はてなキーワード: 家族主義とは
それは、世の中や社会から粗末に扱われる男性を、母親や妻だけが気にかけてくれているということです。
「男は家の外に出れば七人の敵がいる」という慣用句は、逆説的に家の中にいる母や妻だけは味方のはずだということを示しています。
だからこそ、物凄い権力者や金持ちであってもその辺の庶民であっても、男性は自分含めて誰からも気遣ってもらえない人生の唯一の安息の場所として妻を求めるのです。
女性が「この人は私が面倒見てあげなくちゃ」などと言いがちだったのも、男性の味方をして気遣ってあげるのは自分だけだという認識や満足感があるからです。
社会からケアしてもらえる女性と、社会からケアされないが母と妻からだけはケアしてもらえる男性、というバランスがありましたが、家族主義の解体や非婚の増加、母や妻を求めることがあてがえ論だと責められるようになり、女性は社会からケアされるが男性は誰からもケアされないだけという構造になってきています。
主にジェンダー関連でネット社会学者が炎上しがちで、社会学そのものは割と好きで個人的に読んでいる自分には残念だけど、炎上しがちな理由も否定できない。それは、彼らの多くが文学部出身なことである。
つまり日本の社会学者は、政治、経済、法律、福祉などの社会科学の勉強をほとんどしないまま、博士号をとって大学の先生になっている。歴史学者や文学者はそれでも問題ないが、社会学者の場合はその性質上、政治、経済、法律、福祉の問題に言及しなければいけない機会が多い。社会学会の中にいる時は、素人勉強でもボロが出ずに済んだが、外に向かって情報発信すると必然的に他の専門家から雨あられのツッコミを受けることになる。
一例として、コロナ禍の給付金の時に、「給付が世帯単位になっているのは安倍自民党の家族主義的な価値観のため」という説を大真面目に語っている社会学者がいてびっくりしたことがある。時の政権のイデオロギーで一国単位の制度が左右されるほど、政治と行政は単純素朴にできていないことは、政治や行政の専門家なら常識だが、社会学の中にいるとこれが分からなくなるらしい。他にもコロナ禍で左派系の陰謀論(「検査数を意図的に抑制して感染者数を少なく見せかけている」など)にはまっている社会学者が何人も見られたが、これも政治や行政の複雑さが全く見えていないためである。自分が尊敬する社会学者はそうではないが、一般的な傾向としては確実にあると思う。
先日見田宗介が亡くなり、学問と文学を架橋したと賞賛されていた。それは否定するつもりは全くないけど、政治や法律をまともに勉強していない自覚のないまま社会評論を平然と行う社会学者を量産してしまった、という負の遺産も忘れてはならないだろう。
なぜなら男女関わらず幸福度は結婚できるかにかかっているから。
体臭防止のために子どもの服はお湯を使って洗濯しなければならないし、中学までに歯列矯正は当たり前、高校に上がれば美容院に行かせる、大学合格したら医療脱毛に行かせるのは当然だ。
女の子なら目立つところのホクロ除去は親が手術代を出さなければならない。場合によっては、二重の手術も親の責任だ。
男の子なら中高の部活は野球サッカーバスケなど集団運動部か、吹奏楽演劇など集団文化部をやらせなければならない。男は部活で将来結婚できるかが大きく変わるからだ。
男女共に陰キャでも構わないが、男なら声掛けの練習をさせるし、女なら料理を完璧にさせるのは当然だ。
大学生になったら男はヤリ部屋を意識させて大学近くに住まわせるし、女ならできるだけ男が入りにくい寮に住まわせる。
男はモテ男になったほうが得だが、女はモテ男とは結婚させないのほうが得だからだ。
だから、声をかけさせる息子に対して、身の程を知らせる娘という教育方針で行く。
最後に、男女平等が嘘であることはアッパークラスのリベサヨの家庭が保守的であることを見れば明らかだ。
小野ほりでい氏の非モテ論が話題になって、小野氏の理論にリベラル、フェミニスト、元非モテの環 (id:fuyu77)氏が反論している。
各人の主張を簡単にまとめるとこうだ。
小野氏「ジェンダーなど社会的規範に囚われてる人は機械人間だ。よってモテに束縛される非モテは不幸」
https://note.com/onoholiday/n/n9ac24b2ef32e
環氏「非モテが社会規範を作ってるわけじゃない。望んでないのに非モテに脱規範しろと要請するのは押し付け」
https://fuyu.hatenablog.com/entry/2020/10/05/002610#fn-c625b784
二人の非モテ論を楽しく読ませてもらったが、人間の身体性からの視点が語られてないと感じたので、増田に書かせてもらう。
二人の議論の前提として、異性から好かれたい欲求はジェンダーや家族規範からくる欲望だとしている。
その上で、小野氏は非モテは社会規範から脱却を図ることが非モテの呪いを解く鍵だとし、環氏は脱規範的生き方を望んでいない非モテにそのような生き方を要求するのは酷だと論じている。
しかし異性から好かれたいという欲求は、本当に社会規範だけで説明できるものなのだろうか。
社会規範も当然異性から好かれたいという欲求に影響を及ぼしているだろうが、生来的な欲望、つまり生物的な本能も多大な影響を及ぼしていると私には思える。
言わば食欲と同じようなもので、欲望を抑えろと言われても中々抑えられるものではない。
「人間は食欲という社会規範に囚われすぎている。食欲に束縛される人は呪われていて不幸だ」
