はてなキーワード: デザイナーとは
2ちゃんねるその他のSNSでださいだとか、これはないわ〜とか酷評される
こんな酷いデザインが、当選されるような選考委員会とか、デザイナーの経歴や過去作品に2チャンネラーやネット住民の興味が集中。
■オリンピック公式エンブレムのデザインが盗作ではないかとよく似てる海外劇場が声を上げる
たしかにそっくり
ユーミンのアルバムジャケットは、駄目だろう、くらいの盗作疑惑
■選考委員とか経済産業省とか、電通とか博報堂とか人間関係相関図が出まわる
これは、なんかおかしい
◯最初にこのデザインはださいよね。とか、一般人が酷評するようなデザイン自体が低レベルだと思うし、そのデザインを当選させた選考委員のレベルを疑うといいと思う
わたくしは、佐野さんのデザインしたエンブレムをオリンピックに使ってほしくないし・・・東京オリンピックまるごとなくなってほしい
首都圏は渋滞するし、交通機関は混みまくるし・・・経済効果って、恩恵を受けるヒトや法人は一部だけで
あとは、大迷惑だと思うの。
彼のデザインの何が良いのかさっぱりわからないという人たちへ。
ひとつ間違えて欲しくないのは、彼は「デザイナー」ではなく「スターデザイナー」というお仕事をしているということ。スターデザイナーのデザインを審美的な視点で見ても意味はない。
広告代理店はスターデザイナーがいたほうが仕事を取りやすい。クライアントもスターデザイナーがいたほうが依頼をしやすい。若いデザイナーにとってスターデザイナーのおこぼれはありがたい。リクルート的にも憧れのスターデザイナーはいて欲しい。安心、ブランド、憧れ、そういったものがあったほうが仕事は楽なのだ。業界の構造的にスターデザイナーは必要とされている。それだけではない。
業界は盛り上がりが欲しい。社会的にいかに広告やデザインは素晴らしい仕事か、存在するに足る職業かをアピールできなくては人やお金は集まらない。ただの人の発言には注目は集まらない。だから嘘でもスターが必要になる。アイドルグループにセンターが必要なように。わかりやすいアイコンがあり、それが魅力的ならば人は集まってくる。業界の社会的地位のためにもスターデザイナーは必要とされている。
必要だからスターは作られる。スターの実際のアウトプットは本当にすごくなくてもいい。代理店や業界紙がそういうことにすればいいのだ。あなたがスターの作ったものに首をかしげるのは当然だ。アイドルが幻影でしかないようにスターもまた幻なのだから。
しかしこれは業界内だけの話ではない。インターネットがこれだけ社会に浸透し、すべての価値が相対化される世の中でも、人はどこかに「絶対的にすごいこと」があって欲しいと希望している。そういう需要に、業界は「すごいこと」に見える幻を作り出して応えているだけなのだ。だから権威をつくり、賞をつくり、賞を与えて、スターをつくる。
しかし私たちはすでに知っている。相対化された世界では、どこの誰とも知らない誰かが与えた評価に意味はない。賞レースは身内の馴れ合いゲームでしかない。うんこをしないアイドルはいない。
でもね。メジャーがなければマイナーは立たない。メインがなければサブは光らない。王道がなければ邪道もない。身も蓋もないことを言ってはロマンがないのだ。嘘の世界のほうが夢があるのだ。そして夢で膨らんだ幻は金になるのだ。
あなたにはスターデザイナーの作ったものの価値はわからない。インターネットの中にいるから。スターの価値は相対化してはいけない。
彼の仕事の評価を声高に問うあなたは、正義を行っているのかもしれない。でもその行いは社会から夢やロマンを剥ぎ取っていくことになる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1849677.html
id:funamushiko トートバッグに印刷できるような解像度の画像は正規購入しないと手に入らないんだからどう考えても権利処理してるよ。著作権非親告罪化が問題なってる現状で、素材集の素材を使ってパクリ認定される世の中でいいの?
