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2022-03-11

公式勝手に言ってるだけ」からはじめる文学理論半世紀

最近二次元に魂を奪われ二次創作萌える二次豚とでも呼ぶべき存在どもが、「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」という種類の鳴き声を発明した。

歴史学などの一部学問においてはこうした態度が倫理的要請されてきた、ということはニコニコ大百科でも指摘されているが、そもそもこうした態度はここ半世紀ほど「文学」「テキスト」「作品」といった物事専門家が語るために用いられてきたものがほぼ起源であろうと思う。「テクスト論」と呼ばれるものがそれである構造主義の話はしません)。

すなわち「勝手に言ってるだけ」「言ってないけど言ってる」は、文学者がこの半世紀格闘し続けてきたテーマなのである。ちなみに本稿は、加藤典洋テクストから遠く離れて』をなんとなく参考にして書かれたので、興味のある方はそちらも読まれるとより楽しいかと思う。

さて、半世紀ほど前まで、たとえば夏目漱石作品批評する、ということは「それを書いた当時の夏目漱石思考に限りなく接近する」ということとほぼイコールであった。平たく言えば「作者の気持ちを考える」ことが批評家の仕事であった。友人の噂話やら本人の秘蔵のメモ書きやら、ちょっと引くくらいの何もかもを動員して「唯一の答え」=「漱石意図」に接近しようとした。

これは当時に特異な現象ではなく、それまで人間と「ことば」の関係は大体においてそんな感じであった。人類史上のベストセラーである聖書の読み解かれ方を考えてみればわかるだろう。聖書には○○と書いてあるが、これは当時の××という慣習を踏まえなければ正しく読み解けず、「正しい教え」は△△せよ、という意味になる、という研究は数限りなくされてきたし、今も続いている。

聖書にせよ漱石にせよ、ここでイメージされているのは「正解」というもの(難しく言いなおせば「真理」といってもよい)が遠くにあり、我々は「ことば」というヒントでありフィルターでもあるものを通してそこに接近していく、という構図である

これは我々の日常的な「ことば」の使用から考えてもごく自然なことだ。たとえば日本語話者あなたが「八百屋さんの隣にあるポスト手紙を入れてきて」と日本語話者である子供に頼んだとき、その場で子供八百屋と反対方向に歩き出したら、あるいはその場で手紙を破いて食べ始めたら、あなたは「言葉の正しい意味」「子供がたどり着くべきだった正解」についてこんこんとお説教をすることになるだろう。

これまでの「公式」に対するオタクの態度もまた、まさしくここに連なるものと考えてよいと思う。たとえば「エヴァ世界公式に起きたこと」にアニメ劇場版を通してよりよく接近していこうとする、というのは聖書研究者の態度そのものである(ちなみに「公式」とファンダム関係をもってしてオタク文化を特異なものとする東浩紀データベース消費」などの理論もありますが、例も反例もいくらでも出てくる類の話なのでここでは触れません)。

話は半世紀前の文学研究に戻る。ソシュールという言語学者が「一般言語学講義」という10人くらいしか出席者のいない講義を行い、ソシュール死後、その講義にも出てなかった全く関係ない奴が学生ノートをもとにソシュール一般言語学講義』として出版し、これがコペルニクス的転回にもならぶ「言語論的転回」のはじめとなった。

聖書漱石研究など、ソシュール以前は「世界言葉を作った」とされてきた。されてきた、というか、それ以外の考え方が無かった。わたしたちが「あの赤くて木になってかじると甘いやつ」に「りんご」と名付けたのであって、「りんご」という言葉がまずあって「あの赤いやつ」が後からついてきたわけではない(全くの余談だがりんごと机はこのジャンル議論酷使されすぎだと思う)。

それに対して、「言葉世界を作った」と主張するのがソシュールを祖とする「言語論的転回であるソシュールが言ったのはあくま言語の話で「あの赤いやつと『ri-n-go』の結びつきって別に絶対的じゃなくて、appleとかpommeとか見ればわかるけどたまたまだよね」という程度のことではあった。しかしそれは十分に革命であった。あまり革命的だったために世界が驚くまでに半世紀を要し(講義1900年代はじめだった)、さらに半世紀経った今ようやく振り返りがなされつつある。本稿で扱うのは、世界が気づいてから文学理論最近半世紀である

それまでの哲学世界観と言ってもよい)においては、言語研鑽によって「正解」「真理」にたどり着けると思われていた。しかし「たまたまのものいくら研ぎ澄ませたところでその高みに至る日がくるものだろうか?

