はてなキーワード: 不器用とは
四六時中、無償かつ年中無休で働いているのに称賛されることもなければ労われることもない。
いつだってお前らのお供になってやっているのに、それでも感謝の一言もないじゃないか。
それに俺のことを何だと思ってる?
相手を傷つけるようなことに平気で使ってさ。それじゃあ俺が悪みたいじゃないか。
でもね。わかってるんだ。
お前が本当はそう言う奴じゃないってことは。
憶えてるんだよ。昔、初めて俺と会って、俺のことを初めて使ってくれた時のことを。
お前はまだ幼くてさ、不器用に俺を使って、でもその顔は笑ってた。
俺を使って色々なことを伝えようとしていた。その時の純粋な気持ちは…はっきりいえば嬉しかった。
けど、たまには昔のことを思い出してもいいんじゃないか?
あと俺へのリスペクトを忘れるなよ?
おっと、また呼ばれたみたいだ。誰かが俺を使いたいらしい。
じゃあ、また。ほどほどに元気でやれよ。
会いたくなったらいつでも会いに来い。
じゃあ…元気でな。風邪ひくなよ。
エリック・ホッファーみてーに生きたいよな。選べるなら選びたい生き方のひとつよ
まったく学校へは行かず、複数の言語(ドイツ語・ラテン語ほか)・化学、物理学、鉱物学、数学、地理学・植物学など様々な学問を独学(図書館)で修めるだけの才能を持ちながら、
炭鉱夫・日雇い労働者・季節労働者として放浪して何十年と働いて、
40歳になってようやく留まるようになっても、沖仲仕(おきなかし。船と陸の荷物の積み込みとかする港湾労働者)やって、
肉体労働とは無縁で、ただ頭だけで何事も理解した気になる知識人に対して、ホッファーは一貫して辛辣な批判を投げかけてた
これが本物ハードボイルドよね。アキ・カウリスマキ監督の作品も割とこれ感じる、カッケー
世捨て人になることなく、他者との関わりのなかに生きながら、他者に干渉しようとはしないこと。誰かを貶めるのでも、誰かに認めてもらうのでもなく、自らの価値を自分自身によって証明すること。それこそが、ホッファーの考えた「真に生きる」ことであり、「すべてが可能であると感じる」ための唯一の生き方だったのかもしれない。
教えることのいかがわしさ:エリック・ホッファー、田中淳訳『波止場日記――労働と思索』(みすず書房、2014) - うろたどな
様々な学問をぽんぽこ修める高IQは別にあってもなくても別にどうでもいいけど、肉体労働とDIYをこなせる器用さと筋力と体格、これはあったらな・・・とは思うよ
まぁ、極端に不器用でゴブリンでクソオタもやしでも、自分に出来ることやればいいだけなんじゃがの
自分に出来もしないことやって、楽しむ時間なくなったら、何の意味も無いもの
まず私は株式会社エッタラジェンダについて特に支持する立場でも反対する立場でもない。今回の件について自分の頭の整理をするための文章なのでもし目に止まった方がいたらこんなことを考える人もいるんだー、ふーん程度で流してほしい。
この知らせはさほど広いとは言えないインド界隈にゆっくりと知れ渡る。
社名が映画RRRのエンディングテーマの曲名であったことから社名に対する賛否両論が巻き起こり、特に否定的な反応が目立った。
私自身、率直な感想としては「私はなんでもいいけど大丈夫かいな」だった。
「旗を上げろ!」という意味の「エッタラジェンダ」という言葉はRRRの象徴的なシーンやメッセージを思い起こさせるもので、ファンにとって思い入れの強い言葉になるのは自然なことだと思う。
個人的にはこれは線引きの問題だと思っていて、会社という団体を立ち上がることで「エッタラジェンダ」の「内側」がファンの中で生まれてしまったことが大きかったのでは、と思っている。
多くの人が強い思い入れを共有する集団の中にエッタラジェンダという具体的な集団がつくられ、突然エッタラジェンダの外側に出されたように感じ戸惑う人がいてもそんなに不自然なことではないような気がする。
これがもし「合言葉を共有する集団」のど真ん中で行われたことじゃなければこんなことにはならなかったのでは。
