はてなキーワード: 姉の結婚とは
私には3つ上の姉がいる。
姉がなにか初挑戦するのにずーーーっとバタバタ過度に心配してきて、
妹の私のときは「ま、お姉ちゃんが大丈夫だったから大丈夫でしょ」で基本放置。
(ネグレクトとかではないし、愛してもらったとは思うけど、両親が不器用すぎて差が丸わかりパターン)
ないがしろ…というより、両親がとにかく焦り症で姉の時でパニックになり、
私の時にはもうガスが抜けちゃってる感じ。生きてりゃいいみたいな。
過干渉な両親にずっと注目されてきて姉もうっとおしいだろうなとは思うけど、
姉も過干渉な両親を拒否せず、むしろ依存しているように見える。(だから共依存に近い)
環境のせいもあり、私はかなり早いうちから気持ち的に自立できてたとは思う。
でもね、姉の時と比べて自分の注目度がずーーーっと低いの、結構卑屈になるぜ。
第一志望の大学に受かっても姉の就活で両親が右往左往してて「あ、おめでとう。でもお姉ちゃんはね…」だった。
第一希望の就職先に受かっても姉の結婚するしないだで両親は「あ、おめでとう。でもお姉ちゃんはね…」だった。
結婚するときも姉の第一子出産でフィーバーしてて「あ、おめでとう。お姉ちゃんの子はね…」だった。
姉も悪い人じゃないけど、とにかく主人公気質で、私のことをすごく格下と思っている節がずっとあって心からは好きになれない。
姉が旦那と揉めてうつ気味になり実家に泣きつき、両親はそれどころじゃない。
仕事しながら家のことやって、夫も忙しいし私も色々バタバタしてるからそんなに気にならないけど
ふとしたタイミングで「なんかまた姉にかき消されてるな…」って気が付いて落ち込む。
自分もメンタル不調で心療内科にかかったり抗うつ剤飲んだりしたことがあるけど、
わざわざ両親に泣きついて大騒ぎはしなかったからちょっと冷めた目で見てるところもる。
出産っておめでたいことなのに、私は姉のために心療内科調べたり本買ってあげたりして、
両親もしょっちゅう姉の家に行って甥っ子のシッターしててみーんな頭はそっちでいっぱい。
(ちなみに姉は専業主婦なので、シッターというより家に行って姉のループする長い話を延々聞いて甥っ子と遊んで帰っているよう。姉は実家から車で一時間ぐらいのところに住んでいて、私は新幹線で三時間ぐらいの距離なので、まあ致し方ないところではあるんだけど)
我が家はあんまり私とお腹の子のこと心配してくれない。まあすくすく育ってて無問題の子(エライ!)だから心配ご無用なんだけどさ。
初孫じゃないから仕方ないのかな。でも何もお祝いされなかったら私はいいとしてこのお腹の子が可哀そうでちょっと泣けてくる。
甥っ子(初孫)が生まれたときのフィーバー、絶対もう起きないもん。
甥っ子との待遇の差でうちの子が傷つかないといいな。みてねとかで割と今の時代可視化されるからさ。
夫も義両親もとても喜んでくれてるのでそれだけが救い。でも義両親は遠くに離れて住んでるのでなかなかおいそれと来れないんだよね。
里帰りする予定だけど、たぶん姉もお手伝いするとか言ってやってきて、家で具合悪い具合悪い鬱だ鬱だ騒いで両親はそっちにかかりきりで私と子はまた放置なんだろうな。大丈夫かな。でももう分娩予約したからいまさら予定変えられないしな。
もちろん姉のことも心配なんだけどさー。一度ぐらい家の中で主役になってみたかった。もう無理だね。
結婚してるし実家のことなんていいじゃん!と思うんだけど、小さいころの自分がまだ隅っこで拗ねてる感覚がある。
私は大好きな夫と家族みんなができるだけ居心地のいい家庭を築いていこうと強く思った。
お腹の子にも、もし第二子が生まれたとしても、絶対私みたいな気持ちにはさせないからね。
ないかな?