よく言われるように、日本人は虹を7色で数えるが、外国人は5色で数える。この差の2色というものは本当に「ある」のだろうか?といった問題一見トリビアルで退屈なものである。だがさらに進めて、そもそも日本人」というものは「日本人」という言葉よりも前から「あった」のか?と問うと大昔の言語学講義がいまなお強烈に突き刺さってくる。

これは今日でも大問題ではあるが、半世紀前の文学研究にとっても大問題であった。確かに、それまでも言語というものがそんなに主人に忠実でないメッセンジャーであることは知られていた。しか言語論的転回は、メッセンジャーこそが主人である、としてしまったのである。その理由は以下のように明快である。我々は言語の向こうの対象(「真理」)に近づこうとしてきた。しかソシュールいわく言語対象の結びつきは「たまたまである。我々が触れることが出来るのは言語のみである。ならば、「たまたま」で検証不能な真理などというものを求めるのではなく、言語言語として我々に何を訴えかけてくるのかこそをガクジュツテキにケンキューすべきである!と。

冗談のような本当の話なのだが、ここ半世紀、世界中の文学研究者はこぞって「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」と言い続けてきた。専門用語でこれを「テクスト論」における「作者の死」という。本当にそういう専門用語がある。

もはや書きぶりから嫌いと蔑視がにじみ出てしまっているが、しかしこの半世紀くらい、この潮流は世界中の識者におけるブームないし真理とされつづけ、最近になってようやく揺り戻しがきている。

二次豚でも簡単にわかることだが、これを言い始めると「公式見解」が意味を成さなくなり、要するにきりがなくなる。しかしこれはある意味正当なことでもある。「全ての『公式見解』が正しいか」と問われれば、とくに今日であれば即座にNOと答えることができる。なぜならもはや「公式」と呼ばれる以上はもはや庵野富野といった個人ではなく、分業化された組織であるからして、そこには作品世界という真理からの誤差、ノイズエラーが当然のものとして含まれうる。最も軽薄でありがちな事例として、公式Twitter担当者調子に乗って後に撤回する、という事例を挙げておけば十分だろう。

しかし、かつてのテクスト論者たちが正当にも考えたように、庵野富野すなわち「作者」個人だってべつに無謬ではありえない。すなわち彼らとて(限りなく比喩としての意味合いが薄くそのままの意味での)「神」ではないのだから、それを絶対視する必要は無くなる。むしろ作品」は1文字、1フレームに至るまで確固たるものとして存在するのだから、そちらから何を導けるかが重要である、とテキスト論者は考えた。さらには一歩進んで、「作品から導かれたわたし感情」が重要だと考える「読者反応理論」というものも生まれた。

上で「きりがなくなる」と書いたが「何でもありになる」とは微妙に異なることに注意されたい。これまで「訴えかけてくる」「意味する」「導く」などとこっそりごまかして書いてきた部分についても、文学研究者は鋭くメスを入れた。すなわち形式としての言語がなにを「意味する」(またこ言葉を使ってしまった!)かについて、激しい議論が戦わされた。つまり、「シャミ子が悪いんだよ」は「原作アニメで言ってないだけで実際は言ってる」という解釈はまあアリだが、「桃が悪いんだよ」は「言ってないし実際言ってない」という我々の直観いか正当化するかについて、涙ぐましい努力が続けられた。

しかしそうした努力にもかかわらず、論理学数学(それぞれ「たまたま」じゃない言語として期待されていた)が発達した結果、クレタ人のパラドクスやらゲーデル不完全性定理やらでそこまで簡単ではないことがわかってきた(ここでは「簡単ではない」と注意深く言ったが、知ったかぶりで「数学は不完全だと証明されたよね」と言うと凄まじく怒られるので注意)。

かくして文学研究者らはそうした論理的数学理論縦横無尽闊達自在引用した結果、文学の「正解」を「何でもあり」にした。現在蔑称として使われる「ポストモダン」という思想潮流は、大体この辺のことを指していると思う。

しかし、文学の「正解」が「何でもあり」であっていいものだろうか。蔑称とか揺り戻しなどと何度か言っているように、今日文学理論は素朴な「作者の死」論には与せず、いくらかの距離を取っていることが多い(『テクストから遠く離れて』はまさしくそうした書物である)。しかし昔と違って「神」のことばこそが「正解」であるとも考えない。そもそも「正解」があるのかどうかもわかってはいない。いまの研究者は、グラデーションの中のどこかに自分場所を見いだそうと必死になっているのだと思う。

から、「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」と2022年に言っている人がいても、笑おうとは思わない。「彼/彼女はこう思う、と私は思う」という感情想像力こそ、人間発明した最も大きな発明であり、誰しもまだそれを持て余しているのだから

 

