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はてなキーワード: ロストテクノロジーとは

2024-03-04

80年代90年代の質感っぽい雰囲気セルアニメロストテクノロジーなのか?

今のアニメは絵のクオリティ上がったのはわかるけど

くっきりしすぎている気がする

CGが本格的に普及する前のセルアニメが再評価されてるけど、

あの当時の絵の雰囲気を今の時代に1から作ろうと思ってもも再現できないのか?

2024-01-19

anond:20240119172715

ナイスまとめです。

そのわりに70代ってつまらない人間が多い気がする。

今の60代はニューウェーブとかツッパリブームかぶりっ子ブームかいろいろ新しい文化に浴していて新しい日本人を反映しているし、

80代以上はテクノロジー以前のロストテクノロジー(農作業とか)を知っていて面白い世代

なんか中途半端なんだよね今の70代。

2024-01-05

2023秋アニメ感想

・新しい上司はど天然

なんとなく見始めて結局最終話まで視聴。悪くなかった。

ほんわかとしたコメディで、男でも楽しんで観れた。

天然ボケ癒しは良かったし、あと杉田演じる上司がウザ絡みしかしてなくてワロタ



・アンダーニンジャ

予想外の展開ばかりで先が読めず、世界観の設定も想像以上に緻密な感じ。

なかなか面白かったものの、人に勧められるかと言えば微妙…。

終盤の展開は賛否両論ありそうで、個人的にはあまり良くなかったと思う。

というか感情移入できるキャラクターが居な過ぎる。

奇をてらい過ぎていてアングラ感も著しい。



アンデッドアンラック

ジャンプの人気漫画らしい。

ほぼ何も知らずに視聴し、最終話まで。

異能力バトルものしからぬラブコメ要素強め。

あとアンディが男前で、これは男にも好かれるタイプ主人公だわ。

物語としては伏線らしきものが多く、未だ明かされていない面が多いといった印象。

能力バトルが頭脳戦になっていたのも良い。

連続クールらしく、次も観る予定。



ウマ娘 プリティーダービー Season3

競馬知識ほぼゼロで、二期を観ていたため今作も視聴。

シリアスギャグバランスよく感じられたものマンネリ感も否めない。

それでも最終話はやはり熱い。

王道スポ魂漫画のような作画の迫力は印象的で、観客同様熱くなって観れた。

良作。



・陰の実力者になりたくて! 2nd season

一期目を見ていたので続けて視聴。

正直他のなろう作品とあまり変わらないように思えていたけれど、ジョン・スミス編は想像以上に良く出来た話だった。

作画演出も良く、飽きずに楽しんで観れた。

ただ基本的には俺TUEEEの極致を行く作品なので戦闘シーンは逆に退屈だったりする。

この作品アンジャッシュを楽しむべきなのかもしれない。



・「カノジョ彼女Season 2

からっぽにして観れる作品

所々のボケが快く、ツッコミに真・昇竜拳(スト6そのまんま)を使っているのにはワロタ

主人公彼女不安にさせないため常に正直者で居続けるのだけど、正直だからといって誠実であるとは限らないことを教えてくれるアニメでもあった。



薬屋のひとりごと

人気小説らしい。

原作のことを知らずに視聴。結果、面白かった。

ミステリー系ながら謎を解くことを第一目的にせず、謎を解いた後の状況を考慮して行動する点が良い。

個性的キャラクターも皆魅力的で、人気あるのも納得の作品だった。

それにしても最近急に後宮舞台にした映像作品が多くなったような気がするんだけど、なんでなんだろう。



経験済みなキミと、経験ゼロなオレが、お付き合いする話。

一応最後まで視聴。

ふーん。



シャングリラフロンティア

大人作品らしいけど全然知らんかった。

なので何も知らない状態で視聴。

基本的にはフルダイブVRゲームを題材とした作品で、しかしながらリアルの部分もちゃんと描いていたのが印象的。

クソゲーマニア主人公神ゲーに挑戦することで主人公らしいイレギュラーを起こしていくのは王道的ながら安定して面白い。

世界観の創り込みも特徴の作品らしく、作品内で登場するゲームは他にも色々とあるらしい。

ただちょっと調べるとファン熱量がすごくてちょっと怖かった。



・16bitセンセーション ANOTHER LAYER

面白かった!

