はてなキーワード: 突っ張りとは
結局の所、彼奴らが言いたいのは「毎日遅くまで働いても辞めようとは思わないぐらい会社や仕事が楽しいぜー!」って話なんだよ。
「部活で土日まで練習してて大変でさー(でもそれぐらい熱中してるぜー!」と同じなんだよ。
クッソむかつくね。
ああいった輩は内心では普通に働いてる人間を「やりがい搾取を恐れて好きだった道を諦めた負け犬」とでも思ってんのさ。
「でもさ、やっぱ好きだからその道に進んだわけじゃん?」が合言葉ならそっちだけ使ってやがれ、「ブラック労働辛いよー死にたいー」なんて嘘っぱちを軽々しく吐いてるんじゃねえ。
そういう気持ち悪い人間のくせにさも自分は無垢で善良とでもドヤ顔でブラック自慢してる事に吐き気がする。
同情という形でこっちの感情を揺さぶろうとしてこなけりゃ、こっちの心が不快という形で揺れ動くことも無かったんだろうな。
不愉快だ。
楽天のレビューは購入したアカウントでしか投稿することができないため、ここで代用。
購入した商品は、天井に突っ張って使用するタイプの本棚。本が増えてきて今までの小さな本棚では入りきらなくなったため購入。いろんなショップで様々なものが売られているが、候補に挙がったものとして、
http://www.rakuten.co.jp/sangostyle/
・ワイエムワールド
http://www.rakuten.co.jp/ymworld/
というショップの天井突っ張りタイプの本棚である。(それぞれいくつかバリエーションがある)
どちらの商品も非常に似ているので製造元は同じなのかもしれない。
しかし、一つ決定的に異なる点がある。それは棚板の厚さだ。
ワイエムワールドは1.5cm
いやらしいことに、どちらも棚板の厚さをあまり積極的に表示していない。
サンゴスタイルは画像の一か所にかろうじて書いてあるが、ワイエムワールドに関しては記述が見当たらない(もしくは見当たりにくい)。
本は非常に重いので本棚にとって棚板の厚さは重要である。安い商品であるが故、コストカットのため安い素材を使わざるを得ない点は仕方がないが、誠意をもってはっきりと書いてほしかった。
ところで、商品レビューに棚板のたわみについて書かれているのが少ないような気がする。
以前、カラーボックスを本棚代わりに使用したことがあるが、カラーボックスは本を置くようにはできていないので当然のようにたわんでしまった。
その時の厚さは1cmほど。スパンは60cmで奥行は30cmほど。本をいっぱいに置くと、中央部分が1cmかそれ以上下にしずんでしまった。
断面二次モーメントというのがあるが、薄い素材はたわみやすく厚い素材になるほどたわみにくい(当然である)。
それを考えて、購入はサンゴスタイルの方の本棚にした。もちろん、たわむのは嫌なので45cmの方を。
届いてみると、棚板の中央付近は中が空洞になっていた。その分棚板の曲げ剛性は減り、たわみやすくなる。はっきりわからないが、似たような価格帯なのでどちらのショップも大して変わらないだろう。まぁ、スパンも45cmだし、あまりたわむということはないだろう。
落下防止用具という名の金属製の棒が付いている。これは上の方の棚から物が落下するのを防ぐために取り付けるのだが、これが硬い。棒の長さは棚幅ぎりぎりに作られているので思いっきり曲げないと取り付けることができない。これでは、ただ、本棚を傷つける棒にしかならない。一度使えば取り付けづらいことなど容易にわかるはずなのに…。
もう一つ書きたいことがって、本棚の需要が増えるであろう四月に(おそらく)一番人気のウォールナットが(一部の商品で)売り切れているのは、残念だった。まぁ、需要を見極めるのは難しいからあまり文句は言えないが、それに見合った供給を用意してほしかった。それもあってサンゴスタイルの方にせざるをえなかったこともある。
いい点をほめるとするならば、たぶんこの手の本棚はコストパフォーマンス(値段あたりの収納数)がすごくいいと思う。それと地震に対して倒れにくいというのは心強い。
届いて中が空洞だったのでなんだか騙されたような気分で、つい。
これを誰かに参考にしてもらえればいいと思う。
当時のインドはまだ外貨が不足していて、USドルのキャッシュで航空券を購入する場合に限り、インド国内航空インディアンエアラインのカルカッターバンコク間の片道切符が60ドル程度の格安で手に入った。
今でこそIT大国なんて言っているけど、その頃は空港のチェックインカウンターには端末もモニターも無くて、空港職員が奥の部屋へ引っ込んでいったかと思うと、暫くして漸く乗客のリストが印刷されてるらしいパンチ穴のついた長い紙を引きずる様にして出てくる有様だった。
そうして、どうやらオーバーブッキングらしいと言うことが、周りの乗客の話し声から聞こえてきた。中には職員に金銭を渡してるらしきツーリストもいた。
外貨が不足する中でインドを出国しようとするインド人には、厳しい外貨の持ち出し制限があった。確か一人400ドル位じゃなかっただろうか。全然足りないよね。遊びに行くわけじゃない。殆どがビジネスだったと思う。
僕のツーリストビザの期限にはまだ余裕があったし、予定があるわけでもなかったので、別にこの便に乗れなかったところで一向に差し障りがあるわけじゃない。
