はてなキーワード: モヤモヤとは
なんで自称アセクシャル/アロマンティックの人達って相変わらず、誰も言っていない事に反論したがるの?
誰がそんな事言っているの?
誰がそんな事言っているの?
誰がそんな事言っているの?
モヤモヤも何も、そんな考えを持っている人自体見た事ありません
この世の中において未熟とみられているのはあくまで
寧ろ恋愛感情それ自体は低俗でくだらないものとして見られているでしょうに。
恋愛/性愛感情がないと「未熟」?本当にそうならば『恋愛脳』なんて蔑称は生まれないでしょ
恋愛/性愛感情は友情より上位?本当にそうならば、友情尊い~って創作物がこんなに溢れてないし恋愛ものを見下すような言説が溢れてない
恋愛/性愛感情はいつもセット?本当にそうならば、性風俗やデリヘルなんぞとっくに取り締まられて禁止されていると思うが。
なんでこう、自称アセクシャル/アロマンティックの人達ってこうも被害妄想が強いのか。
アセクシャル/アロマンティックと、単なる喪女喪男とを比較して、前者よりも後者が優位に扱われるなんて事ないだろ。一体何が見えているんだよ
関西弁で書き直したやで。
ワイのこじらせ日記や。読んでみてや。
最近こじらせたきっかけがあって、まずは大学の親友が結婚するって知らされたことや。
そして、飲み会で下心むき出しの男女を見て、なんか気持ち悪くなったんや。
そんな出来事を通して、自分の精神状態や思考方法を言語化してみようと思ってるわけや。
でも、自分が結婚するって言葉は、まだちょっと自分に重いなって感じるわ。
27歳のときやった。
そのことで結構ヤケになってた時期があって、それからは恋人はいないんや。
友達が結婚するのはめでたいことやけど、自分のことを否定的に考えてしまうこともある。
そこらへんがちょっとつらいな。
でも、社会に出てからの差が大きい。そこでまたモヤモヤするんや。
飲み会の話もあるで。
男全体の動きでみると、女性ブイチューバーに女だという理由で貢いでおいて、しかし同時に、男女不平等な男の生きづらさに嘆く、ってことか。確かにモヤモヤするね・・・。
「女子スポーツは女子ってだけで観てもらえてズルい」って意見にもモヤモヤしてた。
スポーツの良さではなくプレイヤーが女性であることを評価するのは、下心だ。
そうした蔑視的な歪みのおかげで女性が生きやすくなり、表層的には男性の生きづらさが低く傾いて見える。
だけどそれは男の生きづらさではないよね?
言いたい事は分かる気がする。
それ「女の生きやすさ」では?
女性だからという理由で鼻の下を伸ばしてスパチャする男性たちの下心が、本能として備わってるのが原因でしょう。
だったら、男のせいで女が生きやすいってことじゃん。
男の本能のおかげで相対的に男が生きづらい、って、それ、「男の生きづらさ」ではなくね?
スポーツの良さではなくプレイヤーが女性であることを評価するのは、下心だ。
そうした蔑視的な歪みのおかげで女性が生きやすくなり、表層的には男性の生きづらさが低く傾いて見える。
だけどそれは男の生きづらさではないよね?
子供のこととか子供の交友関係のこととか、なんでもあけすけに書く人いるじゃん
赤ちゃんの夜泣きしんどいイヤイヤ期しんどいみたいな愚痴とか、育児に関わる何かのコツとか手続きの注意事項みたいな情報交換とか、そういうのはまあ分かるんだけど
そうじゃなくて子供の言動(失敗とか吹聴されたら恥ずかしいかもしれないことも含めて)とか容姿とか友達のこととか、そういう子供のプライベートのことを書く人いるじゃん
あれ見てるとさ、自分が子供の時に親が親戚との電話とか近所の人とのお喋りとかで自分のことをペラペラ言いふらされてる時のあの嫌な感じを思い出すんだよね
自分のことなのになんでこんな好き勝手に話の種にされてるんだろうってモヤモヤしたよね
自分が子供の時は電話とかその場の雑談だったけど、今なんてネットに書き込まれるし、ひどい親だと写真も晒される
恐ろしい時代だよ
自分の気質もだし、人との関わり方も何もかもよくわからなくなってきてしまった。
自分に対して、人と関わることや、その先の恋愛関係も向いていないのかなって思う出来事があった。
その原因の根本的なものは考えてみると、自分の気質からくる自己肯定感の低さみたいなものが来るのかなって。
おそらくは、自分自身ADHDみたいな感じなんだろうが、診断がついているわけでもないので気質と呼ぶことにしたい。
自分自身の行動から多動が出てしまっているなと感じたり、集中が全然違う方向にいっているなってことはしばしばある気がする。
これまでの人生の中でも、集中が違う方向にいってしまっていて、トンチンカンなことを言ってしまったり落ち着きのなさから”変な人”として扱われて関わりを避けられていると思うこともしばしばあった。
高校生から大学生くらいにかけて、少しは常人に擬態しようという努力をしたつもりだった。
特に不用意発言をできるだけ控えるように心がけていたような気がする。
発達障害の処世術として目にしたものが自分の中で少しだけしっくりきているような気もする。
https://anond.hatelabo.jp/20151101094059
ここで言うところの「沈黙は金以上なり」ということ。
これでは、人と深い関係になるなんてことは無理なのかな、本当に最近になって気がついた。
これまでは、「無難であること」を使って「人に受け入れてもらう」ように生きてきた気がする。
