タマネギ微塵切りをベースにしたトマトヒヨコ豆インのスープ3回目よ!
3回目なので手順も手慣れたものよ。
パパッと作っちゃったわ!
鍋より楽かもーって思うほど、
手間がその都度都度かかるじゃない。
だけどスープの方が一度最初に全部具材を入れてしまって作ってしまうので、
あとは温めて食べることが出来るから
逆にこっちの方がうんと楽かも!って思うのよね。
なので、
今シーズンは鍋のベーナーの季節だけど
レシィピを書いておくと
タマネギは4玉、
ヒヨコ豆も2缶
シメジは1ふさ。
とりあえず味付けはブイヨン3つね。
ニンニク1欠、
そしてオリーブオイル。
ときに、
シメジとかのわさっと出来ているパックのやつってあるじゃない。
あれの数え方ってどう数えるの?
1ふさ?なんか違うような気がしないでもないけど、
キノコノ数え方シメジの特にまだ軸にくっついている時のあの集合体での数え方は
1勝したら一山本!
2勝したら二山本!みたいにその場所中で成長の度合いが一目で分かるような感じなのかしら?
だからあのシメジのまだ軸についている集合体のあの1つの数え方。
なんていうのか募集中よ!
なので、
でさ、
ここで真面目にレシィピを書いて記して記し記しておかないと、
夏川りみさんばりに古いアルバムめくり~って歌い出せないじゃない!
忘れたときにあのレシィピなんだっけ?って
思い出せないときココを振り返ってふざけた分量を書いていたら困るでしょ?
だからここはしっかりとボケずに間違わずに真面目な分量を記して記し記ししておかないといけないのよ山脈に向かってヤッホー!って叫ぶのよ。
あとこれまでの反省点として
出来上がっても飽きちゃって食べなくて全然鍋が減らなかったので、
今回から出来立てをもうすぐ寝かさずに味が馴染む前の
逆に言えばそうよ!
フレッシュな感じのトマトの酸味がまだあるような落ち着いていないソワソワした感じのトマト味を味わうには出来立てがそう言うフレッシュさがあることにも気付いたわ!
あとさ、
ヒヨコ豆もサラダで食べるのと煮て食べるのではメーカーのブランドの種類によっては仕上がりの固さが違ったりするので、
私はサラダでいただくときはちょっと硬めのメーカーのヒヨコ豆を好んで食べるのよ。
なんかヒヨコ豆に詳しい人みたいでしょ?
全然詳しくないけど。
そんでフレッシュ出来たてのそのスープはトマトの旨味とタマネギ色になるまでタマネギを炒めた良い塩梅のところまでになった、
そのタマネギの旨味も相まって、
これから
味がまとまってきて落ち着いてくるから
微かな舌で感じるダイレクトな味わいのテイストが変わってくるのよね。
そう考えると
スープ作ってしまってしまうほうが手間が色々が省けていいかなーって思うのよね。
で鍋のベーナーから小鍋の小ベーナーに移して
これも新たな発見よね。
今シーズンはもしかしたらこの鍋のベーナーのレシィピ1本で乗り切れるかも!って思うのよ!
うふふ。
いつになったらあのリッチな味わいのハムタマゴサンドを取り戻すことができるのかしらね?
久しぶりかな?
久しぶりだとセクシーヤミーさが増すわね!
美味しくいただいたわ!
