はてなキーワード: 無趣味とは
二つあって、まず多趣味は無趣味であるという事。興味の向くままにいろんな物に手を出していると、結局どれも中途半端で極めるほどまでいかない。結構楽しいし満足してるけど、外から見たら何も残ってない、無趣味に見えるだろうなと思ってる。
何かを極めるという事は何かを捨てていくという事だと強く感じている。選択と集中を続けた先に、打ち込んで結果が出て対外的にもこれが私の趣味であると、胸をはってそう言える輝かしい物が残るんじゃないかと思いねぇ。しかし何かを捨てていくって実際すげぇツラい。趣味人は分野によらずすごいと思う。
次に、基本趣味なんて持たない方が身軽でいいんじゃないかという事。最初の話にもつながるが、趣味としている物があるとそれにリソース使ってしまって、他の事ができなくなる。結果として積みゲー積ん読が三途の川の積み石がごとく積み上がり俺なにやってるんだろう状態になるのだ。鬼は何処か。
となると、趣味なんて持たない方が一瞬一瞬で面白いと思う物に取り組めて、そういうアクティブな人生も楽しいんじゃないかと、そう考える事もある。腰が軽く次々と新しい事に取り組んでいけるというのは、爆発力・駆動力という点でとても強いものがあるように見える。なんならリセットするのもありかもしれない。
そんな事をちょうど昨日ぐらいに考えてた。
んで本題だけど、趣味がないってのはそう小馬鹿にした物ではねーしあんたはそんなお節介をせずに自分の趣味道を邁進すればよろしい!!!
先日、年齢はまばらだが付き合い深い友人同士数人でこのような会話をした。
「あくまで仮の話だよ。もしも宝くじか何かで3億円当てたりでもしたら、
この友人らの誰かにその事を話す?」
当然、それぞれの返答は違った。
1人は「絶対に言わない。身内にすら言わない」
ある2人は「家族には言うが友人には恐らく隠す」
他の1人は「酔った勢いで、たぶん君らにも言うかもな~」
もう1人は「どうせ降って湧いた金だからみんなを誘ってパーティをしたり奢りで旅行に誘う」
といった、ある程度予想できてた答えが返ってきた。
ちなみに私自身は最後の友人と同じ思考で、友人同士ととことん遊ぶために使用する。
(もちろん自分自身が欲しかった物を買い漁ったり、夢のために投資したりもする)
そんな中、今年高校を卒業したばかりの18歳の男の子の意見だけは、他と違った。
(この子は友人同士の中では一番低年齢)
『みんなに言うどころか、そんな大金いらないので誰かにあげる』
度肝を抜かれた。
理由を探ると、『大金あってもしょうがないし、その金額分までの欲しい物はない。
欲しい物はあるけど、どうせ余計な金が余るのでいらない』と。
この子について深く説明すると、
彼はとりわけ裕福な家庭に育ったというわけではなく、
家庭も複雑な環境で育ったそうだ。
更に若くありながら、幾つもアルバイトをこなし、
よく、「全く無趣味なので使い道がない」という話は聞くが、
彼はその真逆で、インドア・アウトドア問わずに非常に多趣味であり、かつ欲しい物もたくさんあるようだ。
欲しい物を買うために学生の身でありながらアルバイトを欠かさないのだと。
「多趣味だし欲しい物もたくさんあるんだよね?新しい物好きな性格もあってよくあれが欲しいこれが欲しいと言ってるし。
3億円当たったらだなんてそもそも夢話だけど、それでも3億円当たったら嬉しい気持ちも使い道もないの?」
と指摘してみたが、このように返答された。
『欲しいものはいずれ自分で買うし、欲しい物自体が自分で稼いで買える範囲のものだけだ』と。
追い打ちをかけるように、このような意地悪な質問もしてみた。
「今はまだ若いから欲しい物も高価なものじゃないけれど、多趣味な性格だから大きくなったら
すると間髪あけずにこう切り返された。
『そんな高価なものでも自分で稼いで買う。むしろそれくらい稼げるような人間になる』
度肝を抜かれただけでなく、価値観の違いというか、大きさに心を打たれた瞬間であった。
恐らく、こういう考えの子が将来資産家になれるのかもしれないな・・・と。
・無趣味ではなく、多趣味で欲しい物もやりたい事もたくさんある彼なのに、
そこに驚いたのである。
これは、「立派」というべきなのか、
それとも「まだまだ若いからお金のありがたみや大切さを知らないのか」
いずれにせよ、実際に大金を稼ぐくらいの大物になるか、
または将来泥水をすするくらいお金に苦労して、「当時の考え方は若かったんだ」と苦笑いするかのどちらかになるかとは思うが、
私が知りたいのは、彼のような考え方の人間には初めて出会ったので、
なぜそのような価値観を持つのだろう?と好奇心が湧いたのである。
否定しているわけじゃなく、
趣味の欄に読書って書く人って「本当に読書が趣味な人」と「本当は無趣味で書くことがない人」の2種類いると思うんだけど
某大型掲示板で最近読んだ本は?って聞かれたとき小説のタイトルを答えるぐらいなら答えないほうがいいっていってる人がいた
じゃあ、何を答えるならいいんでしょう?