できれば不倫なしで
どうしても片方が若い漫画が多くて、リアリティに欠けるんだよなぁ
やっぱり難しいかな
【追記】
みんなの紹介してくれた漫画をリストアップします。みんなありがとう。抜けがあったらごめんなさい
・1日2回
・ミワさんなりすます
・じゃりん子チエ
・おかめびより
・あした死ぬには
・五十、六十よろこんで。
・44歳の彼女
・そもそもウチには芝生がない
・後ハッピーマニア(カヨコが別れて45歳になっている)
・違国日記
・茄子
・私の息子が異世界転生したっぽい(メインテーマは違うらしいが)
・ルームメイツ(一般中年の地味な日常が描かれている。時代設定は数十年前)
・九後45は一周回って追いかける
・姉の結婚
・踊れ獅子堂賢
・東京ラブストーリー After 25 years
・谷川史子さんの「はじめてのひと」「おひとり様物語」(はじめてのひとは不倫あり)
・冬野梅子さんの作品
生まれてから今までずっと扶養家族。ペットの犬とポジションが同じである。
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彼女の唯一の特技が顔が可愛くておっとりにこにこ話すことだった。
これのおかげでニートの癖に頗る評判がいい。怠惰なニートが少し病弱なお嬢さんに代わるのだ。日本の女の生きやすさを感じる。
余談だが親族に同じような男がいたのだが、キモオタ引きこもり性犯罪者予備軍として扱われていた。姉も腐女子を隠さずぬいぐるみを持ち歩いてるのにこの差はやっぱり顔としか思えない。
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そんな姉だがコツコツマッチングアプリをしていたらしく結婚が決まった。
相手からの熱烈なアプローチによるものだそうだ。言われてみれば最近高いバッグを持って服も髪も綺麗になったなと思えば要するに貢がれていたわけである。
なんと相手は東大卒で実家も裕福な資産家、本人はもっと裕福で会社をいくつも持っている人間だ。Fラン大学中退実質高卒の姉の相手にはおかしい。
とは言っても相手は父親と年の変わらない男でさすがに父親も諸手を上げて大歓迎という訳にはいかないのだ。
だが姉との新居が土地だけで億越えるようなところだったり、実家の近くを考慮されたり自分が死んでも姉はゆっくり生きていけるようにするだとなんならもう一人の姉の子供の学費も負担していずれ養子にしたいだのまぁ好条件も好条件である。
ちなみに俺には車とゴルフセットを買ってくれるらしい。
そして結局姉の結婚は決まった。結婚式はしないという姉の意向で身の回りのものを持って新居に姉が行ったというだけの簡素なものだった。
ちなみに相手は当たり前だが多忙でしょっちゅういないからと実家で姉はよくごろごろしている。
向こうも年上だから姉は一生娘のポジションで生きていくのだろう。
なんだかんだで女の方が生きやすいと思った。
4年婚活をしていた2つ上の姉が結婚することになり親族一同お祭り騒ぎだ。祖母に至っては号泣していたらしい。私もずっと頑張っていた姉の思いが叶うことになりとても嬉しいし、姉を選んだ旦那さんに感謝の気持ちしかない。
だが同時に、父や母から「次はお前だ」と事ある毎に言われるようになって苦しい。地元は田舎なので、結婚していない人間はどこかおかしい人という意識が蔓延っており、親戚の中で結婚していない人は一人もいない。都会の人は結婚が遅いのだろう、と思っている節はあり今はそれで逃げられているが(私は上京済み)そもそも私は男性が苦手なので結婚できないと思う。それを両親に伝えるべきか否かずっと悩んでいて、春先からの希死念慮も相まって死ぬなら今かなぁとぼんやり考え始めている。姉の結婚というめでたさと妹の死という不運、これでうまく相殺にならないだろうか。親としても一人のまま年老いていく私を悲しい気持ちで見守ることがなくなるから今死んだ方が将来的にはプラスになると思うんだけどな…
東北地方在住だが、姉の結婚式で式の前の新郎新婦の親族同士の初顔合わせをした時に、名前の紹介で屋号が使われていた。
