はてなキーワード: 最終兵器彼女とは
成熟時代になれば「実存的虚無感」を感じることは必然です。成長時代のように、消費や所有に幸せを感じられなくなっていますし、生きることに困っている人がいません。生きることに精一杯で、明日死ぬかもしれないのであれば、私達は悠長に生きている意味など考えていられないでしょう。成熟時代を生きる私達は、生死を脅かされる不安がないから悠長に実存的虚無感に悩むことができるのです。実存的虚無感とは、「ここに実体はあるが、中身を伴わない」ことを言います。例えば、平和を望んで戦っていた兵士が、いざ平和の世界を手に入れると、戦いしか知らなかったがために、実存的虚無感に襲われるなどが当てはまります。
ある極限の状態、生死の切迫した事態、そういうものに自分たちが囲まれたとしたら、虚飾や体面をすべてとりはらうことができ、そのときはじめて、ぼくたちのなかから「純粋なぼくたち」が現れ、なんの衒いも、けれんもない「純粋な意思の疎通」ができるはずだ――ぼくらがそんな妄想にとらわれることはなかっただろうか?
一再ならずそう妄想したことのあるぼくは、柴門のこの描写をみて、それが普遍的な観念だと知った。
ぼくらは、現実が現実とは思われないような希薄なリアリティのなかで、コミュニケーション不全の重圧に耐えて生きている。「有事」にかこつけて、純粋の自分を出して、純粋なコミュニケーションをするという「解放」を心の奥底から待ち望んでいるのだ。
だが、だがな。
やっぱりいっとくけど、現実で求められるのは散文的な努力なんだ。
恐怖の正体を理性の目でみきわめること、〈私〉と〈世界〉を論理=歴史によってつなげること、そうやってはじめて、おれたちは離人症的な朦朧さから解放されるんだ。リアリティももてるんだ。
これを宗教的分類へ当てはめれば、「内在系」タイプは“幸せになりたい!”的な「利益祈祷型」の宗教(宮台氏の言葉では「行為系宗教」)に惹かれ、「超越系」タイプは“ここはどこ?私は誰?”的な「意味追求型」(「体験系宗教」)に惹かれます。
戦後日本社会は高度成長で都市化が進行し、そのなかで「利益祈祷的」な(全体性の)「埋め合わせ」が求められましたが、ある程度豊かさが実現して郊外化が進むと「意味追求的」な(全体性の)「埋め合わせ」が求められるようになります。(全体性についての詳しい説明は省略します。)
家族や地域の豊かになると信じられるから、都市化や郊外化が肯定されるのですが、日本の場合良し悪しを判断する基準は西洋キリスト教的な「個人」ではなく、「生活世界」に所属している「我われ意識」です。したがって「ここではないどこか」(世界)を希求せず「ここ」(社会)を安定して志向できるには「生活世界」への共属意識が必要だと宮台氏は考えました。
「都立大助教授・宮台真司氏が言っている「サンス(意味)よりアンタンシテ(強度)を!」という言葉の意味、原典を紹介しているサイトか、宮台氏の著書を教えてください。」より
昔、最終兵器彼女っていう漫画のファンサイトに通ってた時期があったのね
私はクソ痛大学生で空気の読めない奴だったのでそのときは気づかなかったけど多分そのコミュニティで好かれてなかった
みんなで同人誌作ろうみたいな企画に締め切りブッチしてクソみたいな作品送ったり、オフ会でぼっち気味になって年下の女の子に寄生したり、別に親しくない人にCD焼いてくれとか言ってたし、チャットで●●は無理な人なんですwって●●を好んでる人がいるところで発言したりしてたのでまぁしょうがないね、書き出してみるとほんと死にたいな
こんな感じで昔からいつでもどこでも好かれなくて友達ができなくて嫌になる
きっと今でも自覚のないうちに失礼なこと言って10年後くらいに気付くんだろうなあ
今でも仲良くしているっぽい人達を見て
羨ましさで死にたくなったので吐き出しでした
結論を言うと、現代の若者は世界に愛想をつかしており、救う価値が無いと思っている、ということである。
一方、資本階級である老人は、この世界は皆にとって素晴らしく、救う価値があると思い続けている。
映画、創作で人気が出るものは、その時代の二次創作である。ターミネーター・北斗の拳は冷戦時代の「いつか核が落ちて世界が荒廃してしまうかも」
という恐怖の二次創作として、読者は共感し、物語に入り込んだ。
どちらも来るべき運命を、救世主が救うというストーリー。当時の皆はこの世界は救う価値があるし、自分が上に立って救いたい、という救世主に憧れる思想があった。
当時は若者がそれなりに多かったし、世間の目も若者に向いていた。
しかしそういった作品も、冷戦が終わり、反戦的雰囲気が醸成されていくにつれ、
そこから最終兵器彼女やエヴァンゲリオン、スターウォーズwp1も、ある意味セカイ系に近い。のような、「大人の事情」によって子供が世界を救わされるという作品が幅を利かせてくる。いわばセカイ系と呼ばれる作品だ。
