はてなキーワード: 親和的とは
やめるときの離脱症状がひどいことで有名なパキシルを断薬して3週間がたった。
はじめ1週間は、ひどい吐き気やめまい、船酔いのような感じが強かったが、もう収まった。
眠りも浅くて3時間おきに目覚める。
かと思えば仕事中に強烈な眠気が来て、帰宅後早々に布団にもぐり込む→悪夢で目が覚める。
体は疲れていて眠りたいのにぐっすり眠れない、というような。
仕事は、半日と、1日半欠勤してしまったが、何とか踏みとどまって通っている。
精神症状のほうもきつい。
私には特によく効いて、中~重度のうつから救ってくれ、はつらつとした明るさをもたらし、人間関係での病みも減らしてくれた。
うつが治って服薬しながら社会復帰した頃は、人に会いたい、話したい、笑いたい、そんな欲求がこれまでの自分じゃない別の所から沸いてきて、
「パワーがあるね」「めっちゃ明るいね」と周りからは思われていたと思う。
そんな自分が割と好きで、薬のおかげでうつも寛解し就職もできたと思っていた。
いま、脱力感、無気力、マイナス思考のループ、泣きたくなるような衝動、死にたいような気持ち
に襲われている。
薬との付き合いはもう7年になる。20代の半分以上を服薬しながら過ごしてきた。
以前の自分がどういう性格だったのか、本来の自分というものがあまり思い出せない。
もともと人付き合いは苦手で内向的、悩みやすく神経質、真面目で不器用なうつ親和的な性格だったように思う。
治療のためだっとはいえ、パキシルで、うつっぽかった性格が底上げされたような気がする。
離脱症状はいつまで続くのだろうか。引きこもりたい、誰にも会いたくない、眠っていたい
こんな症状はいつか終わって、またハッピーな性格になれるのだろうか。
薬なしで?
離脱症状で不安、ネガティブ思考が強まっているせいもあるのだろう。
それが終わったあと、薬なしの自分はあの頃の自分なのだろうか。
それとも、もう少し元気で強い私に成長しているのか?
普通の人は悩む前に行動してしまうので、「どうしたら彼女ができるのか」「そもそもなぜ彼女が必要なのか」といったことに悩まない。
だから喪男の悩みが理解できない。そういうわけで色々と矛盾のあることを次々と投げかけてくる。
喪男(喪女も含む)がなぜモテないかというと、脳の自己制御機能が強すぎて行動に抑制がかかりすぎているから。
要は生まれつきの性格の問題。こういうタイプは前近代なら仏門に行くか、見合いで強制結婚させられない限り相手見つけられないタイプだよ。
米国の研究だけど、30年前に比べて、現代は自己抑制的(神経症的)な子供が明らかに減っているらしい。
つまり、現代社会は、資本主義に親和的な欲望に忠実なタイプが繁栄し、欲望を抑えられるタイプはどんどん淘汰されていってるんだねー。
以前、社会人になってしばらくくらいの頃に、仕事がキツくて学生時代の友人に愚痴ったことがあった
その仕事は夜勤や不規則な呼び出しが多く、しかも俺のいたところは時間外をちゃんとつけてくれなかった
でもその話を聞いた友人は、「まーそういう仕事だし、仕方ないんじゃねーの?」って感じで
俺は「ああ、自分の仕事は友人にさえ辛さを聞いてもらえない、本当に最底辺の奴隷仕事なんだ」と思って絶望したもんだ
結局、体を壊してそこは辞め、今はもう少しまともな職場で働いているんだが
今度は友人の職場がブラック化してしまっているらしく、SNSを見ると徹夜や休日出勤を繰り返しているようだ
自分の経験もあるし、友人には「仕事より体の方が大事だ、やりかけでもいいから休め」と伝えているのだけど
俺の言葉は友人の心に届かないようで、行動に変化が見られない
ここに至ってようやく気付いたよ
昔俺が愚痴った時に友人があんな反応をしたのは、俺の仕事に対する理解がないからじゃなくて
だから自分がブラックの中に放り込まれても、「これはおかしい」と思えないんだ
自分も男性向け女性向けどっぷりたしなむオタクだが、碧志摩メグのキャラクターデザインは失敗だと思ってる。
モデルが志摩の海女という時点で「特定された職業」なので、当事者にとってはほぼ個人が特定されているのも同じだ。
しかも、海女という職業自体、性差別的な扱いを受けてきたという経緯がある。碧志摩メグ擁護派のなかには「海女なんて今まで散々エロい目で見られてきたくせに」と心ない言葉を向ける者もいること自体、この問題が職業と性的な差別を内包していることをあらわしてしまっている。
碧志摩メグは伊勢志摩サミットで海外にもアピールするためにつくられた「クールジャパン戦略」のキャラクターであり、完全に「公」の目的のために作られている。
つまり、萌えやオタク文化に親和的でない海外の人間の目にも触れることが前提となっている。
「もよおすヤツはもよおすのよ(多分ハルヒ)」
あらゆる表現から性的な視線を除くことはできない。それが真実だとしても、だからすべてを野放しにしていいとはならないだろう。大概はどこかで線を引いて、場所や状況に見合った基準を定めることが求められる。
ましてや行政の、特定の職業を指した、世界に発信するための、公認キャラクターだ。オタクのみに愛されればそれでいいというわけではないだろう。その「どこまで許容されるか」の適切さを見誤り、調整を怠ったのは落ち度だ。自分が普段は萌えキャラ好きのオタクだからといって、擁護してやろうという気にはならない。
もよおしたらダメなのかな?