対して、インド人ビジネスマンは違う。どうしても、その便に乗らなければならない事情もあるだろう。一人のインド人男性が職員に食って掛かった。インド人が手を出すのはよっぽどのことがあってなんだけど、彼は職員に対して相撲の突っ張りのようなことをした。職員もやり返した。お互いに突っ張りの張り合いをしながら、二人とも遠くへ小さくなって見えなくなった。
http://anond.hatelabo.jp/20170125191935
これを読んだ雑感。少々長いので要点だけという人は「学歴教の信者として」という小見出しから読んでもらいたい。
俺は山の上の村落で育った田舎者で、最終学歴は高卒。家から徒歩15分のところにある商業高校を卒業した。つまりこの増田の言っている田舎高卒に当てはまる人間だ。
率直に言うと、底辺呼ばわりには腹が立った。なんとかしてこの増田に反論を書いてやろうと思って昨日は色々調べたりした。しかし、増田の言っていることは大筋では正論で、この調査は徒労に終わった。
そりゃそうだよな。大卒と比べられちゃ高卒なんて屁の突っ張りにもならない存在だよな。底辺であることを受け入れるしかないよな。そんな諦観が胸を占めた。
でも、どこかに引っ掛かりがあった。確かにデータでは高卒は経済的弱者で社会的弱者だ。大卒には背伸びしたって勝てっこない。増田の言う通りかわいそうな存在なんだろう。しかしどこか納得がいかなかった。このもやもやした感じは、増田を何遍読んでも、自分の状況を何遍顧みても、消えなかった。
ぐるぐる考え続けて俺が行き着いた答えはなんとも陳腐なものだった。自尊心を傷つけられたから呻いていた、ただそれだけだ。高尚な思想なんてものはありゃしない。犬に食わせておけばいいようなプライドと大卒者への劣等感で疼いていただけだ。
悲しいかな、俺は底辺なのにそれを心底では受け入れられずに必死で抵抗していたのだ。そんな不名誉な称号を貼ってくれるな! 俺をかわいそうがるな! 俺を不幸な人間だと言うのはやめろ! 俺は胸底でそう叫んでいたのだ。
この自己分析を進めるうちに俺は俺の醜い部分を再認識させられた。俺はなんてみみっちい人間なのだろう、事実を事実として受け入れられないなんて。自己嫌悪に陥って俺は頭を抱えた。苦しさ、悲しさ、悔しさ、それらで一杯だった。
俺は頭を上げてパソコンの画面を見た。俺を散々悩ませる原因となった増田が目に入った。俺はそれをもう一度読んでみることにした。読み進めていくうちに、前述したもやもやが、自尊心だけでは説明し切れなかった部分が晴れはじめた。読み終わったとき、俺は一つのことに気が付いた。すごく当たり前でつまらないことかもしれないが、俺にとっては重要な気付きだった。それは俺が増田の言うことを丸っきり盲信しているということだ。
増田の文章には大きなポイントがあった。それはこの部分である。
事実、田舎高卒は東京大卒に経済力でも社会的立場でも劣る。しかし、確証されていないものが一つある。それはこの引用文で言及されている「幸福さ」である。
増田も俺も東京大卒が属している世界は幸福であるという無条件の信仰があった。引用文から増田が学歴と幸福さを結び付けて考えているのは明らかだ。たしかに東京大卒の給与は多く、社会的身分も高い。しかしそれが幸福につながっているのかは疑わなければならない点だろう。
果たして本当に田舎高卒は東京大卒よりも不幸なのだろうか? 田舎高卒の幸福は東京大卒の幸福よりも程度の低いものなのだろうか? 俺の学歴信仰にひびが入りはじめた。
幸福は数量化できないし、ましてや比較してどちらがより多いとか、より質が高いとか、言うことはできない。そのような方法を人類は持っていない。そうであれば田舎高卒が低級な幸福しか味わえず、東京大卒が高級な幸福を味わえるなんて意味の断定はできないし、するべきじゃない。
最後に俺の私生活で起きた変化から学歴と幸福について書くことで終わりとしたい。
今年、つまり2017年に俺の姉が出産をした。生まれたのは女の子だ。入院から数日して姉が実家に帰省してきた。出産して数日は実家に帰るのが常識だそうだ。初耳だ。
俺は求職中だったので、ほとんどの時間を家で過ごしていた。そこで姉と姉の子の様子を長い時間見ることができた。姉は授乳、オムツ替え、赤ちゃんの入浴など、甲斐甲斐しく世話をしていた。それは以前の姉を知っている俺からしたらなかなかの驚きであった。
昔の姉は子供が嫌いだった。そんな姉が子を産み、そして育てている。しかも愛おしそうに。夜中に赤ちゃんの泣き声で起こされても嫌な顔一つせずあやしている。俺はその姿を見て、本当に姉は幸福なのだと感じた。
姉も姉の夫も高卒だ。大学には行っていない。それでも幸福そうである。俺は彼女らの幸福が階級分けされて、なおかつ下級なものに分類されるとは思わない。大学に行かなかったからといって幸福を得損なっているとも思わない。
もちろん、東京大卒の幸福も見下してはいない。中央省庁や大企業で成果を上げる幸福もあれば、田舎で静かに子育てをする幸福もあるだろう。人間の幸福はそれぞれであり、等しく価値あるものであろう。人類が幸福を数量化し、比較する方法を得たときに増田が当たっているか、間違っているかが分かるが、その方法がない今はそう考えるのが妥当ではないだろうか。
こういう勘違いが俺らを苦しめる。
人前で緊張するのは、自分を大きく見せたいという邪念があるからです。平常心を保つためには、まずは等身大で挑戦し、本当に自分を大きくするしかありません
http://next.rikunabi.com/journal/entry/20150907_Y3
ふざけるな!
