はてなキーワード: 弾圧とは
逆に聞くが、表現規制、弾圧が「善なるもの」だと言える理由が一つでもあるのか?
あなたは人に散々説明を要求しながらそれを理解しようともせず、自分に都合のいい点のみあげ諂って「区別できない」というばかりだ。
「もしそうなら」が違う以上違うのだろう。
いつの間にか頭の中で、奴が「奴ら」に変換されてませんか?
あんたとの会話においてはシュナムル事件が例だから一人に見えてるだけ。
最初から特定の行為をする者全体を敵としてるのにレッテルも何も無い。
全てそいつの行動に起因する。
そしてそのユダヤ人はマルコポーロ事件でも明らかなように表現規制の欲望を隠すこともしない。
我々は常に弾圧されてきた。だから単なる不快の表明でもやがてヘイトの正当化に繋がるから
全く違う。
女性、在日、LGBTが本邦で迫害されてた事実などないためユダヤを元に書くが、件のマルコポーロ事件での記事の趣旨は「アウシュビッツ事件の事実を考える」事であり、断じてユダヤ人人の排除や抹殺を図るものではなかった。
これに過敏に反応するのは防衛と言えるのか?
対して今回のシュナムル事件では、オタクカルチャーそのものの排除を目論んでいた。言わば直接攻撃である。
どうして同列に語れようか?
「世間を騙す」必要云々はそうなのかも知れないが、そもそも世間を騙さねばならない状態自体が弾圧を受けてるといえる。
?
誰も盾になんかしてないが。
単にセンサーとして敏感であると言っただけで、意図もない相手を攻撃する事を正当化はしない。
意味不明。
新潮の件でのスタンスからも明らかなように、私はオタク表現に限って物を言ってない。
それがたかがSNSの味方対敵の場から出て、不特定多数相手の法的処置の世界に移ったときに「反論し続けてきた」事実は大きいんです。
言ってることは綺麗だが、それは表現規制を迫る暴徒に対しての対策にはなってない。明らかに不十分。効果が見られていない。
オタクが誰かや何かの存在を排除、抹消しようなどと目論んだら当然非難の対象でしょう。
もしあなたの言っていることが全て実現した世界になれば、あなたの発言こそ
「他人の表現を規制(当然批判するだけも規制に繋がりかねないので含まれる)する自由は無い」のでできなくなるんじゃ無いですか
俺は「誰かの表現を規制しようとする」ことを非難しているわけで、そういう連中がいなくなれば私から言うことはない。
原因が無ければリアクションとして私のような事を言う奴も必要なくなる。
というか、LGBTの件はどうしたの?
折角話振られたから答えてるのに、都合のいい部分以外をスルーするのやめてほしいんだが。増田にはそういうやついっぱいいるけど現実ではかなり失礼だぞそれ。
3)
わざわざ付き合って貰ってるのにこういうこと言うのもなんなのですが
あなたのロジックはひとつ間違えると逆にオタクの弾圧にそのまま使えそうなんですよね・・・
もしあなたの言っていることが全て実現した世界になれば、あなたの発言こそ
「他人の表現を規制(当然批判するだけも規制に繋がりかねないので含まれる)する自由は無い」のでできなくなるんじゃ無いですか
お前まじで日本語読めないの?
「ほぼ」と書いてあるのが読めないのか?
柴田絵里が多くのフェミに影響与えて表現弾圧派を掣肘できてるの?ていうかしてるの?