SF特にタイムリープ系の作品が好きなので期待して視聴していた作品

中盤に見られた旧パソコンでの技術ロストテクノロジー的な感じで、面白かったし勉強にもなった。

後半につれて規模が大きくなり、これ…広げた風呂敷ちゃんと畳めるのか?

なんて不安に思ったもの最後には見事な大団円

いやーっ、面白かった。でじこも出たし、最後まで観て良かったです! 

コノハチャン、カワイー!!



呪術廻戦 懐玉・玉折/渋谷事変(第2期)

非常に面白かった。

ストーリーが良いのはもとより、アクションシーンが本当に凄かった。

劇場アニメ並みの戦闘シーンばかりで、よくこれを週間で作れたな!?驚愕するレベル

というか今のアニメ戦闘シーンって、こんなに凄いんだ…と実感できる作品

きめつとはまた違った、2Dでの迫力ある戦闘シーンの数々。

あとストーリーも非常に良い。

原作読んでないので、今期の中では続きが一番気になった作品だった。



・Dr.STONE 第3期

好きな作品なので一期からずっと視聴していて、この3期目も視聴。

感想としては…うーん、どうなんだろうね。

頭脳戦的な見どころは多かったものの、”裏の裏をかいている”というよりは最初から結末を用意していて、それに向かってただ真っ直ぐに進んでいる予定調和的な感じも否めず…。

原住民の行動がたいてい予定調和なんだよね。

!?こんなことする奴いるの!?

みたいな、最初の方に比べて驚きが少なくなったような気がする。

あと科学を謳いながらも、結果的には超人的なマンパワー頼りになるのはどうなんだろう。

好きな作品で期待していた分、辛口になってしまたかもしれない。



・豚のレバーは加熱しろ

一発ネタ的な作品かと思いきやストーリーちゃんとしてた。

後半は作画が怪しい箇所が多く、ネタ枠になってしまったのが残念。

これで作画が非常に良ければ、より注目された作品なのでは?

