「枯山水」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 枯山水とは

2023-02-12

その筋(?)では有名なものが知りたい

この前レディットみてたら、「砂が敷き詰められた盤の上を、電磁石に引っ張られた金属球が規則的に動いて、枯山水のような模様を描く」っていうステキデバイスが紹介されてたんすよ

これ文字での説明は難しいな

https://sisyphusjp.art/

まあコレですよ

ステキだし、俺は全然知らなかった

くそ高えから一生買わないんだけど、いいなとは思う

そんで、調べてて気づいたのは、けっこう"あの有名な"みたいな感じの雰囲気が出てること

インテリア界隈とかではかなり知名度あるっぽい

そういうのってあるんだよなあ!

というか、思ったんだけど、レディットそのものも割とそういうところあるよな

職場でレディットの話したら絶対まずナニソレ?ってなる 知ってる人の方が少なそう

でも、SNSとしてのレディットはめっちゃ有名だし、決してマイナーとは言えん なんなら何かが世界一だった気すらする

ほかの例として、食い物で言うなら、アレですよ

成城石井いちごバターとか、かずのこチーズとか、そういうやつ

かの有名ないちごバター元祖!って感じで売ってあるけど、まずいちごバターってなんだよ?と思って、そのあとほかのスーパーに行って棚を見てると、謎の会社が作ってるパチモンくさいいちごバター結構売られていて、そうかいちごバターって界隈があって、成城石井がその最上層あたりにいるのか、ということがわかってくる

そういうのってあると思うんすよね

さなジャンルを築くか、他者追随を許さず独走するくらいの完璧独自性もつ、その筋では超有名・代表格なものでありながら、誰もが知ってるってことはなく、むしろ10人に聞いたら多くても1〜2人くらいしか知らないようなもの

そういうものが知りたいんだよな

そんで、何についても「あー、アレ!いいっすよねえ!」って反応したい

教養のある奴だと思われたい

幸せになりたい

モテたい

金がほしい

働きたくない

2021-11-20

anond:20211120142650

枯山水よりカタンがやりたいけど友達がいない(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

2021-11-08

[]正伝寺

京都の北にある。廊下天井血天井になっている。庭は白砂の枯山水で刈り込みで石が753と表現されており合計で15。比叡山借景となっている。非常に静かなところで自然の音が聞こえ、ぼーっとすることができる。デビットボウイ谷村新司がよく来ていたらしく今でもファンが訪れるらしい。

anond:20211108081047

2021-09-30

地方競馬砂漠の薫り

地方競馬園田競馬場馬場は良。天候は曇り。枯山水をなぞるように、1051mのダートコースが広大な砂漠に見えた。

バイトに入っていない日の大学生は暇で退屈である。何せ授業はオンデマンド大学に行く必要も、時間通りに授業を受講する必要もない。大文字焼きの如く絨毯の上で燃え尽きていた午前11時過ぎの私に、一本の電話が入る。

今日競馬見に行くって言ってなかったっけ」「それは土曜日の話ではないのか」

地方競馬は平日開催なんだよ」

別に後の予定もない。何も知らないままノコノコ競馬好きの友人に連れられて、阪急園田駅に辿り着く。

競馬場へ直通する無料送迎バスは平日にも関わらず満席近かった。古臭いバスにロクデなしを詰め込んで、街中のバス停を次々に通過していく。曇空も相まって、車内からはデスゲーム香りがした。

山中に連れられることは流石になく、100円の入場料を支払いマスコットキャラがお出迎え。お土産屋さんや屋台もあるのに、どこか雰囲気が澱んでいる。休日ひらかたパーク天道ならば、園田競馬場地獄道に違いない。ホームレスの様な格好の老人達、明らかに営業をサボっているスーツ姿の男性人間修羅畜生餓鬼も超えた地獄がここにあった。

そんな地獄で、しまむらで買ったウマ娘トートバッグ肩にかけた私は、カープ女子も青ざめる位に場違い人間だった。園田競馬ダートコースを前にして、競馬馬券の買い方も知らない。