長い妄想だけど、喫茶エッタラジェンダにはRRR大好きなマスターがいて、一般的なカフェメニューの他に結構本格的なインドカレーが食べられたり赤と青のシロップがじわりと混ざり合うイメージドリンクがある、とかだったらむしろファンとして一度は行ってみたいお店になれた世界線もあったんじゃないかなあ。そしてたまに貸切でインド映画イベントや期間限定イメージメニューとか出てくるとか(そういうお店行きたい)
もし株式会社エッタラジェンダシステム開発(長い)だったとしても名刺交換の時に「へえ、インド映画?そんなに好きなんですかあ」で済みそうな気がする。そもそもこの場合は映画ファンに向けて大々的に会社設立の報告をする必要もあまりないが。
他にも「ん…?」と思われてしまう原因、いろいろあったんじゃないかな。
・「エッタラジェンダ」という言葉の日本での意味合いが限定的すぎる。例えば株式会社ビームだったら同じことにはならなかったのでは(炎上の気配が見えても違う意味を強調して若干逃げ場もある)
・RRRのヒットで界隈が急に大きくなり、強まった商業色や乗っかり的なものに対するファンの疲労。これをぶつけられたのは気の毒である
・設立者の方のこれまでのファン活動を鑑みて、権利関係に関して深く理解された上でとは考えにくい部分がある
などなど。
ただ、上記のいずれも反対する気持ちは理解できるという話で、法律的または権利的に直ちにアウトではなくあくまで道義的(可能性)または気持ち的な問題がメインだ。
上記の線引きがどうの話も個々の感受性や思い入れのベクトルや強さの問題で、コンテンツに対する愛情の強さとは必ずしも比例しないし、辛いと思うこともどうでもいいと思うことも間違っていないと思う。
今回否定的な気持ちをツイートしたほとんどの方も気持ち的な問題というところは理解されている印象を受けた。悲しみや怒りを感じる投稿は多くあったものの、社名変更の希望通り越して強要だったり、口汚く罵倒する言葉はほとんど見えなかった(見えるところにないだけでDMではわんさか届いてたりするのかもだけど)
新たな挑戦をする人を寄ってたかっていじめているような見方をされている方もいたけど、(もちろん強い言葉で詰め寄るのは論外として)嫌だと思うものを嫌だと言うまでの権利は誰にでもあっていいはずだ。今回、新たな挑戦「そのもの」を叩く人って言うほど多かったか…?
結局好きなものを共有するだけで、それ以外は異なる価値観の人の集まりでみんなが同じ意見であることは不可能だし、その状態を目指す必要もない。どの意見も間違っていない。間違えがちなのはいつだって伝え方のほうだ。
そもそもファン向けビジネスをしようと思った時、お気持ちを蔑ろにできるものなのだろうか。ファンというもの自体お気持ちの集合体だと思う。お気持ち論は根拠にならないという意見もあったが、結構な割合の人が同じように感じている気持ちを無視して進むことは事業としてリスクがあったのでは。
つらつら書いてみたけど、会社は結局一番残念な形で終わってしまった。お会いしたことはないが、設立された方はオフ会の仲間の皆さんからとても慕われているようだ。ホームページ(すでに消えたが)を見ても「良い奴」なんだろうなあと思う。
行動力が並外れに高くてあっという間にリーダーになってしまうタイプなのかな、と。それだけに今回これだけあっさり全部取りやめてファン活動そのものから撤退されるのは惜しいと思う。
何度も開催した大規模オフ会の中心的な人物(だよね?)として多くの人から慕われていたのが、いざ会社を立ち上げた時にぶつけられた想定外の否定的な意見の数々に戸惑い打ちのめされたのは想像に難くない。ご本人から詳細を説明されたツイートも状況を好転させることはできなかった。一個人にそれをすべて耐えろと押し付けるつもりはないが、もう少しいい形で共存できる方法はなかったのかと考えてしまう。元々は同じファンなのだから。
実務的に頼れる(それこそ法務とか、今回の対応含め)人物はいなかったのか、長いことインド映画を盛り上げてきた方々の力を借りつつ一緒に進めることはできなかったのか、勢いよく進む傍らで大局を把握する軍師(表現)的な方がいるだけでも随分違ってたのではなどと、今回のことが起こらなかったもしくはうまく乗り切れたシナリオを思い描いている。