最後

これを書いた人(@k_the_p)は無職で、仕事を探していますPythonとかほんの少しできますよろしくお願いいたします。

2021-11-04

研究テーマ:「責任」という言葉概念がこの国で具体的に「誰」に責任があるのか突き詰めていくと実は誰でもないということになっているのは何故だろうか。

特に重大な責任が伴う案件について責任空洞化が著しいのは何故だろうか。

日常トリビアル案件に関する責任については本当に大丈夫なのだろうか。

他国責任システム比較を行う。

さらには、日本経済の衰退とこの責任システム存在とは関係があるのだろうか。

2021-08-14

anond:20210814105029

いや、読んでる本も偏ってるから知識量は多くてもライフハックみたいなトリビアル知識が大半だよ

法律のこともよく知らないくせにイキってよくツッコミ入れられてるし

つい最近も某YouTube淫行疑惑について「14歳から17歳っていうのは相手同意とかあれば普通検挙されない」とか抜かして

速攻で弁護士ツッコミ入れられてたし

まあ、未成年淫行してもお咎めなしってのは自身経験に拠るものなんだろうけど

2019-09-29

都民だよ

都民増田ホームアイランド式根島だよ。行政区としては東京都新島村になります

といても増田山手線内で産湯を遣い、わずかな期間以外は23区内を転々暮らしているので、些かその「ホーム」は勝手にこっちが思っているだけだけどね。後述するよう、向こうにとってはかなり迷惑な客であることは認めざるを得ない。ただし一応まだ客のうちだとは思うけど。

ちなみに、小中あたりの地理では「東京に村は一つだけ、桧原村」と教わります。うん、つまりなんだ、島嶼部はあんまりやらないんだよね。都領土島嶼が含まれるのはトリビアル知識、例えば沖ノ鳥島東京都だとか、そういうことで意識する気がする。そしてそれはトリビアルであるがゆえに全員必修ではないわけさ。

さて、なんで式根島ホームアイランドに据えたのかというと、単に学生時代増田所属パーティキャンプしに行ったことに始まるわけです。この島、4平方㌔ほど(つまり2キロ×2キロに収まるってことさ)で、形としては天気予報地図デフォルメした北海道に似ている。方角も同じだ。そのサロマ湖あたりがフェリーがつく港、釧網線沿いに民家・学校役場(支所)が密集し、その外れの釧路あたりにアウトシーズンのキャンプ場がある。道南道央辺りは人もおらず開発されていない(と思う)。襟裳岬あたりに2湯3カ所の露天風呂が湧いている。オンシーズンキャンプ場は天塩辺りに存在し、町からやや離れる。で、肝心なのはキャンプ無料温泉無料、狭い島だから歩けばどこでもたどり着ける、という手ごろさにあるわけです。シーズンなら人がいない=超きれいな海で遊び放題だ。海水浴は皆入り江で安心感がある。釣りもいいらしいけれど増田にそれは判らない。

かといって、全く社会から途絶したところでもないので、飯酒生活具の類はパッと買うことが出来る。電波バリ3。これは楽。交通は船だけで、これは夜行便で寝てる間に着いちゃうし、パッキングしておけば仕事終わりでも突っ込める。船賃は値切る手もあるし、何より船旅はそれが近代化されきったフェリーとはいえ旅情があってよろしい。

なので、暇を見つけてはテントかついでソロで通ったわけです。就活疲れもここで癒したし、付き合ってたねぇちゃんを連れてったこともある(その時はさすがに民宿を取って俺も出世した屋根のあるところに入ったと思った)し、その別れの傷をナメに戻ったこともある(このときテントに逆戻り)。特に震災ちょっと前は数年連続で年越しキャンプまでしていた。

ただねぇ、このフリーさが島にとっては仇になった。増田が数年年越しを欠席していた間に、年末キャンパーが火の粉を飛ばしてあわや火事になるというインシデント(と伝え聞いたが本火事だったかもしれない)で、冬季キャンプダメになりました。冬場は風が強いんだよここ。まあ、しょうがいね・・・。あと、キャンパーなんだか、プロ野宿者なんだかわからない人間が数人伊豆諸島を回遊している、という話があってこれもキャンパーがうさんくさがられる理由であった。2・3カ月すると役場の奴がやんわりと追い出すのだという。それを4・5島で繰り返して一年過ごすんだそうだが・・・。こっちはニアミスしたことがある。古い馬鹿かいテントキャンプ場の奥にあって異常に生活感があるんだが、動いている気配がない。あと、こういうところに遊びに来るような奴は挨拶ぐらいはできるんだけど、一切そういうの無し。これが噂のそれか、と感服した(が、持ち物の管理は厳しくやった)。

あと、航路ジェット船が投入されてオフシーズン夜行船がなくなった。加えて増田小金を持つようになり、他のところに行けるようになっちゃった休みの数に限りがある以上、他のところに行くとどうしてもご無沙汰になっちゃうわけで(というほどの顔見知りがいるわけでもない)。

無論、東京都伊豆群島はもちろん、他の県の離島なんかも行ったことはあるけど、思い入れがあるのはやはり式根で基準も式根。だからまあ、増田の中ではホームアイランド式根島、ってことになるわけです。まあそんなきもいの設定してる奴はそんなにいないと思うけど。