パドックを輝く眼で見る友人が羨ましかった。

競馬ファンからすれば、きっとオアシスとも呼べる競馬場。私はそこで、砂漠を見つめ立ちすくむ。

友人には悪いが、競馬に興味を持つ事は出来なさそうな予感がしてならない。

2020-10-29

カフカかい流行らない作家がいる

 勿論タイトル釣りで、カフカは全世界に影響を与えたユダヤ人かつオーストリアチェコ)人なわけですけど。

 独文学というとカフカカフカというと独文学。そんな感じですよね、実際のところ独(語)文学においてはトーマス・マンとかゲーテとか他にも様々な著名な作家がいるわけですけれど、カフカはその研究テーマとしては比較ポピュラーな御仁でありますユダヤ人の家庭に生まれ生地である現在チェコプラハ言語に依らずドイツ語にて創作を目指したカフカの、ミステリアス人間性はその作品群に対しても同様に、謎めいたベールを投げ掛けています

 カフカ文学をお読みになられたことはございますでしょうか。まあ僕もそれほど熱心な読者とは言えないかもしれないのですが、とりあえず『変身』・『城』・『審判』のほか幾つか著名な短編を読ませて頂きました。まあカフカ作品の特徴は、感情的な部分を敢えて抑制するところにあります。勿論十分に感傷的な部分を持った短編とかも散見されるのですが、基本的に、感情の伝達、あるいはその伝達の手段としての文学というものカフカはあまり信頼していなかったのではないかとも思われるのです。というのは、基本的に作中人物達は様々な問題に取り囲まれていることが多いのですが、弱音を吐くことがあまりなく、ついでに言えば仮にその感情というものが滲み出るにしても、基本的にそれはレトリック暗喩といった形によって示されるので、はっきりとした感情というものが作中に表れるということは稀なんですね。この辺に、カフカ抑制的な人格と、コミュニケーションそれ自体に対するカフカ立場というものが表れているように思われますカフカ基本的コミュニケーションというものを信用しておらず、また、コミュニケーションを通して自分自身人生をくつろげるものに変える努力に関しても、冷ややかな見方をしてきたように思われるのです。

 コミュニケーションという営みは人間基本的に切り離せないもので、人間はそれを用いて自分人生他人人生コントロールしようとします。しかし、そのような一般的コミュニケーション立場と、カフカコミュニケーションに対する立場は明らかに違うように思われますとはいえカフカの立たされていた環境を考えれば、我々が用いるようなコミュニケーションのあり方と、カフカにおけるコミュニケーションのあり方との乖離は、さして驚くべきものではないでしょう。

 つまりカフカユダヤ人でありかつオーストリア人でありかつチェコ人と呼べる極めて国家国民性というアイデンティティが複雑に錯綜した人物であったからです。これはカフカ研究においては極めて一般的な基礎知識ですが、カフカ現在チェコに当たる地域で生まれたにも関わらず、その日常においてはチェコの土着言語を用いずにドイツ語を用いました。また、当然のことながら創作においてもドイツ語を用いておりました。チェコで生まれながらにしてチェコ語を使うことを許されない――つまりカフカ自身の持つ言語によってさえ一種の疎外を受けていたと言えるわけです。超基本です。

 カフカにとってコミュニケーションとは――なかんづく、コミュニケーション根本的に支える言語というものは――自身人生リラックスさせ、他者との間に健全コミュニケーションを成立させる、我々における言語のあり方とは少しばかり違うものだったということです。カフカは生まれながらにして一種異邦人であった、ということですね。この「異邦人」という記述はもはや陳腐な言い方なのでしょうがしかしやはりこの視点カフカ理解する上では切っても切れない重要な点となりますカフカはそのアイデンティティの複雑さ故に、生粋異邦人でありましたし、そして彼が用いる言語レトリック基本的に、一種生存戦略だったのです。要は、植民地支配を受けた国家国民が土着言語を用いず宗主国言語を用いるのに近い、生存戦略の一環として言語を用いる生活を送ることが、彼の人生においては定められていたのです。我々にとって言語人格は複雑に結びつき、そして、自身人格感情を表す際に、極めて重要役割を演じます。恐らく、この世界におけるほぼ100%近い人類が、言語に対してそれと同じ感覚を抱いていることでしょう。しかカフカにおいてはそれは事実ではありません。