また、この新しい団体によるイベントはどんなものだったのか、いつか私も何かの上映会に参加していたのだろうかともはや叶わないたらればに思いを馳せる。
追記。
今回の騒動を異なる価値観と気持ちのぶつかり合いではなく、単なる「集団いじめの加害者」と「新しいことをしようとして潰された被害者」の物語としてとらえる人の多さに少し驚いてしまった。
人の感性って思いのほか色々あって、絶対に分かり合えない価値観の人も少なくない。
自分が理解、共感できる痛みは尊重すべきもので、自分が理解、納得できない痛みは非難していいなんていう善悪の考え方は社会で生きていくにはあまりに危うい。だいたい他人の気持ちは誰かを納得させるために存在しているものではない。
その気持ちに至った土台の中に明らかな事実誤認が含まれているのならそれを教えるのはアリだと思うが、気持ちそのものの否定は争いしか生まない。
もう一つ、設立者の全面撤退により、今回の会社に対する議論ではなく結局クレームつけて潰したという構図だけがクローズアップされてしまい分断が加速しそうだなと思っていた。
設立者さんの人柄やコンテンツ愛で補われている部分も多々あったが、会社設立までのプロセスや問題提起されてからの設立者さんの対応にはいずれも思うところがある。これが全て有耶無耶になって批判勢がただ悪者になるのも違うのでは。
しかし、設立者さんは撤退の際問題提起をされていた方にDMで捨て台詞の暴言を送りつけていたとのことで。相手の言い分を理不尽と思うなら公に反論してもっと議論を重ねればよかった。批判を押し切る選択肢も、少し主義を曲げて社名を変える、スピーディーにユニット名を全面に出す(そういやこの話どうなったん)などやりようがないようには思えない。
これまでの対応でもあまり良い手を打たれているとは思えず歯痒い思いをしていたが、これは本当に悪手だったと思う。そもそもネット上での騒動なんだから裏で仕返ししようとバラされるに決まってるじゃないか。本文スクショを貼られなかっただけ良かったと思う。こんなことをしたら「愛と勢いに溢れたちょっと不器用だけど応援したい人」のイメージまでも失ってしまう。
サークル内の兄貴分としてはとても頼りになる人、けれどいざ法人化となったとき批判する勢力を納得させるだけの力量もなく、かといって一度全て飲み込んで突き進み結果で語るだけの推進力もなく(社名を絶対に譲歩できないのであればこれが一番現実的な選択肢だった)、多くの人が寄り添った「優しすぎた被害者」の立場までも本人が手放しかけている。
もしくは人一人の力なんて結局はこんなもんなのかな。
私には3つ上の姉がいる。
姉がなにか初挑戦するのにずーーーっとバタバタ過度に心配してきて、
妹の私のときは「ま、お姉ちゃんが大丈夫だったから大丈夫でしょ」で基本放置。
(ネグレクトとかではないし、愛してもらったとは思うけど、両親が不器用すぎて差が丸わかりパターン)
ないがしろ…というより、両親がとにかく焦り症で姉の時でパニックになり、
私の時にはもうガスが抜けちゃってる感じ。生きてりゃいいみたいな。
過干渉な両親にずっと注目されてきて姉もうっとおしいだろうなとは思うけど、
姉も過干渉な両親を拒否せず、むしろ依存しているように見える。(だから共依存に近い)
環境のせいもあり、私はかなり早いうちから気持ち的に自立できてたとは思う。
でもね、姉の時と比べて自分の注目度がずーーーっと低いの、結構卑屈になるぜ。
第一志望の大学に受かっても姉の就活で両親が右往左往してて「あ、おめでとう。でもお姉ちゃんはね…」だった。
第一希望の就職先に受かっても姉の結婚するしないだで両親は「あ、おめでとう。でもお姉ちゃんはね…」だった。
結婚するときも姉の第一子出産でフィーバーしてて「あ、おめでとう。お姉ちゃんの子はね…」だった。
姉も悪い人じゃないけど、とにかく主人公気質で、私のことをすごく格下と思っている節がずっとあって心からは好きになれない。