例えば、増田一郎さんと紹介すればいいところを、「当家の本家の増田権兵衛さん」と紹介するような感じだ。
ちなみに名前を読み上げたのは自分の父親で、こちら側(新婦側)の親戚は全員屋号呼びだった。結婚式の次第でも同様に屋号が使われていた。相手側(新郎側)は屋号なんて使っていないのに。
結婚式の場で個人の記号たる氏名ではなく一家の記号たる屋号を使うなんて、「個人の幸せよりも家を守るために結婚してくれ」と暗に言っているようで、心底気持ち悪かった。
父と姉が手を繋いでバージンロードを歩いてきた。無口で、泣いてるところも見たことのないとても寡黙な父親が涙を流しながら歩いていた。
その繋いだ手を新郎の手に渡す時、自分とその横にいた弟も泣いていた。嬉しいのが寂しいのかよくわからない気持ちだった。
自分は別に姉と特別仲が良いわけでもなかったから、結婚の報告を聞いた時も特に強く何かを感じたわけでもなかったし、式にもそんなに期待みたいなのはしてなかった。
でも当日は泣きっぱなしだった。
式中も披露宴の時も、3人兄弟で遊んだ昔の記憶が時々蘇ってきて、寂しくて仕方がなかった。
両親は自分以上に姉と長い時間を過ごしてきたのだから、余計にそれを感じていると思う。
そして目の前で幸せそうに立っている姉を見るだけで目に涙が溜まった。
姉の「ありがとう」という言葉がその日はやたら強く感じられたのを覚えている。
披露宴の最後の両親への手紙での「私は今幸せです」という一言と、それを聞いて泣く両親の姿を見れただけで、この日を迎えられて良かったと思う。そしてこの家に生まれて良かったと感じた。
姉の結婚式にすら招待されませんでしたが
自分は就職するのだな、というのが決定的になったのは、大学三年の正月に帰省したときだった。そのとき姉は子どもを身ごもっていて、結婚式の準備を進めている時期だったと思う。両親の住む実家はいつになく浮き足だっていて、居間に鎮座した年代物のコンポが機嫌のよい音楽を流しているのを何年ぶりかに聴いたりした。この雰囲気だったら言っても大丈夫だろうかと思った。家に着いたその晩、おそらく姉の結婚式やお腹のなかの子どものことをしばらく話したと思う、そのあとに切り出した。あのさ、大学院に行きたいっちゃけど。
予想外に、部屋の空気が一瞬で凍りついたのを覚えている。両親は言葉を発さず、コンポから流れる陽気な音楽(荒井由実のセカンドアルバムの六曲目、あなただけのもの、)がいっきに、なにか強烈な、皮肉めいた疎外感のようなものを演出する異物となって浮き上がった感触があった。しばらくして、母が重々しく口を開いた、なん言いようね、そげんお金なかよ。大学院てなんね。行ってなんすると。もとより自分も、大学院で何か研究したいことがあるわけじゃなかった、研究というのが何をすることなのかもよく分かっていなかった。ただサークルや何やで接する先輩たち、自分より二年間長く学生でいられる、その二年間は就職せずにいられるひとらのことがうらやましかった。その程度の動機だったから、突如として部屋に現れた重苦しい空気を前にして、うっかり声に出した気持ちは途端に冷え切り、しぼんでいった。なんでんなか、分かった。話を逸らすような話題もなく、アルバムが次の曲に行ってしまうまえに居間を出て階段を上がった。あのコンポが音楽を流しているのを聴いたのはそれが最後だったと思う。
*
就活ではいろいろな街へ行った。下宿していた福岡から、十分な交通費が支給されるときは新幹線や飛行機(LCCはまだなかったから、スカイマーク)で行き、そうでないときは夜行バスで行った。その土地の知人に当てがあれば泊まらせてもらうときもあり、ネットカフェに泊まるときもあった。神戸の三宮とか東京の蒲田とか、そのころネカフェに泊まったっきり訪れていない街がいくつかある。
就活にかかる交通費は多くの同級生にとって悩みの種だったと思う。専攻柄、東京に一極集中したメディアや広告、出版関係の企業を受けるひとが多かったせいもあったか、とにかくいかに交通費で破産せず就活を乗り切るかはひとつの重要なテーマとして共有されていた記憶がある。自分もそんなに多くの交通費を出せる状況ではなかったので、受ける企業の数をかなり絞っていた。当時の就活サイトが提唱する標準的なエントリー数は二十社くらいだったけれど、自分は十社も受けなかった。それでも度重なる関西や関東への移動はそれなりに負担で、特に東京の会社で選考が進むたびに片道半日以上かかる夜行バスを往復するのは楽ではなかった。