確かにプレゼンの本番前の緊張は、こういう精神論でもある程度はなんとかなる。
でも、多勢の前に立つとそれだけで心臓の鼓動が跳ね上がって、呼吸困難になるほど緊張する人間には
他人から見て「ちょっとあいつ緊張してるな」程度に見える人間は
たぶん精神論でもなんとかなる。
でも、明らかに呼吸がおかしくて、見てる方まで辛くなるレベルの人間には、
「プライドが高過ぎるんだよ」とか「完璧主義だから」「準備不足だから不安なんだよ」など色々と見当違いの陰口を叩かれるのも我慢ならない。
人前でも堂々とジョークのひとつでも飛ばしながら余裕で話せる。
でも、正常な状態では無理だ。(鬱状態だと1対1でも緊張する)
「失敗したらどうしよう」という考えも、恐怖を感じるから出てくる思考なので、
平均的な人間が感じる程度の弱い不安なら精神論でもなんとかなるだろうが、
多勢の人間に見られると、どうしようも無く恐怖を感じる、という人には、ほとんど効果がない。
そもそも考えてみて欲しいのだが、何に恐怖を感じるか、なんて個人差がある。
背が低い人も高い人も居るのと同じで、何に恐怖をどのぐらい感じるか、
なんて人それぞれだ。
自分が人前で緊張すると自覚してる人なんて、それこそそれを克服しようと
そんな人に安易に「こうしたら良いよ」なんてなぜ言えるのか?
もちろんアドバイスされたら「ありがとうございます。次からそうしてみます」とは言うよ?
でもさぁ、ちょっとした精神論で克服できた人間のアドバイスなんて何の役にも立たないんだよね。
声が震えるほどの恐怖って、もう命の危険を感じるぐらい、ものすごい恐怖だ。
いつ発射されるかもしれないピストルを眉間に当てられてるのと同じぐらいの恐怖だと思う。
そんな恐怖を深呼吸とか邪念を無くすとかで抑えられると本気で思ってる人間は頭が悪いとしか思えない。
ではどうすれば良いのか?
俺がおすすめしたいのは、薬に頼ること。
心臓の鼓動を抑える薬がある。
それを飲めば、少なくとも自分の動悸でテンパる事は避けられる。
動悸が落ち着いていると、呼吸も安定するので、かなりおすすめ。
具体的な薬の名前はここでは控える。
効き方には個人差があるだろうし、ステマだとも思われたくない。
俺の場合は不安を抑えるよりも、直接心臓の鼓動に影響を与える薬がてきめんに効果があった。
自分は心臓に持病があるので不安だったが、100人規模のプレゼンがあったので、
そこでしくじるぐらいなら死んだ方がマシだと思って薬を試してみた。
結果、プレゼンは成功し、これまで俺に向けられてた軽蔑の視線から脱出する事ができた。
サッカー観戦をしていると、こういうワードにたどり着く事が多い。
「○○がクソ」「○○死ね」「○○やめろ」
こういうことを言っている奴ほど、なぜその状況でそのプレーが行われたか全く説明しない。
シュートを外した→外した奴はクソ、やめろ
優勝できない監督→出て行け
■
なぜシュートを外したのか?
直前のプレーでパサーとのイメージにずれがあった。
もっと前で欲しかったが、足元に来たのでオーバーモーションになり、DFに詰められて枠を狙うことが不可能だった。
もっと遡ると、CMFからの縦パスをトラップしてサイドにチップし、即座にゴール前へ反転して折り返しを待ったが来ず、そのままDFのチェックを受けていた。
DFが引きつけられて開いたバイタルのスペースを使うべきだったが、サイドからのクロスを受ける形になった。
死ねと言われるほど評価の低い選手だろうか?ここでデータを持ちだしてみると。ワントップのFWで、シーズン終盤の現在で10ゴール以上15ゴール未満、アシストはかなり多く、その分だけ得点を演出しているのがわかる。
1トップなのにアシストが多いということは、この選手が居なければ前線の選手全員の得点が期待できなくなるということだ。居なければ自身の得点がなくなるだけでなく、周りの評価が下がる。
客観的に見れば、アシストと得点を合わせた得点期待値が高い選手を放り出すのは馬鹿げている。
なぜディフェンスがミスをしたのか?