姉が旦那と揉めてうつ気味になり実家に泣きつき、両親はそれどころじゃない。
仕事しながら家のことやって、夫も忙しいし私も色々バタバタしてるからそんなに気にならないけど
ふとしたタイミングで「なんかまた姉にかき消されてるな…」って気が付いて落ち込む。
自分もメンタル不調で心療内科にかかったり抗うつ剤飲んだりしたことがあるけど、
わざわざ両親に泣きついて大騒ぎはしなかったからちょっと冷めた目で見てるところもる。
出産っておめでたいことなのに、私は姉のために心療内科調べたり本買ってあげたりして、
両親もしょっちゅう姉の家に行って甥っ子のシッターしててみーんな頭はそっちでいっぱい。
(ちなみに姉は専業主婦なので、シッターというより家に行って姉のループする長い話を延々聞いて甥っ子と遊んで帰っているよう。姉は実家から車で一時間ぐらいのところに住んでいて、私は新幹線で三時間ぐらいの距離なので、まあ致し方ないところではあるんだけど)
我が家はあんまり私とお腹の子のこと心配してくれない。まあすくすく育ってて無問題の子(エライ!)だから心配ご無用なんだけどさ。
初孫じゃないから仕方ないのかな。でも何もお祝いされなかったら私はいいとしてこのお腹の子が可哀そうでちょっと泣けてくる。
甥っ子(初孫)が生まれたときのフィーバー、絶対もう起きないもん。
甥っ子との待遇の差でうちの子が傷つかないといいな。みてねとかで割と今の時代可視化されるからさ。
夫も義両親もとても喜んでくれてるのでそれだけが救い。でも義両親は遠くに離れて住んでるのでなかなかおいそれと来れないんだよね。
里帰りする予定だけど、たぶん姉もお手伝いするとか言ってやってきて、家で具合悪い具合悪い鬱だ鬱だ騒いで両親はそっちにかかりきりで私と子はまた放置なんだろうな。大丈夫かな。でももう分娩予約したからいまさら予定変えられないしな。
もちろん姉のことも心配なんだけどさー。一度ぐらい家の中で主役になってみたかった。もう無理だね。
結婚してるし実家のことなんていいじゃん!と思うんだけど、小さいころの自分がまだ隅っこで拗ねてる感覚がある。
私は大好きな夫と家族みんなができるだけ居心地のいい家庭を築いていこうと強く思った。
お腹の子にも、もし第二子が生まれたとしても、絶対私みたいな気持ちにはさせないからね。
しかしその後普通に目が覚めて(と思ってたのは私だけで24時間以上経ってたらしい)絶望して、さらに眠剤を数十錠、酒で流し込んだ。
体勢を保っていられなくなった。今ならたぶんドアノブで首が吊れるぞチャンスだ、と思い、ベルトを使ってドアノブで首を吊ろうとした。
しかしもともと手先が不器用な上にラリってる最中の人間がうまくベルトを結べるはずもなく、吊ったものの重さで解けてしまい、床にすっ転がった。
もう身体が動かないので、これ以上薬を飲めないし、首もつれない。どうしようか悩んだ。悩みながら#7119に電話をした。眠剤をODしたことを話すと救急車を呼ぶように言われた。でもあまりにも自業自得なので躊躇った。でも結局119した。体感としては30分くらい悩んだつもりだったんだけど、発信履歴を後で見たら#7119から119にかけるまでの間に6時間あった。
病院では何をされたのか覚えてない。管だらけになったのは覚えてる。手足の拘束もされていたらしいけどそれは覚えてない。何をしたか覚えているか聞かれた。時系列はともかく薬飲んで首吊ろうとしたことは話した。
なんとなく喋れるようになってから、家族に連絡を取りたいと言われたが、ばかすかに殴られ蹴られ詰られてきたので、万が一実家に連れ戻されたらそっちのが死に近いので、お願いだから誰にも連絡しないでくれと泣きながら頼んだ。結局、ふだん通ってるメンクリへの情報提供?みたいな封筒を絶対に主治医に出すことを条件に解放された。
2日間の入院を終えて一人暮らしのマンションに帰ってきた。上司にはメンクリ通いを話していて、ODして入院したことも(退院後に)話したので、ひとまず今は仕事を休まされている。来週のメンクリ受診に上司が付き添ってくれることになった。