と言い換えると、小野氏の主張が多くの人間に支持されるのは難しい主張であると分かるだろう。
無論人間は食欲を抑えることはできる。
歴史上何人もの僧侶が即身仏になった事からもそれが可能であることが分かる。
同じように異性から好かれたい欲求から逃れることは、特に若い人間にとっては困難な選択だろう。
食欲を消せないように、人間は異性から好かれたい欲求とも上手く付き合っていくしかないのだ。
環氏は「恋愛、家族主義は広く世間一般に強固に支持されてる。非モテが恋愛、家族主義を形成してきたわけではない。家族主義の解体は現実味がない」と論じているが、私はその現実味がない理由として、異性から好かれて自分の子孫を残していきたい欲求は生物が生まれつき持っている本能だからだと考えている。
自由恋愛主義が明治時代に海外から持ち込まれた主義だとしても、異性から好かれたい欲求や子孫を持ちたい欲求は生来的な欲求であろう。
世界的な統計データでは「独身者は既婚者より10年平均寿命が短い」そうだ。
生来的な欲求を変えることは困難であるから、非モテが異性から好かれたい欲求を持つことは呪いだ、自分で自分を楽しませろ主張は、非モテでストレスを感じ寿命が短くなっても我慢しろと言ってるのと変わらなく、非倫理的だ。
もっとも、結婚後離婚した男性は独身男性より寿命が短いのだが。なお女性は離婚しても独身女性より平均的に長生きなので女性は強い。
(本文では"モテる"という言葉は使わず"異性から好かれる"という言葉を多用しました。"モテる"は多数の異性から好かれると言う意味と、少数の異性から好かれると言う2つの意味で使われる事があり、紛らわしいからです。)
続き的なもの書いたで
新卒就活の時の希望は「結婚しても出産しても長く働ける会社」だった。
民間企業だと難しい条件だと思ったので、1年かけて公務員試験の勉強をして、公務員ではないけどそれに近い団体の職員になった。
カレンダー通り休めて、有給消化もばっちりで、子持ちの女性もたくさん働いている希望通りの会社だ。
「あがり」だ。私はそう思った。でもそこはある種の地獄だった。
結婚出産がキャリアに影響しずらい分、女性に対する結婚出産圧力がすごい。しかも男性からではなく、女性からの圧力がすごい。上から横から下から、私はまるで男と番って子供を産むために存在するかのようだ。職場結婚も多いので、男性の職員と雑談してるのを目撃されただけで「付き合ってるのでは?」と噂が立つ。
子供を産めば産んだで、旦那や子供に対する詮索が始まる。どこに勤めてるの、どこの学校に行ってるの、兄弟構成は、子供の恋人は(!)、などなど。しかし詮索する方もされる方も「旦那と子供のスペック=女の価値」と思ってるので、旦那の愚痴と「子供をどうすれば”まとも”に育てることができるか」への執心がすごくて「まともじゃない子なら自分の手で殺したい」という人を見かけた時は戦慄した。
あと家族主義がすごい。すぐ実家に帰るし、実家に帰る頻度を聞かれるし、結婚出産の圧力も結局は「ご両親を喜ばせるため」だ。人の親である人が多いので、私に自分の娘息子を重ねてるのかもしれない。やめてほしい。
「女性が働きやすい職場」の現実を見て、あまりの気持ち悪さに転職を考えた。それにあたって、なぜ自分が新卒時にこんな職場を目指したのかを考えた。
私は子供の頃から鈍くさくて不器用な子で、人間関係でつまずいて小学校のとき不登校になった。「まともじゃない子」だ。
「大人は仕事をするのが義務、子供は学校へ行くのが義務。義務を果たさない人間に居場所はないんだよ」と両親は言った。唯一勉強が得意だった私は、「学校には行ってないけど、学校に行った子より成績が良いよ」と返した。実際そうだった。
その後学校に行けるようにはなったけど、何度も学校生活につまづいた。頑張っていた甲斐もあって成績は良かったけれど、両親の望むような快活な優等生ではないという自覚があり、彼らの胸先三寸で私の「居場所」はどうにかされるのだといつも思っていた。私に出資する価値はありますよ、不登校にはなったけどあなたたちの求める「まともな子」になれるんですよ、というアピールとして「たくさん勉強して良い大学に入って、女性でも長く働ける職業に就きたい」と主張して、大学に入って就職した。仕事・結婚・出産・介護、娘という存在に可能な価値の最大化をしてみせないと進学させてもらえないと思ったからだ。
結局私は、サーカスの象がエサのために芸をするように、勉強や就職をしていただけにすぎず、それのヴァリエーションとして結婚や出産があっただけなのだ。
それに気づいたとき、私はなんて荒涼とした価値観で人生を歩んできたのだろうと思った。ここまで頑張ったけど、私は両親のことも、勉強していた学問のことも、仕事も、男性も、まったく好きではない。ただ義務感しかない。そしてもう義務感だけで何かを成せるとは思わない。
ということで、私は自分の人生から、結婚と出産と、ついでに両親を外すことにした。
転職先は拘束時間が長いこともあって、家庭を持って働いてる人は非常に少ないし、子持ちの母親はいない。申し訳ないけど、この環境にすごく心の安らぎを感じてしまっている。
もしかしたらこの先、本当に他人を愛せて、家庭を作りたいと思う時が来るかもしれない。その時は結婚と出産のことを考えたい。もう子供を望めない年齢になってるかもしれないけど、昔の自分のような虚無を生み出すよりははるかにましだと、私はそう思う。