あと、都民的な興味では小笠原も一回は行きたい(都民でなくても多分行きたくなったと思う)んだが、あそこは、ほれ、"日帰り"で行くのは勿体ないじゃない? だから当分は無理だねぇ・・・

anond:20190928195903

2018-06-03

anond:20180603161144

感じた不快感をAと言語化しようがBと言語化しようが、そこはトリビアル問題なんだよね

要点は、カネ払って見に行ってるのに不快なもん見せるなよってことであって

2016-05-17

原価計算の基礎と基本について全力でまとめてみる』を読んで

このエントリを書いている私とは別の人が、 http://anond.hatelabo.jp/20160517150742 で間違いや思うところを挙げている。

本当はこのエントリを書く予定は無かったが(だって書いたとしても、簿記管理会計を知っている人から見れば自明だし、知らない人から見ればどちらが良いのかなんて判断できないので、結局自分時間がすり減る以外の効果がないのだ)、↑の増田に触発されたので自分も少し書いてみることにしたよ。

(なお、元のエントリである原価計算の基礎と基本について全力でまとめてみる』 http://www.yutorism.jp/entry/costing 、および↑のエントリ、そしてこのエントリは(たぶん)すべて別個の人間が書いている。前の2つはもしかしたら同一人物かもしれないが、すくなくともこのエントリを書いた私は、前の2つのエントリとは何の接点も持たない人間であることを表明しておきたい)

では参ろうか。なお、これ以降の「元のエントリ」は、『原価計算の基礎と基本について全力でまとめてみる』 を意味する。

元のエントリの全体の印象

元のエントリ最初にちょろっと「原価計算とは何か」とか、「原価計算目的」について書いてあって、それらは正しい。前に話題になった簿記の基本の話のときは、最初からずっこけたんだけど、今回はずっこけなかったので「これは成長したなあ」なんて思って読み始めたが、やっぱりというか、だんだん原価計算の基本とは異なる「よくわからない何か」になってゆく感じだった。とりあえずその中から自分が気がついたところをいくつか指摘する。(全部は大変なのでやらない)

原価計算基準とは何か

そもそも原価計算基準について、元のエントリを書いた人はどういう認識なのかな? この基準は当時大蔵省がまとめたものなんだけど、拘束性がない。原文を参照してみよう。

原価計算基準 - Wikibooks

しかしながら、この基準は、個々の企業原価計算手続を画一に規定するものではなく、個々の企業有効原価計算手続規定実施するための基本的なわくを明らかにしたものである。したがつて、企業が、その原価計算手続規定するに当たつては、この基準弾力性をもつものであることの理解のもとに、この基準にのつとり、業種、経営規模その他当該企業の個々の条件に応じて、実情に即するように適用されるべきものである

というものなので、財務会計のいくつもある会計基準と比べるとかなりルーズである。「原価計算実施する企業体合理的にやってね」というくらいの基準。(合理的というのは、その企業体原価計算目的を達成できる程度の合理性という意味合いで、何か法令で○○製品は☓☓法で処理しなければならない、などと決まっているわけではない。したがって、同じ製品製造している企業でも、企業によって異なる原価計算手法採用していることはありうるし、実際にあると思う。さらにいえば、この大蔵省原価計算基準に載っていない計算方法であったとしても、その製品計算において合理的であれば採用してかまわない。)

そういった説明が無いので、おそらく何も知らない人から見ると、「原価計算は同じものに対して何個も処理法があってよくわからない」みたいな感じになるのでは?、と思う。

くわえて原価計算基準でも指摘しているように、企業毎に原価計算目的計算方法が異なるのが通常なので、「○○が一般的」などということは、一般的には言えない。元のエントリはところどころに「○○が一般的です」といった説明があるが、何をもって一般的判断しているのか?、より詳しい説明が聞きたいところ。

費用の分類

で、次に進む。青い太字で「分類は『誰が、どの時間軸で見るのか?』によって変わる」とあるんだけど、「誰が」とは誰なんだろう。原価計算担当者以外、原価計算を行うもの企業内でいるとは思えない。だとすると、計算担当は一人(あるいは当事者といってもいい)しかいないだろう。複数の「目」を仮定しているからこそ「誰が」という話になるんだけど、ここでなぜそういう仮定を置いているのだろう?