仕方ないので、眠剤飲んで錯乱してた間に荒らしたらしい部屋を、淡々と片付けている。
これからどうしたらいいんだろう。
→唄を忘れた金絲雀は 赤い緒紐でくるくると縛められて砂の上 かはいさうにと妹が涙ぐみつゝ解いてやる、
→唄を忘れた金絲雀は 象牙の船に、銀の櫂、月の海に浮かべれば、忘れた唄をおもひだす
発表順は正史の方が先
家庭がゴタゴタして詞なんて書いてる場合じゃないよなという時期の心境を書いている
→今夜きみをつれていくよ 真夜中にむかえに行く
ぼくの好きな真珠色の 肌が光る 月明り
命をつないだ糸が しずかにほどけていく
→森へおいで 森へおいで ぼくはきみを泣かせない
森へおいで 森へおいで きみを不安にさせない
ぼくと遊ぼう 約束どおり 森へおいで ぼくの
→ここでは誰もが口癖のように こうつぶやいている いつか河を越えて
→ここでは誰もが口癖のように こうつぶやいている any day any way
被差別部落は「河向こう」と呼ばれ、これはその意を汲んで被差別層から抜け出すことを願う歌であり改変を要求されタイトルも変更
当然ながらn=1の隙自語。
原風景のひとつは母が洗面台で化粧をしている姿。BBクリームをペタペタ塗っている。なんで化粧をするのかわけを尋ねると「化粧をしたという事実を作るためだよ」とめんどくさそうに答えていた。BBクリームと口紅を塗った母の姿に、なるほど化粧をした姿だ、と思った。美しいとも醜いとも思わない。憧れるでも羨むでもない。それはたとえば「大人になれば働かなければならない」なのと同じように、やがて自分がせざるを得ない、めんどくさいなにか、それ以上でもそれ以下でもなかった。
そんなわけなので、身だしなみにに対してうっすら苦手意識を抱いたまま小中高と進んだ(無論、二次元のオタクにもなった)。大学生になって一人暮らしを始めたが、身だしなみのレベルは依然として低かった。髪を根元から乾かすと寝ぐせがなくなる、ということさえサークルの先輩に教わるまで知らなかった(実家の家族はみな、わたしのことをくせっ毛だと思っていた)。母は化粧は嫌いだが服を買うのは好きで、セールで買い込んだ服を段ボールいっぱいに詰め込んで、コメや野菜と共に仕送りしてくれた。不十分な身だしなみに、試着もしないまま買い与えられた服を身にまとうわたしは、今思えばいかにもちぐはぐだった。自分で服を買うようになったのは社会人になってからだ。余談だが、その後わたしは服を買うことにすっかり目覚め、母に似た服道楽の道を歩むことになる。
化粧っ気のないわたしの周囲には、化粧っ気のない友人が集まり心地よく過ごした。たまに接触する化粧っ気のあるひとびとは、おおむねみな優しかったが、話していると気づまりすることも多かった。オフ会でお会いした年上のお姉さんは、髪にパーマをあてたわたしを見て「それなら、せめて眉は整えた方がいいよ」と優しく言った。サークルの先輩は「このメイクポーチ(の中身)でどうやってメイクするの?」と不思議がった。今思えば、それはどれも本心から心配や優しさからのものだったが、わたしのなかの「やっぱり化粧って苦手だ」を補強するには十分だった。
その頃わたしは、十代ゆえの傲慢と偏見ゆえにすっかり「化粧」そのものを敵視するに至った。化粧とは、無知で不器用な自分の前に立ちはだかる、理不尽に高い壁に見えていた。それを強要する(ように見えた)社会も、それに迎合する(ように見えた)化粧上手な美人も、みな嫌いで、自分を害する「なにか」に感じられていた。
就活時は化粧をしたが、化粧下地なんて知らなかったので素肌にREVLONのリキッドファンデーションを塗った。
そんな自分も少しずつ変わっていった。転機は判然としない。
大学院に進学し、尊敬できる先生や先輩、同期に出会えた、卒後も専門性を活かせる職に恵まれ、「クラスルームの隅」以外に自分の居場所を見つけられたこと。自分で服を買うようになったこと。そしてなにより、年を追うごとに性格が丸くなり、「十代ゆえの傲慢と偏見」から解き放たれ、化粧上手な美人を見て素直に尊敬できるようになったこと。