夜行バスが発着するのはたいてい新宿の西口だった。あるとき、行きのバスに乗っていた添乗員さんと、帰りのバスでも鉢合わせたことがあり、乗り込みざまそのひとが、就活ですか、がんばってね、と声をかけてくれた。あのひとはたぶん、その数日間だけじゃなくてずっと、何十往復も、あの片道半日はかかる夜行バスに乗りつづけていたのだと思う、いまも乗りつづけているかもしれない。西新宿のビル街を歩くと時々そのことを思い出す。
支給される交通費で収入を得るモデルを立てていたひともいた。関東の実家や知人のところに滞在しながら、東京の会社をたくさん受け、それぞれの会社に対して福岡〜東京間の交通費を申請して利益を得る手法だったと記憶している。あるいは近場であれば、実際には18きっぷで移動しながら新幹線のぶんの交通費を出してもらう方法もあったらしい。これは静岡の会社に大阪から来ていた子が教えてくれた。会社でいっしょに最終面接を受けたあと、内々定をほのめかす説明会から帰るバスの中でのことだった。その子はすでに他社からも内々定を得ていて、ほんとうはそちらに就職するつもりだと言っていた。第一次安倍政権のときで、少なくとも経済政策はうまくいっていて売り手市場だったから、そのように交通費収入を得る目的で、実際には就職する気がない企業の内々定までを得る学生はその子だけではなかったと思う。二年後にはリーマンショックが起こって、ふたたび新卒市場は氷河期を迎えた(らしい)。もし自分が大学院に進み、二年後に就活をしていたら、たぶん学部のとき受かったところには受かっていなかっただろう。
職を得るためにスーツを着ることは苦ではなかった。それは公立の小学校から高校までをずっと制服で通わなければならなかったのと同じ程度の義務だと思っていた。大卒でそれをしなくてよい人生がどういう仕組みで成り立っているのか、そのころさっぱり想像がつかなかったし、いまでもその仕組みを十全に理解しているとはいいがたい。いずれにせよ、そうしたものは自分には関係のない、自分に与えられた生の可動域からは逸脱するものだと思っていた。もちろん、自分を取り繕って面接官に良い顔をすることとか、所与の経歴と志望動機を矛盾なく有効に繋げる作業を会社ごとに行うこと、そうした虚飾じみた行為への疲れはあった。リクナビやみん就のサイトを見るのも好きではなかった。けれど仕方のないことだと思っていた。ほかに生きられる道があるとも思えなかった、だからメンタツも読んだ、SPIも受けた、そうこうしているうち、他人に自分を矛盾なく説明するために用意したぎりぎり嘘でない物語の数々は、徐々に内面を染めかえ、自分のなかに元々あったそれらと区別がつかなくなっていった。照明がおとされた夜行バスの車中で、自分は眠れずによく手を組んで、いろいろな願いごとをしていたけれど、どうか今度の面接が通りますように、内定が取れますように、そういうこともふつうに願った。
*
先日、はじめて海外旅行に行った。羽田から仁川経由でニューヨークへ向かう機内の十数時間を体験しながら、ああ、これは博多から東京まで夜行バスでかかったのと同じくらいだなと思った。
夜行バスに乗っていたときの自分にとって、海外旅行も宇宙旅行も似たようなものだった。どうせ行けないのだから費用や行きかたなんて調べても意味のない、視界に入れたってしょうがないもの。行けるわけのない外国の遠さよりも、見慣れた田んぼ、そこにある変わらない暮らし、そういったものに思いを馳せるようになるのは、そのときの自分にはごく自然な成り行きだったと思う。だから新宿の街も好きではなかった。東口のネットカフェに泊まったり朝から歌舞伎町の銭湯に入ったりする小旅行を、楽しんではいたけれど、駅の通路に浮浪者の排泄物のにおいが漂っていたのを強烈に覚えてもいた。長く住むところではないと思った、その都市に、けっきょくいまは福岡に下宿していたのよりもずっと長いこと住んでいる。
