はてなキーワード: 画期的とは
学者の人とか賢すぎるひとってマジでわからないことがあるんですけど、ひやっしーが本当に提供してるのは「社会問題に画期的な解決策が見つかってほしい」「その解決策はごく容易であってほしい」「自分に理解できない理論は間違ってて欲しい」「学者は間違っていて恥をかいて欲しい」などの願望の↓— まくるめ (@MAMAAAAU) December 18, 2023
満足ですから、要するに「気持ちがいい」を求めてるわけです。本当は地球温暖化や二酸化炭素にすらそんなに興味がない。というかむしろ「事実」は不快なことが多いので、気持ちよくないから彼らは嫌いです。そういう種族が人類にけっこういる— まくるめ (@MAMAAAAU) December 18, 2023
そうそう
大谷がホームラン打ったところで何かの課題が解決するわけではないが
皆の元気が出る
一丸となって盛り立てていこう!
艦これが画期的だったのって「運ゲーのクソゲー」でプレイヤーの落ち度が不可視化されてて、「プレイヤーが下手だったから負けた」がないのと、無課金や超低課金でもガチャ回したりで課金勢とそれほどの差がなく楽しめてSNSでバズったからやろ。
画期的だったのは"戦略"シミュレーションゲームという所ね。艦これの詳細な戦闘システムは、それ以前にあったデレマス等の多くのソシャゲの数字比べとは別物だろう
比較する数値の種類と乱数を増やしただけで、本質的なゲーム性って「編成組んで決定したら自動的に結果が出る」わけでしょ同じだよね。
ファイアーエムブレムやCIVILIZATIONのようなターン制シミュレーションと比べたとしてもそういったシミュレーションゲームの仲間じゃなくて「数字比べ」の亜種でしかないよね。
別に漫画のことならなんでも知ってるわけじゃないが、漫画以外のことはそれこそ何も知らないので以降の話は漫画に限定した話になる。また当方発達障害なので文章に癖があるかもしれないので読みづらい文章になってても特にフォローはできない。
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漫画文化の神髄を味わうということであれば有名どころだけ読んでいればよろしいと思う。
極端な話手塚治虫と大友克洋の作品を死ぬまで何週でもしていれば十分でさえあると思う。
それは多くの漫画家の作品というのはこうした偉大な漫画家の作品の画風も構想も何もかも模倣したものに過ぎないからだ。
外国では漫画家は実在の人物をモデルにデッサンしていきその描き癖を自分なりの絵柄として昇華させていくらしいが、日本の漫画家は別の先行の漫画家の絵をトレパクして画力をあげる=その画風を習得してよしとするというパターンが多い。
よって偉大な人が一つ画期的な画風を確立するとひそみに倣って我も我もと無名の漫画家が同じ絵柄を量産していく。もちろん構想やストーリーの組み立て方も漫画から学ぶ。
そうすると巷に出回っている漫画というのはほとんど、偉大な漫画家という原液の一滴を無味無臭の水に薄めたようなものに過ぎない。あるいはそのうっすい液体でさらに別の漫画家が育っていくという連鎖が起こるなら、原液のバケツリレー、伝言ゲーム。
そんな作品を何万作品読んだって原液の濃さに匹敵する体験消費などできないのだ。
だったら最初から原液をしゃぶりつくした方がコト消費としては良質だと思う。漫画の神髄にアクセスしてることになると思う。
もちろんこうした偉大な作家だって最初は無名だったことを逆に考えれば、今無名な有象無象から偉大な作家が現れることはあるかもしれない。
しかしそういう人は必ず時間差はあってもちゃんと評価されると思う。評価されないということは結局原液を薄めた以上のものではなくて、自分で新たな原液の開発もできなかったといいうことだ。
「自分がこの漫画家を最初に見つけた」なんてことを自慢することにこだわりたいのでもなければ、何千万時間もかけて異世界やらティーンズラブやらハーレクインやらに有象無象の漫画を乱読するより、すでに有名な漫画だけ読めばいいと思う。
自分はシステム開発に携わっているが、お客様やら元請けやらのやり方で効率の悪さを感じることもある
一度修正したものを逆に直すようなことがあると、ヤレヤレと思ったりする
けど自分の会社と自分自身の給料のことを考えたなら、別にそれはネガティブでもなんでもないのだ
お客様は段取り悪く余計な作業を増やし、元請けはその作業を開発として頂き工数をふっかけ、自分はその元請けからの作業を受けて今月も飯が食える、と
そういう仕事は無駄だなと思うことも無いでは無いが、それによって生かされている我が身であることを思うと、まあどんな仕事も大事だよなと
顧客と元請けが要件詰めて開発したシステムは、いまだに利用者が少ないと話題に上がる
根本的にシステムの方向性を再検討したほうがいいんでは、という指摘も無いではないが、それを言える場所に自分の席はなく
それでも数少ない利用者が要望を上げており、それゆえに相変わらず自分は作業担当者として雇用されているのだから、それはそれでと
アレは「堂々とハッタリかまして『どうだ?完璧やろ?』と言い張れれば、政治屋は『コイツ……責任ちゃんと取ってくれそう……ってゆーか駄目だったときはコイツが言い切ったせいってことにすればいい感じで話進めてくれるタイプじゃん』と思って支援してくれるもんなんやぞ。金引っ張ってきたいなら自分のハッタリに命賭けろ。求められている仕事は命を賭けることで、命賭けるに値するような仕事をするかどうかは二の次なんや」ってコロンブスの商売哲学を表現したエピソードなんやぞ?