相手のFWにスピードがあった。そのスピードは試合前から留意すべきものだった。なので、チームはDF一人でチェックするプランではなく、カバーをすることは指示されていた。しかしカバーが来ない。
カバーをするCMFが攻撃時に前へ行ったが戻ってこれず(スピード、スタミナの問題など)一人でチェックする事になった。
もともとCMFはスタミナやスピードのあるタイプではなかった(そのためポジションは後ろ目の守備要員だった→攻撃のプランにも影響があり、前述のシュートをミスという部分にも繋がる可能性が多いにある)
入ってきたボールに対してその場でGKから声が上がったが、反応したのは自分だけだった。
ではこの選手は死ななければいけないほど劣るのだろうか?
DFは一人で一人を守りきれば絶対に負けないというものではない。オーソドックスな戦術であれば最終ラインには多くて4人。そこから攻撃時にSBがオーバーラップすることが日常茶飯事だ。
ピッチ上の状況とバランスを全員が見極めながらゴールを守らねばならない。11人全員の行動が密接に関係しているのだ。
その証拠として、現在CLでもベスト4に進んだチェルシーの前線は、スタミナとスピードを重視したウィリアン、オスカルが名を連ねる。これは守備への貢献を考えた選出なのは明らかだ。逆に言えば、攻撃に非凡な才能を持つマタだったが、守備への意識とスタミナに難があり、出場機会を失った。
今回のケースでは最初から一人でチェックするプランではなかった。大きな非は無いだろう。
では何故一人で抑えられないこの選手が起用されたか?それはスピード以外の能力を見出されたからだ。あるいは相手のFWを止められるDFは世界には居ないのかもしれない。
なぜ優勝できないのか?
1シーズンを戦える選手層が無い。中盤からどんどん失速する。しかし代わる選手がおらず出突っ張りになる。コンディションが落ちる(上記のシュートを外してしまう要因になる)。
ではなぜ選手層が薄いのか?近年の市場価値高騰から、特別な資産を持つチームが選手を独占する。優勝をするにはその特別なチームと渡り合わねばならず、しかし特別な資産はない。
プレーの外側での支出が大きく、金銭的に厳しい状況で主力選手が次々引き抜かれる中、現在は雌伏の時である。しかしそれでも一流と呼ばれるチームに見合うだけの最低限の成果を出し続ける。
なぜ選手の怪我が多いのか?原因不明。基本的に試合中での怪我が多く、不確定要素が多すぎる。
はっきり言うと、毎年主力選手を引きぬかれてなおリーグトップと渡り合い、欧州チャンピオンリーグに出場し続けるほどの成果を出すのは前例がない。
マラガは財政難で沈んだ(選手の引き抜きに関してどうこう言うつもりはない)し、ドルトムントもけが人が続出し、予断を許さない。インテルも3冠の後はセリエ中位を続けている。リヴァプールも昨年まではまさに雌伏だったはずだ。チェルシーのモウリーニョは名将だ。ではベニテスは駄目か?そうはならない。彼はリヴァプールでCLを制覇し、現在ナポリで一流クラブを指揮している。
このエントリがどこのチームのことを言っているのかわかっても、何も言わなくていい。
纏めよう。まず、サッカーで口汚く批判をするなら、その責任を負う事を自分の理論と考えで示すことが最低限の批判の仕方だ。そして、サッカーのプレーは、あるいはピッチ上の選手は、他方から密接に関係しあってプレーを行っている。スタッフもそうだ。
クラブが好きだから声を上げるという理論が成り立つのは、そのクラブの地元だけだ。日本でやっても届くのはJだけだ。Jに届くのは現場で上がった声だけだ。俺はそれでも議論にならない死ねだの出て行けだのといった言葉を上げるのはアホらしいと思うが。
メリットは何もない。デメリットは、同じクラブを好きなやつが嫌悪感を募らせる。明確だ。
嫌悪感を募らせた結果、こんなエントリを書くのだ。聞くに堪えない。サッカーは好きだが、そのサポーターや、対立が華みたいなサッカー文化は嫌いという矛盾した状況になってしまった。
それとも、こういった人は多いのだろうか?