論理的に反論できないからってあげてもいない足を取ろうとするなよ、見苦しい。
他の部分は丸っと無視してるし。ずっと。
いるだろうが主流ではないし、今回の暴挙を制止できるほどの勢力でもない。
しかもその中には「エロは死ね、BL批判はとんでもない」という支離滅裂の輩すらいるので「フェミの中のオタク」は「表現弾圧してない」とは言い切れない
そもそもフェミニスト(女のためのロジック)とLGBTは相性悪い。
最近はその傾向も緩くなってきたけど、
この部分は君の明確な読み間違い。
俺はラノベの件と新潮の件を「お気持ち表現弾圧という点で同じ」とは言ったが、「二つは同一の事件」とは全く言ってないし考えてもいない。
ずーっとこういう意味のことを言ってるのにお前は理解すらする気がないようだ。
ていうかさ、自分の増田で穴を突かれた点は全スルーして相手への批判だけする(しかも読めてない)ってまじで「議論できない奴」。
あなた、わたしが「議論するのが面倒くさい」と言ったら「議論出来ない」(anond:20180927135356)と勝手に読みかえたよね。
議論を「面倒だ」と思う=「議論に足る精神力すらない」=「議論できない」
そのくせ、LGBTの人たちの批判を、「相手の論を曲解している」(anond:20180928120547)とLGBTの批判を無効化している。
LGBTという概念を知らないで、LGBTを批判するのは「曲解」どころの話ではないし、
そもそもLGBTとは一般人の世界に入り込もうという闖入者であり、
その概念すら知れ渡ってない存在が自意識過剰・被害妄想な曲解で杉田議員を攻撃することへの問題提起が小川論文。
「LGBTそのもの」ではなく「連中の振る舞い」を否定するのに理解はいらないし、理解の強要は一般人へのセクハラ。
まあ、そもそも新潮45が(あなたの定義で言う)「批判」をしたLGBTは「生存権」のある人で、表現ではないから、新潮45に対する「批判」とはまったくレベルの違う話なんですけどね。
LGBTへの批判は生存権を脅かすものではない。ここで生存権を持ち出すこと自体があなたの論理的でないことを表してる。
「犯罪だから」は、あの器物破損、たぶん新潮社の看板について言ってるのだと思うけど、あれは犯人捕まってないし、その属性も、思想もわからない現段階でうんぬんするのは早計。
デモは違法ではないし、暴言って具体的に何よ? もしLGBTの人の内に暴言、犯罪する人がいたとても、それを「LGBT」という属性に帰結させて語るのは、
相手の発言をことごとく「差別」と断じて封殺を図るのは「暴言」と呼ぶのも生易しい。
そして今回の件で多くのLGBTやその支持者が杉田議員や論者たちに暴言を吐き、ヘイト呼ばわりしてるがそれをいさめる良識あるLGBTはほぼいない。
これはLGBTという属性の人たちの大多数が優遇をもとめ被害妄想に走っている証左と言えよう。
このようにあなたの「批判」「排除」「差別」という言葉の使い分けは、あなたのお気持ち次第なわけで、そこに一貫した論理はないわけだ。
あなたこそ、LGBTが一般人にしてる「排除」「差別」を「批判」「犯人は分からない」などと正当化してる。
つまんねぇ返しだな。
2.「性犯罪としての痴漢」ではなく「アブノーマルな性的欲求」として引き合いに出してる。
「叩こうとした」までは億歩譲って同じとしても(実際には小川論文は反撃でシュナムルは先制攻撃と言う重大な差異がある)、その求めるところには決定的な違いがある。
小川論文はLGBTの規制は求めてないのに対して、シュナムルは規制を求めた。さらにその一派には「自民党に依頼して法制化」などと言うことを言うものまでいた。
LGBTの件はフェミがどうとかは考えてない。Twitter等ではどうも同じ層の人たちが叩いてるように見えたが。
LGBTの件は「自称人権派、自称リベラルとLGBTが疑問を呈した人間を(人権と言うのは建前の)お気持ちを理由に弾圧、排除した人権侵害の問題」と捉えている。
これについては「実在すら怪しい幼女を代弁したフェミが自分の気に入らない表現をなんら根拠なきお気持ちで弾圧・排除しようとしてる」と捉えている。
実際にはオタクであるかどうかは関係がない。消費者たるオタクだけでなく、該当の出版物に関わる全ての人の問題だ。
変わらない。
変わる理由がない。
提示されてない。
思想としてのリベラリズムに準拠するならまず守るべきは個人の自由だから
イスラム勢力の集団がLGBTの弾圧を始めたらその脅威にさらされている個人を保護するべきだし
LGBTの集団がイスラム教徒を迫害し始めたらやめさせるべきということになるだろうね
優等生的な答えだと思うけど。それは遠くでやっているうちはそうだけど、たとえば日本に大挙して押し寄せて来た時とかに対応出来ないよね。たとえば日本全体の4割がムスリムになった時に、当然シャリア法でやらせろ!っていう話出るよ。その時に多数決で合法的に男女平等も人権もあっちへ追いやられる。