誰もそんなこと問題にしてない。内心ですませるのなら自由だ。その自由に対していちいち他者の承認を求める必要はない。
ただ、あなた自身が「もよおされる」対象として扱われることになってもかまわないというタイプの人間であっても、他人はそうではないし、そうである義務もない。「もよおされること」が不快だ、嫌だと思えばそれを訴える権利がある。
それは人によるとしかいえない。感じ方もそれぞれだろう。
性的な目で見られるということに、暴力性を想像できないあなたは幸福なのだろう。
今回は海女という当事者がいるのだから、彼女たちだ。実在当事者が自分たちをイメージした図に対してNOと言ったことが重要視されている。
大使でなくても芸能人でも一般人でも男でも女でも、「性的な目」は他人に対しておおっぴらに向けていいものではないだろう。普通に失礼だとは思わないのだろうか。性的なものを感じたとしても、内心にとどめたり、相手が不快にならない程度の表現にするなど、気をつけるのがマナーのはず。
そういう為のキャラクターとして良い仕事しそうなのに、一部の大人の価値観で卑猥に見えるだからダメ、としてしまうのはすごく勿体無いと思うんだ。
良い仕事を期待されて創造されたキャラクターだというのに、「一部の大人」ではなく、当事者の海女にとっては受け入れ難いデザインになってしまったのが残念なんだ。
逆に言えば、若い子に受け入れられるなら、一部の海女が傷つくことはかまわないのか? 誰かの苦しみや悲しみの上に成り立っているかもしれないものを、「自分は気にしないから」と受け入れてしまうことに抵抗はないのか? 自分たちが楽しければ、得をすれば、「あなたたちにとっては気にならないかもしれないけれど、私たちにとっては耐え難い屈辱です」という訴えを無視していいのか?
反対している人たちの中には、「自分はこのキャラクターは不快ではないし、それに傷つけられることもないけれど、でも、当事者である人たちが嫌だと言っていることを、公共の利益のためといって踏みにじってもいいのだろうか?」と思ったから反対している人も多数いる。
要約:「文化芸術懇話会」設立趣意書にある「政策芸術」は国策芸術を意味するのではなく、政策を芸術作品との類比のもとで捉えることを意味する。後者の問題性に目が向けられるためにも、前者のような誤解が本記事で少しでも訂正されることを望む。
産経新聞が2015年6月25日に伝えたところでは、自民党の有志が立ち上げ、同日に第1回会合が行われた党内勉強会「文化芸術懇話会」の設立趣意書は、会の目的として「心を打つ『政策芸術』を立案し、実行する知恵と力を習得すること」を掲げていた。
◇安倍首相支持の勉強会「文化芸術懇話会」が発足 - 産経ニュース http://www.sankei.com/politics/news/150625/plt1506250043-n1.html
「政策芸術」という耳慣れない言葉について、この段階ではそれ以上の情報はなかったものの、多くの人がこれを「政策によって推進される芸術」さらには「プロパガンダ芸術」を意味するものと受け止めた。
第1回の会合で、講師を務めた作家・百田尚樹氏だけでなく、出席した自民党議員からもメディア統制を提案する発言があったと伝えられたことから、このように理解されるのも無理からぬところがあった。
◇自民党:安保法案で報道批判続出…改憲派の勉強会 - 毎日新聞 http://mainichi.jp/select/news/20150626k0000m010122000c.html
ところが、翌26日の衆議院平和安全法制特別委員会で、民主党の寺田学議員がこれらの発言について追及した際、加藤勝信官房副長官から、改めて「文化芸術懇話会」の趣旨について説明する場面があった。下に引用するように、これは上述のような理解とは異なるものである。
(加藤官房副長官の発言)「文化芸術懇話会、これは政治家に求められる教養と想像力を得るため、芸術家と共通する創作手法と成果の普遍性を追及(原文ママ――引用者注)し、世界の中で輝ける日本を創造し、デザインする上で必要不可欠であり、心打つ政策技術(「心を打つ政策芸術」の誤りか――引用者注)を立案し、実行する知恵と力を習得することを目的として開催されたものでありまして(後略)」
