのタイプの人間も学力テストではそこそこいい点数とれたりするんだから始末が悪い。
「俺って頭いいじゃん!」って錯覚するし、周りも「○○くんすごいねー」って言ってくれる。いい大学にも入れる。
この資本主義社会では頭(≒効率)の良い人間は良質な労働力とみなされるから、いろいろ丁重にもてなされる。
だから、研究者タイプの頭の持ち主は、天上から一気に地べたまで突き落とされる。社会に出た瞬間。その落差たるや凄まじい。凄まじいから嫌になってひきこもる。社会から逃走する。あるいは大学に籠城する。行き着く先はニートか自殺かウシジマくんか。
まあ、超天才はこの話カンケーないっすけどね。トントン拍子に学者なり評論家なりになって食っていけるし。でもそれはごく一握り。学生ってすぐ「あの教授バカだよなーまじうぜー」とか言うけどそれ完全にお前のペガサス幻想だから。いくらボロクソに言われようが、やっぱり東大の先生は天才なんだよ。でも東大の学生がみんな天才である保証はない。足だってムチャクチャ速い天才児はオリンピックなりなんなりで活躍できるっしょ。
長々と書いたが、要するに、わたしは、社会のゴミだ、ということの確認です。
こんなの当たり前だ何甘えてやがるファック?長いから3行で?自分語りはチラシの裏に書いとけ?
いーんだよ。どうせ増田だし。こういうときの増田だし。やっぱ誰かに聞いて欲しいし。いーじゃん。近藤さんありがとー。
ねえ みんな
なんで私をそんなに誉めてくれたの!?
私のどこがそんなに優れてて
いっぱい賞状やトロフィーをくれたの!?
みんながあんまり誉めたりするから
それで このザマよ
私なんてホントはダメダメだったんだ
何の保証にもならない数字で
勘違いさせないでよ!!
「確からしさを高める」でググったら二万件もヒットする件。確からしさを辞書で調べてごらん。
あと、なぜ君が終始小馬鹿にされているかというと、反論をすべて印象論で構成し、反論の根拠となるデータを一切示さないでおきながら、
相手の論理は印象論である、きちんとしたデータを出せとホザいているからだよ。
論理の基本がどうとか言っているけど、実は君は論理を何も知らないんじゃないかな。君みたいな人は研究職向かないね。
参考までに、君の言う論理は、どんな哲学書や数学書を参考にしたのか教えて。非常に興味がある。
話は戻り、俺は日米でのパズルとかIQに関する意識の違いを示すデータをいくつか示したが、君はそれは正当な根拠じゃないと言った。
こういう反論する時に君はいつも、反論の根拠となるデータを示さないよね。
反論はケンカじゃないんだから、きちんと「反証」しなきゃダメじゃないか。
繰り返しになるが、データを1人が集めようとすると大変だし場合によっては不可能だから、だからこそ、
反論する人や検証する人が新しいデータを持ってくる必要があるんだよ。