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2023-05-23

未来自分のために頑張る」が辛すぎて「今の自分享楽へと逃げ込む」

そうして人生が腐り果てた結果に対して「過去自分から懺悔を聞かされる」人生がどこまでも続いていく。

本当に辛い……。

俺はどこで間違えたんだろう……。

人生のかなり早い時期からコレだったように思う。

割りと聞き分けのいい子供だったので「残さず食べて大きくなろう」と親がいうものからどんなに味覚に合わないものでも必死に食べていた。

きじゃなかったはずのニンジンピーマンがいつの間にか私の好物であることにされ、親戚の集まりに行くと従姉妹連中が私の皿にニンジンを次々に投げ込んできて、私はそれを黙々と食べ続けていた。

そんな人生がずっと続いていた。

でも心の中では本当に辛かったから、即物的快楽に身を委ねることが多かった。

将来のために頑張って受験勉強をして、とにかく今すぐ気持ちよくなりたいかゲームオナニーしまくった。

スポーツ趣味と言える思い出はなくただただ学生時代勉強してオナニーしてゲームしていただけだった。

でも勉強は苦手だったんだよな。

結局、「未来自分のために」は自分事にならないんだよ。

自分事として勉強に向かってないから、全く興味が湧かなくていつだってただただ苦しいだけで全然頭に入らなかった。

二流の中学に入って、エスカレーターして、そのあとは3流の大学に入り、3流の人間なりに「将来」を考えて公務員就職することを選び、今は毎日後悔している。

過去自分なりに頑張って積み上げたはずの「未来」の姿は、ただただ辛い辛いと毎日言いながら意味を感じられない仕事をするだけの人生だった。

今を考えることを無視しすぎた。

未来自分はいつか「今の自分」になるし、「今の自分」が「過去自分」になったとき過去を変えることはもう出来ない。

未来のためにすり潰される苦痛の中でそれを紛らわすための痛み止めのような行為ばかりをして過ごした過去が無数に積み上がっていく。

自分人生を振り返ってみて、愛せる過去が全く存在しない。

今もただただ辛い……安定しているだけの仕事だけど、その安定は「苦行のような人生」が安定して続くことしか意味してねえ。

もう「未来」さえも存在しない。

公務員をやめてどうにかなるような未来も見えねえ。

何も見えねえ。

俺の人生は完全に失敗した。

「今を生きた結果として、素晴らしい過去と、それなりの未来が手に入った」という形に人生をどうにか作り込めなきゃ行けなかったんだ。

頑張ってニンジンを食べ続けた結果、好きなんかじゃないと今更言う事も出来ずに親戚中からディスポーザーにされていた幼少期がそのまま自分人生の延長線なんだ。

しんどすぎる……なんでこんな人生になったんだろう……。

からどうやって軌道修正すれば良いのか全く思いつかない……。

自分が何をしたいのかもよくわからないし、それほど辛くもなく出来ることで金を稼げそうなものはない。

ダラダラゲームをしてダラダラとネットで駄弁るぐらいしか出来ねえ。

いや……ネットで駄弁るのは最近もうかなりキツクなってきた。

程度の低い人間は程度の低い人間しかコミュニケーションの機会を得られないっていう階級固定のシステムがだいぶインターネットでも強くなってきた。

そしてそのことにはもう辟易している。

若さから来る勢いと柔軟さを失って、下ネタパワハラ押収に頼ることしかできなくなった人間とのコミュニケーションはもうしたくない。

職場で無理やりつきあわされるのだけでもう十分だ。

インターネット疲れたと言ってる人の気持ちがやっと分かってきた。

「ウェーイ!肩パンウェーイ!」「ちょwww今季深夜アニメがマジシコwwww」みたいなコミュニケーションを50年も100年も続けられるのはある種の天才なんだよ。

俺は普通人間から下劣さにおいても才能がなかったんだ。

多分大抵の人は人生において下劣さとか高潔さとか清純とか外道とか善良とかそういう属性を貫いて生きることさえ出来ないんだろうな。

から皆して人が変わって言ってしまうんだ。

同じキャラを続ける才能がないんだ。