それでもジェスだけは作画崩壊なかったように思えるので、制作側の熱い拘りが伺える。



・僕らの雨いろプロトコル

ちゃん回だけ視聴。

ここを主題に据えていれば覇権ワンチャンあったかもしれない。

特に表情が秀逸だった。



・ミギとダリ

坂本ですが?作者の作品

これは予想外に面白くて、想像以上によく出来た作品でびっくり。

最終回は感動して思わず泣いてしまった。

今季では一番感動した作品で、ギャグ塩梅も素晴らしい。

おすすめ

2023-04-20

anond:20230420164723

いやまあ正直、厳密にはそうなんだけど、

じゃあ実際にそれが今の邦画で実現できてるか?って考えると、「できてない」んだよね。


試行錯誤すれば」の、

試行錯誤してる余裕こそが、時代劇現場にはない。


こういうの、昔は「役者たちが自分で」できてたことなんだけど、今の役者はできなくなってる。

から衣装係がやらなければいけないんだけど、今の衣装係にも、その知識がない。

衣装係が調べなければ、現場実践はできない状態

さらに、どこの現場でも「(浪人ですらも)着崩れていないこと」が当たり前になっている。

今の時代劇じゃ、安いTVみたいなペカペカした着こなしが普通になっている。


そんな状況で「わざわざ」着崩れさせるリアリティを入れるためには、

監督なり「上の権限がある人間が、気合を入れて指揮してやらないと」いけなくなっている。


けど、そんな面倒くさい(時間がかかる=金がかかる)ことは、できない。

衣装係」を勉強に行かせるところから金を払わないといけない。

そこまでやってる余裕が、邦画には存在しない。

ただでさえ時代劇はセットなどの大道具に金はかかるし、時代考証だの専門的な部分が多くて、

まあとにかく面倒くさい、金がかかる部分が多すぎる。


から

「そこのクオリティは切り捨てよう」、という判断になる。


結果的に、簡単ノウハウロストテクノロジー化する、という話。


「そんなわけねえだろ」と思ったのもわかるが、

もうすでに、「そんな惨状」に時代劇は陥ってるんですよ、という話でもある。

「そんなわけねえだろ」が現実



顔だけはドーランで汚してるけど、全然浪人に見えない」学芸会みたいなルック時代劇になるのは、

こういう原因が100万個くらいあるわけよ。

現場ノウハウ」というものいかに貴重だったかわかる。


もちろん、

そういう着崩しなりなんなりが「できてる時代劇だってちゃんとある

監督なり、現場なりがいい映画にしようと頑張ったんだろう。

しかし悲しいかな、昔と違って、

今の映画撮影は「一回の撮影で、現場自体解体されてしまう」。

せっかくそこで培った技術も、「その場限り」で終わってしまう。

衣装係が手に入れた知識も、

次の現場監督プロデューサーから「そんなことしてる余裕ないから」と言われたら、それでおしまい

現場知識をもっていても「そんな面倒くさい事いいじゃーん」となる。


こういう状況なわけ。


時代劇を作り続けていて、予算現場もわりと保存されてるはずのNHKですら(これがテレビ局しかないっていうのも悲しい)、

なんちゃってペカペカ時代劇がたくさんあるのが、時代劇の実状。

anond:20230420164509

例えば三船の演じる浪人のような、着崩した着物着付けはコツがあるらしいのだが(だからどんなに激しいアクション撮影しても、あれ以上は崩れない)、あれはもうどう頑張っても再現できなくて、ロストテクノロジーなわけ。


大規模設備必要ことならともかく着物の着方なんてその気になりゃいくらでも試行錯誤して突き止められるだろええ加減なこというな

anond:20230420114445

日本には面白い時代劇をつくる体力がもう残っていないから無理なんだよな。

なぜ今の時代劇が安っぽいかと言えば、昔の現場レベルでのノウハウが、もう継承されていないから。

例えば三船の演じる浪人のような、着崩した着物着付けはコツがあるらしいのだが(だからどんなに激しいアクション撮影しても、あれ以上は崩れない)、あれはもうどう頑張っても再現できなくて、ロストテクノロジーなわけ。

あいキャラクターを出そうと思っても、見た目を真似る時点でもう不可能という所まで来てしまっている。

から荒くれ浪人なのに、糊のきいたような着物の着方になってしまう。

もちろん、浪人の見た目以外にも、観客が「これぞ時代劇」と感じる要素は沢山あって、それらのほとんどは再現不可能なのだ


邦画界が崩壊し、時代劇ノウハウ継承されず失われていく様は、時代劇研究家春日太一の著書に詳しく書いてある。

この人は知識量も行動力もはっきり言って超すごい人で、この人がこんなに頑張ってもどうしようもなかったんだから時代劇はもう無理だなとしか思えない。

ちなみに増田が書いたような作品は、三池崇史十三人の刺客がかなり近い。

十年ほど前の作品で、評判もなかなか良く、それこそ映画界隈はかなりこの作品に期待をかけていたが、邦画がそこから何か変わったかといえば、何もない。

黒澤明リメイクも、時代劇復興のため何本も作られたが、全て死屍累々に終わった。

また、アニメ時代劇の傑作「クレしん 戦国合戦」を実写リメイクまでしたが、これも推して知るべし

邦画界は意外に、時代劇復興を頑張ろうとはしてはいるんだよね。

すべて空回りの企画なんだけど。

ちなみに、古い時代劇海外での知名度は相当なもので、生半可な作品では海外でも通用しない。

70年代日本時代劇が「世界で一番グロかった」ことで非常に人気があり、ジャンル自体が有名なのだ

(頭から股まで真っ二つ、とか普通にあるのが昔の時代劇)

2023-01-29

最近話題ローマンコンクリート古代ローマ時代コンクリート)はなぜロストテクノロジーになったのか?

