はてなキーワード: 廃仏毀釈とは
そして、他と差別化される
刺青とかコミュニティに帰属するか否かの分かりやすいスティグマだ
戒律はコミュニティが大きくなると複雑化し戒律の専門家が必要となる
その反動として、既存の宗教家を廃して新しい信仰に流れるのもまたいつものことで
由緒正しい神社仏閣をパワースポットと称する文脈無視のフリーライドな精神は
エルサレムがユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地となる過程を追体験しているかのよう
宗教の成り立ちにおいて、教義よりも宗教的聖地の方が先に存在するのだ
廃仏毀釈が一番激しかったのは鹿児島だそうで、寺がかなり迫害されたが
墓も墓参りの習慣も残っている
日本は、仏教、儒教、神道のちゃんぽんの言うなれば日本教の信者で
http://anond.hatelabo.jp/20160125135604
いろいろあった。
廃仏毀釈はいろいろ言われているが、理由の一つに明治政府が戸籍管理を寺社から奪いたかったいうのがある。
これと王政復古を背景とした天皇の権威向上もあって、神仏分離令から国家神道の成立となる。
国家神道は大日本帝国の実質的な国教だったわけだが、建前として、神道は宗教ではない、ということにされた。
これまたいろいろな理由があるのだが、外国との通商条約を改正するにあたり、キリスト教の排斥をしていると交渉の場に立つことすらできなかったとかがある。
初詣などが宗教行事ではなく、日本の慣習・習俗であるなどの論法はこのころに広まった。
GHQにより国家神道は解体された。昭和天皇の人間宣言が象徴的やね。教育勅語も墨塗りされた。
ただでさえ、宗教行事が単なる慣習に過ぎないとされていたうえで、宗教的な教義は完全に破壊された。
地縁から切り離された人間の拠り所として、本来なら宗教に大事な役割があったはずなのだが、前述のとおり破壊されてなにもない。
こういう拠り所を求める人間を鴨として新興宗教が猛威を振るったわけで。そうかそうか。
あらゆる宗教的な儀式は、外装だけを奪われて、商業的なマーケティング材料になっている。
心の拠り所を求める人は、多いが、それを宗教に求めることは少ない。
てきとうと言うまとめブログで吉水神社の宮司が極右レイシストだった件の記事(http://blog.livedoor.jp/googleyoutube/archives/51864154.html)を読んでいたら、嫌儲民が「他の宗教には弱者救済のシステムがあるのに神道にはない」と言う話をしていた。本当だろうか。
本当なら不思議な話だ。弱者のための、民衆のための宗教でないのならば、なぜこんなに長いこと存続したのだろうか。今はそうではなくともかつては、神道もちゃんと民衆のための宗教だったのではないか。もしそうなら原因は想像つくよね。国家神道だ。
もともと神道は原始宗教だった。権力者と民衆という構図が成立する以前の宗教だったわけでしょう。それが人々の生活の変化に適応するために、自らの不足を仏教から補ったのではないか。仏と習合することで原始宗教の域を脱し、民衆のための宗教になったのではないか。そして近代の始め、明治の神仏分離令および廃仏毀釈によって仏教が無理矢理引き剥がされてしまう。神道は切り刻まれ、権力者のための宗教、国家元首を現人神として崇める事実上の一神教として再編成される。神道が民衆のための神々を失ったのはきっとこの時だ。
仏教をはじめとする他宗教が弾圧、破壊され、神道すらも必要なものを根こそぎ削ぎ落とされてしまった。日本人が総カルト化するのも無理ないよね。あれだけ派手に敗戦し、現人神の幻想が消し飛ばされたにもかかわらず、神道は元に戻る気配がない。戻る場所がないんだ。元の姿は明治に破壊されてしまった。明治以前に何を祀っていたか、もはやわからなくなってしまった神社もあると聞く。
もしこれらの推測が正しいのなら、神道には宗教改革が必要だろう。神道を権力者の手から奪還し、民衆の手に返さなくてはならない。できないなら国教カルトに戻るだけ。
自分のツイートを転載編集。読み苦しいかもしれませんがご容赦を。
★近年池袋にある豊島丘女子中は女子中御三家に匹敵する偏差値にまで上昇しているが、
「池袋に湘南新宿ライン&副都心線が乗り入れたから偏差値が急上昇」した、という説がある。
大宮・浦和・川越・志木・武蔵小杉・東横線・横浜・・・辺りから通学しやすくなったから、一気に偏差値が上がった
★開成の歴史は詳しく知らないが、千代田線(常磐緩行線)が西日暮里開業して、一気に偏差値が上がった、ということはないか?
というか、山手線(京浜東北線)西日暮里駅自体が、千代田線に合わせて作った新駅だからなあ。
それまでは開成は日暮里又は田端から歩いてた、陸の孤島だった。
西日暮里駅開設で、山手線京浜東北線千代田線で「集客」できるようになったから、開成の偏差値が上がった説。
★男子御三家の中で武蔵が低迷してるのは、立地が山手線の外で、北西方面の中学生以外からは「通学が不便」だからでは?