多分俺の悩みも、30年続けてきた「将来の自分のために」を旗印として粛々と過ごしながら溜まったストレスはシコシコして吐き出す生き方にいい加減飽きたんだ。

恐ろしいな……公務員何て「ダラダラと同じ生き方を続ける権利が得られること」だけがメリットみたいな仕事を選んじまってこんなことになるとは。

もう俺の人生にとって何のメリットもねえじゃん。

でも今更辞めるのは怖いんだよ。

俺は要領が悪いからさ、たった10年そこらでももうショーシャンクの爺さんみたいになっちまったんだ。

外は怖いんだ。

自分が本当は人の役には立てないのを認めたくねえ。

業務処理能力として身につけたと言い張ってるものが単にくだらん身内ルールに対しての慣れでしかないことを直視したくねえ。

でもこんなことをあと30年も続けるなんて気が狂っちまいそうだ。

いっそ仕事が楽ちんなら何か趣味でも始めるんだろうが。

つい1時間前に帰ってきたような生活をもうずっと続けてるんだ。

疲れたよ……せめて時間が欲しい……仕事をしている時間が安らぎもなく楽しみもないならせめてそれ以外の時間を作るための時間をくれ……。

俺は本当に人生を間違えたと思う。

今なあらハッキリ分かる。

安直な道を進んだ俺の罪だ。

罰が重すぎること以外は納得している。

敵が来ないことを祈り続けるタタール人砂漠みたいな毎日は虚無が過ぎる。

アレ以下の人生があるとはね……それも俺の人生が……

2023-05-15

anond:20230514202714

ホストにはまる女の側は愛に飢えてるけど、ホストの方は飢えてないのに幸せではないんじゃなかったっけ

遺伝子的にはモテることが重要かもしれないけど、遺伝子的な幸せ個体幸せは一致していないように感じる

個体幸せは、即物的にはセロトニンオキシトシンドーパミンがあれば満足するのだけど、これらはモテだけで補充できるものではないと思う

2023-05-10

ニーストラップは本当にうまく行ったユニットだったのか。

774株式会社運営するVtuberグループの774inc.(現ななしいんく)に所属する4人組ユニット(結成当初は5人組)だったハニーストラップ。774inc.内では屈指の成功ユニットと言われていたが、2023年3月に774株式会社運営方針の転換により解体

それによってハニーストラップリーダーでありチャンネル登録者数67万人と774内では圧倒的な数字を誇っていた周防パトラが5/9にななしいんくから脱退、独立することになった。周防パトラ本人が独立へのきっかけはハニーストラップ解散であると明言している。

周防パトラが抜ける前の時点で全メンバー合わせて総登録者数290万人弱のななしいんくにおける周防パトラの67万人という数字は非常に大きく界隈を騒がせ、ハニーストラップ解散愚策だったと大いに批判が集まった。

 

ニーストラップ2018年7月に結成された配信メインになってからVtuber界隈でもかなり老舗のユニットである。同774inc.内のユニットであった有閑喫茶あにまーれはその前月にデビューしている。

外部で同月にデビューしたライバーとしてはにじさんじゲーマーズの「笹木咲」「本間ひまわり」「魔界りりむ」「葛葉」「椎名唯華」、翌月にはホロライブ2期生として「湊あくあ」「紫咲シオン」など。

 

前提はここまでとしてハニーストラップがうまく行ったユニットだったのかという話に戻る。

 

まずハニーストラップメンバー間の中が非常によく内部でのコラボ配信を活発に行っており、仲良しユニットとしては非常にうまく行っているように見えた。これは裏ではどうかはこちからは計り知れないためそう表現しているだけで、うまく行っているように見えたが実は……という話ではない。

特に同社所属でほぼ同期のあにまーれがメンバー間の仲があまり良好とは言えなかったためハニーストラップの仲の良さが際立って見えたという部分もあるが、それを差し置いてもVtuber界隈でも仲のいいグループの筆頭に上がるくらいにはうまく行っていたと言える。

 

では数字的にはどうだっただろうか。

ニーストラップは5人でデビューし間もなく1人が脱退。その後メンバーチェンジを一切行わなかった。

先日までの登録者数としては

周防パトラ 67万人

西園寺メアリ 22万人

堰代ミコ 9万人

島村シャルロット 8.5万人

 