シャリア法って我々に理解しやすい言葉に翻訳されているが、彼らにとっては信仰そのものだからね。LGBTがどうだ人権がどうだって、こっちではそういうルールですって事ではあるけど、彼らには届かないと思う。
まず、昨今のLGBTQの動きと性の多様性を認めようという動きにわたしは賛同している。
休刊が発表された新潮45ではLGBTと題しながら、同性愛にクローズアップされて語られた。それは、同性愛が性欲の話になるからだと思っている。
両性愛者からすると恋愛を、同性しか愛せない、異性しか愛せないと語ることは、人格ではなく性別で恋愛の対象をふるいにかけることを肯定しろという発言で性差別にも思えるある種暴力的な言説ではあるが、それでもその言説が支持されるのは、性的欲求の対象を個人の理性でコントロールすることは、人間もまた性的な動物であり不可能であることを認められているからだ。
第4条(自由の定義・権利行使の限界) 自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない。
第5条(法律による禁止) 法律は、社会に有害な行為しか禁止する権利をもたない。法律によって禁止されていないすべての行為は妨げられず、また、何人も、法律が命じていないことを行うように強制されない。
他害しない限りは自由は守られるべきことであり性欲はその人そのものに根差すものだ。だから性愛対象を区別する権利、性欲を他者に抱かない権利、すべての対象に性欲を抱く権利、性欲を抱かない権利を、加害性がない限り肯定されるべきことだと思っている。
日本が明治以前は同性愛に寛容だったのは性欲を悪とする価値観がなかったからだ。明治以降のキリスト教的な価値観によって性欲が恥ずべきものにされていった。
つまり、生産目的ではない快楽を求めるためだけのセックスは道徳的によくないという価値観だ。このセックスを楽しむためだけのセックスは道徳的でないといった価値観が新潮45の論説に繋がる。
彼らにとって痴漢も同性愛もはしたない行為であり道徳的ではないから同じなのだ。
子供に性的なものを見せない配慮とは、責任を果たせない子供がセックスをすることを推進しないためなのと、過激な暴力描写は現実とファンタジーを混同しやすい子供には良くないといった理由であり、それは必要であると思っている。
ただ、それらを推進していない女性の体が強調されているだけの絵については、問題はないと考える。
気持ち悪いと切り捨て道徳を持ち出すことはかつて同性愛者を弾圧した言説と同じだ。
サイゼリヤのボッティチェリのヴィーナスの裸体のレプリカ絵が許されるように、露骨な性的表現がされていない表紙も許されるべきである。
日本では明治以降に抑圧された女性の性欲を漫画が勝ち取ってきた歴史がある。
ずいぶんと長いこと女性向け男性同士のポルノをヤオイと言って山なしおちなし意味なしと卑下しなければならなかったが、そのポルノ自体の卑下からはようやく脱却し、自らを腐ってると自虐することに移行してきた。その自虐も自虐ではなくなったきて、堂々と宣言しはじめてきたのを見ると女性がポルノと性欲を勝ち取ってきたのだと思える。
今でこそ形骸化してる雑誌アンアンのセックス特集も最初の衝撃はすさまじく、女に性欲があることを宣言する一つのターニングポイントだった。
気持ち悪いと道徳とモラルを持ち出して性欲と性的まなざしを否定し、ゾーニングを推奨する人々をわたしはフェミニズムだとは思わない。
いやだから、ヤオイがBLとなってその創作物自体を卑下する段階を抜けて、それを愛好する自分への自虐に移行していったことを言ってるので、同一視はしてない。
アンアンの衝撃については鴻上尚史の著作と当時の新聞の評論からなので、間違ってたら申し訳ない。あとアンアンについてはポルノとは言ってない。
24年組と風と木の詩からの流れを持ったJUNEと女性の二次創作が爆発的に増えたキャプ翼や聖闘士星矢で広がったヤオイが元々が別なのはわかっているよ。
ここらへんの知識は中島梓の「コミュニケーション不全症候群」の影響が強いので絶対とは言えないが、違ったことは知っている。
ただそれらがBLに吸収されるより前にまだヤオイと広く使われていた時代と腐女子の自虐の広がりは同時期だったと認識してる。
追記14:21
性的まなざしを通した視点で性的欲求を自身に齎す存在を表現することを「主体性のないモノ」扱いにしていると否定し規制させようとすること自体が、性的抑圧行為と同意味だと思っている。
そして性的まなざしを通した表現は男女に差がなく溢れている。なぜそれが正常な状態ではないと断言できるのかその根拠がわからない。