はてなキーワード: 味噌とは
遠洋漁業で家を空けることが多い夫。
次帰ってくるのは半年後だ。
鰹のなめろう。
28の若くも老けてもいない、ただ数年前より確実に瑞々しさがなくなった二の腕に肉片が付いた。
その肉片をふと眺める。
口を近づけ、肉片がついた二の腕に吸い付く。
口の中で舌をナメクジのように這わせ、二の腕についた肉片を食べた。
まだ味付けをしていない生臭い肉片。
あれはいつだっただろうか。
あの時も夕飯はなめろうだった。
味噌や生姜を入れてもまだ鰹の生臭さは取りきることはできない。
私はごめんねというのだが、旦那は「海の男にはこれくらいが丁度良い」と笑い飛ばす。
私は良くないのだ。
歯を磨いても取りきれない生臭さ。
頸を舐め、乳首を舐め回す。
鰹臭くなった身体を洗う。
なんでこの日に限ってなめろうなんて作ったのだろうと後悔した。
ただ、鰹の臭いを洗い流す時間、それも幸せだったのかもしれない。
今はそう思う。
2階にいる息子を呼ぶ。
こないだ研究学園駅前の慈久庵酒趣って蕎麦屋のテイクアウト頼んだんだが、一緒に入ってたローストビーフが無茶苦茶美味かった。なんかこう、おうふっ!て感じだった。
というか入ってる料理が片っ端から美味かった。にんじんの天ぷらも朴葉味噌焼きも芋羊羹もフレンチトーストも美味かった。
蕎麦は茹で方メモ通りには茹でられなかったけど(ザル in 3Lのお湯とか無理)、プリプリで美味かった。つゆも美味かった。
つくば市のpaypay3割還元に入ってるからお得感もあった。あとpaypayは初めて使ったけどこんな簡単に公的なポイント還元が連携できるのはすごいなあ。天下とるねこれは。
なんにせよ美味かった。テイクアウトは前日までに予約必須だ。水戸の本店から運んでるからな。つくば市の3割還元は今月までだ。
その日は、普段料理を作ってくれる母を労うため、夕食の支度を担当すると申し出た。予算が言い渡されて、その中で献立を考えることになった。その頃自分は、ステーキ肉の脂身から卒業して、刺身のうまさに目覚めた頃だった。刺身ならご馳走だし、ややこしい調理もない。包丁さえ操れれば料理初心者の自分でもなんとかなりそう。というわけで、父親にダイエーまで連れて行ってもらい、刺身用のアジを丸ごと一匹買ってきた。値段もお手頃だし、それでいて王道のマグロより光り物の方が大人っぽく贅沢な気がした。しかしそもそも魚など捌いたことがない。雰囲気で三枚おろしに挑戦するも、案の定、身がボロボロになりとても刺身にできる状態ではなくなった。涙目になる僕。そこへ父が助け舟を出してくれた。父が言うには、アジを細かく刻んで味噌やらネギやらと一緒に包丁で叩いた「なめろう」なる料理があるらしい。そこで急遽、もはや刺身とするには目も当てられないほどよれよれのアジの身を、証拠隠滅の勢いで叩いてなめろうに仕立て上げ、人生初の手料理を母に振る舞うことができた。母はいたく感動したらしく、それを同級生のママ友に触れ回ったせいで、それからしばらく僕は周りからからかわれることになった。基本口数少なめで、ラグビー部に所属しているような思春期の男子校生が料理なんて、と。まだ昭和だった頃のなめろう一口話。
埼玉県民になったらショッパーを読みなさい
元大宮市民だけど、今の時期だとイチゴの地元販売所探すと楽しいよ
地元のお母さんたちの間で、ネットには載ってない口コミでのイチゴ販売所ある
そのせいか、グーグルマップで検索できない販売所に人殺到してるよ
他には大宮だと市民の森(イベント時オススメよ、コロナ終わったら行ってね)とか、
他の人も言ってたけどコクーンシティとか(フライングタイガーよく行く)
氷川神社の揚げ饅頭とか、市民会館そばのコーヒー屋とか(超お気に入り)、
大宮公園のにおいがスゴイ無料の動物園とか(コロナで開いてなかったらごめん)
競技場のあたりに夕方行くと犬の散歩スポットでめちゃくちゃ犬と遊べたり
○○○○の焼肉屋とか●●の焼き鳥屋とか浦和のイタリアンとか(すべて予約必須)
上尾の激安でうまいカレー屋(大宮周辺実はカレー屋が多くてうまい店多い、駅からは遠いので車必須)
吉見の百穴は夏めちゃすずしいとかね
とかね、もしリアル知り合いならお勧めしたいところいっぱいある
なら高崎線沿線の焼肉屋ぜひ探してみて! おしゃれカフェとかもめちゃ増えてた(2年前の帰省時の話)
散策するなら氷川神社の参道(確か日本一だか、関東一だかの長さ)をぶらぶらするのいいよ
帰りに、氷川神社でお水もらって帰るのおススメ(コロナだからやってないのかな)
少し遠いけど、イオンレイクタウンとかあとは大宮市場で肉買ったり
個人的には大宮ソニックシティの1階だったかのホテルロビーにあるカフェで
外見ながらお茶するのが好き
茅野市民館について、確かに本の背が焼けてしまうような場所に本棚を設置したのは完全に設計ミスで、配慮すべき問題だったとは思う。でもそれをもって、はてなでもTwitter上でも「だから建築家はダメなんだ」「建築家なんてオナニーばかりしてる傲慢な奴らは消えろ」「プロとして失格」と鬼の首でも取ったかのように建築家叩き(この設計者だけではなく、建築家という職業叩き)が行われているのを見て、近所に住むものとしてすごくモヤッとした気持ちになった。
茅野市民館は、建築家がオナニーで建てた建物じゃない。基本構想策定の段階から茅野市民が携わり、市民と何度も何度もワークショップを重ねて出来た建物だ。https://www.city.chino.lg.jp/soshiki/shogaigakushu/899.html
