はてなキーワード: いじめられっ子とは
十年くらい働いて核心的に表題のように思うようになった。
共働きの親はなしくずし的に子供を放っておくことができるようになるから
子供もたくましくなるし自分を守ってくれる存在(教師、上級生、ボス)とうまくやるスキルが高い。
一方で、過保護な親に育てられた子はこうは行かない。小さい頃に集団での生き残りかたを心得られてないから、何かあると泣いて助けを求めて結果「泣き虫、弱虫」のレッテルを貼られて六年間を過ごしてしまう。
今のお母さんがたで、特に子供を幼稚園に通わせることができる方=専業主婦は「子育ての為にキャリアを捨てたんだから子供には成長してもらわないと!」という考え方があるんだろうね。
もう、本当に過保護。
高学年になっても子供が膝を擦りむいた理由を教師に電話で問い詰めるし(別に聞かれても困らないが子供に直接聞けとおもうのだ)
食事も手をこんだものを食わせ過ぎてるのか太い子が多い。(ビスケットだのケーキだの毎日作っているようなお家は特に…ね)
ただ、一方で成績は良かったりピアノをはじめとする一芸にはひいでたりするから
最初の教え子たちは幼稚園卒の方が学歴は良かった。就職はあんまり変わらんかったけど。
まぁ正直少ないサンプルだから断定的なことは聞けない。
だからこそ聞きたいみなさんのまわりではどう?
被害者が自分で自分を責める、或いは被害者なのに被害者の方が責められる、ってのが定番の世の中で
「被害者は加害者を許す必要はない、被害者が加害者に対する憎しみを持つ事を肯定する事が被害者救済への第一歩となる」
黒人差別でも言われてる事だし、毒親関連でも「親を許さなくて良い」ってのは基本。
いじめでも「大人になってからいじめっ子がいじめられっ子に謝罪したけどいじめられっ子は許しはしませんでした」な2ch創作が
まとめサイトで大うけする程度には、それが共感されているわけでさ。
増田から端を発する弱者男性側の主張が、数多くのツッコミを経た後、某キリンさんのエントリに至って
「ぼくたちの女災社会論(フェミ=権利を主張する女だけに矛先を限定した偏見や糾弾、バックラッシュが延々。が、何一つ筆者自身の具体的な“自分ごと”が示されない机上の空論)」
↓
「ぼくたちは男性優位社会からとにかく何も恩恵は受けてない! 無辜の被害者だ! イジメないでくれ! ほっといてくれ! それだけの話だ!」
と急激にイノセントな響きに様変わりしてて新鮮な驚きを覚えてる。
「それだけの話しだ!」というならそれこそ
【なら、何で苦しみの原因である男社会や男性優位システムを回す強者男性には頑として無視を決め込み不満を言わず、女性だけを選んで八つ当たりするの?】
というだけの話だし、彼らの主張する【何もしなかったから無罪】論こそが女性の拒絶と無関心を物語るものでしかないのではと。
昔から現在進行形で、女性役割に苦しみ人間としての関係性を求めてきた女性達を横目で眺めても「自分は男であんたは女だから」関係ない。知らぬ存ぜぬ。
人間同士の関係性は男同士だけで結構、性の対象として、あるいは藁人形役の幻想として以外の女は徹底排除します。だって女は怖い、理解も協調もしたくない。「自分は男で他のみんなも男でここは男社会だから」それで許される。
いわれなき被害者を気取るその全てが「女を同じ人間だということ」を頭から排除してきた証左だし、そういう社会の中では「女の階級に落ちずに済んでいること」自体が多大な恩恵になる。
無意識であれ男性優位主義者達の女性支配に同化することで、幻想であれ多大な優越感と安心感を得られるシステムの中にいたのだ。
そして、フェミニストが批判するのはそのシステムであって、男性そのものではない。元々「同じ人間として」協調できる存在なのだ……というのは何百ぺん繰り返された説明だが、おそらく「弱者男性」を自認する人達は何故か聞いても認識を拒んでいたのだろうと思う。
もし「弱者男性」の苦しみが今あるのだとしたら、イジメっ子側の差別にずっと無批判で安全圏から見て見ぬふりの傍観者ながらいじめられっ子側の人達のヒエラルキーに落ちないよう何だかんだで被害者達を拒絶してきたツケを支払う時がきたという話だけど、
フェミニスト(女性のみ)に「気がつけばイジメっ子の使い走りになっていた。その気はないのにあなた達を殴ってしまう。でも、リターンはない(そんな事はない点は上述)。これで加害者扱いされるのは人権侵害だ。あなた達がイジメからの脱却を望むならあなた達にぼくたちを救済する責任がある!」という言い分は
ツケを踏み倒すどころかよりによって現在進行形で殴られてるいじめられっ子側に支払わせようとしてるのと同じではないか。どこのヤクザ世界にもこんな理不尽な恐喝はない。