まあ、たまには計算担当が引き継ぎなどで変更されることがあったり、別の会社の似たような事例を参考にすることはあるので(そんなふうな試験問題もある。例えば会計士試験などでは、「ある原価計算担当者は『〇〇』よりも『☓☓』が良いと主張している。どちらがより適切か論じなさい」みたいなやつ)、絶対に無いかと言われるとちょっと怪しいけれど、「誰が」が、問題になることは、ほぼ無いのではないかな。

ちなみに、このちょっと前の、

管理可能性に基づく分類・・・自らの意思で減らすことが出来るかどうかZ

というのの最後は「Z」ではなくて「?」だろうね。分類の説明もかなりアヤシイところがあるね。(4の操業度の説明は、「製造量」で良いのかな? 操業度と製造量は別個の概念だと思うが)

製造費用の分類の画像も知らない人が見ると混乱する要因がありそうに思った。

原価計算の難しいところ

で、あまり気にしないでどんどん進む。このあたりから、いろいろとどうなの?というところが増えていく。

費用と原価がざっくりまとめられているんだけど、この説明はこれで大丈夫なのかなあ。この原価の説明はなんか、はじめて聞いたくらい。「費用を今期分に調整」って、それが原価なの? 期間に着目して原価を説明するのは無理なんじゃないかな。(製造した製品視点がどうしても必要だろう)

このあと、いらすとやさんの画像を使って、カレー/カレーパン/シチューを作る例で話が進むのだけど、カレーカレーパン工程は、少なくともパンを作る工程くらいは入れるべきだろうね。(脱線するけれど、カレー画像緑色のものが載っているけれど、これはなんなのだろうか。グリーンピース?)

事務員さんによるサポート(赤矢印)」という太字のところは「赤」ではなくて、「青」だよね。

原価計算の手順

で、進む。部門別原価計算の例で進むけれど、部門別原価計算って、一番シンプルな例で進むとしたら、部門別である必要はないのでは?費目と製品別で原価計算の基本は説明できると思うけれど。実際に簿記2級で最初に習う一番シンプルものはそんなところだったはず。

だんだん疲れてきたので

このあたりで終了。やる気のある方は、この続きや自分の指摘以外の箇所をやってください。「計算金額:実際原価計算 と 標準原価計算」の箇所もどうかな?と思うところがあったり、他にもいくつもありますが、疲れたので終了します。久しぶりに管理会計原価計算の本を見たりして、ぐったりした。

これらが「原価計算の基礎と基本」なのかな? すごいトリビアルな箇所があったり、説明が適切ではないところがあったりするので、知らない人からみると相当混乱するのではないだろうかと思っているんだけど、どうだろうなあ。

前の簿記エントリ http://www.yutorism.jp/entry/2015/11/11/100336 を見ると、コメント欄に初学者の方が質問されているようだけど、その質問に対する回答も無いようなので、知っている人から見れば「ちょっと変だなあ」くらいで済むけれど、知らない人から見ると理解の妨げになりそうな感じがしております。まあそれも仕方ないのかもしれないけどね。

※ 前の簿記エントリについて、私が書いた増田が読みたいという(奇特な)方は、

- 『簿記の人気エントリhttp://anond.hatelabo.jp/20151112103436

- 『簿記エッセンス(簿記という言葉意味を間違えないために。)』 http://anond.hatelabo.jp/20151113140308

を参照していただきたい。

2015-11-18

http://anond.hatelabo.jp/20151117013512

増田氏の意図するところは良く表現されていると思いますが、おそらく意図しない副作用によって少々残念なことになっているように見受けられます。これは異なる文化圏問題かもしれません。

オープンソフトウェア開発では、荒削りのもの積極的に公開し、フィードバックを受けて改善してゆくということが良く行われていますSICP改訳に関しても、大元の訳および真鍋版は、そういったソフトウェアの協業を支援するプラットフォームであるgithub作業が行われており、その文化を共有していると考えられます

この文化においては、著作権ライセンスを明確に取り扱う手続きがかなり整備されています。既にご存知なら釈迦に説法ですが、「翻訳含む改変や再配布はこの条件に従っていれば自由にやっていいですよ」と明示されてることが多いのですね。今回取り上げられている翻訳についても、原文や元訳はそれぞれLucent Public LicenseおよびCC-BY-(NC-)SAというライセンスになっています。貢献者がこのライセンス同意し条件を守っていれば、オープン自由改善スパイラルが可能になります

ところで、匿名による書き込みであっても、誰がやっても同じになるトリビアル誤植修正を越えるものについては、書いた人に著作権が生じ、その書き込みをどう扱うかは書いた人が決められます。何も条件が書かれていないのなら、原則として他人勝手にその書き込みを転写、改変、再利用することができません。程度問題の話で、増田内でコピペしたり改変ネタを作るのに目くじらを立てる人はほとんどいないでしょうが、明確なライセンスでもって許諾されている派生プロジェクトにその成果を取り込むとなると、慎重にならざるを得ません。この文化では、一般的に、「ライセンスが明示されていない著作物は利用できない」がコンセンサスになっています

(もし私が見落としていたなら申し訳ないのですが)増田氏の校正には利用条件が記されていないようです。そうなると、せっかく良い指摘をして、真鍋氏もそれに納得したとしても、その成果を真鍋氏が利用することはできないということになります