理想主義的な、ある意味で原理主義的な科学観に支配されたナイーブな文系諸子(意外なことに、他分野の理系の方々にもいるようであるが)には想像もつかないことかも知れないが、理系という世界には、未だに共有不可能な個人の資質に依存した「職人肌」の世界が存在する。
宇宙やら地球やら、読んで字のごとく天地開闢から存在する”自然界”を観察して研究するだけが自然科学ではない。”自然界”には今まで存在しなかったモノを「作ってナンボ」の世界があるのだ。
誰も成功させたことのない難しい外科手術に果敢に挑んで成功させるスーパードクター、デバイスやソフトウェアを生み出し世界を革新的に変えてしまうスーパーハッカー、複雑な現象を説明するシンプルな物理法則をある日突然思いついてしまう理論物理学者。本当の意味での科学の”前進”は、地道な積み重ねもさることながら、こういう人たちの仕事があってこそのものである。
昨年のノーベル賞を受賞したヒッグス粒子の逸話をもう忘れてしまっただろうか。ヒッグス博士だけではない。ノーベル賞を受賞するような実績と言うものはおしなべてこの種の、天才の”奇想天外な思いつき”、”職人的な仕事”の賜物である。
無論「作ってナンボ」はなんでもかんでも思いつきで作ればそれで良いというわけではない。作った”モノ”が訳に立たねばならぬ。具体的に言えば、その”モノ”を叩き台にして、実用、研究、下世話な話では商売が将来的に渡って発展するかどうかにその評価はかかっている。
叩き台になるのは”モノ”である。もちろん知識の共有には言語化は欠かせない。しかし、結局使える”モノ”がなければ、論文だけいくら取り繕っても役には立たないし、逆に”モノ”さえあるなら、論文などと言うものはオマケの説明書のごときものにすぎない……それが、「作ってナンボ」の世界である。
原理原則で言えば、論文の誠実な執筆、厳密な論理によった世界観の構築は科学を支えるひとつの柱である。しかしながら、「”モノ”があるんだから、理屈がどうであろうとあるものはあるんだよ」と言う楽観的な自然体もまた、”自然”科学という理念の欠かせない骨子なのである。
その点で言って、現在のところSTAP細胞に関連して「将来的な展望」を本当の意味で否定するような話は、今のところ何も出ていない。もちろん”モノ”自体がやはり使えない代物である可能性は0ではないが、「論文が」「コピペが」などと言うような議論はまさに薮の周りを叩いているだけに過ぎない。
現在本当の意味で冷静に事態を見守っている人々の大半は、このような科学と言うものの素朴な実態を知っている。かといって「論文なんか屁の突っ張り」などと言うのもいささか乱暴に過ぎるので、今はあまり声も上げずに温和な進展を期待している。これこそが、実はナイーブな文系(一部理系)諸子の読めていない科学界の空気の実態である。
「ハッカーと画家」のポール・グレアムはハッカーに論文を書かせることの愚を語った。ついこの間(今さら、何故か)ネットの文系知識人界隈で流行っていた様に見えるこの著者のメッセージは、残念ながら、読者には伝わっていなかったようだ。
40リットルゴミ袋20枚分、20リットルゴミ袋30~40枚分を仕分けして、収集日にあわせて計画的に三週間かけてゴミ出し。自治体指定のゴミ袋だからゴミ袋代だけでもしゃれなんね。
コミックがブックオフのダンボール25箱分 (ブックオフに出して18000円程に。本棚一つぶんの人気コミックは手元に残したので、出したもののほとんどは古くて値がつかず)
ブックオフは頼むと箱をもらえる。コミックが小さいのも大きいのも絶妙にぴったり平積みで入るサイズで、作りも普通のダンボールより厚めなので大量に本を処分する人にはおすすめ。最初に手持ちのダンボールで5箱程取りに来てもらうも全く片付かないわアマゾンの最大サイズの箱に詰めたら底ぬけるわで、その5箱を取りに来てもらう時にダンボールまだまだ要る旨を伝えて20箱もらい、三日後にまたきてもらった。
大型の家具は処分業者に依頼。机1 本棚1 ロフトベッド1 古いブラウン管テレビ2 テレビ台1 ソファベッド1 古いブラウン管モニタ1 カラーボックス等。搬出と引き取りあわせて28000円程。見積り数カ所頼んでかなり安めのところだった。廃品処理屋はものすごいぼったの所(同じ内容で10万~)もあるので注意。
なんだかんだで10万くらい飛んだけどQOLがすげー上がった。
部屋と台所が綺麗になったことで自炊が楽しくなって食費がかからなくなったのですぐに元は取れそう。
こまこましたものはほとんど収納に収められたので、15畳に机とベッドと小さめの本棚しかないんだけどなんかやぼったい。(多分部屋自体がやぼったい)今はものがないので床掃除しやすくて散らかる気がしないけど、ちょっとでももの増やしたら散らかる恐怖があるので、ラグでさえ置く気がおきなくて困った。
ただただ寝転がり、動かずに居た。顔の筋肉が弛緩しているのか緊張しているのか、顔全体に妙な熱っぽさと突っ張りを感じる。枕にしていた腕の指先を軽く握ってみると、ついさっきまでその指先が動くことを忘れていたことに気付く。
世間の人は――彼女は、普通に日常を過ごして、そして恋をしていただけだ。
遙か昔に告白して振られ、その片想いを独り腹の中でこじらせたまま友人になった俺のことなど、構う謂れもなく。
あれ、スマホに替えたの言ってなかったっけ。そんな軽い語調で伝えられた、ただの事実。
拒絶すらされない。
遙か昔に告白し、断られた。彼女にとってはそこで終わり、その後の俺はただの友人でしかない。