ではあにまーれはどうか。

あにまーれは5人ユニットとしてデビューし2人辞め3人になってその後追加メンバーが入った。

ニーストラップの同期となり現在もななしいんく内に在籍しているメンバーでは

因幡はねる 34万人

日ノ隈らん 13万人

宗谷いちか 10万人

 

先ほど例に挙げたななしいんく外のメンバーとしては

湊あくあ 179万人

葛葉 152万人

紫咲シオン 112万人

と大台越えが3人いてその後50万人越えが続き最下位

魔界りりむ 39万人

となる。

 

数字としてユニットがうまくいっているというのをどう評価するのかという話にもなるが、一緒に活動することによってお互いのリスナーを共有し合える関係性があるかという点は欠かせない。つまり人気のあるメンバーがそうでないメンバー数字を引っ張り上げるような効果があるかどうか。

ホロライブなどはそれをうまく使って数字底上げを行っていた。

その点で、ハニーストラップYoutubeでも登録者数が取れやすいASMRで非常に高い評価を得ている周防パトラ、西園寺メアリは非常に高い数字を持っているものの、その数字を他のメンバーと共有するような関係性が作れていたとは言えない。周防パトラ、西園寺メアリ推していた視聴者は多かったがだからと言ってハニーストラップの他のメンバーまで応援する気はないという視聴者も多かったということだ。

まりうまくいっていなかったあにまーれの初期メンバーは全員が10万人を超えているのに対して、ハニーストラップは半数が10万人に手が届かない状況となっている。圧倒的登録者数を誇る周防パトラ、774inc.内No3(一時期はNo4)の西園寺メアリを有していながらもその数字を活かせていたとは言い難い。

 

結成当初はまだライバル関係とも言えた(あにまーれはにじさんじの妹分ユニットとされていた)、にじさんじ、ホロライブには約5年間かけて数字で圧倒的に水を開けられてしまった。

 

運営会社、またその親会社から見て本当に「ハニーストラップはうまく行っているユニット」だっただろうか。

もちろん「数字的にはうまく行ってないし解体したろw」で解体した結果、周防パトラという大看板Vtuberを失っているのだからニーストラップ解体愚策愚策しかないのだが、ではハニーストラップというユニット周防パトラ繋ぎ留めるためだけに継続するのが正しかったのか。

あにまーれには次々と新人が投入された。そのほとんどがうまくはいかなかったが、中には風見くく(11万人)、柚原いづみ(8万人)とハニーストラップ初期メンバーを超える、近い数字を持つライバーも現れた。しかしハニーストラップは仲良しユニットとしての完成度が高すぎたために新人を入れられなかった。

ユニットとして活性化させるための施策を打つ=ユニット方向性ユニットの色を変えるということが非常に難しかったとも言える。なによりハニーストラップは774内で一番活発に活動していたユニットだった。が、うまく数字にはつながらなかった。

 

ユニット解散するという試みは、今のところあまりメリットが見いだせていない上に周防パトラという屋台骨を失う結果になったので、結果的には大失敗と位置付けられる。そもそもなんでハニーストラップがうまく数字につながらなかったのかの検証ちゃんとしたとも思えない。

もちろん自分で何でもできる周防パトラを774株式会社繋ぎ留めていたというだけで価値は計り知れないので、そこをもって「ハニーストラップはうまく行っていた」と言うこともできるが、客観的数字だけの評価をするならうまく行っていたとは言い難い。

 

でも、結局Vtuberファン商売なので客観的数字だけを見て即物的対応するのが一番悪手なんだよね。

本当にバカ運営だわ。

2023-04-06

肉屋を支持する豚」という言葉が嫌い

豚は豚らしく身の丈に合った思想を支持せよという即物的思想が見え隠れして反吐が出る。

あと、思想のために自己犠牲にすることすら許さないという偏狭さにはおぞましさを感じる。

支持する思想とか政策というもの社会的身分から自由であっていいはず。

 