 カフカ作品群において、カフカ言葉によって感情を語ることはありません。カフカが語る感情は、物語構成依存しているか、ないしは物語中における舞台装置によって、つまり暗喩によってのみ語られることとなります。その、感情表現の大いなる欠落が、カフカ文章における特徴ですらあるのです。あるいは、それは仏教における「見立て」の感覚に近いかもしれません。つまりは、一種の擬似的な曼荼羅と言いましょうか、物事物質をある特定の配置に並べ変えることで、何らかの物質を超えたメッセージを贈ろうとする試み。枯山水現実自然を表すように、カフカはある種の機械や道具立てによってのみ自身感情説明しようとし、翻って言うならば、カフカは直接的な表現によって感情説明しようとなどしなかったのです。感情の欠落。

 この「感情の欠落」が文学の特徴であることは明らかにカフカが作り上げた文学の一潮流と言えると思います。後年の作家であるトーマス・マン文学においても、感情内省と言うべき人間の心のあり方が、敢えて描かれない抑制的な文体の影を見ることができるように思われます感情とはなんなのでしょうか? コミュニケーション言語は、我々にとって慰めと言えるものなのでしょうか? カフカはそれに対して否と答えます言語は、必ずしも我々に結びついていない。同時に、言語を基底として成り立っているコミュニケーションもまた、我々に属していない。我々は、根本的に言語によってコミュニケーションを取ることができない。

 しかしそのコミュニケーションへの失望結論ではないのです。何故ならカフカは、コミュニケーション失望をしていてさえなお、小説ものしたのですから

 何故カフカ文学を書いたのでしょうか? 文学自己表現である、という一般的見方と、カフカ文学的なあり方には乖離があるように思えてなりません。カフカにおいては寧ろ、文学自己から自己への感情乖離です。いわば自己自己に対する乖離のものです。

 そのような営みは、恐らくカフカ人間性に淀みを与えているようにさえ思えます自己自己に対する分離、乖離を通して、恐らく彼の感情も一部彼から乖離し、分離していたからです。そのような営みが、彼にとって一体何だったのか? それは我々には想像するほかありません。短絡的に考えれば、その営みは、その乖離と分離の営みは、単純な自己破壊行為であったと断じれるかもしれません。自己から自己を分離し、乖離させることは、明らかに自己にとって好影響を及ぼす行為ではないからです。とは言え、彼の行為は本当にその自己破壊目的にしていたのでしょうか? あるいは、世の人々が芸術家小説家に対してしばしば言うように、彼は文学というものを用いて、彼の生命生活痕跡世界に残そうとしたのでしょうか? それも、疑わしいと僕には思われます。つまりカフカ文学コミュニケーションに対する諦観なのですから。そこには、コミュニケーション言語に対する深い諦めの影の姿を見て取るほかないのです。

 結論から言えば、カフカ文章を書いていたのは、恐らく乖離目的とした、逃避行動だったと言えるでしょう。そして同時に、彼は自己から自己乖離させることによって、一般論的に自己省察を深めようとしたのでしょう。敢えて、自己から自己を分離させることによって、自己省察可能対象として対置する行為が、彼の文学目的の一部だったと言えるでしょう。


 このような記述文学における一般論範疇を出たものではなく、彼の人生文学目的は未だもって謎に包まれていますカフカに限らず、一部の文学者は、そして小説家は、コミュニケーション媒体である文字言語を用いながらに、コミュニケーションを諦めているのであり、つまりは何かを伝えようとしながらに、我々に対して何も伝えようとなどしていないのです。あるいは、最終的には彼らのような小説家の目的は、一言によって表せられるのかもしれません。