彼女が次の恋をしていて、それを知らせてくれれば、俺だって次の恋に。とか考えてみても、彼女が俺にそんなことを伝える義務も、いや彼女にはそんな発想も無いだろう。
この世に彼女の幸せがあるならそれで良い、と自分に言い聞かせても、やっぱり一番の望みはその相手が俺である事だった。
けれどそのための努力の方法なんて知る術もなく。そもそも俺は彼女のほんの一面しか知らなかったわけで。
やっていたことは遙か昔に彼女から貰った言葉を幻想と妄想で糊塗してしがみついていただけで。
こんな現実を突きつけられた時には泣き叫ぶ、喚き散らすと思っていたが。
実際に蓋を開ければただの虚脱。
死のう、なんてことは思わない。
けど、ただベッドに身を横たえたまま、眠っているうちに朽ちて逝ければ良いなあ、なんてことは思う。
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
外国人選挙権―まちづくりを共に担う
自治体の首長や議員を選ぶ際に永住外国人が投票できるようにする。この外国人地方選挙権の導入に、鳩山首相や小沢・民主党幹事長が前向きな姿勢を示し、来年の通常国会にも法案が出される見通しだ。
98年以降、民主党や公明党が法案を出してきたが、根強い反対論があって議論は進まなかった。この間に地域の国際化は急速に進んでいる。鳩山政権は「多文化共生社会」をめざすという。実現へ踏み出すときではないか。
日本に永住する外国人はこの10年で5割増えて91万人になった。このうち歴史的経緯がある特別永住者の在日韓国・朝鮮人は42万人だ。年々増えているのは80年代以降に来日し、仕事や結婚を通じて根を下ろし、一般永住資格を得た人たちだ。出身国も中国、ブラジル、フィリピンと様々だ。
地域社会に根付き、良き隣人として暮らす外国人に、よりよいまちづくりのための責任を分かち合ってもらう。そのために地方選挙への参加を認めるのは妥当な考え方だろう。
日本の活力を維持するためにも、海外の人材が必要な時代である。外国人地方選挙権を実現することで、外国人が住みやすい環境づくりにつなげたい。分権時代の地方自治を活性化させることもできる。
「選挙権が欲しければ国籍をとればいい」との考え方がある。だが、母国へのつながりを保ちつつ、いま住むまちに愛着を持つことは自然だ。そうした外国人を排除するのではなく、多様な生き方を尊重する社会にしたい。
合併などを問うための住民投票条例の中で、外国籍住民の投票権を認めた自治体はすでに200を超えている。地方選挙権についても最高裁は95年、立法措置をとることを憲法は禁じていないとの判断を示している。
世界を見ても、一定の要件を満たした外国人に参政権を付与する国は、欧州諸国や韓国など40あまりに上る。
近年、声高になってきた反対論の中には「外国人が大挙して選挙権を使い、日本の安全を脅かすような事態にならないか」といった意見がある。
人々の不安をあおり、排外的な空気を助長する主張には首をかしげる。外国籍住民を「害を与えうる存在」とみなして孤立させ、疎外する方が危うい。むしろ、地域に迎え入れることで社会の安定を図るべきだ。
民主党は選挙権を日本と国交のある国籍の人に限る法案を検討しているという。反北朝鮮感情に配慮し、外国人登録上の「朝鮮」籍者排除のためだ。
しかし、朝鮮籍の人が必ずしも北朝鮮を支持しているわけではない。良き隣人として共に地域社会に参画する制度を作るときに、別の政治的理由で一部の人を除外していいか。議論が必要だろう。
もし「多文化」の最小単位を「個人」にまで微細化してしまった場合、多分その場の全員が「中国人」か「イスラム教徒」かのどちらかになると思う。次点で「ヒンズー教徒」かな。人口比で言えば確実に彼らが多数派だし、人数の増え方もトップクラスだもん。数の論理で、二者がそこら中に存在する事を受け入れる事なければならなくなってしまう。しかしそうなると逆に「中国人」や「イスラム教徒」以外のアイデンティティがこの二者に駆逐されてしまう現実もある。彼らの他文化に対する寛容さはぶっちゃけ下から数えた方が早いんだもん。どちらもあちこちで中華街とかスラムとか作って、現地の人間と隔絶されたコミュニティー作りまくってるから。そういう連中に対して「多文化共生」を唱えてる連中がアクション起こした事あんの?何か成果を出してるの?
そもそも多数派を占める彼ら自身が、「多文化共生」なんて屁の突っ張り程度にも考えてないが故に多数派を獲得しているんだよね。だから「多文化共生」を唱える事が、結果的に「多文化共生」を微塵も考えてない連中を利する事にしかならんのよ現状は。こっちが相手を受け入れる準備を整えても、相手がこっちを受け入れるとは限らんでしょ。
この社説子にも言いたい事だけどさ、「多文化共生」を訴える相手偏りすぎてるよね。前述の中華街作って、中国人同士で勝手に結束しちゃってる連中にも言うべきだよね。なんか彼らの長老会みたいな所に乗り込んでいって。「それではいけない!長老会にもアメリカ人や日本人やロシア人を参加させるべきだ!多文化共生万歳!」ってさ。それをやらないから、保守的な連中から「ていうかお前どこの国の味方?」と疑われるんだと思うよ。それが嫌なら、タリバンとか反米国家に向けて「多文化共生しましょう!欧米文化を受け入れましょう!」って言えばいいと思うよ。何故かそういう所に関しては、「帝国主義のアメリカに抵抗する勇敢な人々」みたいなとらえ方する人多いけど。
あのな。
共働きしている方が[..]