★灘が名門になった背景には、京阪神間の鉄道インフラの充実が確実に影響している。
灘は住吉(国鉄→JR)、魚崎(阪神)、岡本(阪急)が使える。昔は阪神国道線(路面電車)も利用できた。
ライバルの甲陽は、阪急以外は使いづらい。この辺も影響して偏差値に格差?
昭和40年代に神戸高速鉄道が開業し、山陽や神戸電鉄沿線の子供も灘に通いやすくなった。
灘が東大合格者数が1位になった時期がそれと一致するのは、単なる偶然か?
★近鉄と阪神のなんば直通運転で、従来なら東大寺学園を目指した奈良の秀才が、灘を目指すようになったらしい。
徐々にその効果が出てくるのでは?
★80年代に開成が灘を抜いたのは、「開成が上がった」というよりは「灘が落ちた」というのが正しいのでは?
70年代に関西の繊維とか商社とかがダメになり、本社の東京流出が目立ちはじめ、アッパーミドルの親が東京流出したのも大きい気がする。
★名古屋圏が御三家や灘クラスの難関中学を生み出さない理由の一つに、
「優秀な生徒を効率良く集めるインフラがない」、つまり「鉄道網が首都圏や関西圏より貧弱」という理由もあるのでは?
他にも「アッパーミドルクラスが、従来なら都電エリアに集住してたが、
高度成長以降、郊外にも分散居住するようになり、学区内のアッパーミドル数が減った」影響も無視できない。
★筑駒が躍進した一因に「アッパーミドルクラスの人口重心が日比谷付近から渋谷付近に、南西に移動したから」
という要素はないか?
★「アッパーミドルクラスの人口重心が、中高一貫校の難易度に影響する」仮説が正しければ、
湾岸エリアのタワマン大量供給は、中高一貫校の偏差値を左右する力はある。
★開成の躍進は「アッパーミドルクラスの人口重心西南移動」に反するが、
あれはやはり埼玉や常磐エリアのアッパーミドルクラスを一網打尽にしたんだろうな。まさに西日暮里駅効果
★こうみると、アッパーミドルクラス人口重心論から超然としているラサールって、異質だな。
ラサールの歴史は知らないが、ひょっとして敗戦時に「日本をキリスト教化しよう」と開校したのか?
戦前に、保守の権化のような鹿児島にキリスト教学校設立が認められたとはとても思えない。
鹿児島って廃仏毀釈を徹底して仏教すら否定した土地だから、そういう土地がキリスト教を容認するとは信じられない・・
ラサールが「アッパーミドルクラス人口重心論」を無視して、今でも東大合格者数が上位なのには敬意を表する。
逆に言えば、そこまでして頑張らなければならないほど、鹿児島は保守が強いことを逆説的に証明している。
多分、地元の鹿児島県庁鹿児島市役所鹿児島銀行鹿児島新聞などは、昭和30~40年辺りは「鶴丸高校閥」が強固で、
ラサール出身者はいくらアタマが良くてもなかなか出世出来なかったんだろうな。だから福岡や東京を目指すしかなかった。
ラサールの開校は1950年。つまり最長老のOBでも79歳以下。だから県政界への影響力は鶴丸には遠く及ばない
あえて書くと、「逆説的だが、ラサール高校は鹿児島の保守性のお陰で東大進学校に成長できた」
★久留米付設は孫正義を生み出したが、久留米付設が優秀な背景には、
筑豊や三池の関係で優秀なアッパーミドル層があの辺りに存在した影響もあると思う
(はてなーの自分は、「はてな」というサービスを生み出してくれた近藤氏そして京都大学に感謝している)
★日本の私立中学文化が、日本の高度な鉄道インフラを前提としてるのは紛れもない事実で、
例えば都市内公共交通が未発達なアメリカだと、「公共交通で通学なハイスクール」は成立しない。あるとしたら寄宿舎型?