増田氏は「間違いの指摘を受けて訂正するというプロセスが働いている限り、誤訳というのはたいした問題ではありません」と書かれていますしかし現状、増田氏自らそのプロセスを阻害しているという形になっています

これは意図したものではないだろうと推察します。増田に書き捨てるようなものなど勝手に利用すれば良いと思われているかもしれません。誤訳の「指摘」だけなら著作権は発生しないとお考えなのかもしれません。その解釈微妙なところですが、増田氏の翻訳案はたとえ数文であってもアイディアを具体的に表現した著作物です。こういった一見些細なことにも小煩い文化圏があるということをご理解いただけたらと思います

一言、「自由に利用して構いません」などの言葉を書き添えて頂ければ、何の問題もなくなると考えます

2014-08-29

写真イメージです」 という定型文が与える不快感

写真イメージです」といえば、どんな写真を載せても問題ないと、載せる側は思っているようだ。

しかし、「写真イメージです」という言明は「1=2/2」と同程度にトリビアルだ。

反論するなら、イメージではない写真提示して欲しいものだ。

そんな自明な言明から、どんな写真を載せても良い、という極端な結論は導かれるはずがない。

この「写真イメージです」を見る度にバカにされている気分になるのだ。

2012-06-19

日本大学に、『教養』を取り戻そう は教養に対するdisである

これらの記事(日本の大学に、『教養』を取り戻そう, 「頭がいいけど『世間』に弱い」理系の大学生)は, つまるところ「教養とは役に立たない糞だ」と言っている.

過去教養と, 今新しく定義したい教養を同じ「教養」という言葉表現しているから非常にミスリーディングになっている.

過去教養

これらの記事における過去教養とは何か? それは

旧制高校では、ゲーテを読んだりカントを読んだりして、学生は、理系文系にかかわらず、徹底的に「教養」武装をしていたのです

とあるように, 使いもしない知識をおしゃれのために身につける行為だ. これは私たちが糞だと思って葬りさった文化で, 記事の中でも糞だと言及されている

そんな時代に求められる「教養」とは、昭和大正時代のようにトリビアルな知識をたくさん持っていること、ではありません

まり, 私たちが通常「教養」と認識してるものは糞だという点では, 上田さんと私は共通しているのだ.

現在教養

じゃあ, 現在教養とは何か? それは金を儲けられる能力に他ならない. 章題の『新しい時代は、「教養」こそがビジネスにつながる』からもそれは読み取ることができるし,

・「決められた枠組み」の中だけで「できる人間」や「専門家」は、新しい時代には対応できない、新しいアイデアが出せない「使えないやつ」となってしま

・世の中の半分は女性ですし、市場教育もむしろ女性が主導権を握っている

ともある. つまり, この記事は徹底して「金を儲けよ. 金に向かう能力をつけよ」と述べているのだ. この従来の教養真逆概念教養と名付けてしまうあたりが, とんだおしゃれさんである.

まとめ

上田さんの主張は現在トレンドとなっている価値観(拝金主義)に従ったもので, 取り立てて新しい価値観を提示しているわけではない.

から, 従来の価値観ベースに「こうやった方がもっとうまく稼げるよ」と言えばいいものを, 何故か価値観の転換が必要であるような論調にしており無駄な反発を招いている.

まあ, 「教養は金を稼ぐ手段だぜー!!!」と言ってもナイフが飛んでくるだろうけど.

おまけ

なぜ2つの教養に同じ言葉を使ってしまたかというと

そのひとの全人格的なものを背負った上での「かしこい」「おバカ」にかかわるもの、それが「教養

という定義から出発しているからだろう. これは前後の文脈から推察するに

教養を持つ人とは, 他者から総合的にかしこい」と思われやす能力を持った人である

と読める. そして教養定義の変遷とは

80年代以降は、教養よりもはるかに重視されるものさしが現れます。「お金」です

からも読み取れるように, 雑多な知識の有無よりも金銭獲得能力で評価した方が, その人の総合的なかしこさを評価するのに適切だと判断する時代の流れから来るのだろう.

この点では, 2つを同じ教養という言葉表現するのは一貫性はある.