「出会い頭にドカンと一発かましたれ系の奴やったんやわ」って話がしたいんであって「マジでアイディアの宝庫でな~~~」って話はしてないわけよ。
https://anond.hatelabo.jp/20231027224113
将棋にはゾルトラーク的なものがいっぱいある。猛威を振るったけど対策が研究されて下火になった、あるいは陳腐化した戦法たち。
横歩取り戦法で一時期猛威を振るった後手番の戦法。先手番が3四飛車で歩を取った後に、3三角として飛車を2筋に戻りにくくする戦法。
飛車が序盤から高いところで動くので空中戦法とも。90年代後半から2000年代のタイトル戦でよく指された戦法。
後に先手番の対策が進んで、後手番が不利になったこともあり横歩取り自体が下火になった。
穴熊自体は江戸時代からある古い戦法だけど、居飛車穴熊は意外と新しくプロが使うようになったのは1970年代。
振り飛車側の振り飛車穴熊や美濃囲いに対して更に硬さで対抗する戦法。
渡辺明はこの戦法と上記の横歩取り戦法で若くして竜王になった。
振り飛車側も下記の藤井システムを始めとする対抗策を開発したが、それでも長いこと主流戦法だった。
振り飛車自体が指されなくなったことに加え、将棋の質自体が玉の硬さから盤面のバランスや広さが主流となったことにより下火に。
四間飛車の戦法。藤井システムの藤井は藤井猛九段から。藤井聡太ではない。そもそも藤井聡太が生まれる前の戦法。
四間飛車は本来玉を早い段階で美濃囲いなどに囲って戦うものだったけど、居飛車穴熊戦法に対抗するために四間飛車から居玉のまま美濃囲いの形に進み、角筋を使って居飛車穴熊を妨害する構想。
開発者の藤井猛の竜王戦3連覇の原動力ともなったが、居飛車側の対策が進んで使われなくなった。
後手番が角道を明けたまま飛車を序盤に5筋に振る戦法。開発者の近藤正和七段がいつもニコニコごきげんだったからこの名前に。
それまで振り飛車といえば角道を止めて戦うのが当たり前だったが、序盤から角交換も厭わない攻撃的な戦法で革命的だった。
この戦法の恩恵を最も受けたのは久保利明九段で、先手番の石田流とあわせてタイトル戦や順位戦での活躍の原動力となった。
これも居飛車側が超速▲3七銀や超急戦など対策を開発、トップ棋士の振り飛車党減少もあり下火に。
ちなみにこれらの戦法は、羽生会長が全盛期によく指していた。一方で藤井八冠は公式戦ではほぼ指したことがない。
AI以降の将棋はゾルトラーク的な戦法開発というよりも、以下の序盤から終盤にかけて間違えないかという方向になっているので、
もうこういう画期的な戦法や新手は出てこないだろう。藤井聡太が藤井と名の付いた新手を出すことはおそらく無い。
「藤井八冠は公式戦ではほぼ指したことがない」なんて書いたけど、対抗型の居飛車穴熊は指していて負け無しだった。
あとこれらの戦法はプロの棋戦ではゾルトラークだけど、女流やアマチュアではまだまだ主流戦法。
俺は携帯電話が嫌いだ。
俺が子供の頃は、電話といえば家庭の固定電話か、街中の公衆電話しかなかった。当時も車載の移動式電話はあったそうだが、子供の俺には関係がなかった。
世の中で携帯電話が広く使われ出したのは、俺が高校生ぐらいの頃だったと思う。しかしその頃から俺は携帯電話が嫌いだった。
電話ボックスの中でもない屋外で通話する姿はどこか滑稽に見えたし、交友関係の狭い俺は頻繁に人と連絡を取る必要性もなく、むしろ一人で過ごす時間の邪魔をされるのが嫌だった。
そのため俺は大学生になっても大学院生になっても携帯電話を持つことがなかった。
やがて就職活動の時期になり、さすがに働く上では必要だろうと思い、ついに携帯電話の契約をした。
しかし初めて触る携帯電話は俺にとってとても使いづらいものだった。
まず電話の取り方も切り方もロクに分からない。最初のうちは電話を取れずに切ってしまうこともよくあった。
そして子供の頃からPCのキーボードに慣れ親しんだ俺に携帯電話の文字入力は辛すぎた。
同じ文章を打ち込むにも、キーボードより携帯電話の方が30倍は時間がかかって話にならない。
小学生の頃からPCでMS-DOSのコマンドを使いこなしてきた俺だったが、携帯電話の操作となるとまったく頭が働かない。
PCでできたことは全然できず、操作法もよく分からず、より一層携帯電話が嫌いになってしまった。
俺にとって一番画期的だったのはQWERTY入力ができるようになったことで、文字入力の負荷はかなり軽減されたが、それでも嫌いなことには変わりがなかった。
スマホに乗り換えてから10年、多少は使いこなせるようにもなったが、
今でも俺はゲームもやらず、動画も見ず、本当に通話とメールチェックぐらいにしかスマホを使っていない。
それらもほとんど来ないので、スマホをチェックするのも1週間に1度で十分だったりする。
仕事も趣味もPCですべて事足りるので、スマホを持っている意味はほとんど何もない。
しかし最近の世の中は、牛丼を注文するにもスマホを使うという意味のわからん世界になってきていて、DOSコマンドで思考する人間にはいよいよ生きづらくなってきている。
俺はまだ40代だが、40代でこれなら70代になったらどうなってしまうんだという気はしている。
俺が70代になる頃までには、固定電話が携帯電話に置き換わるぐらいの技術革新があと1~2回はあるだろう。その頃にはもう携帯電話すら別の何かに置き換わっているのかもしれない。
しかしそれでも、俺の携帯電話嫌いは生涯変わらないだろうと思う。
俺は携帯電話を使わない生き方を生涯貫くのだ。そして語り継いでいこう。電話といえば、固定電話か公衆電話だという時代があったのだと。自分はその時代の最後の語り部なのだと。