駄サイクルという言葉が遠洋まで援用されていたので、当たり前のことだけですが、少し補助線を引きたいと思います。
某デザイナーが代表のデザイン事務所の某キャンペーンのお仕事について擁護しているわけではありません。
まず、その分野の第一人者であることが条件です。このとき、応募されたものの内容が優れているか、募集と合致しているかを判断できる能力があること、実現可能であるか予算面などから判断できる能力があることなどが挙げられます。それぞれのジェネラリストやプロフェッショナルはバランスを見て配置します。(これは各種の調査・監査委員会の顔ぶれを見れば分かることだと思います。)
一方で同業界内の人材だけでは、それが審査後の反応の中で理由の一つとして挙げられることが必ずと言っていいほどあります。実際に新鮮味に欠けるなと感じる判断が見られ、「多様性の確保」の点で好ましくありません。
また、市民投票といったケースもあります。私はクラウドファウンディング系やファン推薦枠のような使い方ならばありだという立場です。それは、「自分たちで選んだんだから〜」という論理で押し通す形は出来る限り避けたいからです。
経験値と実績が何より重要になります。また、特定分野の最前線にいることです。それは各方面への信頼と信用、時流や資料から読み取れる能力に優れて出来るからです。これは本当に月とスッポンなので、検討の余地はないと言って過言ではありません。(某競技場のようなケースは、元々の予算ありきでフィックスしていくという困難を抱えてはいたものの、上手く見せるべきだったと思います。)
その中でなぜ重複が起こるのかというと、上の条件を満たす数がいないからです。ある程度の規模のものを任せられるとなると尚更です。大きな事業はたくさんあるわけではないし、多くの方から評価を得る機会もまた数えるほどしかないから当然です。
最前線にいる人間は、公募事業について選考委員としてではなく逆の立場で関わることもまたあります。これは全くおかしなことではありません。場の違いはあれど、互いを評価することは恥ずかしいことでも卑しいことでもありません。
お上の慣習などの悪い部分は前提としているので、その点はご勘弁ください。
私は審査の一部分はオープンにしてよいという立場ではありますが、権力構造が存在していることも事実であるので、一切合切オープンにすることは賛成しかねます。それは、出来レースではなく落選者の周辺からの圧力行為への対策です。大きめの公募で選考理由や過程をオープンにしていない場合、理由の99.9%がこれだと思います。