去年はじめて実際に調べた、二月のヨーロッパやアメリカへ渡る往復航空券の値段は、盆や正月のラッシュのなかを新幹線で実家に戻るのと大差がなかった。どうせ行けるわけがない、他に選べる道もない、と見過ごしてきたものごとの数を考えた。けれど、そのときはたしかに、それが自分の視界に映るもののすべてだった。その視界が十分に広くなかったとして、いまを測るための物差しとしては省みることかもしれない、けれど責められるものではない。いまとむかしの自分は違う、同じものでない、そのことは互いの存在を妨げない。一応は自分のお金で大学院を出て一年が過ぎ、将来の自分から先借りしているお金を返しはじめて半年が過ぎたいまはそう思っている。
私:弟
結婚式当日にサプライズでスピーチをするように言われました(言われたというか、「それでは新婦の弟さんからスピーチです」と唐突に言われました)
前もって姉にスピーチがあるのかと聞いたところ、ないといわれていたので完全にスピーチ内容を考えていなかったので真っ白になってしまい変な内容になってしまいました。
結婚式後に姉になんでスピーチがあるならあると言ってくれなかったのか、というと、式場スタッフにサプライズにしましょうと言われたとのこと。
普通スピーチをサプライズにするってありえますか? 誰も得をしないサプライズだと思うんですけど、しかもそれをスタッフが薦めるなんて意味がわからないんですが。
1回目 小学生
クリスマスの給食ですげー楽しみにしてたケーキを食べようとしてた時。
ふざけて井上さんのケーキをみんなで奪おうとしてたら、井上さんのケーキが床に落ちた。
いきなり景色がスローモーションになって、驚いてる井上さんの顔とか、形を崩しながら落ちていくケーキと、ケーキから外れて落ちていくイチゴがありありと見えた。井上さん、あの時はごめんな。
2回目 社会人、25才
対向車のおっちゃんが意識を失ってこっちの車線に出てきて正面衝突した時。
あーぶつかるなって思った。乗ってたミニバスの運転手さんがちょ、ちょ、な!?みたいな意味不明の叫び声あげてることとか、一緒に乗ってたお姉ちゃんが何何何?!って言ってた事とか、旦那が私を咄嗟に庇ってくれたこととか、実質10秒しかなかった自己なのに全てクリアに見えた。衝撃に備えた!おかげで軽傷で済んだぜ!
3回目 社会人、26才
姉の結婚式に出てて、その参列者の赤ちゃんがベビーベッドから落ちそうになった時。
赤ちゃんのママは別のテーブルで誰かと喋ってた。寝てた赤ちゃんが不意に起きて、むずがって上半身を起こした。柵が付いてないベビーベッドだっから、赤ちゃんその拍子に落ちそうになった。
私、着物着てしかも別テーブルだったのにダッシュして赤ちゃんをキャッチしてた。
みんなびっくり。私もびっくり。よく間に合ったね、って赤ちゃんと同じテーブルだった人からも言われた。
あれが私の人生いち偉かったことでもある。
乱文だが愚痴らせてくれ。
両親が離婚した。
といってもここ最近のことじゃなくてもう何年も前のことだ。
年齢がバレそうだが、母親はもとから父の横暴なところが嫌いで離婚を何度も考えていたそうなんだが子供たちの進学とか就職とかそういうの考えてずっと我慢してきたらしい。
で、俺が就職して少しして無事にそれらしく社会人になった頃に離婚て話が突然持ち上がった。
俺には姉がいて、何年か前に結婚してる。
姉の結婚式では「私もお父さんお母さんのように幸せな家庭を築きたい」なんて手紙を読んでいたのを少し思い出したけどそれはまあいい。
いろいろもめて数年たった今も離婚に関してカネの分配やら遺産の問題がはっきりしなくてなんかやってるっぽい。
両親が離婚をすることに対しては正直話が出てもそんなに反対する気にならなかった。
父親は結構クセのある性格だったし、まあそういう結論を母親が出してもしかたないかなってところも結構あったからだ。
でもそんな最中最近姉と会って、「離婚したくなってきた」という話を聞かされた時にはびびった。
姉の子供はまだ小学生だし、いくら姉にそこそこの稼ぎがあるといっても大丈夫かって思うからだ。