レモン炭酸ウォーラーに追いレモンポッカレモン買ってきたので、
喉渇いたときの爽快さはそれに勝るわね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
巨大なサメがウヨウヨしてる池の上をグライダーで低空飛行していた。何度か食べられそうになった。
やがて汚れた肌色の壁の洞窟に入った。先導する親父曰くこの洞窟は生きている、話しかけると反応するからくれぐれも気を付けるように、とのことだった。
中は狭く窮屈だった。「天井を高くしてくれないか」と僕が言うと汚い肌色の壁はクネクネと動き出し、ズズズズズと3メートルほどの高さまで持ち上がった。本当に生きているようだ。
調子に乗って「人の形になれ!」と言ったら女豹のポーズの下半身だけが召喚されるみたいに出てきた。
外見はマネキンのようだが柔らかく温かい。さらに指を穴に突っ込むと湿っていたのでこれはいけるぞ、と確信した僕は冒険そっちのけで全身を作ってくれ!と言った。
しかし地面からニョキニョキ生えてきたのはバランスの歪んだ気色悪い身体だった。ビニールタイプのダッチワイフみたいだった。それでも一応触れるとぬくもりを感じるので抱き枕にはいいなと思った。
なんとか工夫を凝らして納得のいく一体を作り上げた僕は洞窟を撤収して池のほとりで行為に臨んだが、気持ちよさは無だった。
ふと横を見ると対岸に二人組の男がいた。双眼鏡でこちらを覗いている。
不気味なので場所を移動したがどこへ行ってもその二人組は無限についてくるので行為を諦めて街に戻った。
街では何か事件が起きたらしく騒然としていた。「お前が犯人か!」とそばにいた警官に詰め寄られた。僕は人形を見せながら無実を証明して免れた。
推しはごく一部から人気あるけど世間的には全く認知されていない
だから自分は下手なりに推しのファンアートを描いたり推しへの応援コメントは欠かさなかったしあらゆる方法でお金を落とした数字1のオタク
理由は本当にくだらないんだけど
推しのファンが徐々に増えて、その新規ファンへの福利厚生が増える一方で自分のような古参は「存在して当然」かのように見向きもされなくなったから
そりゃ新規ファンとの交流は大切にした方がいいし、育てるべきだと思う
だけど、こっちだって応援の声に応えて欲しい赤ちゃんな気持ちもある
弟が生まれて親からの愛を奪われた兄の気持ちに近いかもしれない
なんだかしんどい
このまま推し応援アカウント消したら少しは気にかけてくれるかなと思っても「どうせ数字1だから気づくわけないじゃん」と冷静な自分が打ち消してくる
推しへの愛は無限にあると思ってたけど、もう自分がいなくなってもいいじゃんと…
Loraとモデルの組み合わせをしているだけで無限に時間が溶ける
流石に飽きたわーとちょっと離れても久しぶりにまたやったら楽しい~っての繰り返してる
Loraを自分で作るようになると、これは下準備が大変で準備自体は楽しくないんだけど、上手く仕上がるとうれしい
なかなかうまく行かないこともあるけど、上手いLora職人はちゃんと層を切ったりしてるのかな
素材をぶちこんで回転させてるだけだわ
『えっ、それフツーのサラリーマンの日常ですよね?女ってマジでどんだけ働く気無いん?』って描写があってドン引いた
ざっくり言うと、
書きながら思い出していてもドン引くのだが、
まぁなんやかんや商業誌に発表出来たということは、理解ある彼くんやら彼女ちゃんやらパパやらママやらを捕まえることが出来たんだと思う
あるいは、会社でリーマンやることのみ極端に耐性が低く、自身の作品を発表することに限定すればあらゆる苦労を厭わない人だったのだろう
まぁ要は、人は 『向いてること』(あらゆる苦労を厭わなくなるくらい好きなこと) と『向いてないこと』(あらゆることが苦痛になること)があるので、
しなくてもよい苦労はしなくてよいというこっちゃな
で、ワイが言いたいのはここからなんですけど、
たとえば、作家業は、100万部突破するような超売れっ子作家なら年収1000万円超え余裕だが、そうでない場合は、『祝!重版!○○万部!』の中ヒットや小ヒットを連発する必要があり、
そこそこ有名な作家でも、商業誌だけでは収入が不安定なので、同人誌も出して年収のバランスをとって1000万以上をキープしているみたいなんですけど、
まぁお金が御入用であれば是非そうしてくださいって話米?
哀れみを乞うたりせず、引き続き向いてることでがんばれ
職業が理解ある彼くんやら彼女ちゃんやらパパやらママに養って貰う人の場合もそう米?
哀れみを乞うたりせず、引き続き向いてることでがんばれ
時々、140文字で暴れている虚栄心ばかり強くて研究職にとても向いてなさそうな人らもそう米?