化粧が苦手だったが、でもそれが悔しくて、無知なりに調べては挫折してを繰り返した。独学だったのでひどく回り道をしたが、ほんの少しずつだが経験値は積みあがった。またインターネットが発達し、「周囲の人」以外からTIPSを学ぶ手段が飛躍的に増えた。コンタクトもマツエクも試してみた。気になることはひととおり勉強した。
それでも、「上手」には程遠い。
あるとき、一念発起して資生堂銀座本店の「メイクアップレッスン」に申し込んだ。一時間半くらいつかって、マンツーマンでメイクを教えてもらえるやつだ。理想の顔面比とは、という話から始まり、「あなたは少し目と目の間が離れているから、目の間隔が縮まって見えるように、このように陰影を入れましょう」などとしっかり教えて頂ける。説明は理論だっており、納得できるものだった。そして完成した自分の顔を見て、「ふうん。わたしの顔面がベースだと、プロの技術でもこれが『限界』か」と理解した。
①「己の顔面を“理想の顔面比”に近づけること」。そして②「化粧した顔になること」。
①の理想の顔面比は残酷なまでに「正解」が存在する。①の達成難度はそのひとの持って生まれた骨格に依存する。美容整形はそれを打破する有効な手段だが、高価だ。
②は一種の符丁のようなものだ。この記事は、この増田(https://anond.hatelabo.jp/20240129142710)
をきっかけに書いたものだが、勝手な想像だがその元増田筆者はおそらく自他問わず「化粧をした顔」が好き(=かわいい、という認識)なのではないかと思う。なので「化粧をしたらブスでもかわいい、ブスなんていない」という結論になるのではないかとわたしは考える。対照的に、わたしは化粧をしたひとの顔を見ても「化粧をした顔だな」とは思うは、「=かわいい」とは思わない。「化粧をした顔」そのものに美を感じるのは、それは一種の価値観であり、文化的なものである。ゆえに符丁、と書いた。(関係ないが、化粧っ気のない人間は、他人の化粧に鈍感だ。化粧を自らして初めて、他人の化粧を認識できる、ところがある)。
今のわたしは、眉はしっかり整える。ファンデはしないか、してもごく軽く。アイメイクはたまにする。常にマスク(マスク社会万歳!)。美容室には定期的に通う。服はそれなりに気を遣う。メイクした方が似合う服、というのはぜったいにあるので、それが着られないのは少し残念ではある。
WEARでたまにファッションスナップを上げる。画像加工で顔は消す。プライバシーのあれもあるが、己の顔は別に好きではないからだ。首から下は、まあ悪くはない。
クレ・ド・ポー・ボーテの化粧品の見た目が好きだ。でもお金も時間もアテンションも有限だから、優先度をつけてやるしかない。わたしの人生において、化粧は、優先度はあまり高くない。
以上、化粧が苦手改め、化粧が苦手なりに愛憎入り混じった女の人生語りでした。
--
【余談①】化粧の文化的側面については興味があるので、もし良い書籍を知っている人がいたら教えてください。文化史などの側面から語っているややお堅い雰囲気の書籍だと嬉しい。
【余談②】メガネについて。化粧をするなら大前提として、メガネを外せ、コンタクトをしろ、というのがあると思う。自分は(何言ってんだと思われそうだが)自分のメガネ姿にアイデンティティを感じているが、近眼メガネ族は化粧界においては驚くほど透明化されている。自分が「化粧はだいたいでいいや」と思う理由のひとつがこれだ。
【余談③】メイクアップは嫌いではないが、スキンケアははっきり言って嫌いだ。詐欺まがいの商売が多すぎる。ひとの悩みに付け入って高いものを買わせる不健全な業界だと思う(本当に人体に対し効能があるものは薬機法下では医薬品なので、そもそもそ医薬品ではないスキンケア商品の段階でどんぐりの背比べだろって思う)。日本皮膚科学会のホームページにある「皮膚科Q&A」だけ読んでれば十分や……まあ高いスキンケア用品つかってプラセボで良くなる可能性もあるとは思うが。
料理をするようになって7年ぐらいたつ。