ただ今客観的な立場として思うのが、両親が離婚をするということはその子供世代に対しても「あ、離婚てしてもいいんだ」って気持ちを植え付けることになるんだなってこと。
多分姉もそれなり夫である男(俺は正直あんまり好きじゃなかった)に何らかの不満があっても、子供のためとか世間体のために離婚までは踏み切るつもりはなかったんじゃないかなって思うからだ。
母親の離婚が姉の離婚に影響与えたというのはかなり高い確立であると思う。
俺は結婚をしていないし、なんかしたら負けみたいな気がして今後も全くするつもりはない。
だけど一度結婚したら、離婚をするというのは自分だけじゃなくてその子供とか周囲とかにかなり影響与えるってのはよく考えておいてほしいように思う。
私は不幸な少女時代を送った。
その理由のまずひとつに、ADHDという発達障害があり、学校生活自体が苦痛で苦痛で仕方なかったというのがある。
もう思い出したくもないが、とにかく毎日キツい言葉で罵倒され、馬鹿にされた。
私の友達の前で私の恥ずかしかった事や、言ってほしくないような事を言って笑いを取って馬鹿にしたり。
私の事を、本当に汚く、劣ったものを見るように軽蔑した目を向け「うっっわ、きったな」とか言ってた。
姉は頭が良く、運動神経も良かったので、何事にも不器用なADHDの私が本当にひどく、劣ったものにみえたのだと思う。
私も自分が劣等生物であることはわかっていたが、姉に言い返せる脳もなく、暴言に耐えるしかなかった。
たまに力任せに姉に歯向かったが、同い年の中でも小柄だった私が姉に勝てるはずもなかった。
子どもの頃、嫌いな人はクラスメイトにたくさんいたけど、その中でも姉は別格に、殺したいほど嫌いだった。
しかし時がたち、姉も私もある程度大人になった。
姉も、私のことは多々馬鹿にするものの、大人になってかなり優しくなった。
私も、地獄のような義務教育期間、高校生活を終え、大学生になったら不思議な事にADHDの症状もかなりおさまった。
姉とも、前より断然仲良くなった。
ふうん、と思った。
まあ、おめでとう、と。
しかし、この前の姉とその旦那を呼んでの家族の食事会の時のことである。
幸せそうな姉を見ていると、なんだかものすごく疑問が湧いてきた。
あれだけ私の事をいじめた姉が、何を勝手に幸せになっているのかと。
姉の人生は、おそらく彼女の計画通り、上手くいっているようにみえた。
あれだけ、私をいじめて、コケにして、みんなの前で馬鹿にして、ネタにして笑って、私の心をボロボロにしていながら今、彼女は幸せになろうとしている。
ずるくない?
私、あんたのせいでどれだけ苦しい人生送ったと思ってんの。
それから、姉の子どもが障害児でありますように、という妄想が止まらない。
子どもの頃からリア充で、一流大学に入って、一流企業に入って若くして結婚した姉の子どもが障害児。
考えるだけで笑い出したくなる。
つらつらとゆとりな駄文をさんざん並べたにも拘らず読んでくれたり、色々突っ込んでくれた優しいひとがいたので、追記。以外長いし胸くそ悪くなると思うので、興味ないひとは無視してください。なのに勝手に書いてごめんなさい。
今年初め、就職活動に向けて一時期 東京へ行くことに差し当たって母から、向こうの大学を卒業した兄がいま東京にいると聞いたんです。「兄には話しておくから、しばらくお世話になりなさい」と。この時点では母本人に聞いてこそいないけど、母は兄が家を出てからずっと連絡を取り続けてたってこと?とはよぎりました。でもそこを問わず、お、タダ宿ラッキー、なんて安易に居候を決め込んだ自分がまずどうかなぁと。
父の借金、姉の結婚費用、わたしの学費、母からの手切れ金(という表現は良くないのかも)、兄がこの全て払ったということ、これをなぜ兄カノが知っていたかは確認してないです。兄が話す以外に知る手立てがないはずだから、聞くだけ野暮なのかと。確かに兄カノは兄の仕事のこと、よく知ってます。ただ、兄自身の話をあの時点で兄カノ自身からあえて言うのを避けたんだと勝手に推し量っています。もしくは、これは妄想だけど、わたしと兄が直接話すよう暗に促していたのかも、とも。