という自慢の種だったりするし。
自分の境遇は僻みを招くものじゃない、むしろ相手の方が……ってことだべや。
お前さんの考え方はそれはそれとして尊重するがそう思わない人もいるよと。
そういう人に対して「私はそう思わない」なんて言ったところで屁の突っ張りにもならんと。
優しく易しく言ってるつもりなんだがなあ。
巷では未だに、PS3に対して「PS2の互換性をなくしたのは失策だった。買い換え需要を切り捨てたのは間違いだった。」という論調が目立つ。結論から言えば、こういった論調はごく一部のノイジーマイノリティーが目立っているだけで、趣旨そのものは完全に間違っている。それを把握しているからこそ、ハードウェアベンダーであるSCEIはPS2互換性のフェードアウト路線を維持し続けているわけだ。
週間ソフト&ハードセルスルーランキング(2008年12月15日〓12月21日)
機種 | 販売台数 |
DSi | 204,144 |
PSP | 145,957 |
Wii | 131,054 |
DS Lite | 50,308 |
PS3 | 39,136 |
Xbox 360 | 12,914 |
PS2 | 8,662 |
これを見て分かるとおり、買い換え需要なんてのはないに等しいことが分かる。仮に今週のPS2購入者全員が買い換え需要で、全員が代用品としてPS3を買ったとしても、既に流通が終息しているDS Liteにすら及ばない計算になる。
さらに上記一覧表に、それぞれ価格も追記してみる。
機種 | 販売台数 | 価格 |
DSi | 204,144 | 18900円 |
PSP | 145,957 | 19800円 |
Wii | 131,054 | 25000円 |
DS Lite | 50,308 | 16800円 |
PS3 | 39,136 | 39800円 |
Xbox 360 | 12,914 | 19800~39800円 |
PS2 | 8,662 | 16800円 |
この8662台のうちのどれくらいが買い換え需要で、さらにそのうちのどれくらいがPS2の2倍以上高価な(ついでに物理的な大きさも2倍以上)PS3を「PS2の代わりになるから」という理由で買うのかを考えれば、「手持ちのPS2壊れたから、この際PS3に買い換えようかな」なんて需要が屁の突っ張りにもなっていないことがよく分かる。
PS2からの買い換え需要を喚起するのであれば、互換性よりも価格面に注力すべきだ。今までPS2でゲームを楽しんでいた層の多くはどこへ行ったのか?それは言うまでもなくPS2のソフトが一本も遊べないはずのWii、DS、PSPだ。ではなぜこれらはよく売れたのか?それは現行のPS2と大差ない価格と、PS2では得られないゲーム機の楽しみ方を予感させてくれたからに他ならない。
よって「PS3を普及させたい」という前提ならば、PS2互換復活を言いつのるのは間違っている。全くの逆効果である(逆に言えば、PS3普及を阻害する目的であれば非常に効果的である)。メーカーに求めるのであれば「一に値下げ、二に値下げ、三、四がなくて五にソフト充実」くらいでよい。
新しいブランドを立ち上げるべきだったんじゃないか?
「プレイステーション3」なんていう、明らかにPS2の後継タイトルにも関わらず、
PS2のソフトが使えないと言われれば、消費者はなんか"損"した気分になる。
この「損した気分」というのが購買意欲を削ぐ原因になる。
発売当初の機種はPS2のソフトが使えてただろう?それが売れなかったんだから一年前に方針転換したという経緯が抜け落ちてる。互換付きは売れなかったという点は厳然たる事実なんだし。
ソフトが重要であればFF依存は真っ先に見直されるべき要因だろう。先鞭を切った類似の日本製RPGが海外で惨敗を喫していたり、Wiiのようなゲーム機が世界的にヒットしている状況では、古い価値観でヒットしたソフトに普及を依存するのは逆に大博打になりかねない。
正直言って、FF13、そんなに売れると思う?
であるならば、やはりPS2依存は早々に脱却すべきだろう。ゲーム白書によればこの1、2年間でPS2ユーザは国内だけで100万人以上減ってる。それでも未だ十分に大きな市場ではあるが、これから小さくなっていくだけの市場のために人員やコストを割くのは悪手だ。次世代機や携帯機はそれ以上のペースで大きくなっているんだから。
定番と言っても良いほどの作品なんで、詳細解説とかあると思うけど
あえて何も調べずに見てきた感じ+パンフの情報だけで俺が考えた解説を書いてみる。
メインが歌+踊りのミュージカルなんであんま意味無いと思うけど
滅茶苦茶ネタバレするので、未見の人でネタバレ嫌な人はスルーしてちょ。
あまりに有名なミュージカルだけど、とりあえず一応あらすじ、
自由奔放なジェリクルキャッツたちが年に一度、一夜のジェリクル舞踏祭に集い、歌い、舞い、
たった一匹、天上の空へ送られ新たな命を授かる猫を選ぶお話。
パンフのあらすじ見た時点で気付くべきだった。
歌は楽しく、踊りは激しく、楽しいお祭とそこで起こるちょっとした事件を観客は猫たちと一緒に体験する。
そして、舞踏祭の最後、夜明けの直前に、天上行きへ選ばれたグリザベラをみんなで見送る。
だけど、ここでちょっとした違和感を感じたわけさ。
だって、グリザベラは舞踏会にほとんど参加していない。天上へ行くために選ばれる資格とはなんなのか?