「傲慢」とか「盗人猛々しい」とか通り越して、殴られた側はもちろんイジメ主犯格の強者男性層にまで同情してしまうレベル。
結局、どんな形であれ「男」として「女」の優位に立ちたいし、人間として見るつもりはさらさらないと宣言しているのと同じだ。
この部分だけなら、確かに考慮に値するかもしれない。社会の頂点にイジメっ子が君臨するなら、いきなりの状況打開は難しいかも知れないが、同じ弱者達と結託して原因となるシステムを標的と見定める事で抵抗の余地が見えてくるかもしれない。
現に「ネット上に蔓延る『男性差別』というワードは基本的に醜悪なバックラッシュだが、男性多数がこんな風にしか発想できなくなるようなまともな教育やシステムが機能しない事こそ本当の『男性差別』ではないか」と考えている男性を知っている。
彼は決して社会の強者ではないのかも知れないが、要は誰かに与えられたシステムと価値観から精神的に距離を置いて無意識から脱する事が肝心で、それなら現状のしがらみに関係なく誰でもできる。
それこそが唯一、ツケを精算して余りある【みんなの利益】に繋がるものだと思う。
でも、その後の行動と論理
【ぼくたちにそのつもりは無いけどあなたを殴ってしまうんです!あなた方にはそんなぼくたちの被害を察してケアする責任があります!と自身が殴った側に迫って、自身が払うべきツケまで相手に押し付ける】
だいいち「救済」って具体的に何だ?
弱者男性に決して加害者意識を与えないため一切自己主張せず、全肯定して黙って養い、男としての優位を永劫供給し続ける有能奴隷になれとでもいうのか。
結構、自分の気持ちを整理することとか、話して見ることって、私のようなコミュ障には、大変だな。
自分の気持ちを上手く話せない、
子供の頃や中学でもケンカしたこともあるけど、なんだろうな。中途半端だったな。
以下ループ。
みたいなさ。
キョロ充っていうのか、表面上は、物わかりのいいフリや優等生的な答えをしないと、嫌われるんだと考えていた。
自分の場合は、もっと悩んで悩んで、社会人経験が10年以上経ってから、やっと子供の時代に経験するべきような反抗期がきた感じだ。
寝られない日々が続いた。
心療内科に行ったが、上手く自分の納得できないモヤモヤを話せなかった。
やりたくても、なんかしてこなかったことや出来なかったことをやってみた。
というか、悪びれた行動をした。
髪の毛を茶髪にしてみたり。ヒゲを生やしてみるとか。シルバーのアクセサリーをつけてみたり。
さいわい、おしゃれに目覚めたぐらいで、済んでるのかもしれないが。
産業医の先生に『大丈夫、大丈夫。。それも良い経験だよー』みたいに、笑い飛ばされたり、した。
そういうもんかな、と思いながら、納得が出来ない部分もありながら、しばらくは、我慢していた。
その後で、心理的なカウンセリングを受けても、臨床心理士の人に対して、この優しい人からも嫌われないように「いい大人でいよう」なんて思って正直な気持ちを話せなかった。
少しづつ、心を開いても、いいんだって感じれるように、なりつつある。
いわゆる『こだわり』が強い人間なんだと、納得がいきはじめた。
アイコンタクトとかボディータッチされると、にやけたいのを、我慢しちゃっていた。
目を合わせて、笑顔で挨拶すること、3回以上も続けることは、出来なかったな。
なんか、緊張しちゃう。
今まで、色んな人との間に、誤解があったんだな、と最近になって、10年以上も前のわだかまりを思い出した。
涙が、にじんできた。
職場でも、我慢するだけでなくて、適切な方法で不満を表明するのは、さほど、問題にはならない。
自分の感じ方が、おかしいのかと思って、ますます、自分を嫌っていたというか、厳しく見ていたなぁ。
小学校の頃の記憶では某宗教の中にも委員長をやる子もいればいじめっ子いじめられっ子もいるって感じでぶっちゃけ一般社会と変わらなかった。
なんでこんなに嫌われるんだろうと思ってたがトップを調べると確かに怪しいわ…。
親にはなぜあんな胡散臭いトップがいる宗教を信じていられるのか聞いてみたい。今まで聞かなかったけど一番の疑問。聞いたら泥沼になるのか、言わずに抜けてしまった方がいいのか。
元からしつこく言われてないから穏便に抜けられると思ってるんだけどな。というか個人の信教について邪魔をされるいわれはないと思ってる。甘いかなあ。。
question:http://anond.hatelabo.jp/20150110214339
宗教を信じる人(イスラム教徒ぽい)が信じない人(non-believer) によって書かれたものを見て、傷つきショックを受けている様子。その横には宗教を信じない人が信じる人によって短剣で殺されている図。