学問・資格 → これって読書に入るのか? 私的には読書というより勉強なんだけど
趣味が読書ってことは読むこと自体が目的ってことじゃん。学問とかは学ぶことが目的なわけで、別にそれが書じゃなくてもいいわけで。
そうなると、最近読んだ本は?って質問に小説を除くようにしたら答えられないと思うんだけど。(前提として趣味が読書っていうのがある)
何を答えたら正解なわけ? これが就活ならその会社に関する云々とか言うんだろうけど、たとえばファッション関係だったらファッション雑誌を答えればいいのか? 雑誌は読書なのか? プラダの著書とかか?(あるのかしらんが)
書いてて思ったけど、趣味が読書って範囲が広すぎるんだよな。運動が趣味ですって言ってるようなもの。サッカーとか野球って答えるならわかる。
こういうとき趣味は「小説」とか「伝記」とか「エッセイ」とかもう少し詳しく答えるべきなんじゃないのかと思う。(読み書きどっちって話もあるけど)
これ全部面接の話ね。
http://anond.hatelabo.jp/20110819000451
五時に目が覚めるとあたりはまだ少し薄暗かった。五十を越えた頃から長く寝ていることができなくなってきた。若い頃は目覚まし時計が鳴ってからも布団の中で5分でも眠りを掠め取ることができたらあんなに心地良かったのに、出勤する必要がなくなってみると今度は寝ていることができなくなってしまった。
朝の時間を活かして何かしようと考えてみたが、特にすることがなかった。彼は元来無趣味な男であった。会社をやめる前に何か趣味を持っておこうと思いたち、さて何をやろうかと考えたが、やはり何もすることがなかったので、何も始めなかった。
とくに何もすることがなかったが、今日から満員電車に乗って地下鉄のドアに頬を押し付けられなくてもよいのだと思うと、いくらか清々しい気がした。朝の空気そのものを楽しむ時間を持つこと。それこそ彼が求めてきたことではなかったか。
朝の余韻を味わおうとして、彼は部屋を見回した。部屋はきれいに片付いていた。そもそももとからほとんど部屋に物がなかった。築40年、1Kの木造アパートに引っ越してきて十年になる。付き合っていた女の勧めるままにデザインマンションに住んでみた時期もあったが、打ちっぱなしのコンクリート壁にも、ぴかぴかのエレベーターにも興味がなかったので、会社に近いという理由だけで今の部屋に引っ越してきた。どうせ訪ねてくる人間もいない。
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?