内部告発の件は知らない

2012-02-08

http://anond.hatelabo.jp/20120208150510

>・その話の寓話としての価値

>・実際のところワシントンはそういうことをしたのかというトリビアルな議論

この二つも「どちらに論点を絞るべきか」という議論をするなら、軽重をつけることができる。

無理でしょ

全然違う話だもん

軽重をつけられる(た)と思ってるなら

それは単に自分の関心をごり押しして相手に諦められただけ

どうしても「出来る」と言い張りたいってならどうコンセンサスを得るのか例示してごらん

きちんと返してあげるから

あと

いやいや、そのへんのことは理解した上で話してると思うよ。

「比べられるのは同論点上のタスクだけ」というのも分って話してる。

>掘り下げの浅いところで話をしてる。

と言うけど、俺にとっては「比べられるのは同論点上のタスクだけ」というのは当たり前すぎることだから

そこから一歩進んで、Aさんが比べられないと思っているものも比べることができるって話をするのさ。

そんな後出し必死言い訳しないでいいか

「今更話を理解しましたけど改めて相手してくれないでしょうか」って言えよ

相手はしてやるから

丁寧に説明してくれたド親切さんにもお礼言っとけよ

http://anond.hatelabo.jp/20120208111352

俺は事実よりも真実を優先して人とすれ違うことが多い

 

だってワシントン桜の木を折った云々の話が事実かどうかよりも、

その話が伝えようとしていること(真実)のほうが重要じゃない?

・その話の寓話としての価値

・実際のところワシントンはそういうことをしたのかというトリビアルな議論


それぞれ全く別の論点であって

当然「どっちが重要」などと軽重をつけられることではない。


あなたが人とすれ違ってるのは単にそういう

論理的で話を分別できない脳の性能のせいじゃないかな。

2010-06-17

http://anond.hatelabo.jp/20100617012550

横からだけど、正直、君がダメなんじゃなくて先生ダメな気がするなあ。研究者としてじゃなくて指導教官として、ね。

別の提案をする(Aがありますが、こういう問題がありますので、Bと組み合わせるといい結果が出そうです)→組み合わせただけ?

「組み合わせただけ」で修論としては上出来だよ。「いい結果が出そう」という見通しすらなしに単にやってみただけの修論だってごく普通なんだから。学生がそこまで自分で言えるようになっただけで十分なのに、修士課程学生先生なにを求めてるんだろ。「組み合わせただけ」の上に何か積めるならそりゃ博論レベルと言っても過言ではない。

多分、教授は君が持ってきたネタの関連分野一筋に一生捧げてきたから、君の言うことがトリビアルなように錯覚しちゃってるんだろうね(本当は修論なんて、表面上の新規性さえあれば、トリビアルネタでもいいはずなんだけど)。

そこで提案だけど、助教とかポスドクとかにこっそり相談してみたらどうだい?で、助教ポスドクが詳しくて教授があまり知らなさそうな分野のネタと、現在君が関心を持っている分野を「組み合わせ」てみる。そうすれば「組み合わせただけ」でも教授にはつまらなく見えなくなるよ。

要は、あんまりしがらみがない人に「単に相談に乗ってもらっているだけ」という形で、実質上、半分裏の指導教官みたいになってもらうわけ(ただ、このもくろみ自体はできるだけ伏せておくこと。助教ポスドクは立場が弱いので、教授に逆らうリスクを負わせてはいけない。あくまで、君が個人的に周りの人を質問攻めにした結果、その分野に詳しい人に相談に乗ってもらうことが多くなったという形にする。これ重要)。それで何とか乗り切れるんじゃないかなあ。

2009-04-07

私が雑誌を買わなくなった理由

さっきお風呂でふと考えた

正確には、買う雑誌を選ぶようになった。

理由は単純である。金を払ってまでして得られるものがない雑誌価値はないと考えるようになったからである。

例えば音楽雑誌。ほとんど音楽をとして「消費」している私にとっては、彼らの人生作品制作過程や曲の解説はトリビアルネタにすぎないものだ。年末ベストディスクが特集されている号だけは買うが、それはリストアップされたCDを購入する指針に便利だから言う理由にすぎない。あくまで記号的な消費である。

また、こういう言い方をすると傲慢と捉えられるかもしれないが、明らかに自分より頭の悪い人たちの言葉を読んでも論理的思考力は向上しないし、人生プラスになる知恵や知識を得ることも期待できない。

スポーツ誌は言うに及ばず。内輪の「ネタ」の集積体。サッカー戦術が役立つのはサッカーの枠組みの中だけである。ある方面に精通していることはとても良いことだが、私は精通するために雑誌は利用しない。必要な情報インターネットで充足可能である。

エロ本はとりあえず手っ取り早く抜くためのツールだ。記号的消費に傾倒して内実が無いという意味では私にとってロッキンやサカマガエロ本等価だ。

私が買う価値があると考える雑誌は公共的で、知識や知恵を取得できる雑誌である。

公共的とは多くの人に関係があることである。これから社会人になる自分にとってコミュニケーションツールとしての公共性は必要になる。

知識や知恵を取得することを雑誌に求める必要はないのかもしれないが・・・

というわけで最近サイゾーくらいしか買わない(というか、お金がなくて買えない)新聞をとっているため週刊誌は買わなくていいかなと。

2009-01-24

http://anond.hatelabo.jp/20090124071737

>とりあえずトリビアルでなく何らかの可能性があることを示せ

なんらかの可能性ってどういうこと?