もっとも俺は言葉狩りをしたいわけではないし、差別表現みたいに公共の福祉侵害する類のものでもないので使うなとも言えんが。

まあそういう言葉を嬉々として使っている人間に対しては色眼鏡で見るがな。

2023-03-26

anond:20230326102351

概念的なおっぱいなのか、物理おっぱいなのか、物理的な中でも心が繋がったおっぱいなのか、即物的おっぱいなのか。

おっぱい解像度が低いと具体的なステップに分解できない。

anond:20230326094154

>私はwebディレクターなのだが、特にエンジニアできないふわふわした質問でもたなんと返してくれるところだ。エンジニアに聞くと機嫌悪くする、またはもっと詳細詰めないとわかりません、といつような内容もchatgptなら的確に教えてくれる、しかも無感情淡々と。

まともなエンジニアなら、その「的確に教えてくれた」内容なんてわかりきっていて、その上で技術的に何を使えばいいか時間がどれくらいかかるか、将来的に負債にならないかベンダーライブラリロックインしすぎないか、チーム構成を考えてジュニアや多言語の人もメンテやすいかフレームワークライブラリが活かしやすいかエコシステムは整っているか、みたいなことを山ほど頭の中でこねくり回して回答しているんだけどね。

まあ即物的にとにかく「答え」というものが具体的に目に見えて出てきてほしい、という需要には合ってる。

2023-02-25

anond:20230225020837

うーん

自分は常習的に昼から酒飲むのって相当マズいと思う

長期的に見て、休みの日に即物的な娯楽ばっかな過ごし方してると精神の成長の無さが人生に響いてくる気がする

飲んだあと読書するとか運動するとかならいいと思うけど

2023-02-13

anond:20230126220814

Kraftwerk「Trans Europe Express」1977

https://music.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_mkw5lnHV_WtzF65IfSBTHqHcj_bvqiBU0

エレクトロニカというジャンル誕生世界に知らしめた一枚(最も彼らはテクノポップ自称しているが)。LP表の3曲はショーケース。このジャンルがどういうものかを聴く人間の心に刻み込んだ。ハウスからEDMトランスに発展していくこの分野の基本要素の全てが既に存在していたことに驚愕するだろう。裏面はアルバムテーマであるヨーロッパ超特急Kraftwerk流の即物的な音の組み合わせで表現した5曲(編成によっては4曲)。表面1曲目と合わせて一つの世界構成している。

喜多郎古事記」1990

https://music.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_ktJZ2vcVrtDWpV8iTRPRzKvRpceJNzVq8

国産み表現した太始・創造から饗宴黎明まで。古事記世界観を同じフレーズの変奏を繰り返しながら一つの作品として描ききった大作。ニューエイジの一つの偉大な到達点。個人的には「日本」のテーマ曲はこのアルバム

2023-01-15

大怪獣のあとしまアマプラ☆1つ49%という衝撃

いや……まあ納得感はありますね。

減点部分が多くて加点部分がほとんどないので当然という気も。

とはいえIMDb4.5、平均☆2.2というのはかなりイカれた数値の低さがあり、基本的に「完全に見る価値なし」と同義なので言い過ぎな気もします。

というわけでちょっと整理してみます

大まかに減点部分を上げていくと

オチがつまらない

ギャグがつまらない

下品なだけであまりおしろくない

シュール風刺に徹しきれてない

辺りですかね。

加点部分については

オヤジギャグ好きな人面白い

・豪華俳優陣がくだらないことしてるだけで面白い人には面白い

・なんでもいいから色んなモノが馬鹿にされていれば楽しめる人には楽しい

って所かと。

正直言ってこの映画本来は加点部分になる所を自分で潰してる感じがするんですよ。

結局この映画でやりたかったのって「超常的な戦いの後始末を必死にやって結局企画倒れみたいに終わり続ける人間の力の小ささ」じゃないですか。

ギリギリまで頑張ってギリギリまで踏ん張ってピンチ連続をやっと人類が切り抜けたと思ったら、結局は超常的な力が全部解決したけどなんだったんだろう……っていうシュールさでしょう。