古代ローマが滅んだ、といっても

東ローマ帝国という受け皿は

中世まで1000年以上の長きにわたりローマ文化継承したのだし

西ローマ帝国ゲルマン民族により征服されたといっても

突然全くの異世界からやってきた蛮族により侵略された

というわけではなく

長い時間をかけてローマという大文化圏と接してきて

その影響を大きく受けた民族

ローマ社会に浸透する中で権力形成

やがては独自王国として独立していったものだ。

そうして成立したフランク王国などが技術継承したとしても決しておかしなことではないと思うのだが。

そもそもローマン・コンクリートが生産されなくなったのは何時頃なのか?

などなど、こういった調べ物もChatGPTに頼めば秒でわかることなんだろうな。

真偽は別にして。

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2022-08-26

民間内燃機関車が無くなったあと、軍事車両はどうするのだろう

軍事車両EVになるのか?

今どき民間でも使っている設計ソフトシミュレーションソフトや、取引企業があるから軍用車両も特注でも作れているはずで、

全く民間でなくなるとロストテクノロジーになると思うんだよな。

2022-06-01

anond:20220601220641

どうせなら文明が一度滅んで新しい文明ができてるころに復活したい

ロストテクノロジーを扱える能力者として異世界チートみたいなことしたい

2022-01-07

半導体設計って書籍少なくて、人が離れたらロストテクノロジーにならね?

論理設計物理設計も、詳しい書籍ないやん。

2021-11-14

JSFlashはどこで差がついたのか

199x年に初めてJSFlashを見たときは「ゲーム世界NetScape上で表現できるやん!」と感動した。

Flashは今やロストテクノロジーとなってしまった。どこで差がついたのか。

2021-11-09

anond:20211109132706

カラーインクジェットプリンタ

1990年頃にはまだ「カラー熱転写プリンタ48ドット」というのが最新(?)だった。とはいえ4色。

1995年かな?A3ノビ対応・4色カラーインクジェットプリンタMJ-5000C」誕生。確か14万円くらいだった。これも4色。写真プリントするとドットが見えたし、ハイライトトージャンプが目立ったので、ハイライトPhotoShopノイズを入れる、みたいなロストテクノロジーもあった。

https://www.epson.jp/support/portal/download/mj-5000c.htm

写真品質」のインクジェットプリンタは、1996年11月発売のEPSON PM-700Cが初めて。ここで初めて「6色インクライトマゼンタライトシアン」という色が登場。

https://www.epson.jp/ms/1996_11.htm

2021-05-26

anond:20210525201012

こんな話になってもデリヘルとかおちゃらけてる増田ばっかりの時点で滅び去る運命ってことだよ

例えばそこらの猿に最新のMacBook20年前のノートパソコン見せてどっちが優れてるかなんか判断できると思うか?

それと同じレベルなの

賢しぶってるけど本質的にはバカしかいないから衰退してるわけよ

金とセックスと楽な生活望むくせに

それをもたらせてくれる金になる技術を見抜く目も頭もないし鍛えるつもりはないからな

まあ衰退して当然、廃れて当然っつーわけよ

そんなバカ民族になってしまたことを恨むんだな

まあ倒産した後ロストテクノロジー化しても賢い白人様がスミソニアン博物館大英帝国博物館で残った現物保護してくれるだろ

猿には猿なりの生き方があるんだから猿に人間レベルの話したって意味ねえだろ?