天上へ行くことで、ジェリクルキャッツは新たな命を得ると言う。
グリザベラが選ばれたのは、単なる憐れみからなのか?違う。
天上へ行くためには、現世に対する失望と絶望、そして孤独が必要だからなのではないか。
天上へ行くための選考されていたのは、章に名前が取られている猫たちであろうと推測する。
ジェニエニドッツは猫としては致命的なほど、でっぷりとして動けない。友達と言えばねずみとゴキブリだけだ。
だが、彼女には大切な友達だ。
ラム・タム・タガーは突っ張りすぎていて周囲に本当の意味で溶け込むことができないでいる。
だが、彼を慕う雌猫たちはたくさん居る。
バストファージョーンズは権力者だが、上り詰めたものの宿命か誰も彼の権力を抜きにして接してくれない。
だが、権力者一流の不感症からか、彼自身それに気付かない。
マンゴジェリーとランペルティーザは小悪党として生きていくことしか出来ない二人組。
だが、お互いを伴侶として生きている。
オールドデュトロノミーは見送る役目なので、その時点で天上への道は閉ざされている。
だが、彼はバストファージョーンズとは違い真の意味での信頼を得ることが出来ても居る。
アスパラガスは自分の過去の輝きが強すぎて、いまの世のありようを罵ることしか出来ない老人だ。
だが、彼の話をみんなは聞いてくれる。
グロールタイガーはそもそも死んでいる。
スキンブルシャンクスは車掌として終わることの無い仕事を続けなければならない。機関車も壊れるし。
マキャヴィティの絶望(※1)はオールドデュトロノミーを殺してしまう(※2)。
ミストフェリーズはオールドデュトロノミーを復活させるほどの大魔術師だが、誰にも理解されない。
だが、彼の魔力を誰もが尊敬し、一目置いている(※3)。
章の名を冠する猫たちは、こんな連中だ。
字面にすると決して楽しいと言える内容ではない。つーか一部は不幸自慢大会のようにも見える。
だがしかし、彼らは誇り高く生きている。
皆と踊ることが出来るし、皆と歌うことだって出来る。
だが、グリザベラにはそれが許されない。
彼女はもう美しくなく、ずたぼろで、受け入れてくれる者は誰も無い。
舞踏会に参加しようとしても、他の猫に執拗と言っても差し支えないほどに拒絶される。
一度も踊ることはできないし、ぼろぼろの彼女にはそもそも踊ることすらできない。
見せ場は、ただただ過去の楽しい思い出を悲しくも美しく歌う、「メモリー」だけだ。
絶望自慢大会たるジェリクル舞踏会へ参加することすら許されないがゆえに、グリザベラが逝く先は天上しか残されていない。
他の猫は、舞踏会が終わり、誰が選ばれるかを待ち受けていた、その一瞬の間隙へ差し込まれた
「メモリー」によってはじめてそのことに気が付いたのだ。
最も深い絶望に居た彼女だからこそ、天上へ上ることで新たな命を受けることを許された。
誇り高きものですら絶望深いこの世界で、真の救いとは天上へ上ること(=新しい命を受けること)であり、
その資格はそのことがわかっている者同士の間にすらも入っていくことが出来なかった者に与えられた。
そうして、舞踏会は終わり、また新しい朝が来る。
長々と書かずに「実にキリスト教的世界観でしたね!」とか言えば済んだんじゃねーかとか思いましたが。
まぁそんなことより常に避けられる身としては猫とうまくやっていける方法を知れたのが良かったです。感想一行かよ俺。
でも仲良くなれる方法はまだわからないのよね。絶望した!
※1 マキャヴィティは自身が大悪人であることを自覚しており、天上へ上がることを諦めていたんではないか。だから舞踏会を邪魔したりしてたんじゃ。
※2 殺したと考えるほうが俺は面白いと思ったんで殺したと思っておきます。
擁護か。
たしかにね、中国の一部は本気で感情的だが、他は政治目的だしね。
そのへんのいやらしさは、お前ら黙れ、と言いたくなる。
反面、治安維持責任は明らかにあったというのは確かにある。
だからいろいろ考える。
外圧がどうしても理不尽に思える以上、歴史に対する責任を認めて歴史的真実に協力するというのでかまわない、と思うけれど。これまでいろいろ世界に貢献してきたこともあるし。日本人の生活が圧迫される可能性を考えると政府としての対応も難しい。個人的にはあっちが間違ってると思うと突っ張りたいところはあるのだけど、同胞を守るにはどうすれば守れるのだろうね。海外在住日本人なんかはもろに影響があるし。