うちの父親がさ、さっき俺に
「いっぱい残してやるから」
なんて言ったんだわ。
別に大会社を経営してるわけでなし、無趣味でよく働くとはいえ人を雇わず自分ひとりの自営業だからせいぜい数千万ってとこだと思うんだけど。
かなり堅い職業だし。
平均的な寿命まで生きたとして、俺の親が死ぬ頃に俺も60歳過ぎてるじゃん。
60過ぎたら金のかかるような事業は始めたいとか思わないだろうし、せいぜい欲しいモノ買って、旨いもん食ってってとこじゃん。
今くれるってなら、それなりに欲しいものも食いたいものもあるし、いい女抱きたいって思うけど、なんかさぁ、今だって10代の頃に比べたら物欲も性欲も減退してるし。
60歳過ぎたら枯れてる気がするんだな。
この先、例えば結婚して子育てして、子供の学費に吸い取られ老後の蓄えがぜんぜんない!って状態になったら親の財産は天の恵みなんかもしれんけど。
たぶん子供の1人2人くらいなんとかなるくらい稼げる予定だしさ。
金が無けりゃ2人目なんかつくらんだろうし。
それどころか1人目もおろか結婚もしないだろうし。
かなりの確率で、俺がジジイになったころ使うあてのない金を貰って、俺が死んだときにどっかに寄付だと思う。
あるいは結婚して子供が産まれたとして、俺の子供がジジイになったころに、やっぱり俺の親がしたように使う当てのない財産を譲るんだろう。
で、俺の孫がジジイになったころ、俺の子供から財産分与されるんだろう。
使われずに、通帳の数字の名義だけが変るだけだと思うんだな。
だからさ、残そうなんて思わず自分で使えって言ってるんだけど、ぜんぜん遊ばないのうちの親。
俺だってたいして金がかからんほうだけどさ、せいぜい1人でハイキングに出かけるとか、日帰りツーリングとか、そんな程度だけど、段違い。
トイレで新聞読んだり、移動中に新聞読むのが趣味だっていうレベル。
ほんと馬鹿じゃないの?
あんたの人生なんだったの?
遊びが人生じゃないけどさ。
http://okwave.jp/qa/q5531865.html
寂しいので友達が欲しいです
38歳で彼女は出来たことありません。
1年前派遣切りで無職になり、最近郵便局で年末のアルバイトしています。
彼女はもちろんのこと友達も一人もいません。
一番の原因は何もしゃべらないからです。今まで職場とかでも仕事上の事以外は全く雑談とかしませんでした。休憩の時とか建物の裏で一人で休憩とかしてました。
こんななので友達は一人も出来ません。
一人が嫌で嫌で仕方がありません。
どうしたら友達ができますか?
無趣味です。
ものすごい数の回答がついてるんだけどトピ主のリアクションがもうね……。
いやー、この人のこじらせ方、ハンパないね。
どうしたらこういう人間が出来上がるのかに興味があるな。
平日の真昼間に増田なぞをやっている自分は、ニートでも無職でも、会社のパソコン使ってサボっている給料泥棒でもなく、有給休暇を取得した一会社員だ。
入社して2年ちょっとが過ぎ、朝7時には家を出て、夜の10時に家に帰るのがデフォという生活を続けている。
仕事の出来は十人並みでも、体の丈夫さ、健康さなら誰にも負けず、入社してから有給を一度も使ったことがない。
「いくら普段健康だからといって、不慮の事故に巻き込まれる可能性はあるから、有給は残しておくものだ」という信念のもと、過ごしていた。
そして一週間前、上司から「○○君、来週いつでもいいから、有給取ってくれる?」と突然言われる。
会社のイベントか何かに協力するのか?と思ったのだが、そうではなく、有給の取得率が悪いからだそうだ(取得率も何も0ですがな)。
社員が有給を取らないんだから、会社はそれだけ儲かるから、問題ないんじゃないか?と思っていたのだが、どうやら話はそう単純ではないらしい。
上司は上司でさらに上の上司から評価されるわけで、その際の指標に部下がどれだけ有給を取っているかというものがあるとのこと。
有給取り過ぎで業務に支障が出るのは論外としても、有給を取らな過ぎ(取らなさせ過ぎ)も、仕事の効率が悪いのではないか?とか、上司が有給を取らせないよう圧力をかけている、すなわち、パワハラがあるのではないか?などという観点から問題になるらしい。
そんなこんなで、今日有給を取ったのだが、これが落ち着かない。
他の人は今働いているのに、自分は家で休んでいて、あまつさえ増田にこんな投稿をしている。
今かかえている仕事は、小さな仕事が複数あるが、とりあえず昨日の内にキリのいいところまで終わらせたつもり。
しかし、それは昨日までの話で、今日は今日で新たに仕事が発生しているのだ。
たとえば、残した仕事に「××さんの回答待ち」の状態の仕事があったが、その回答がもう、この時間にされているかもしれないのだ。