2021-05-25

anond:20210525201012

なくなることはないと思うが、

もののけ姫タタラ製鐵みたいなロストテクノロジーが長期的には発生するだろうな

そして技術機械化されていくだろう

2021-02-06

anond:20210205230931

かに

ただそれなら、人間完璧なのかと言えばそうではない。フレーム問題果たして人間自体解決している存在なのか判然としない。しかし、人間責任をとることはできる。少なくともその所在を法的に明らかにすることが出来る。翻って自動運転車両の場合はどうかというと・・・。結局①の論点に戻るね(念のため言っとくと自分元増田ではない)。

オートクルーズに毛の生えた程度の機能で満足するなら別だが、思うに、完全にノータッチ走行される車両の持つ法的な責任は、結局メーカー側が持つことになるんじゃなかろうか。もし所有者の側が負わされるとすると、ただその車を起動し目的地を設定したという作為を持って訴追される状況を受け入れる、あるいはバカ高い保険といっしょに購入することになる。普通車両運転手雇用とどちらがコスパいか、という話になってしまう。

そもそも自動車社会っていうのは、鉄道完備と天秤にかけてこちらの方がよいと判断して導入されたものなんだよね?そこに自動運転技術さらに導入するというのは一周回って元の位置に戻ってきたようなパラドックスを感じる。

いっそ思想的に鉄道に戻って、道路側にビーコン発信機や、センサーが確実に反応するペイントを敷設して整備し直すとかすれば、高速に限ってかなり現実的なんじゃないか。高速だと歩行者がいないのでイレギュラーをかなり排除できる。でもそれだと一般車両が混在するのはむしろ効率だよな。じゃ、一般車両は高速から排除するか。おい、これ鉄道と何が違うんだ?だいたいここまでやってせいぜい長距離トラックの運ちゃんリストラできるだけじゃねぇか。

自動運転ってのはF1超音速旅客機と同じで(原発そうかもしれない)、ただの技術の祭典にとどまって廃れるんじゃないかね。技術的には実現したけど、実際的運用するには危険すぎたり、オーバースペックすぎて採算合わなかったりして廃止されたロストテクノロジーとして。歴史上そんな技術はいくらでも存在するんだし。

2020-11-08

anond:20201106184657

最低のアニメ化に終わってしまったエロゲPSでも出てるからギャルゲか?)

この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」を思い出した(´・ω・`)


アニメはとにかく意味不明な改変しまくりで、その最たる点が「異世界に行く動機」だった。

現代世界アニメなんだけど「古代人のロストテクノロジー」みたいなのが全編に渡って謎としてあって、

ストーリー上生死不明の親父(考古学者)を追って最終的に異世界に行く。


原作ゲーム

親父の痕跡を辿り、「宝玉」と呼ばれるギミックを解いた結果、意図せず異世界に飛ばされてしまう。

主人公たくやは半狂乱になりながら(現世編では冷静なキャラだったので焦りが特に際立つ)現世に帰る方法を探し、

諦めとか絶望のシーンを経てゲーム内時間が数年飛び、異世界で唯一出会った少女との間に子供生まれる。


アニメ

現代編のストーリーの途中で「異世界」の存在を知る。(原作からするとこの時点でありえん)

ある少女を助けるために異世界に行くと決意し、自らの意思渡航する。

自分意志で来たので絶望とかは無く、「へーここが異世界か」のノリで何故か数年経過

助けるつもりだった少女はどうすんだよ!という視聴者ツッコミも虚しく現地の少女との間に子供生まれる。


まあ結局帰れないのは同じなんだけど

この意味不明な改変って実は近年のストーリートレンドだったのか?

とこのツリー見て思った。

まあアニメの方は作品内で破綻してるから論外なんだけれども

2020-10-03

なぜか、ロストテクノロジー

えっ ホームページをわざわざC言語でつくっているんですか?CGIってすごーい。(PHPの人)