>トリビアルだという判断はあり得るが、間違っているわけで無ければ否定は出来ないのが研究者

でも、しょぼいものはしょぼいじゃない?

http://anond.hatelabo.jp/20090124043940

 そんなに落ち込むなよ

教授トリビアルだと思っても、本当にそうかどうかは分からないよ。

とりあえずトリビアルでなく何らかの可能性があることを示せ

関連した論文を並べろ

トリビアルだという判断はあり得るが、間違っているわけで無ければ否定は出来ないのが研究者

2009-01-19

http://d.hatena.ne.jp/Britty/20090118/p1

ドクターは、研究者としてまあ水準に達しているという資格みたいなもの。

だから、別にどうと言うことはない。

テーマについてトリビアルだとバカにされても気にしない。

流行があるからいつかは脚光を浴びたりする。

要は、テーマを決めたら、それについて過去の全ての研究レビューし、

そこに不足している新たな仮説を提示して、

データや検定量やモデルによって仮説検定をして、

考察と残された課題を書けばよい

意欲よりも、持続する意思だよ。淡々と出来る部分も多い。

学会知的な共有財産を作る作業だと思えばよい。

それだけ。

2008-07-31

http://anond.hatelabo.jp/20080731163008

情熱大陸での五嶋龍の話を見ていて思ったんだけど、やっぱりアメリカの一流大学(五嶋龍の場合はハーバード)っていうのは、エリートになる素養のある人に、徹底的にエリート教育をたたき込む場所なんだなあと感じたよ。

アメリカの一流大学卒業した奴がエリートなのは、一流大学に入る偏差値があったからじゃなくて、そこでみっちりとエリート教育を受けたからだよね。二流大学では受けれない教育を。

東大とか京大とかいっても、みんなが評価してるのはそこを卒業したことじゃなくて、そこに入学したことだもんね。入試っていうトリビアルな領域での能力だよね。大学生活の期間中に二流大学との差が変わっていないなら、社会人からみたら「一流大学卒」の重要性はアメリカの場合とは比較にならないよ。

だから、一流大学卒業した「のに」就職が上手くいかないと嘆いていてる人は、そんなことで悩むこと無いと思うよ。大学名なんてその程度のものだし、そんなのをありがたがってる企業もその程度のものだ。

って、すごいありきたりな結論になっちゃったけど。

2007-10-15

http://anond.hatelabo.jp/20071015180844

俺もニコニコでVOC@LOID動画見て知った口だけど(旧型、MEIKOのこと、ついでに言えば聴いたのはTB先の言ってるFF6オペラ)。

最新技術sugeeeeee!ってのを、大衆が数年遅れで知って騒ぐって、そう珍しいことじゃないと思う。革命的な技術だったのはMEIKOかも知れないし、あるいはそれより前に既にあったのかもしれない(論文や、あるいは業務用ソフトウェアとして、もしくはもっと売れないソフトとして)。でも、俺や増田が始めて目にしたのはMEIKOで、「大衆」が初めて目にしたのがミクであった、というだけの話だと思う。

ムラタセイサク君に使われてる技術だって、もっと前からあったはずだよね。「革命」はムラタセイサク君が生まれる前に既に起きていた。でも、ムラタセイサク君がそれを分かりやすい形で実装して初めて周りが「革命だ!」と気づく、そんなもんだと思う。で、そんな条件下でムラタセイサク君が革命的だと言われる事は、別におかしい事だとも思わない。

以下はトリビアルな話。自然かどうか、というのは、声質とVOC@LOIDに渡す楽譜の調整次第(あと受け手感性も)だからなんともいえないけど、後発のミクがMEIKOに劣っている、と考える材料は特に無い。価格も大差ないし。VOC@LOIDは面白いソフトだと思うし、少なくともDTM方面にまったく知識の無い人間にとっては革命と呼ぶに値するものだと思う。

ニコニコYouTube以上に革命的なサービスだし、アイマス革命的なのと同じ意味初音ミク革命的(この位相での話をすれば、MEIKOは革命を起こすに至っていない)なのだが、今回の論点はそこじゃない。アッコのOAは見ていないが、まあVOC@LOIDの歌って上手いね、が精一杯だろうと見当はつく。

2007-09-11

http://anond.hatelabo.jp/20070911134714

あれって「再帰的適用(射)によってこの世のどんな複雑な対象でも(ほとんど人間には理解不能なものでも)表せるし、しかもそれをどんどん高階で扱える」ということでしょ?

実際には任意の有限の時空(命令数・回路規模)では実現できない極限操作がらみの部分を別にすれば、「計算機」そのもののトリビアルな言い換えにしかなっていない、というのは偏見でしょうか?

追記:射は対象の型に縛られない点も含めて、です

 
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