この手の話の中でそれでも受け入れてくれている人がいる、という話をされることがある。
でも、その具体例の話の当事者はみんな女性であることにモヤモヤする部分がある。
男だとか女だとかってことを考えたくはないんだけど、人との関係の中で男性としての振る舞いが求められている中では、誰かが自分のことを受け入れてくれることなんてないのかな、と思ってしまう。
ここ数日自分の中でもがきながらいろんなことを考えたつもりになっているのだけれども、堂々回りになってしまって何もわからなくなってしまった。
結局最初の「人並みの幸せは諦める」を実践できていないからなのかなと思わないでもない。
人並みの幸せってなんだっけ。
岡崎律子を知ってる人は多くないとは思うけど毎年この時期になると思い出してしまう。
そのうちどこかの記事にまとめるかもしれないけどそうなっても許して欲しい。
2004年3月17日に彼女がリーダーをしていたメロキュアのベストアルバム『目処ディアスハードキュア』が発売された。
彼女の作る楽曲、歌声は俺の荒みきった心にスーッと染み渡る即効性があった。
本当に生活や世の中への不安を共感してもらえたような気持ちになれた。
CDが発売されてかしばらくしてストアイベントをやるとの告知が出た。
たしか突然だったと思うけど当時飛ぶ鳥を落とす勢いで調子にのっていた俺は
「こういうのは発売前に告知しろ!コロムビアは常識が無いのか!?」
「もうアルバム買っちゃったしどうすればいんだ!」
などと思ったのかもしれない。
渋谷のHMVでのイベントはアニソンには似つかわしくない場所だよなと感じたのは覚えている。
そもそも当時44歳の彼女は表に出てくることはほとんど無いのだ。
俺は勇気を振り絞ってヤングの街渋谷の領域に行く決心を固めた。
今にして思えばこれは虫の知らせだったのかもしれない。
イベント当日の2004年4月6日渋谷に場違いな俺、いや、俺達は100人くらいだったと思う。
HMVのCD売り場にちょこっと作られたイベントスペースに集合させられた。
表現は悪いかもしれないが、ソーセージの試食や半額弁当に群がるハイエナの如き様相だった。
ハイエナ共を囲った鎖の外には望月久代も来ているのも確認できた。
明らかに業界人じゃないし通りすがりの一般人でもない普通の人が何人か認められた。
この時受けた感銘は一生忘れることはない、し、この気持に異論を唱える人は誰ひとりいないと思う。
彼女は『ふたりのせかい』では振り付けまで披露してノリノリだった(この振り付けはこの楽曲を耳にするとついやってしまうくらいお気に入り)。
MCでは(別に嫌というわけじゃなかったけど)はしゃぐ彼女と、イメージとの違いに若干の違和感はありました。
相方の日向めぐみも「リーダーはしゃぎすぎだからもっとおさえて!」と訝しげにしていた。
握手会でも彼女は丁寧にコミュニケーションをとっており、日向の流れ作業とは本当に対象的だった。
ものすごい牛歩だったけど、そろそろそのくらいで!とか声を荒げるスタッフはいなかったのも印象的だったな、やるじゃんコロムビア。
そしてそれは突然訪れた。
イベントから1ヶ月後の2004年5月12日に彼女の訃報が読売新聞に掲載された。
俺達は知るすべは無かったかが2004年6月6日の読売新聞の追悼渉によると1年ほどの闘病生活だったそうだ。
2003年の5月に胃ガンと診断され翌月から入院、病室にキーボードを持ち込みでクリエイティブ作業を継続。
(ちなみにこの記事に掲載された彼女の写真は2004年の3月に撮影されたものであった…)。
日向めぐみ、望月久代の「なんて目をするんだ…」という様相は俺達に向けられた侮蔑の眼差しではなかった。
場違いな普通の人たちはケアマネさんかもしかしたら医療関係者だったのかもしれない。
このような状況下で『メロディアス・ハードキュア』は造られ俺達に届けられたのだ。
突然のイベント告知は彼女の体調次第、おそらくは彼女がわがままを押し通したのだろう。
正確なところを知るすべは無い…しかし俺は感じ取ることは出来たのだ…
どういう感じに決めてるんだろう。
完全折半?収入の割合で共通の口座に収める感じ?それともお互い収入関係なしに支出を7:3とか6:4とか割合で負担する?
・追記
これから共同生活を始めようってなっているけど、相手から提示された生活費分担が収支割合的に見たら自分のほうが重めに設定されていたからどうしたものか悩んでいた。
提示通りの金額だと一人暮らしの場合の想定と比べて自分の手元に残るお金は半分以下になるし、相手は自分の収入が少ないことに不満がある様子も見せているから別れたほうがいいかなとも思っている。
思い出したんだけど増田の日記で結構前に「~された」と書いたら罵しられたことがある。
「〜された」は被害を受けたというニュアンスがある、のように言ってた。
今で言う、「着替えを見られた」 = 「覗かれた」 の立場だね。
だけど私は、「〜された」は「 〜した」の受動態であって、視点が違うだけで加害・被害の意味は含まれない、と反論した。
議論はいつものように平行線の水掛け論になって空中分解したんだけど。
私、個人としては納得いってないし、思い出したいま、モヤモヤしてる。
ホワイトデーにお返しのクッキーを送られた、って書いたら激昂して怒り出すんですかね。
マル警察みたい。
日本語に辞書にも教科書にもない独自の意味を付け足して、コミュニケーションのハードルを上げるのは迷惑だからやめてほしいわ。外国人も来づらくなっちゃうよ。