 つまりは、彼らは何かを諦めたかったのであろうと。

2020-03-05

日本現代アートがあまり評価されてない理由

世界で主流になってる現代アートというのが、あまりにも日本人に身近になり過ぎてるのでは、という理由

現代アートは大雑把に言えば「高度にコンテクスト化された作品」だと思う。

あれはものに溢れる豊かな国の人が、「あえて~」することによって発生する。

継茶碗とか、枯山水とか、日本は昔から「あえて~」というのを好む。それをわびさびとか言ったりするのだが

あれは現代ではないが現代アート一種だと思う。そして歴史の中で洗練・定着している。

正直そこらの現代アートでは、その高度な文脈に勝てない。日本人現代アートを見ると、「なるほどな」以前に

「野蛮・ダサい、洗練されてない」と思ってしまう。だからまらない、というか、既に広まってるのだ。

そして逆に世間で低評価されがちな、絢爛豪華できらびやか完璧な、時に世界の人が「ダサい」と思うもの

逆に日本人は惹かれる。正直「高度なコンテクスト」とか「わびさび」とか、うんざりしている部分があるんだと思う。

背景の文脈とかなく、その時に直球で伝わる言葉、そういうのに憧れてしまうんじゃないかと思う。

でも結果的文脈を見せようとして、見せかけのレンガ造りの家とか作ってしまう。

日本現代アートが正当に評価されてない」とのたまう人は、まずその狭い視野を広げて欲しいし

同時に、日本人はその中途半端文脈を求める態度を改めるべきだと思う。出羽守が多いのも、「海外から来るには意味があるんだろう」みたいな

下手に文脈評価する性質故だと思う。

2019-02-05

anond:20190205000340

若さがないわねー!!シワシワな枯山水マスダー、お疲れさまです。

真の若者はこういうシニカルかつ、やる気のない気持ちになるものよね。

そして過剰に年寄りぶるのよ。

年より程、逆で、ほんと元気ぶるからね。

🐈ねこは元気よ!!

🐇BBA無理しないで。

🐕元気だわん!!

2018-08-08

年を取ったら枯山水を目指そう

枯山水を目指そう

2018-06-24

最近番宣CMで「健康で文化的な最低限度の生活」ってよく見かけるけど、子ども時代は左を拗らせた教師共に担任されたのでトラウマレベルなのでやめてほしいわ

こういう教育受けた人って全国的にいるのかな?

日本国憲法の前文の暗誦はあたりまえ

憲法学習9条と25条を重点的に

おかあさんの木の朗読戦争反対感想

障碍者学級との交流

屠殺場のビデオ

枯山水被差別部落の人たちがつくりだしたすばらしいもの的なビデオ

うちの小学校にはパワー系の知的障碍者が何人もいて、低学年の頃にボコられてあうあう言ってる障碍者が近くに来ると今でも身が竦むし冷や汗が止まらなくなる

そのとき教師たちはパワー系の知的障碍者を庇うばかり

今でも日教組の「子どもを守れ」とかのシュプレヒコールには反吐がでる

2017-11-10

日本の美意識は「非対称」の美!

日本庭園枯山水

自然の美!


西洋シンメトリーの美

所詮作られた美しさ(笑)


などと言ってホルホルした挙句

富士山は左右対称で美しい」とか言ってるのほんま草

2016-06-26

わびさび

日本では、習字しろ茶室しろ枯山水、墨絵など、色んな所で「空間」を大切にしてきた

空間とは、余白、または余裕のことだと思う

しか現代では空間がとても足りない気がする

なぜなのか

2016-05-03

5/5はビッグサイトゲームマーケットですよ

紳士淑女の嗜みであるところのアナログゲーム

その同人作品即売会であるゲームマーケットが今年は5/5に開催されます

まり知らない人もいるかもしれませんが、アナログゲームプレイヤーはるかから日本各地に潜みつつ徐々に増殖しつつあります

また、その同人活動というのはかなりの勢いで拡大しているんです。

2000年に400人しかいなかった入場者が、2015年には9000人にもなっています。また、出店者も増加する一方です。

アナログゲームはその性質上かさばったり手作業必要になったりと同人誌同人PCゲーム以上に大変な作業になります

それでも出店者も単調増加になっているというのは、なんというかすごい熱意を感じます

増田各位はアナログゲームといえば囲碁将棋トランプUNO人生ゲーム枯山水7つの習慣ボードゲームくらいしか知らない人もいると思います

しかし、それらだけではアナログゲームの独特さのほんの一部しか見えていません。

最近PCゲームとかですごいアイデアだな!っていうのも増えてきましたが、それらをはるか想像を絶するレベルで何でもありのゲーム、それがアナログ世界です。

その中でも同人作品ともなれば、商売とか規制とかトレンドとか一切無視して「こういうことをしたら面白い!」「こういうことで競いたい!」ということだけを表現する世界がそこにあります