でも実際にはそこに徹することが出来ていなかったのが敗因だと思うんですよ。

特に不味かったなと思うのが、政治風刺の一環としてお馬鹿な政治家にお馬鹿なことを言わせて自分自分ギャグに笑わせたりしたことですかね。

これの何が駄目って、「人間人間なりに頑張ったはずなんだけどな……」っていうのが無くなっちゃう所です。

駄目な政治家がのさばっている駄目な日本っていうのをからかうっていうのは、一見すると一石二鳥で狙えそうなテーマなんですけど、それをやりすぎるとお互いに干渉しあって全部崩れてしまう。

もしも政治家がクソすぎて全部だめだって言うならもっと完全にダメダメな感じ、それこそサウスパークシンプソンズのようなレベルじゃないと

フィクションとしては面白くないでしょう。

そのレベルを実写でやってるのだと『26世紀青年原題:Idiocracy)』の「農作物ゲータレードをかけて何故飢饉が起きるのかを延々と人類は悩んでいる」辺りでしょうか。

別に観客は「今の日本政治家の駄目っぷりに皆で憤慨しようぜ」ってノリで来ているわけじゃないし、それをしたいなら「上辺だけは立派そうだけど実際には口先だけ」という感じでいかないと風刺にもなってないんじゃないかと。

そもそもそういう方向に舵を取らず、「人間人間なりに全力を尽くした上で一進一退を続けるが結局上手くいかない」をやるのなら、「ウ◯コ……そうか……水洗便所は臭くない」を真顔で言っていたときテンションでずっとやるべきでした。

実際、「銀杏匂い」を本人たちは完全に大真面目にやっていたパート結構面白かったなと皆感じていると思うんですよ。

こういった失敗は、なまじ有名俳優を使ったせいでテンションが上がってしまい、何となく思いついた「一流の人達に変なこと言わせたら面白くね?」の誘惑に負けた感じがあります

あとは何度も撮り直せるような「程よい規模の小ささ」も生み出せなかったのかなと。

そもそもの原因としては「監督脚本が同一人物」という権力の集中ですかね。

この映画問題は正直、「脚本の出来の悪さ。コンセプトを捉えきれてなさ」に一点集中していると言っていいでしょう。

やりたいことに対して台詞回しが微妙おかしく、「絶妙空気を作り出すことで内側から笑わせる」というスタンスなのに即物的おかしさを狙ったせいで自分からその空気を壊しに行っている所が多々あります

また、スタッフ監督に「これ面白くないよ」と言いにくい空気もあったんじゃないのかなとも感じます

最後に組み合わせれば面白くなると信じていたが、どう組み替えてもつまらなかったのではという気もしますが。

せめてラストシーンだけでもズッコケ感なり感動感なりを出せればよかったんでしょうが、そこで半端に両方狙いに行ったのは本当まずかったかなと。

最後のシーンをシュールに仕上げるなら「御武運を」のカットは確実に不要ですし、もしも感動に持っていきたいなら政治家達は無言で圧倒される形にした方がよかったでしょう。

ある意味最初から最後まで駄目な所が一貫していた映画とも言えるんですけどね。

この映画の何が駄目って、空想科学テンプレート日本政治家・中高年をどうやって小馬鹿にしていくかについて、「マジメな顔で馬鹿なことをする」をメインにした上で、「とにかく品を悪くする」をサブで使ったことだと思うんですよ。

結局そのせいで「ハイテンポに挟まるしょぼい下品ジョークのせいで、メインであるはずのシュールさが台無しになっていく」を永遠と観客は見せられることになってしまった。

もしも下品をとことん徹底して全てをひたすらくだらない話として描いていれば、そこに偶然シュールな真面目さが自然と加わったりしていい塩梅だったのかもなと。

映画って結局の所、コンセプトや空気世界観を観客に食わせるコンテンツなわけで、そこにおいて方向性を誤ったまま最初から最後まで行くと厳しいなとつくづく思わせる作品でした。

本当に「惜しかった」と思いますが、同時に「惜しかったで擁護できるのはポテンシャルだけであって、客に生焼けのモン食わせたら文句言われるのは当たり前だろ」とも感じてしまます