でもここで、自分としても気になることが出てきました。先の駄文を読んでくれたあるひとが食い違いを厳しく指摘してくれたことが発端です。
兄は大学を6年かけて卒業したと言った母、一方「兄くん、私より1年早く卒業しんだよ」という兄カノ。これについて兄当本人を目の前にしているわたしは、3年という時差は気にもならなかったんです。まー兄カノは一緒の大学だし、兄カノの言うことが本当なんだろね、くらいで。それよりも、上にある、実は母が兄とずっと連絡取ってたんじゃないかのほうがはるかに気になってたし、この時点の就活は面接にすらすすめてない段階だったので、この居候生活が終わり実家に帰ったら、洗いざらい母に聞けば、くらいの感覚で。だから、ひとに指摘されて始めて時間的な矛盾がぼわーって浮き出るように気になり出したというのが正直なところ。
でも、自分なりに時系列でものごと整理したら、少しだけ見えてくるものがあり。ちょっとした記憶をつなぎ合わせると、母がお金のことをぐちぐち言わなくなったのが、兄カノが言う3年で卒業したというタイミングと、母が言う6年で卒業したという、2つの卒業の間にある3年間にある。昔から母は兄が家を出てから、父の残した借金を嘆いていた。愚痴もすごかった。でもそれがある日止まった。正確なタイミングはどうかわからないけど、この時期なのは確かなんだ。わたしが中学校の卒業旅行として初めて海外に行けたのも当然中学の頃になるし。
具体的なとこだと、兄が支払った姉の結婚費用にしてもそう。姉の結婚式はその空白の3年間の2年目にあたる。一応気を遣って私立の高校を避けようとしたわたしに、私立でもいいよと言われたのももちろん中学。それもまたその3年間に不思議と収まる。
ということは、母はその3年間を兄が留学していたということにして、兄が働いて得たお金をもらったことを隠そうとした?いやでもそんなの、わたしが兄と直接話せば嘘だってすぐわかっちゃうでしょ?いやいや待てよ、だから母はずっと兄の話がでると歯切れが悪い感じがしたのかな?いやいやいや、それは後付けでしょ。勝手なこじつけとセルフッコミをはさみつつ、あとから色んなことがつながって、もしくは自分が勝手につなげて、そうに違いないと思い込んでしまうようになっていくのがわかる。本当は兄から色んなことを話したかったけど、こういう状態なので、もう母に聞くしかないな、というところに自分の中で妥結。
どなたかが書いてくれてたけど、不遇の時期に加担しといて今更居候させてもらうってどういう神経してんだこのクズは、みたいなこと。まったくその通りだと思う、自分のクズっぷりを言われてからぐったりしてしまうとことかもう、かなりいたいと思う。
正直なところを言うと、兄が家出する前から、わたしは兄に対して家族という意識がないんです。これもまたクズだろうけど、ここは事実なのでなんともできない。このあたりで血の繋がりってものが影響するのか、しないのかもわからないけど。母が酔って帰ってきて、勢いで「あのこなんか家族じゃない!」とか叫んでたのも聞いた。とはいっても私にとっては母は唯一の親だったし、なにしろ幼かったので親は神様みたいに見えてるし、母が言うことを真に受けていたのかもしれない。ただ、兄が家を出たときは小5だったし、クズなりにもう少し気を回せたかもな…
「虐げに加担」したことももちろんだけど、過去を理解しないまま成金などと蔑視してしまったこと、過去の出来事に対して好奇心という利己的な理由だけで兄の中で区切りが着いたことをほじくり返してしまったこと、そもそも何も知らずにしれっと住みついて兄カノ・兄の二人の時間を奪ってしまったこと、ちゃんと謝りたい。謝ります。自省の念あって始めて謝る意思を持てたこと、突っ込んでくれた誰かに感謝。
でも、この謝りたいということもまた、自分の願望でしかない。謝らせてと言っても兄は「何を?やめてよそういうの?」とか言いそうだよなー… 突然謝っても、それはそれで過去をほじくり返すことにもなるし。もう謝ることすら許される立場ではないんかもしれないんだろうな。できれば、それを受け入れてくれた後に、ありがとうとか、もろもろ言いたいんだけどな… 置手紙は逃げなのかな… はー、どうしてもっとロジカルにものを考えられないんだろうこのクズは。というか自分をクズ呼ばわりして、なに「自分はダメな子です」ごっこしてんの。いたすぎでしょ。はー。