そこにほんのわずかでも触れてみませんか。

http://www.gamemarket.jp/

2015-05-15

http://anond.hatelabo.jp/20150515001731

ただいるだけでは京都しんどいところじゃないかな。あと4年間も。

禅寺もたくさんあるから枯山水を極めるのもいいよね。

京都らしい自分なりのテーマを見つけるんだね。

優雅に暮らすのが最高の復習っていうらしいよ。

「お前、京都で何してんの?」

「俺、枯山水きわめてるよ」

東大同級生からは呆れられるかも。

だけど、何やっても、結局は、何にもならないということがはやくから分かるよ。

夢をこわすようで悪いけど。

とりあえず坊主バーにでも行ってみるのもありだよね。

http://bozu-bar.jp/index.html

もちろん、京都勉強だけしてるのもすごく清々しいよね。

ipsの山中さんみたいな髪型にしてね。

大学生栄養不足になりがちだから、とりあえずこってりでも食べて元気だしなよ。

http://archipelago.mayuhama.com/entry/2015/05/02/004600

脳に栄養コラーゲンを行き渡らせてからゆっくり考えた方がいいよ。

2009-04-18

ネトウヨ寝言

ボコられるのは仕方がないとして。

誰にも読まれないのはなんか手応えがないなあ、と思い、自称ネトウヨである俺のブログの記事を転載してみる。

メンヘル寝言だと思って聞き流して下さい(と言っても、皆さん、容赦はされないと思いますが)。

さて、司馬遼太郎元ネタとして話を始めよう。

まず、司馬遼太郎戦車乗りでした。

戦後はともかく、戦前戦争中の日本戦車はとにかくしょぼかった(好きな人はごめんね)。

エンジンディーゼルエンジン(ただし、技術的にはすさまじい)。装甲は紙のよう。

なぜか?日本には資源がないから。軽油安いし。

で、運転が無茶苦茶難しかった。戦車の運転手として、名人芸を問われた。

アメリカはどうか?

当然、ガソリンエンジン(しかもオートマ)。楽々前進。運転簡単。

司馬遼太郎戦車乗りの一人として、米国戦車と自国のそれを比べたとき、大変無念な思いをした訳ですよ。技術って普遍的なもので、優れた技術はそれを扱っている人間にはすぐに分かる。

で、この差はなんなんだろう?という話になる訳だけれども。

司馬遼太郎曰く、"文化"と"文明"の違い。今でこそ、日本サービスは優れているけれども、戦前日本は、"名人の文化"だった。「できないのは、お前がグズだからだ」という文化。タクシーの運ちゃんが「私は助手時代から一度も道を間違えたことがないのですよ」と威張れる文化(戦前道路は、道は整備されていないし、道路標識もほとんど無かったので凄いことらしい)。

戦争中、すでにアメリカは、ベルトコンベア採用したT型フォード生産とかから始まる、機械大量生産・大量消費の社会に入っていた。で、品質のバラツキをなくすため、品質管理をアホでもグズでも出来るように普遍的なマニュアル化、"文明化"した。日本の場合、品質は個々の情熱と自負心と技量に依存した"文化"だった。

日本戦後、(サービスにおいて)、名人主義、"人はみな有能"という考えを捨てた。で、品質管理(QC)が、日本産業の基本的性格の一つになった。つまり、アメリカの"文明"を吸収して、日本"文化"にしてしまった。その結果、日本航空会社スチュワーデス(あえてこの語を使う)は(優しい)母親となって客を扱う、とは司馬遼太郎の弁。

まあ、大体、アメリカ移民の国であるから、モザイクのようにバラバラにまとまって住んでいる"文化"の違う住人達をまとめるには、普遍的な価値観の"文明"が必要だった面もあるかも知れない。

だから、アメリカは、"文明"的には優れているが、"文化"的には未熟、と言える。

だから、四つ足で一生懸命スタコラ歩く哀れなデザインマシンを蹴り上げることが出来るのだ。Yes, We can !

参考映像http://www.youtube.com/watch?v=W1czBcnX1Ww

じゃあ、日本文化本質って何よ?という話になるわけだが。

まあ、俺辺りが簡単に説明できれば、誰も苦労はしないよなあwとは思いつつ、適当に私見を書こう。

結論から先に書くと、「禅的構造への落とし込み」だと思う。

じゃあ、"禅"とは何かというと、Wikipediaによれば、「ただひたすらに(坐禅を)実践せよ」とか「以心伝心」とか「言葉でなく体験」みたいな説明が出てくる。要するに、「空気読め」ということだと思う。多分、それが、日本人日本人たらしめている。

「禅的構造への落とし込み」の例。

例えば、日本庭園枯山水庭。とか言うと俺にもよく分からなくなるので、例えば、漫画とか。

昔の劇画でもアメコミでもバンドデシネでもいいのだが、基本的に良く描き込んである。でも、劇画は廃れ、現在日本では、あまり描き込まれていない、もっとシンプルな記号化された漫画が主流だ。

これが何を意味するか?