まあ……私も☆1か2か入れて終わりにしようかと思います

迷いますねー。

ブクマでも見てから決めますか。

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2023-01-02

anond:20230102011558

なんで俺の周りの人間は冷めてんだろうなぁ

美味しいご飯食べに行ってもリアクションなかったり感受性が低い

音楽とか映画見てもすぐ帰ろうとしたり

巡り合わせがかなり悪いんだろうなと感じるわ

即物的人間よりもっとそういう感性がいい友人と出逢いたい

anond:20230102010941

俺も高校クラスメイトは男女ともに即物的人間が多くてソリが合わなかったし、多分今も合わない

ああなりたいとは欠片も思わないし、感性悟性が合う人間を見つけるのは人生大事目標の一つかもな

2022-12-16

今年読んだ新作漫画なし!

ちぃかわもたこぴーもぼっちSPYもチェーンソウーマンも読んでない

てか今年は一切新作漫画読んでない

雑誌も買ってない

立ち読みもしてない

コロナまではなんだかんだで

月曜はジャンプヤンマガの日で水曜日マガジンサンデーの日で木曜日ヤンジャンチャンピオンの日だったのに

コロナ以降、それがなくなって一切漫画に触れなくなってしまった

 

俺の漫画に対する精力は尽きてしまった

漫画インポなんだ

心が勃起しないんだ

漫画フロンティアスピリッツは喪われてしまった

 

最近筋トレとサブスク映画ばっか見てる

わかりやす即物的でその場で完結するエンタメに心を支配されている

連載漫画を追う、何冊も続く漫画を追うという行為

疲労感を覚えてしまっている

 

これが老化か

俺のエンタメブレイン老いに侵されているのか

お前らはちゃん漫画いっぱい読んでて偉いよ

今年の良かった漫画をなん十冊も上げられるのは素直にすごい

 

俺にはもう無理だ

無理なんだ

2022-10-16

anond:20221016215001

まぁ実際に一番多いのはそんな精神的な話じゃなくて

病気苦痛とか金銭的な恐怖とか事業の失敗とかそういう即物的な物なんですけどね

インターネット馬鹿に煽られると「コイツを言い負かしてやる」と考えてしまうんだが完全に時間メンタル無駄なのでやめたい

馬鹿相手をするだけ無駄なのは完全にわかっているんだが、バカのくせにいちいち人に噛みついてくる奴を野放しにしていたくないって気持ちがある。

たとえば家にゴキブリシロアリネズミが出た時に罠を多めに仕掛けて放置すればいいだけなんだろうが、とりあえず目の前に現れた一匹を確実に殺しておきたくなる気持ちあるじゃん

あれに近いんだよね。

自分暮らしてる空間害虫害獣の類が存在している状態に対して即物的アクションを起こしたいと考える気持ち

これはまあ間違いなく野生時代本能なんだろうな。

自分たちの敵になると感じた生物が居たら確実にとどめを刺す本能を持っていた生き物が総じて生存率が高くなって今がある状態

でもいい加減こんなのは卒業して良いはずだと理性では分かってるんだよね。

馬鹿を殺す罠は現代社会には無数に溢れているから放っておけば馬鹿勝手死ぬわけだし、いちいち噛みつかれる程度で相手してても仕方がない。

訴えられるラインまで来たら一発で終わらせるのが早い。

一人倒したらソイツの事例を吊し上げておけば、田んぼカラス死体をぶら下げるようなもんで間抜け共も本能的に危険を察してやめてくれる。

そこまでやれずに中途半端に反応を返しても意味ないんだよね。

イジメ問題と一緒だわ。

弁護士警察を出すまでは延々と舐められるだけっていう奴。

からまあ小さなことでちまちま悩んでも仕方ないんだが、それにしたってウザくてしょうがねえから殺したくなるんだよね。

どうにかしたいわ。

2022-10-08

anond:20221008134043

共産党現場、60代で若手だったりするから

あそこに40・50で参加すると、PCでの資料作りに、車での赤旗配りに、全部ボランティアで動員されて大変な思いをする

赤旗営利活動としてきちんと従業員を入れるべきだと思うんだよな

高齢化して配れなくなる地域結構あるんじゃないかね?