その後↓
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00300210.html
駄サイクルという言葉が遠洋まで援用されていたので、当たり前のことだけですが、少し補助線を引きたいと思います。
某デザイナーが代表のデザイン事務所の某キャンペーンのお仕事について擁護しているわけではありません。
まず、その分野の第一人者であることが条件です。このとき、応募されたものの内容が優れているか、募集と合致しているかを判断できる能力があること、実現可能であるか予算面などから判断できる能力があることなどが挙げられます。それぞれのジェネラリストやプロフェッショナルはバランスを見て配置します。(これは各種の調査・監査委員会の顔ぶれを見れば分かることだと思います。)
一方で同業界内の人材だけでは、それが審査後の反応の中で理由の一つとして挙げられることが必ずと言っていいほどあります。実際に新鮮味に欠けるなと感じる判断が見られ、「多様性の確保」の点で好ましくありません。
また、市民投票といったケースもあります。私はクラウドファウンディング系やファン推薦枠のような使い方ならばありだという立場です。それは、「自分たちで選んだんだから〜」という論理で押し通す形は出来る限り避けたいからです。
経験値と実績が何より重要になります。また、特定分野の最前線にいることです。それは各方面への信頼と信用、時流や資料から読み取れる能力に優れて出来るからです。これは本当に月とスッポンなので、検討の余地はないと言って過言ではありません。(某競技場のようなケースは、元々の予算ありきでフィックスしていくという困難を抱えてはいたものの、上手く見せるべきだったと思います。)
その中でなぜ重複が起こるのかというと、上の条件を満たす数がいないからです。ある程度の規模のものを任せられるとなると尚更です。大きな事業はたくさんあるわけではないし、多くの方から評価を得る機会もまた数えるほどしかないから当然です。
最前線にいる人間は、公募事業について選考委員としてではなく逆の立場で関わることもまたあります。これは全くおかしなことではありません。場の違いはあれど、互いを評価することは恥ずかしいことでも卑しいことでもありません。
お上の慣習などの悪い部分は前提としているので、その点はご勘弁ください。
私は審査の一部分はオープンにしてよいという立場ではありますが、権力構造が存在していることも事実であるので、一切合切オープンにすることは賛成しかねます。それは、出来レースではなく落選者の周辺からの圧力行為への対策です。大きめの公募で選考理由や過程をオープンにしていない場合、理由の99.9%がこれだと思います。
同じ立場に立ってからじゃないと批判しちゃダメって、それいつの時代の論理よ。
デザイナーの視点から日記を書いてるくせに「表現・言論の自由が今回はムシされて然るべきだろ」という自分の畑を根底から覆す発言をしてるんだもんな。
プログラムのオリジナリティの証明として、外部と接続していない開発環境を用意して、よそのソースをコピペしていませんよとアピールしているソフトウェアハウスがあった。
この方式を応用すれば、変な疑いを持たれることはないんじゃないの?
オリジナリティを担保するのであれば、デザイナーを1日山奥の温泉ホテルにでも缶詰にして、紙と鉛筆を与えて取り組ませればええやんと思う。
結婚を機に、未開の地へやってきた。
クラウドワークスでデザインとイラストの仕事を受けたり、知人から小さな仕事をたまーにもらったり。
しかしどれも単価が安い。
ごくたまに大きなところから依頼が来ると、金額がちゃんとしているので
「安請け合いしてたな〜…」と思うこともしばしば。
そういえば、周りに知り合いの同業者もいない。
どうにかしなければ、と思ってるのだけど。
どうやって営業をすればいいのかが分からない。
ちゃんとした単価の仕事を、少しずつ増やしていきたい。
基本デザイナーは才能がない。
電博をエリートというけど、あいつらも多くはただのデザイナー。
クリエイティブな才能があるわけじゃないのに(その裏返しなんだろうが)
実際は才能ないのに代理店が剛力的ゴリ押しかましてたから一斉に反発が出るんだよ。
多分もう無理だろうねえ。
つまりデザイナー様は凄いから一般人は批判するな、ただただ黙ってデザイナー様の素晴らしいデザインを崇めてればいいんだよ、デザインも分からない素人は口を挟むな、カネだけ挟んでね。ってことか?