あーもし、もし自由な発言が許されるのであれば、謝った上で、あなたは素敵な人です、と心からの敬愛を込めて伝えたい。どこまで自分勝手だと思いつつも、完全に掻き消すのはできないなこれ。だって多分、そのまま敬愛ってのに分類できない気持ちがある、あるね、まだ兄と呼べないあの人に対し、はい。惰性とはいえここまでやってこれた人との念願であった東京での内定&同棲、すぐそこまで来てたけど、急にトーンダウンしたのはそういうことなんでしょか。そうは言っても、申し訳なさや同情などからくるその人への気持ちってのは、ただの勘違いなのか。はたまた、学生身分がそれなりにキビシー就活を乗り越えたところに、わかりやすーい成功した社会人みたいなのを見て憧れてしまうという、いわゆるスイーツ的羨望からくるものなのか。なんなんのか、これ。
最低でもわたしは、こういう気持ちが勝手に芽生えてしまった以上、特定の誰かと同棲はおろか付き合い続けられるほど器用じゃない。でも、婚約している元形式的家族に、身分さえわきまえずいけしゃーしゃーと気持ちをぶつけるほど、無謀でも、果敢でも、厚顔無恥でもない。とにかく、自分のありかたを変えずに自分丸ごと正当化しようとせずに、勝手な行動は慎まねば。。。 ここから先は自分で落とし所みたいなのを見つけようと思います。失礼しました。
10年間も疎遠だった血のつながらない兄と最近会ったんですよ。東京に住んでるらしく、就職活動の間、居候させてもらおうかと思って。
父の連れ子で、父が死んでからは母に少し煙たがられていた兄。高校卒業後、母からの手切れ金を持って留学。怪しいバイトしながら6年間かけて卒業し、現地で就職したまでは母経由で聞いていた。正直、こっちとしては兄がいなくなってから母の機嫌が安定したので、よかったくらいに思っていた。
そんなご都合主義の妹が突然登場し、居候の話を切り出せずモジモジしているところに「じゃウチ使いなよ、一応空き部屋あるし、ていうかもっと早く言えばいいのに」と。
その日の内にホテルから荷物を兄の家に移動、道中は終始無言。気まずい。着いた先はこの田舎モンでもわかる、明らかに表参道。なんつーところに住んでるんだと。家には同居人がいた。うん、明らかに外人。流暢な日本語をしゃべる。
兄はその夜、知人の結婚式ということでいなくなった。兄カノと二人、さらに気まずい状況。でもこの兄カノが本当に気さくなお姉さんだった。近くのオシャレなレストランから、気楽な飲み屋に移動。そこでお互いよっぱらって兄について色々話した。兄カノは留学時代に出会ったらしく、来年ゴールインとか。なんであんなに裕福な生活をしているのかもずけずけと聞いてみた。兄カノは、兄が仕事頑張ってることしか知らないらしい。
「でもこうやってちゃんと日本で生活できてるなら、連絡くらい欲しかったな いまのわたしみたいにたかられるのが嫌だったのかな(笑)」
この迂闊な一言に兄カノが「うーん、それは違うと思うなぁ」と。目が完全に笑ってない。ここから衝撃の事実が。実は父が残した借金を完済し、わたしの学費も全部払ったこと。最近では姉の結婚式費用出したこと。ついでに留学前の手切れ金も返したことを聞いた。
一気に酔いがさめましたよ。母のお金を持って国外逃亡した兄と思っていた自分が情けないというか、恥ずかしいというか。そして、事情はあれど、そういう風にお金を受け取っても日々素知らぬ顔で過ごしていた母もどうかと。
兄はこれは絶対に知られたくないことだと、兄カノは言っていた。だから「わたしは何も聞いてない」ということにすることを兄カノと約束した。だから兄には直接感謝するときは来ないのだろう。もう情けなさ過ぎて母親にとやかく言う気もおきない。友達にもこんなDQN家庭の話できない。
こっちはただただ兄カノの肩を涙と鼻水でめちゃくちゃにしただけ。さて、これからどう恩返しすればいいのか。ていうかまず何と呼べばいいのか、今更お兄ちゃんってのもどうかと。