 ↓

せやな。。。察して

2020-05-08

anond:20200508231449

ゴムでとめるという行為だけならまあ…

昭和熟練ママさんならあの硬い包装ごとグルグルグルーって巻いて閉じそうな気はするがロストテクノロジーの類だと思う

2020-04-24

https://anond.hatelabo.jp/20200423225909

1話

あの災禍のあと、僕たちの社会は随分変わった。

そう、今あなたたちが渦中にある災いだ。

あれから鉄道は人を運ばなくなった。そのかわり、モノを運ぶようになった。資源も限られているので、生活物資基本的配給制だ。

レールに乗って各ハブ拠点に到着した物資は、さらに各地の配給所に配られる。住民は、役所から配られたクーポンと交換して、生活物資を得る。

一部の地域では、ドローンを使ったり、各家庭に直通の地下レールを引くなどの試みもあるようだけど、技術的には可能でも、手間と、そこまでする根拠が不足していて、あんまり進んでない。

ほとんどの地域は、住民が最寄りの配給所に取りに行く。

それらの配給所は、元はコンビニだったり、ドラッグストアと呼ばれる施設だったようだ。

鉄道が人を運ばなくなったかわりに、車が人を運ぶようになった。

車は今も人を運んでるじゃないか

その通りだけど、少し違う。

ここでは車は完全に公共交通になった。誰も車を所有していない。自動運転車自由観覧車のように、国じゅうを回っている。車好きの人は残念に思うかもしれないけど。

ネットワーク技術で完全に制御された自動運転車は、一定の車間距離一定スピードで、車道巡回している。

住民は自宅から、今で言うスマートフォンのような端末で、利用区間指定し、最寄りの停留所で乗り合わせる。

もちろん、運転手はいない。

それに乗っているのは、予約した住人とその家族、友人だけだ。

利用者目的地へ運び終えた後は、車内の換気と消毒が行われる。

人が移動する道と、自動運転車が走る道は、完全に分けられている。

あなたたちの世界のように、人や自転車のすぐ横を、車が走り抜けるような野蛮なことはもうない。人命と利便性が両立するよう、合理的に整備されている。

これを聞いて、あなたはディストピだと思うかもしれないし、理想的未来だと思うかもしれない。

実際のところ、僕たちのほとんどは満ち足りている。

しか生活物資配給制だし、完全にこの国の中枢機関によって管理されている。人もモノも。

だけどこのような太い「木の幹」の部分以外、枝葉の部分では、かなり自由が許されている。

例えば……、今のあなたたちにピンとくる例でいえば……。

僕たちの世界でも、ウイルス対策や防砂等の理由マスクが配給されることがある。それは機能性とコストだけを追求した、何の装飾もない、シンプルものだ。

それを各々がアレンジする。

染め直したり、より使いやすいよう、縫い直したり。

(これは今のあなたたちの世界でも行われてることだから、かなり想像やすいと思う。)

そしてそれは、しばしば個人取引可能オンライン市場流通する。

気に入ったデザインがあれは、自分が持ってるモノや通貨と交換できる。もちろんマスクだけじゃなく、服、装飾品、家具食器……、同じように、政府供給する“素材”がアレンジされて流通する。すべてにおいてそんな感じ。

最低限の機能だけを持ったモノが政府から支給され、そしてそれを、個人個人アレンジし、オンライン上に流通させ、購入者は先の配給所でそれを受け取ることができる。

人々はそうやって、限られた資源を使って、自分クリエティティを発揮することに時間を費やす。そして、あなたたちの社会ベースとなっている、労働というものほとんどない。

生活のために望まない作業を強いられることはほとんどない。これまで紹介したように、配給や合理的物流で、過不足なく生活物資は分配されるから

ただしこのシステム管理維持するために、月のうち数日、地域ステーションに駆り出されることはある。

と言っても、メンテナンスほとんど自動化されてるので、人間がやることと言えば、それが問題なく作動しているかを見守ることくらい。

実際は見守るというより、それらのシステムロストテクノロジーになることを防ぐために、市民にその稼働現場を見せ、記憶に焼き付けることにあるような気もする。

しかしそれを見たところで、ほとんどの人はそのテクノロジー理解できるとは思えない。ほとんどそれは、過去労働儀式化してると言って良いかもしれない。




https://kakuyomu.jp/works/1177354054895802561/episodes/1177354054895802748

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