イベントのために公的施設予約をブラウザから行うのだってほとんどのジジババは出来ない

支部の中にも、活動を広げるために「共産」の文字を捨てようよっていう人が居るけどさ

なんというか、こう、若者が参加するメリットが小さいんだよね

自民議員なら繋がっておけば、いろんなことの話を通しやすいとかあるわけじゃん

野党の連中はこれを叩くけどさ

まさに議員政治の場へ送る理由のものジャン

地域診療所とかを中心にしたデイケア活動とか、共産党の末端支部活動では助かってる人も多い

そういう草の根活動と、共産党議会へ送ればそれが拡充し介護等くらしが楽になる、みたいなビジョンとかさ

なんかもっと即物的もので釣らんと、組織的限界

2022-10-02

anond:20221001213927

現代番犬嗅覚のように即物的に役に立つものより、注目や客寄せの役に立つ方が経済効果デカいからなあ。

どちらかというとむしろ経済効果が低くて役に立たないのは犬コロの方だろ。

2022-09-09

anond:20220909113420

言ってることはわかるが、

彼らが賛同とか同意を広めるために、

即ち合理性にもとづいてニュース他者を利用している……と考えるのは、まだ買いかぶりすぎ、絶望が足りてないと思う。

 

彼らはもっと即物的かつ近視眼的な、それをするとなんか気持ちいから、という動機でやっている。

「~とは考えないのかな?」とか言っても考えるわけがなく、そもそも何も考えてないようなものだ。

 

お前がいうような憂うべき状況を止めたいのなら、発信すべき内容はもっと別の言い方だと思う。

被害者のことをちゃんと思いやれだとか。

2022-08-24

女にとっての即物的欲求ってなに?

服?

2022-07-20

anond:20220719145503

まぁ話をでかくしないように言うと、男性即物的物質的な満足を求めていることが多くて女性精神的・情緒的な満足を求めていることが多いからじゃない?ラブかセックスかみたいなもんで。もちろん男性女性も全員が同じじゃないし、どっちがいいとか悪いとかはないと思うけどね。

2022-07-16

もっと即物的宗教ないの

性欲物欲支配欲全部満たせるようなやつ。

2022-06-07

なぜこんなにもオナニーセックスがしたくなるのかについての考察

成功体験

オナニーセックス気持ち良いのは間違いない。

それが脳に成功体験として紐づいてしまっている。

ギャンブラーギャンブル勝利した際にその後の差し引きにおいてはマイナスになっていても脳には成功体験として焼き付くことで誕生すると聞いたことがある。

それを応用するなら、セックスのために無駄金を使ったりオナニー後に虚しくなったことより、射精前後快感だけを脳が強烈に覚えているということなのだろう。

失敗しないことへの自信

アルコールを始めとした薬物中毒者の脳では「薬物使用をしても大丈夫だ」という思い込みが発生するようになるらしい。

これは強烈な快感成功体験を忘れられない脳が自分自分を騙す、というよりも脳の中に産まれた我々が自我と呼んでいる決意思決定システムが、それ以外の意思決定システム本能と呼ばれているより即物的意思決定機構)によって説得を受けている状態なのだろう。

自分意志自分の脳の中において絶対存在であると思い込まなければ、薬物中毒に抗おうとする自分と従おうとする自分がぶつかりあってしま自己矛盾を単なるバグ以外のものとして客観的に見ることが出来る。

それ以外の有力な選択肢の不在

なにか別のことに熱中していたり危機的状況に陥っているとき、暇な時と比べてセックスオナニーに心惹かれる程度がハッキリと下がるのがわかる。

これは暇つぶしとしてセックスなどを選択しているというよりも、他の選択肢のほうが明らかに優先度が高いときには除外される程度の選択肢として感じているということだろう。

逆に性欲が危機的に高まるとあらゆる事よりも性欲解消が優先されるのは、選択肢としての価値高まることに起因すると判断できる。

まり人生オナニーセックスに振り回されたくないなら、それよりも魅力的に感じられる選択肢人生に増やすべきなのである

これは同時に、まともな選択肢を用意できない人生では性欲に振り回されていたほうが幸せであるということだ。

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