ここまでは、まだ現代が舞台で、この世界は救う価値があるかはわからないが、自分は英雄になって世界を救ってみたい、といわば中途半端な思想だった。しかし、スターウォーズやジュラシックパークが幅を利かせてきたように
「ここでないどこか」への幻想というものが生まれてきたのもこの時代なのではないかと思う。
そこから、異世界系の物語、ゼロ魔だとかが人気になる。千と千尋の神隠しもそうだ。「大人の事情」によって子供が「異世界を」救わされるという作品が表立ってくる。
しかしここまでは、この世界は救う価値があるかもわからないけど、戻る価値はあった。自分は英雄になって世界を救いたい、という思想は残っていた。
そしてそこから不良マンガが流行った。一種のパラダイムシフトなんかではないかと思う。
この世界は救う価値は無いが、少なくとも自分の周りの地域は救う価値はあるんじゃないか。地域の中の英雄くらいには慣れるんじゃないか、という思想。
しかしそれもすぐ終わる。不良が色々やらかしたのを見た人々は、反骨精神も、世界の価値も、英雄譚的物語も、現実だとしょうもなくくだらないものに見えてしまった。
全てが虚無でダサいものになってしまった。というより、不良は伝統と化した。
特攻服を買うのは一部の金持ちのボンボンの子だけで、不良的ツッパリも逆に今の教師世代からは推奨される始末。twitterで決闘の話が、守るべき貴重な青春物語として保護されるようになった。
そして現代に至る。景気は良くなってると言うけれど、肥えるのは中年の資本家だけ。若者は職にはありつけるが賃金は低い。年金問題がよく語られるが、それを見て解るのは
貧しい若者の金が、さらに肥えてる中年に吸われていく絶望的な営み。消費税が上がって、年金問題が解決すると喜ぶ老人たち。世の中にあふれる物語も、左翼全盛期の中年の為に用意されたポリコレばかり。
洋画もシリーズ物で興行収入を稼ぐものばかり。結果、なろう小説が流行る。
なろう小説は「行きて帰らない物語」だ。英雄になりたいとは思っても、ニヒリズムに溢れた主人公で、人の上に立ちたいという欲望は薄い。
この世界は救う価値が無くなり、英雄にはなりたいけれども、人の上には立ちたくない。自分の周りの大切なヒロインを守ってればそれでいい。
という価値観である。一億総るろ剣時代だ。皆を助ける事は出来ないが、自分の周りくらいなら助けられるだろうと言う世界観。
現代を救う話は、共感できなくなってしまった。むしろ現代を壊す側の方に感情移入してしまう。
天気の子が売れたのも、そういう世相を反映してるのではないかと思う。君の名はまでは小さな地域を救う話だったが、天気の子はセカイを壊す話だ。
ゼロ年代あたりで生まれたセカイ系の物語に対する回答、「一人の子供ですら潰して利用する世界に価値はない」という回答。
「何も知らないままで、知らないふりをしてる」豊かな人たちに「何も足さず、何も引かないでください」と訴えかける作品。
ジョーカーが人気が出たのも、そういう世相を反映しているからではないか。
現代を描くには否定的になり過ぎ、異世界を描くには肯定的になり過ぎる世界。この先はどうなるのだろうか。
異世界にすら絶望して、人一人、自分すら救えない話になるのだろうか。
ひょっとすると、ジョーカーは一種の異世界モノなのではないかと思う。兎に角世界を壊して、勝手に皆が英雄として崇め、ニヒルな笑顔でそれを見つめる。
友達(女)が男友達から「面白い漫画貸して」って流れから「えっちな漫画貸して」に移行していったのを知ってる。面白い漫画貸しての段階で他の友達(私も含む)同士で回し読みされてるのを知られてたんで最終兵器彼女とかそういうのを貸してもらった見たな。(当時、高校生だったんであのレベルで十分えっちだったんだよ)
貸してもらってた友達はあいつのえっちってぬるいみたいなこと言ってたけど、今思うとすごいセクハラだよね。
たぶん本当にエッチだなって本は貸してなかったんだと思うけど、えっちな本の貸し借りはやめたら?みたいな話をしたらカマトトぶってんじゃねーよみたいに言われてからかわれたけど、今ならもう少し違う言葉で注意できたかなと思う。(20年以上前の話なんで成人向けの本に対する規制が緩かったんだよ、普通に本屋で買えた)
ぼくたちは、恋していく。
中学生ぶりに最終兵器彼女を呼読んだ。中学生の時にはまどろっこしいくらい甘い、
ファンタジーな恋愛ストーリーとしてしか感じなかったふたりの関係性が、
こんな気持ち、本当にあるんだと身近に感じることになるとは思いもしなかった。
見た目とか、自分を肯定してくれるからとか、理由はあるようでわからない。
ただ2人ともすでにかなりいい歳なのに、
会うと大学生とか、高校生みたいにめちゃくちゃセックスしている。
セックスしているときは、本当に、世界に相手と自分しかいないような気持ちになって、
もしかしてこんな恋愛、みんな中高のときに済んでいるんだろうか?