◇【安保審議詳報(1)】百田氏「沖縄2紙潰せ」発言で紛糾 民主・寺田氏「由々しき発言だ。党総裁として処分すべき」 - 産経ニュース http://www.sankei.com/politics/news/150626/plt1506260020-n1.html
つまり、設立趣意書にあった「政策芸術」とは、政策そのものを芸術作品になぞらえる考え方を示していたのだ。
これは政策の国民の心理に訴える面を強化しようという動きであり、注意して見ていく必要があるだろう。(追記:「プロパガンダ」という言葉を使って言い直せば、「政策芸術」とは、手法レベルで芸術を利用しながら、政策の実行過程そのものをプロパガンダとして機能させる動きだといえるだろう。そうした動きの一部として、政策を具体的に表現するために普通の意味での芸術作品が利用されることも大いにありうる(そうなれば「プロパガンダ芸術」だ)。「政策芸術」=プロパガンダ芸術という理解は起こりうる現象の一部を捉えていた。しかし、「政策芸術」はそのような狭義の芸術作品の利用よりも幅広く、〈芸術作品〉のように政策を立案・実行する現象の総体を指しうる概念だと考える。このように広くとった場合、「芸術家と共通する創作手法と成果の普遍性」の政策への転用は、表面的には芸術が関係しているとは思えないような、見えにくい形で行われることもあるだろう。)
さらに、いまのところはっきり表明されているわけではないが、政策に〈美〉の観念が持ち込まれるとすれば、より一層警戒されるべきだろう。〈美しい〉政策を打ち出すことと、〈美しい〉国家をデザインするという発想は親和的である。(そうした〈美しい〉政策は、現在誤解に基づいて警戒されているように統制的な芸術政策という形をとることも考えられるが、対象は必ずしも文化・芸術に限られない。その点では、単なる国策芸術の推進よりもたちが悪いかもしれない。)
「政策芸術」=政策によって推進される芸術という誤解は、時間の経過とともに少しずつ訂正されつつあるものの、まだまだ残っているようだ。こうした状況では、上述のような問題性に目が向けられづらくなる。本記事は簡単なまとめにすぎないが、誤解の訂正に少しでも役立てばいいと思う。
排外主義にも二種類あって単に他を廃するやつと自分の中に潜む「異端要素」をも廃するやつがある。
日本の場合は自制的排他主義が強いと思うね。その最たる例が日本と一見似た真面目な気質をしたドイツ人である。
ドイツ人は「懇切丁寧に相手に説明しないと伝わらない」ことを前提としてものを話す。
これは日本人からすればくそ真面目に映る部分であるが、欧米人からすればそういった部分は別にくそが付くほど真面目じゃないのね。
無個性という言葉があるけど人間そんな単純じゃないから無個性になんてなれるもんじゃない。
必ず集団の中には個性的な人間が出てくるものだし、1人1人を見てもね、必ずなくて七癖どこかに個性がある。
そこを己をも削り節のごとく削っていくとシンプルイズビューティフルのつもりがガリガリのダイエッターのようなことにもなりかねない。
もはやライフイズビューティフルのような世界だし(うまいこといった)、ビューティフルマインドのような人間も出てこない。
もっとも排他という行為自体にドMなまでの自制が待ち受けていがちなのは言うまでもないが。
結局のところ欧米的な個性尊重の流れでいくと差別を撤廃するしかないし、そう考えると日本という土壌は差別と親和的といえる。
それに日本で差別反対といったらしばき隊であるとか精神障害者と強く結びついてしまうのが実情で、
何か新しいことをして差別化を図ろうとする際にどうしても消去法でものを考えねばならない。
その方法は我々日本人が「オトナになる」(社会への適応性を高める)過程で一本槍の方法を学んでいくのである。
確かに日本社会への適応性を高めるという点ではオトナであるが国際舞台ではあまり役に立たない槍過ごしかたと言えるかもしれない。
国際舞台の話に対してアレルギー反応を起こして「ここは日本だぞ」と言っている場合かどうかは、やがて時の流れが教えてくれるだろう。