確かに、イスラム教、キリスト教を煽るような鋭い風刺画が数多く書かれたかもしれない。それが嘘ではなく本当のことだからこそ、多くの人が反応し、論争を巻き起こし、それがメディアとしての立場であったのだと思う。それに対して暴力で抵抗するという行為が短絡的で幼く、卑怯で、どんな理由があったにせよ許さざる行為であることは誰の目にも明らかであるはずだ。だからこそ、多くの人が"Je suis charlie”を掲げているわけで、私もここにいる、意見をもったその一人だ、という意味だと思う。をれを卑怯な行為として責めるという人がいることに驚いた。
追記:言いたいことはこの方 http://blogos.com/article/103027/ が的確に言い表しておられますので追記しました。
この種の事件が起きると、被害者の落ち度を指摘する声が上がる。テロは許されないが、被害者も悪い、というわけである。テロが現実に行われているこのタイミングで、被害者側のアラを指摘するということの意味は、どんなにテロはゆるされないとの前提を置いたとしても、結局テロにも一分の理があるといっていることになるのだ。そう、ちょうど性犯罪被害にあった女性に、挑発的な服装だと非難するようなもので、その指摘が真実にかなっていたとしても、その効果は犯罪行為の許容をもたらす。表現行為の当否をめぐる議論は、また別のタイミングで、暴力にさらされていないところでのんびりやってもらいたいものである。
Charlie Hebdoを
非常に極端な新聞社
そんな中で自らの居場所であるイスラム教をバカにするような、それもヘイトスピーチ同然な言論を行うことが、どれほど彼・彼女たちにとっては辛いことか
といじめられっ子に仕立て上げる、ここが論点の間違いです。だから"Je suis charlie”は適切でない、という理論は結局成り立たないばかりか、テロにも一分の理があるといっていることになると思います。
追記:http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0 フランスの新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について
に詳しく書いてあるように、Charlie Hebdoは
シャルリー・エブドの風刺については、何もイスラム教だけに限ったことではなく、イスラム教、というよりもイスラム原理主義など、行き過ぎてしまったものに対する風刺を中心としていたようだ。「表現の自由」というフランスのプレス、フランスの文学、哲学の根幹とも言えるようなものを代表し、具現しつづけていた新聞社だった。彼の風刺画はあくまでもユーモアであり、誰かを傷つけようという意図ではなく、「ちょっとこういうのって行き過ぎ難じゃないの?」という状況を風刺画で描いていた、ということだ。
わけで決してイスラムに対するヘイトスピーチではなかったということは非常に大切な事実であると思う。
追記:根本的にテロ容認論ではないと言っていながら"Je suis Charlie”を掲げることは卑怯な行為というのがどうも矛盾しているとしか思えない、いま、この時期に多くの人が"Je suis charlie”を掲げること=”テロ容認できない”からである。”Je suis Charlie"は、私はイスラム教徒をヘイトします、というような意味ではないと思います。
追記:id:angmar ジャイアン=Charlie Hebdo のび太=イスラム教徒とする理由がわからない。どちらかというと逆だと思う過激で暴力的で人の意見に耳を貸さないジャイアン=過激派イスラム教徒に対して、コツコツとジャイアンを風刺(非難嘲笑含む)してきたのび太=Charlie Hebdoがジャイアンに殴り殺されたという風にも言えると思う。クラスのみんな=フランスはいろんな意見があって、ジャイアンが悪いという人もいれば、でもジャイアンはジャイアンなりの生き方があるだろうと寛容しているひともいる、ジャイアンが怖いし敢えて面と向かって非難することはなかったし、のび太もちょっとやりすぎじゃないって思う人もいたんだけど、この機会に誰もがジャイアン、いくらなんでも人を殺すのはよくない、となっているんではないんですか。
追記:id:kantei3 私はこの時点で"Je suis charlie”を掲げること=”テロ容認できない”ということだと思うので、"Je suis charlie”は卑怯ではないと思います。イスラムなんとかが主要メディアを買い取って、それ方向の出版ばかりやったらそれは非難されるべきことだと思います。Je suis charlieは、繰り返しますが、私はレイシストです、私はイスラム教徒をヘイトします、というような意味ではないと思います。