だとしたら、なんてうらやましいんだろう。
わたしらしくない、そんな夢さえ考えている。
甘美な・すばらしい・夢のような・恍惚とした・力がみなぎるような・
指がふれるとぴりぴりする。キスをされるとなにも考えれなくなる。
にっこりと笑う顔がいとおしい。散歩にさそうと喜んで来てくれる。
外でごはんをたべてすこし酔って、暗い部屋にもどるとまた体にいっぱいキスをして、
彼の体を自由にしだす私を向こうは怒らない。ただ、きもちいい、と言ってくれる。
ほっぺやおでこにもたくさんのキスをされて、それはわたしがすごく大好きな人にする表現とおなじ、と思う。
ずっとされたかったんだ。自分がひとにするように、わたしもずっとこうやって愛されたかった。
そうか、誰と付合っていても、私はずっと寂しかったのか。
多かれ少なかれ生きていく寂しさを感じていて、
それを誰かと一時的にでも分かち合えたと感じたんだろうか?
だとしたらやはりうらやましい話だ。
操縦すると死ぬロボットに乗る漫画。読後は爽やかな気分だった。
確かに女子中学生がレイプされて妊娠したとか、父親が失踪して代わりにバイトして三人の弟と妹を育ててた兄貴が明日遊園地行こうねって決めた瞬間戦闘が開始したり。
でもそれはごく一部で、何も知らずに死んでいった二人を除けば、生まれてくる弟のため、心臓病の幼馴染にフルマッチの自分の心臓を移植するため、兄と兄の母親のためと、死に対して前向きなストーリーの方が多かった。
同作者の作品。ミミズジュースとかのり夫とかで話題になってた。
いじめのシーンでミミズジュースは確かにあったし胸糞悪いとは思ったけど、すぐに皆殺しにされてるし、のり夫も同性愛者で愛する男を守るためにバラバラに解体されても一切弱音を吐かずにいたわけだし。
最後に主人公の母親は銃殺され、友人は病院の窓から突き落とされ、政府関係者も犠牲者遺族に包丁で刺されて死んで、地球丸ごとリセットされるけど、鬱になるほどじゃなかった。
金に困って闇金に金を借りてずぶずぶと堕ちていく債務者たちがたくさん出て来る。
無関係な一般人が巻き込まれはするものの、殆どが下らない見栄のためだとか、ニートだとか、犯罪に手を出してお金が無くなったとか、同情の余地が無い人間ばかり。
彼女が戦争を終わらせるための兵器となってどんどん人じゃなくなっていく話。
設定的に好きなジャンルだと思ったけど、彼氏側がなんだか情けなくてあまり。
まあそんな状況になればそう思うんだろうけど。
最終的には結ばれるし、これが鬱漫画って呼ばれてる理由が分からなかった。
世界が滅んでも好きな人が居るなら良いとかそういう漫画だと思うんだけど。
いじめで家族を殺すまでされた女の子がいじめっ子に復讐する話。
胸糞悪い展開にして殺せばはいオッケーみたいな軽さ。
幼稚園の頃父親から見せられたウルトラマンで、顔に傷を負うダダを見てギャーンと泣いた記憶がある。
初めての臓器ブシャーは小学校の頃見た寄生獣だった。絵なのに、臓器から漂うホカホカ感が凄いなと思った。
でもそれより衝撃的だったのは、ぬーべーに出てきた宇宙人?が犬の腸をズルズルすする場面か。
あれめっちゃ怖くて宇宙人(いわゆるグレイと呼ばれるタイプ)が大嫌いになった。
今のジャンプで犬の臓器をすするとかアウトなんだろうなぁ。きっと。
それ以降大人になるつれてグロい描写の漫画に出会うことは多くなったが、それ見たさに買ったことは無い。
今まで見たことのある臓器ブシャー漫画(ちなみにそういう系の漫画では全くないのでご注意を)
・アバラ
・EDEN
他にも色々ありそうな気がするけど、思い出せない。