一通りの料理は作れるようになったが、その中で未だに苦手なのが卵料理だ。
7年練習しても卵の殻をうまく割れない。よく殻の破片が混入したり、割った直後に黄身が潰れたりする。
目玉焼きをひっくり返そうとして、途中で折れ曲がったまま中途半端にひっくり返ったりする。
卵を4個使った巨大オムレツを作ろうとして、ひっくり返す時にフライパンの外に盛大にぶちまけたこともある。
詳しい人に教えてもらうのもとても楽しいけど、類友なのかあまり友人にはコスメ好きがおらず…。
増田の話も面白い!もっと聞かせてほしいし、私のコメントへの返信も貰えると嬉しいです。
興味ない理由を箇条書きすると
・元々可愛い。といってもクラスに20人女子がいたら3~5人目レベル。だからといって1番2番になりたいとは全然思わない
・ベースメイク嫌い。皮膚呼吸できない感じが最悪。未だに下地、ファンデーション、お粉?の使い方がよく分からない。
3ヶ月に1回ぐらい使ってみるが、「よくわからなかった」でいつも終わる。シミは隠せて少し綺麗になる気はするが…
大学生ぐらいのときは肌が綺麗だったのもあって、毎朝顔も洗わずに日焼け止めも下地もファンでも塗らずに素肌にチークだった。
それでも若さゆえに可愛かった。今はさすがに顔洗うし化粧水乳液日焼け止めは塗る。普段のメイクは眉毛とリップクリームのみ。
・めんどくさがり。メイクはとにかくめんどくさい。
・他に面白いことがある。美容よりも、勉強とか、真理の追求とか、読書やスポーツなどの方が楽しい。
・コスパ重視の功利主義者。最小限度の努力で最大のリターンを得たいと思う。だから眉毛は必ず描く。眉毛はコスパがいい。
描いてないと変だし、描くと急激に顔が引き締まる。あとリップクリームもコスパがいいと思う。最低限の装いをしたい。
普段ほとんどメイクしないくせに、トーニングやフォトフェイシャルなどの美容医療や歯列矯正はコスパがいいと思うので通っている。
・年に一回とか、数年に一回とか、たまにしか会わない人と会うときや、皆で写真を撮る可能性が高いときは気合い入れてガッツリメイクする。
ハレの日のたった1日化粧頑張るだけで、その日出会った全ての他人に美しい自分の印象を残せるのでコスパがいい。
その時ぐらいしかファンデやアイシャドウを使わないのでなかなか減らない。使い切れない。
開封後5年以上経って、ほとんど使っていない化粧品を捨てた経験が多数。
・美的センスなし、美術下手、お絵かき下手、手先不器用、うまくなる気がしない
・薄顔美人なのでメイク好きの人が私の顔に生まれたら楽しかっただろうなと思う。
私は化粧が面倒だから何もしなくても化粧しているように見える派手顔に生まれたかった。
・そもそも自分の顔にそこまで興味がない。ふと気が付くとすぐヒゲ生えてるし鼻毛出てる。結構伸びてる。
・化粧する理由には主に以下の3パターンあると思うけど、「女同士のマウンティング、張り合いのため」「男にモテたい」「他人がどうこうは関係なく自分が美しくありたい」、
私は化粧するとしたら圧倒的に「男にモテたい」という理由。好みの男に会う予定があれば面倒でも頑張って化粧する。
・メイク落とししても落ちきらない。ガッツリメイクした晩は、いつも風呂でクレンジングしたあと、風呂上がりにバスタオルで顔拭いたら化粧がついててげんなりする。メイクって何でこんなに落ちないの。
・武装系、変身系メイクは興味ある。やってみたい。自分が可愛くなることにはそこまで興味ない。男がいたら別。
・子供の頃からオシャレ?着飾ること?が嫌いだったようで、母がせっかく結ってくれた髪をわざわざグチャグチャにして幼稚園に行ってたらしい。
・メイクだけでなくファッションもあまり興味がないけど、対人関係において見た目の印象を良くすることはコスパが高い行為だと思っているので、
慇懃無礼。
表面上は丁寧に振る舞いながら、その実反発を受けにくい体で見下し、煽り、嘲り、マウントを取るための手法というなんともいやらしい言語の到達域である。
日本や中国に限らず世界にもこういう類型は存在するのだろうか。するんだろうな。ろくでもない人類。
.