となると、ボトルネックとなっているのは、昨日までは××さんだが、今や自分ということになる。
そう考えると、どうしても落ち着かない。
ワーカホリックとまではいかなくとも、健全な精神とは言えないのではないか?そんなことを思った有給休暇の昼。
追記:
http://anond.hatelabo.jp/20100618123610
http://anond.hatelabo.jp/20100618122834
http://anond.hatelabo.jp/20100618131805
返信どうも。
実はこの投稿、最初は「いつの間にかワーカホリック予備軍になってた」というタイトルにしようかと思ってました。
でもWikipedia先生によると、ワーカホリックとは「生活の糧である筈の職業に、私生活の多くを犠牲にして打ち込んでいる状態を指す言葉」だそうで、無趣味で、酒も飲めない、彼女もいない、一人暮らしの自分には、そもそも犠牲にする私生活がないので、「これは違うなあ」と思った次第。
下をみればキリがないから増田にいっぱい居るそういうのみて安心すれば?
無趣味で友達少ないのかな。くだけられるひとと話してないのかな。
ちんんちんは釧路なら飛んで行って抱きしめてあげるよ(ただしイケメンに限る)
VIPで下らないスレをROMっていたのだがあるレスを読んで、全く意味がわからなかったので貼る。
581 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/05/23(日) 08:22:51.91 ID:auKzRreCP
ラノべだけしか読まない/読めないのは人生損してんぞ
585 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2010/05/23(日) 11:05:24.06 ID:pEo8pd5l0
583
581の理屈は
1)「人生にはAもあるけどBもあるぜ」と云う点で無限に拡張できる。
2)AもBもコストがかからないかのように書かれているけれど、
4)1から3を考えると「AとB(およびそれに続くC以降の全て)」を
581の理屈で比べられるのは
「ラノベを1冊とラノベ以外の小説を一冊読んでいる人」だけだよ。
でも、実際には「ラノベを1冊を読み、映画を一本見ている人」や
「ラノベを1冊を読み日曜料理を楽しんでいる人」なども居るわけだ。
「ラノベを1冊を読み友達と遊びに行く人」にたいして
「ラノベを1冊とラノベ以外の小説を一冊読んだほうが得だ」とはならんだろ?
だから「偽」だよ。
586 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/05/23(日) 11:24:20.96 ID:PgkqV32L0
585
多分前者の大半はラノべ2冊読んでるからあまり間違ってはないと思うよ
588 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2010/05/23(日) 11:46:23.37 ID:pEo8pd5l0
586
その「趣味が広がる事は良いこと」ってのが、そもそも偽なんだよ。
人生の時間は、有限。そこの処は、もうどうしようもないんだよ。
ほとんど無趣味と同じ状態になるでしょう?
だから現実的には、「趣味が広がる事」は必ずしも善じゃないんだ。
589 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2010/05/23(日) 11:54:53.49 ID:PgkqV32L0
数学的に見る必要なくね?
まあ俺は日曜日にこんなところで人生の時間とやらを無意味にすごしてますけど
591 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2010/05/23(日) 11:59:06.98 ID:pEo8pd5l0
589
(つまり数学的な)発言だから、仕方ないんだよ。
「趣味を増やすのは必ずしも善じゃない」とか言わないで済む。
この意見に否定をしたいとか肯定したいとかではなく、そもそも言っていることが分からない。
普通ラノベだけじゃ損をしている、小説も読んだ方がいいというなら、ラノベより小説のほうが質がいいものが多いんだとか
ラノベと小説の価値は同等だとか、たくさんのものを読んだ方がいいんだとかそういう話になると思い込んでいただけに、
どういう視点からみるとこういう意見を理解出来るのかがよくわからない。
正直に言えば混乱していて何がわからないのかもうわからないのでダレか教えて欲しい。