哀れみを乞うたりせず、引き続き向いてることでがんばれ
『能力のあるなし』や『障がいのあるなし』(四肢の可動や生命維持に支障をきたすものは除く)や『出産』や『介護』じゃ基本的に無いのよな・・・
嬉々として、庶民のお嬢さんお坊ちゃんを社会不適合者にするお姫様教育と少女マンガはいい加減なんとかした方がええですわ
『どんな仕事でも無限にかわりはいるが、家族のかわりはいない』は "事実" ですけど、家族が大事であろうがお家のお仕事向いてない人は向いてないんですわ
人は 『向いてること』(あらゆる苦労を厭わなくなるくらい好きなこと) と『向いてないこと』(あらゆることが苦痛になること)があるんだね
だから、嫁だから娘だから長男だからお金稼いでないからで、役割押し付けないで、プロを頼ってくださいまし
あと、お家のお仕事向いてない人がどうやってお家のことに関わっていけば良いか?って方向で考えましょ
(でも、これも万が一の時に、相続で強く主張するになんか違う・・・とは思うよな?お家のことたくさんやった人がもらうべきだ)
チケ○トボ○ド、概念がわかりにく過ぎる。申込者? 同行者? チケットの分配? わかんねーーよクソが!!!!!!!!!!
電子チケットの有用性はわかるよ、絶対定価以上の売買起きないし。定価トレードシステムがあるからチケットが基本的に余らない・席も空かないで基本的には興行者も客もWin-Winでしょ
いや注意事項をよく読めという話ではあるのだがせっかくクレカ持ってない親に代わってチケット買ってあげようとしたのに全部パーーーや。全部だめ
「親クレカ持ってないから親名義で予約したら支払いできないよな……仕方ない私名義で申し込んでみるか!」と勝手に脳内で勘違いしたのが運の尽き
本当に親に申し訳なさすぎる
確かに「申込者の変更はいかなる場合でも不可」と注意事項に書いてある。でもじゃあ申込者って何だよどこかに定義がちゃんと書いてあんのかよ。
「申込者=公演に実際に参加する人」とは限らないだろ、それなら最初から申込者とかアホみたいな名称じゃなくて「公演に行く人」とか誤認しない言い方いくらでもあるだろ
そういうわかりにくい概念にするなら申込みフォームのUIでその辺解決しろよ。初見殺しみたいな手続きフローにしてんじゃねえよ
自分がポンコツなのを棚に上げてこんなこと言ってごめん。でもわかりにく過ぎる……読んで理解できない注意事項は注意事項じゃねーーだろ、消費者庁動けや
「こういう規約なんです」わかる、わかるよ、それはそうだ、そのとおりだ、ルールに沿って対応しないとクソクレーマーが沸いてくるだろう
でもあまりにもそのルールが面倒くさ過ぎるわかりにく過ぎる、納得がいかねえ、納得がいかねえから行政に介入してほしい、わかりにく過ぎる売買契約は悪やわ
あと本人申込必須なら、クレカしか決済方法ないのはだめだろ。一定以上の年齢だとクレカ持ってない人だって普通にいるだろ。せめて銀行振込ぐらい許容しろよ、
何なんだよそのストライクゾーンの狭さは
ふざんけんじゃねーーよ
SDGsに真っ向反してるよ
本筋じゃないけど「購入したチケットはいかなる理由があろうと変更・キャンセルはできません」っていうチケット売買契約はありなのかな
他に購入方法がないのに一方的に不利な売買契約を強いるのはおかしいだろ、公序良俗違反じゃないのか(まあ違うんだろうな法的には)
勘違いしたお前が悪い。おわり。
でもさ、でも、でも、でも。でも。でもが無限に出てくる。納得がいかねえ
電子チケットは、ライブに何度も行っていて相当に慣れた人向けだと思う。少なくとも私はもうライブに二度と行きたくないと思ってしまった。
私は向いてない、次回もこんな惨めな思いするかもしれないと思うと電子チケットに恐怖心が生まれてしまった。電子チケットこわい
もうやだよ、なんでこんな思いしなきゃいけねーんだよ。譲る先は家族なんだからチケット融通するのおかしくないだろ、何とかしてその辺ルール緩めてくれよ、クソだよ
普段はそこそこの企業で働いてるんだけどこの一件で自分の文章読解能力にメチャクチャ自信なくしてしまった。こんなに理解できねー概念があんのかよ……怒り通り越して泣きたくなってくる
親、ごめんね。これまでいっぱいお世話になってきたのにね。