さて、主語のでかい前置きを終えて本題に入るが、私はこれの逆バージョンが好きである。表面上は荒々しい、猛々しい、素っ気無い、ぶっきらぼうな口調だけど、根底には相手に対する敬意とか親愛とか配慮とか弁えが感じられるという喋り方が。
.
これに最初に気付いたのが『聖結晶アルバトロス』という漫画だった(作者は「争いは同じレベルでしか〜」のカンガルーバトルミームの発祥者でもある)。キャラクターの一人である気の強い未熟なおガキ様が、無謀な抗戦を諌める従者に対して「黙れ○○さん!」と却下し、母親を守りたい意地で主人公達に立ち向かおうとするシーン。構図自体は上の立場から目下の意見を断固はねつける、暗君とか高慢貴族とかにありがちなそれ。なのに「さん」付けで呼んでるのが、従者への親しみはちゃんと別にあるんだぞと分かってそのギャップがなんだかほっこりと面白く感じたのだ。漫画はあんまり面白くなかったけど。
.
以下は既知の他の例
・『ニニンがシノブ伝』
サスケが遂に手に入れたメイドロボ・エイミー(美人ではない)が、「ゴシュジンサガッテロコイツラハオレガヤル」と臨戦態勢に入る。「下がってな俺がやる」自体は色々な作品で見られるシチュエーションだけど、ご主人呼びが入る事によって、無愛想な護衛からの(私が守って差し上げる)的な言外リスペクトを感じられるのがよいね。まあただの脈絡ないギャグシーンなんですけどこれ。
.
月刊ジャンプだったんだろうか。
委細は覚えていないがスタイリッシュなバイオレンス桃太郎軍団という味付けで、猿(ゴリラ)が「桃太郎ォッ……!早くッ、命令しろ゛ォォッ!!」と血気を滾らせながら戦闘許可を求めるシーン。好戦的で上役に対しても呼び捨てだが、あくまで自分に決定権は無い事を理解している、俺への命令を下せと命令口調で叫んでるって入れ子構造がなんだか面白かった。「命令してくれ団長……今すぐ!(ウボォーギン)」に近いものがある。
.
・『ニンジャスレイヤー』
敵味方上司部下の見境なく「=サン」を付けて喋るお話。なんなら口に出さない独白でも付ける。「死ね!ニンジャスレイヤー=サン!死ね!」はその畢竟だろう。wikiで解説されていた奥ゆかしさ重点とは言ったものである。……これ意図的なヘンテコ日本語楽しむ作品だから他と毛色が違い過ぎるだろ!などと突っ込んではいけない。作者は外国人だ。いいね?
.
慇懃無礼が如何に波風立てず相手をdisるかという狡猾さの表れなのに対し、この無礼丁寧とでも呼べそうな言動は、粗雑な口調からは隠しきれない善性や人間くささの垣間見える不器用さが味わいなのだと分析している。素晴らしきかな人類。
.
主語のでかい讃頌はほどほどに、ブクマカが創作で覚えているそういうシーンとか、現実でもそういうの見たことあるよとか、そういう慇懃無礼ならぬ無礼丁寧なエピソードがあったら聞いてみたい。
.
注記)
ここでいう対象となるのは──それなりに知ってる人の多そうな具体例を出すが、「ワンピースで、緑牛がワノ国住民に対して非加盟国に人権は無いと言い放つ(なんやこの差別主義者は……)→非加盟国への非人道的所業が実際度を越してた(あれってお前ら危ないよって警告だったんだぁ……)」みたいな後から真意が判るやつではない。例で挙げたように敬称や立場込みのシチュエーションから、その場で判別の付くやつです。そこのところを押さえてコメント頂けるとうれしい。