市民がどのような場所が欲しいのかを一緒に考えただけあって、地元ではきちんと愛用されている建物になっているし、実際私もすごく心地いい空間だと感じる。近所にこんな建物があってよかったなと思っている。
「受験生や市民が多く利用している」「自分の家の様な気持ちになれる空間を提供してくれる」
「市民が憩いやすい環境を整えて、多くの学生が勉強に励む姿も見られる」「地域の集まる場所として良く考えられている」
「地域住民の創意をなるべく回収/発露させる場となっている」「図書館ライブラリーは最高です。半日は過ごせます。」
「随所に、茅野市は芸術文化に前向きだというメッセージを感じる建物だと思う」
と、この建物についてポジティブに捉える人の声がたくさん集まっている。私の周りでも市民館を利用する人は多い。これは設計者の「この建物を地域の人が交流する場にしたい」という思いが見事に機能した結果だと思う。
もちろんレビューの中には「本の背が焼けている」「西日が強すぎで図書スペースは春先ですでに暑い」というネガティブな声もあるし、その部分についてはさらなる考慮が必要だったと思う。確かに館内が暑いなと感じる日もある。でも、その一点のみを取り上げて「これだから建築家は」と断罪するのが果たして好ましいことなのだろうか。みんなに利用される交流の場としてきちんと機能するものを作った、地域に愛されるものを作ったという点だってきちんと評価されるべきなのではと思ってしまうのは、おかしいことなのだろうか。なにより自分が好きで愛用している建物や、それを考えた建築家がクソ味噌に言われるのがこんなに悲しいとは思わなかった。
本を守るという機能面だけを考えたら、行政が一方的に計画しゼネコンに投げただけの建物の方がずっと好ましいのかもしれない。でもそうやって出来た建物に、このgoogleレビューのような声が集まるだろうか。なにより地域住民に愛される建物になりうるのだろうか。私は建築家が必要な理由は、時に哲学的に、人が建物の中でどのように過ごし、どのような交流を発生させるかを考えることができるからだと思っている。建築家と言うと外側のデザインを考える人みたいなイメージがあって、実際そういう人も多くいるとは思うんだけど、優れた建築家ってどちらかと言うと建物を利用する人の動きをしっかり考えられる人なんじゃないかと思っている。ただ機能を整えることの先に、人が建物に触発されて新しい何かが始まる...そんなことを考えることが出来るからこそ、建築家という職業に価値があるんだと思う。
ここまで建築家が叩かれるのって、これまで好き勝手やってきた人達がいたことの蓄積があるんだろうなと思うし、実際建築家業界での馴れ合いや選民意識みたいなのもあるからなんだろう。そういうのと今回のような分かりやすい失敗がかけ合わさって、建築家全員死ねみたいな空気が作られてしまうんだろうけど、私は目に見えない豊かさを提供してくれる(こともある)建築が好きだし、そういう価値がより理解される世の中になって欲しいと思う。そのためにも建築家の人は反省するところは反省して欲しいし、私たちも分かりやすい点だけで建築家を一方的に叩くことはやめていけたらいいなと思う。ダメなところはダメと言い、いいところはいいと言う。そうやって世の中を豊かにしていけたらいいのに。
眠れないのでネットを見ていたところ、なんか具が少なめの透明な和風スープの画像を目撃してしまい、猛烈にそれが飲みたくなった。
しかし冷蔵庫に入っている汁にできそうなものは味噌ぐらいのものである。
かくして俺は椀に塩・味の素を、ごく少量のみりんで伸ばし湯を入れ飲んだ。
苦肉の策だった。
するとどうしたことだろうか。実態のない、亡霊のようなうま味が俺を襲ったのだ。
いや、実態はある。味の素である。間違いない。だが言いたいのはそういうことじゃない。
つまり、何らかの味に紐づいたうま味ではなく、単純なうま味だけが塩気を伴って舌に浸透してくるのだ。
掴み所も、手応えも、奥行きもない、主役を欠いたような味。
これはなんであろうかとしばし逡巡したのちに得た結論は、「松茸のお吸い物から松茸の味を取り除いたような味と言えるもの」だった。
厳密に言うと松茸だけではなく、海苔や麩の味や風味か。なんとなく、和風の味を得ることができた気がした。
そんな風に謎汁をすすっていると、一つの考えが頭を過ぎった。この判断は舌の記憶によるものではないのかと。
つまり、俺以外の人間がこの塩と味の素の汁を飲んだ時、これはxxからxxを抜いたスープの味だと、身近な、或いは求めていたスープの名前を挙げるのではないだろうか。松茸のお吸い物ではなく、だ。
塩味とうま味しかないお湯である。そこからなぜ松茸のお吸い物の味を見出したのか。
そして、大抵のスープのベースであろう塩味とうま味。これを共通項として取り出してしまった過ちが、存在しない松茸の残滓を舌に錯覚させたのだ。
この汁は鏡だった。
塩と旨味調味料だけで構成されたこの液体は、その人の欲望と記憶を映し出す鏡だったのだ。
こういうことはこの汁に限った話ではないと思った。
人間、何にでも当てはまるような要素を根拠に、自分が知る限りだとこれだ、或いは、こうあって欲しいから、といった具合に、考えを狭め、当て嵌め、望む結論を得ようとしてしまうことがあると思う。
しかしその結論は錯覚なのだ。この汁はそういった人間の愚かさを俺に教えてくれた。
今回の件は一種の自戒のきっかけとして考えるとともに、皆様にもぜひご賞味いただきたいと思いました。