「ちょっとチケットミスっちゃったかも……」って謝ったら『全然! まあしょうがないよ〜』って笑顔で流してくれてうっかり親の目の前で泣きそうになった(泣いてない)。仏か。親すごい。本当にごめんね
今後もう少しきちんと謝ろうと思う。そして肩でも揉んであげよう
音楽関係者、特にアーティスト本人に伝えたい。確かに電子チケットは都合がいいだろう。でも私のこの悔しさをほんの一部でもいいから理解してほしい
もっと全員にとって好ましい形のチケット販売方法があるはずだ。頼む。考え出してくれ。ライブで収入得てるんだからこういうファンが直面する一番の障壁に真摯になってほしい
「俺らは音楽に集中したい」とかいう言い訳はしてほしくない。ライブで食ってるならこーいうことにも責任があるはずだ
儲かればいい・利便性があるからいいじゃなくて、私みたいなこんなポンコツに少しでも優しい仕組みを考え出してほしい
唯一の救いはインフォメーションセンターのお姉さんがすごく丁寧に説明して、すごく上手に同情してくれたこと。あれなかったらもっと自暴自棄になってたと思う
すごくいい人だったな、
あのお姉さんに幸あれ
荒木飛呂彦風の絵が無限に出てくるAI絵師ソフトとかあったら普通に便利そうじゃん。
プロの漫画家も「あっ……ここだけ荒木飛呂彦っぽくしたら受けそう!」って結構やってるけど、なんかこう微妙に下手で滑ってたりするじゃん。
記録用に使ってたfilmarksに感想を書くようになった。一口コメントから始めて長々と書くことも増えてきたけど、文章をディスクリプション、解釈、感想の三つに分けるとして、おれの「感想」部分は「好きだった」くらいしか言ってないような気がする。
ここの流れが分かりやすくまとまってる感じがした。全体的にこういう雰囲気が特徴的、印象的だった。あのキャラクター達の関係性はこんな風だった。このキャラクターはこんな象徴を背負っていそうだ。通底してこんなテーマを感じた、と単なる事実やその解釈をつらつら書いた挙げ句「そこが好きだった」で終わり。あとはどこそこが「かっこよかった」くらい。
他の映画を持ち出した例えも割と多い。あそこがあれっぽくて「かっこよかった」とか。そういう楽しみ方も結構大きいかもしれない。
たまに自分の根源的な価値観に近しい部分の琴線に触れると、あのテーマに対してこういう描き方をしているのが好きだった。自分がこう思っていた事を改めて確認した/こんな側面もあるのかもしれないと思った、とかクドクド書いてる事もある。それはもはや解釈を超えて全体的に感想と言えるかもしれない。
まあ無限にある要素の中から特定の部分に目が行ったというだけでも、そこには自分の感性というか琴線のようなものがある程度は反映されてるかもしれない。でも大体観客が注目するのって似たような部分だしな。
おれの感想はここが、ここがという「点」ばかりを見ている感じもする。例えば芯となるテーマについて、それをより効果的に印象づけるシーンや制作の背景、実際の社会情勢を関連づけながらいかに良かった/イマイチだったか書ける人っていうのは、点ではない全体的な見方が出来るんだろうなって思う。
そういう感想を読んでこじつけじみてるな、とかメタ情報に引っ張られ過ぎじゃない?とか思う事もあるけれど、少し憧れがある。
己の感性に耳を傾けるばかり鑑賞に限界を感じ始めたら、そういう教養主義的な鑑賞をするのもありかもしれないなって思った。今よりもっと点が繋がって見えるかもしれない。でも今はあまり肩肘張らず、素朴に楽しみながら自分の好きなものを確かめたい気持ちの方が強いかもしれない。
価値観も学習したように振る舞えることと、その価値観に基づいた交渉が可能なことは別なのでは。
魔族の目的は人を喰うことで、その目的のために人間を釣るためのツールとして中国語の部屋のようなものを
使えても別になんの不合理もない気がする。
そこまで来ると「中国人の部屋」の話よね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/中国語の部屋
でもその学習を無限に認めるなら、子供を殺せば殺されるとか村長の子供を差し出しても代わりにならないとかそういう価値観も学習できるわけで、そんな対話可能な存在はあの作品における魔族ではなかろう。