まず、描き込むだけの時間がない、という面はある。つまり、「資源が少ない」のだ、我々は。島国は。で、例え結果的でも、描き込まれていないということは、紙に染みついたインクの量は少ないということである。ということは、それだけ、"何を紙に染みついた少ないインクにするか"考えなければならない。その結果、"何を書くか、どの線を選ぶかなどを作家が(生き残るために)魂を込めて選択しなければならない"(もちろん、適当に描いている人もいるかも知れないが、読者を脱力させるための線や展開などの構造を(無意識のうちに?)選んでいると思う)

で、アニメも描き込みの量が少ないわけだが、ストパン監督は、エヴァンゲリオン庵野秀明に「お前の描くパンツには魂がこもっている」と褒められたわけだ。

ゲームもそう。わびでもさびでも萌えでも良いのだが、日本の強みは現実換骨奪胎と記号化であり、「逆に要素を少なくすることで、対象者に想像力を使わせる」のだ。禅的構造への落とし込みとは、「対象者に想像力を使わせるための魂のこもった取捨選択」だ。小さくまとめ上げる。美を追究する。そのために職人は技を磨き、我々は空気を読む。

で。

ハッカーの話になる。

ソフトウェア工業製品ではない」、Rubyのまつもと氏が講演 " @IT

http://www.atmarkit.co.jp/news/200904/10/matz.html

つまり、まつもと氏は、名人主義だ。

まさに、ハッカーとは、名人主義だ。

そして、はてなでたむろしている連中も、名人主義だ。

だが、そこが彼らの、我々の、日本人限界性でもある。日本技術者のかなりが未だに、紙のような装甲と、ディーゼルエンジンを装備し、精神を病むほどの"根性"で、自分を、現実を、だましだまし、日々を戦っている。

とは言え、泣き言や呪詛を並べても仕方がないのだろうが。

ソフトウェア工場は失敗だった?

どうだろうか。歴史で繰り返される技術者の奢りであるかも知れないという疑念は?

正直、アメリカなら、やりかねないのではないか?

そのうち、ソフトウェア設計を合理化/普遍化/文明化/マニュアル化し、アホでも作れるようにしてしまうのではないか?

大抵のソフトウェア適当に注文するだけで、9割方、自動生成されてしまうとか。しかも何回もやり直し可能。

俺はそれを恐れる(そして、楽しむ)。

現に、アメリカ発のインターネットというテクノロジーで、編集者青息吐息ではないか。

多分、思いも寄らない方向から、必殺の一撃が来る、と考えた方が自然ではないか?

そいつは、非人道的に、無慈悲に、機械的に我々を殺しに来るのだ。我々は合理的結論で殺される。OK. 原爆アメリカにとって合理性があったのであろう。殺される方はたまった物ではないが。それが村上春樹が恐れているものではないか。しかし、"技術革新は誰にも止められない"。

果たして、アホに生きる権利があることを許さない、名人主義のその狭量さが、限界性を作っているとしたら。そして、よりハッキリ言えば、技術バカ(ギーク)がやり手の営業マン(スーツ)に負けるように、好きでやっているアマチュアプロフェッショナルの作った構造的罠に負けるように、負けるのが宿命づけられているとしたら(日本vs欧米スポーツもか)。

もっとも、人間はどこかしらの部分で優越感を感じていないと生きていけない生き物であるから、腕のある人間はアホに優越感を感じて、差別して、見下して、生きているのだろう。底辺の人間が、例えば、外国人に優越感を感じて、差別して、見下して、生きているように(繰り返すが、それを自覚し、どう振る舞うかが重要なのであって、その感覚を無くせなどとは言っている訳ではない(というか、存在論の部分に関わってくるので無くせない)。どうプラスに活かすか。"かわいげがある"というのは、見下しているが、プラスの評価だ。だから、日本が"カワイイ"文化で世界に浸透してしまうというのは、結果的に正しい。日本人連中に"文化"を教えねばならない(←ネトウヨ勝手な思い込み))。