デザイナーを批判するのも評価するのも、それが許されるのは同じ立場のデザイナーだけ。
それに問題の本質をすり替えてる。デザインの善し悪しじゃなくてパクリが問題視されてるわけで。
同窓会や出身閥互助会が憎いのは、一般人だけじゃないけどね。むしろ、そこから外れたデザイナーの憎悪が高い。しかもそっちの方が人数的にずっと層が厚いからね。
グラフィックデザインの文脈でよく語られるデザイン史は、バウハウスから始まって、グーテンベルクの活版印刷、雑誌時代のエディトリアルデザイン、広告コミュニケーション、テクノロジーとの融合というものだ。また別軸で、グラフィックデザイナーの職能として、工業化社会における機械製品の美学的側面を整えるという歴史があった。まさにテクノロジーの隆盛と歩んできたデザインである。生活を便利にする機械製品(電話や洗濯機など)は生まれ、パーソナルコンピューターは普及した。そして、グラフィックデザインをするためのツールや思想は世の中に溢れ、誰でもグラフィックデザインの勉強ができ、誰でもデザインを作れ、誰でもそういう成果物に対して口出しできるようになった。
いつからか、総合的な計画であるはずのデザイン行為の中から「美学的側面」のみが取り出されて、それに対しての褒賞制度が整えられたのだ。日本で言えば、たとえばJAGDAの褒賞制度。特にグラフィックデザイン業界におけるそれら褒賞制度は、そのほとんどが美学的側面の評価しかしていないので、それがビジネスを支えるツールとして、実際的に機能的であるかどうか定量的に計測されていないだろうし、主催者も応募者もそういう側面でしか見てなくて、内輪で楽しく賞を送り合っている構図がよく想像される。その外に居る人がどれだけ社会に対してインパクトのある仕事(例えば新しいムーブメントを起こしたり、技術や生活基盤を進歩させたりなど)をしても評価はされないのだ。格好良くないという一言で、彼らのコミュニティから排除される。いつまでもはびこる師弟制度、ごますりが必要なコミュニティ入会の現状。
デザイナーではない人はそもそも「上位の概念としてのデザイン」に対するリテラシーがないので、デザイン=格好良くてお洒落な見た目をつくること、という短絡的な思考でしかデザインを評価できない。つまり、受賞した人間はいいものを作っていると。しかし褒賞制度がそもそも歪んでいるので、受賞者がビジネスや社会のライフサイクル的な側面に目を向けられる人間かどうかという評価の視点が抜け落ちてしまっている。僕はこういったデザイナー達を「グラフィックアーティスト」と呼んでいる。決して「デザイナー」ではない。
本来的にビジネスと協調すべきデザイン活動が、それを無視した褒賞制度によって、奇抜なことをするデザイナーこそ優秀であるという歪んだ理解が社会に溢れてしまった。そういうデザイナーたちがつくり上げるものには、機能的側面が欠落してしまうことが多いと思う。デザインの機能的側面が考慮されないデザインは、はたしてデザインと呼べるのか。社会をより進歩させ得る力があるのだろうか。
また別の観点では、現在多くの美術教育の現場にも問題があると思う。教育者自体が、旧来的なグラフィックデザインの文脈で育っているので、そのような視点でしかデザインを捉えておらず、結果的に美学的側面を整えることに教育の主眼が置かれてしまっている。デザインという手法が社会のコミュニケーションを活性化させ、より良い文化システムを構築し、ビジネスにおける利潤獲得のための手法であることが教育されていない。そうして、再び無能なグラフィックアーティストが量産されてゆくのだ。若いデザイナーの元で育ったほうが、明らかに的を射た考え方を獲得できるとおもう。
ここ数年、自分の生業であるグラフィックデザインはそろそろ終わるんじゃないかなと思ってる。コミュニティの思考が高齢化しているし、かと言って新しい考え方を積極的に取り込んで体質の健全化に取り組もうとしない。デザインをもっと価値のあるものにするためのデザイン領域を俺は見つけたからいいんだけど、変化せず進歩のないコミュニティに未来はないとだけは言っておきたい。
美しくあることは大事だと思う。美しいことは心を豊かにしてくれる。しかし、それ以外のもっと大事なことにも一緒に目を向けてほしいと思うのだ。