イギリスとかは寄宿舎型の私立スクールとか盛んですが、あれは都市内交通が首都圏ほど発達しなかった裏返しかもしれない
★鉄道インフラの進展と私立中学高校のレベル推移について、交通社会学?が専門な原武史先生に論文書いて欲しいものだ
「日本国民」とは誰かを定めないことには国民主権もクソもないのだから、当然といえば当然か。
それを法律で定めていいのか、とは思わないでもないが。
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
有名な「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」のうち唯一前文で明示的には出てこなかった「基本的人権の尊重」がここで出てきたか。
この「侵すことのできない永久の権利」を憲法改正で奪うことができるのかどうか気になるな。似たような疑問を前文でももったが。
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
自民党の草案で、この「公共の福祉」が削られ「公益及び公の秩序」に変えられたとネットで話題になってたな。なんでも人権制約の原理が「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」に変わることで制約が容易になるんだとか。
正直、大きな違いがあるとは思えないが。
13条。7月7日。
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
表現の自由みたいなのと比べると、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」ってえらく抽象的・包括的だな。
一つ一つあげてられないのでとりあえず「あらゆる権利を尊重すべき」的なことが言いたかったんだと理解していいんだろうか。
14条。7月9日。
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
3項 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
法の下の平等についての規定だが、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」以外の差別についてはどう考えるのか。
例えば最近話題になっている1票の格差も法の下の平等に関係する問題であるように思えるが、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」のいずれにも該当しない気がする。
15条。7月11日。
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2項 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3項 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4項 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
公務員の選定や罷免は国政に関係するのだから、これも国政の決定権は国民にあるという国民主権の一つの現れというふうに考えてよいのだろうか。
普通選挙とは、狭義では財力を選挙権の要件としない選挙のことをいうらしい。広義では教育や性別なんかも含まれてくるようだ。
そういえば歴史で、昔は一定額以上の納税者しか選挙権がなかったとかやったな。そのことか。
16条。7月13日。
何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
ふーんという感じ。
少し気になるのは、これまで「国民」の権利等に関する規定という体裁をとってきたのがここにきて「何人も」となっている点。何らかの意図を読みとるべきなのか。
何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
公務員の不始末はこれを管理監督すべき立場にある国や公共団体が責任をとりますよ、という話だろう。
気になるのは、公務員が公務とはまったく関係なく個人的な怨恨から他人にけがを負わせたような場合でも国などが治療費等の賠償責任を負うのか、という点。
国による賠償というのは結局税金なわけだから、もしもそんな責任まで国が負わねばならないのだとしたら、ちょっと勘弁してくれ、という気持ちになる。
18条。7月18日。
もっともな規定だと思うが、「奴隷的拘束」「意に反する苦役」をどう捉えるかでかなり意味合いが変わってきそうでもある。
たとえば徴兵制は「意に反する苦役」なのか。あるいは、無理筋だとは思うがワタミのようなのを「奴隷的拘束」とする余地は全くないのか。
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
思想・良心の自由を侵すということの意味をどう考えるべきか。たとえば廃仏毀釈よろしく仏教施設を破壊し、ただし内心で信仰するのは自由だから思想・良心の自由は侵していない、という論法は可能なのか。
そもそも思想・良心のような内心の問題はいかなる権力によっても強制できないとも言い得るのだから(表面上は従いつつ心の中で舌を出すことが可能)、その意味の捉え方次第ではこんなものをわざわざ保障する必要はないとも言えるのではないか。
http://anond.hatelabo.jp/20090910183829
元増だけど、幼児洗礼というか、それこそ乳児の時からの洗礼だから、一神教的な考え方はやっぱり結構強かったんです。仏教や哲学を学んで、神はいろんな形を取るという理解に今はいます。神的なものの表れをある人から見ると一神教的神になったり、仏になったり、神社の神様になったりという感じ。都合良いというか、いい加減というか。でも、はじめに僕の肩を叩いてくれたのはキリストさん、という縁はあります。彼を知ったからこそ、マザーテレサだけでなく、八幡さんや空海さんや一休さんに出会うことができたと思ってます。
で多分増田もわかっていると思うけど、僕が前の日記で言及したのは、その「一神教的」な神のことです。
曰く言い難いけれど、ちょっと、抽象的な感じがするんですよこの一神教というのは。
>>しかし、なんにせよ、アニミズム的な神道と一般的神や信仰とは異色の仏教とを、さらに神仏習合を経た
国家神道って王政復古の尻馬に乗った神職とおもに平田派の国学者たちがでっちあげたものだから、たとえば出雲派なんかとは軋轢を起こしている。寺院が幕府の出先という役割を負っていたために神職は僧侶に支配されていた。そのルサンチマンで廃仏毀釈なんかの過程で、かなり恥ずべき所行をした。このときの調子に乗った連中の行いは、実際、愚劣の一言に尽きる。
その後も権威を背景に持ってるもんだから、民間の神道思想家というのは、まあ、ひっどいもんで、碌なものではない。もちろん、廃仏毀釈が落ち着いて以降は、地方の神職たちは、別に普通で、非難すべきものでもないんだが、このあたりの民間のプロの神道思想家たちのイデオロギー的で誇大妄想的なことといったらない。
平田派の思想というのはキリスト教にヒントを受けた一神教的発想で神道を再編成したものだから、非常に観念的で神道の実際の伝統とは切れている。
現代の神道の問題は、皇室祭祀との関係から政治とも皇室という特定の家系とも縁を切れないこと。もっとも似たようなことは英国国教会にもいえるけど。
多神教を支持する集団が、多神教であるがために異教徒と争ったという例をおれは知らない。あるかもしれないけど、どうなの、その辺。
ヒンズー教徒にも原理主義者はいて、パキスタンとの紛争が絶えない理由の一つだし、そもそも独立時にインドとパキスタンが分裂した一因。
日本の廃仏毀釈運動だって、国家権力を握った多神教集団が異教徒を弾圧したという要素はある。(それが主たる要素だとまでは言わないけど、そういう側面は否定できないんじゃないかなあ。例えば「夜明け前」に出てくる藤村の親父さんなんて、多分に「神道原理主義」的なところがあるけど、ああいう人達が廃仏毀釈の一翼を担ってたわけでしょ。)