それに、穀物を育てながら、畑を保守しながら、計画に戦略ロジスティクスストラテジーに取り込まれて生きるのではなく、その時々において、メシの種(獲物)を見つけて狩りをする戦術技術やタクティクスやアートや道(タオ)を追求するというのも一つの生き方であろう。男だね。侍だね。無形の型。戦略などないので強い者だけが生き残る。生き残ったから強い。まさに逆転の発想なんということでしょう。匠の遊び心が光ります。お前ならどこへ行ってもやっていけるさ。じかい、ほくとのけんつ~!奥義、万物流転!誰だ、日本人農耕民族だから、みたいなことを言ったやつは。責任者出てこい(とは単純には言えないのだろうけど。経済は生き物で、強弱の違いこそあれ、両面の才能は必要だろうから)。

・・・・・・少し落ち着きました。

さて、では、はてなは、どんな立場を取るのか。

名人主義のSNSへ向かうか。2ちゃんねらの底辺にいるようなアホの流入を前提にして、文明化するのか(一時期、そちらに傾きかけた・・・というか、あの時のはてな社長は血迷っていたのだろうか?)。今は、どちらでもない、なんだかよく分からない、迷走している状態だ。

それとも、近松門左衛門が虚構と現実のはざまに真に我々の心をうつものがある、と言ったように、迷走状態のはてなであるからこそ、我々の心をうつものがあるのだろうか?"不満を言う楽しみ"。"馬鹿な子ほどかわいい"。"灰色の魔女(違う)"。なんかね~、"相手の優越感をコントロールする"のがサービス業だとしたら、『あたしは、はてながどうしたっていいと思うし、何も言わないわ。はてなはよくやったと思うもの』ですよ(と、また話が明後日の方向へ)。

2009-02-13

[][]世界経済の成長と深刻な問題

日本経済新聞 2009.2.11 大機小機

米国を震源とする金融経済危機が急速に世界のあらゆる国々を襲っている。

最初は米国サブプライムローン証券化商品の値下がりによる金融機関の巨額損失問題として軽く考えていたが、欧米金融機関自己資本不足から急激な信用収縮が起こり、金融市場の機能が麻痺して深刻な経済危機へと発展したのである。

米国が膨大な物資を輸入し、貿易赤字を垂れ流して世界経済を引っ張ってきた二十世紀型の成長モデルは見直さざるを得ないであろう。一方、基軸通貨米国冷戦構造の崩壊による資本主義経済の爆発的広がりを受けて始まったグローバル経済成長に対し巨額な経常収支の赤字を通じて成長通貨ドルを世界供給してきた。

結果的に米国世界中央銀行としての役割を果たしてきたわけで、冷戦終了後の旧共産圏の国々やそれに続く発展途上国経済が順調に離陸し、再び共産主義全体主義に戻る国がほとんど出なかったことにつながった。そうでなければ、世界中北朝鮮キューバのような国が今も多く存在していたかもしれないのである。

もちろん、本来、住宅を買う能力のない人にまで持ち家を買わせるサブプライムローンや、値上がりした住宅を担保に追加貸し出しを行って過剰消費をさせるホームエクイティローンなど、バブルをあおるような金融機関経営は変わらざるを得ない。当然、米国人ライフスタイル収入以上に消費する貯蓄率マイナスの生活から、収入の範囲で消費する貯蓄率プラスの生活へと変わるであろう。

そうなると、米国の経常収支の赤字は大きく減少するが、同時に世界経済の成長は大きく減速し、日本中国をはじめ、対米輸出依存度の大きい国の経済は大きな打撃をうける。世界の総需要はいったん縮小したら、経済危機を克服した後も危機前の水準へすんなり戻るのは難しい。企業経営者も劇的に落ちた需要が元に戻ることを前提に経営する事は出来ない。

米ドル以外に世界通貨としての役割を果たすことのできる通貨が見当たらないなか、米国節度ある国際収支国になったら一体誰が世界経済の成長のために成長通貨供給するかと言う深刻な問題も頭に入れておくべきである。

数年たったら猛烈なドル不足時代を迎えてドル高が進んでいるという可能性もあるのである。

(枯山水)

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん