はてなキーワード: 文章表現とは
【まんしゅうきつこと青二才】
ウェブをずっと見てきてわかったことは、「才能は育たない」というものです。
表現技法を磨くことはできます。しかし、面白くない人が、才能を育てていって面白くなるという例は皆無です。
例えば、まんしゅうきつこさん。彼女は一時期、漫画家のアシスタントをしていましたが、結婚して筆は折っていました。何がきっかけかはわかりませんが、あるとき、ブログを書き始めたら、これがウケた。
では、彼女がブログをやる以前はつまらない人間だったのかというと、そうではありません。
彼女はずっと面白い人間で、ただ発信をしていなかっただけです。
このようにウェブでは面白い人間がブログを書き始めて話題になる、というパターンでしか新たなクリエイター、ブロガーは出てきません。
あるいはたまたま見られていなくて、はてブなどで発掘されるパターン。
これの特徴は読者が少なかった過去記事も十分に面白くて、本当に「たまたま見られていなかった」というもの。
ぼくが「才能は育たない」と確信するきっかけとなった存在が、青二才さんです。
彼は何年もブログをやっています。文章表現にこだわっていて、それを磨こうとする意思も感じられます。こつこつとネタを探していて、情報収集をする努力もできます。何より、数年単位で一つのブログを更新できるだけでも、すごいことでしょう。
彼のブログが話題になるときはいつだって「半可通が偉そうに語ってらぁ」とはてブで突っ込まれるというものです。
数年単位でやっていても、面白くなっていかないのです。努力を何年続けても、「面白さ」というコアの部分は磨かれない。これはもう、何をやっても育たないということです。
青二才さんが何年もブログをやった結果、「才能は育たない」ということが証明されてしまいました。
彼にはずっと期待してたりもします。彼が面白い記事を連発するようになったら、ぼくの結論は覆って、「才能は努力によって育つ」と言えるのですから。
それは多くの人にとって希望となるはずです。
例えば、今まで映像をやってこなかった人が動画を撮ってみたら、意外なほどの映像センスが発揮された、ということはあると思います。
だけど、文章を書こう、面白いものを作ろう、とやってみて、出来なかった人は一生出来ないのだと思います。残酷ですが、20年近くウェブを見てきた人間の結論です。
まずはこの文章を見てほしい。
一体、禁酒禁煙とゆーことわ出来るが、節酒節煙わ出来ないと同じで漢字の節減わどーも六かしい。これで、従来の障害お、一洗しよーとゆーことわ、国語教育百年の大計でない。単に過渡時代における一時の方便に過ぎないものである。真に国語教育百年の大計おおもーなら、漢字わ全く廃止して、しまわなければなりません。
これは可愛い現代JC(可愛い)がスマホで国語改革案を書いたものではない。明治時代、文章表現の模索の中で生まれた棒引きかなづかいだ。最終的には採用されなかったけれど、「正しい」表記として文部省の教科書表記原案として提出されたものだ。
何が言いたいかっつーと、文章表記の「正しさ」ってのはゆらぐということだ。もしも引用されたような表記が採択されていたら。私たちは現在の若者的表現「あたしゎ」とかを比較的馬鹿にしていなかっただろう。句点読点の打ち方、てにをは、語尾…これらは数々の小説家や教育者、行政の議論の上で整備され模索され現在に至っている。
昨今の日本語表記に関する増田とかの投稿を見ていると、こうした文章表記の相対性に余りに無頓着でないかと思う。瑣末な「正しさ」に執心し、「これはこう!」みたいなのが多すぎる。もっと、書き手の負担の減らし方(上記の棒引きかなづかいはいわゆる文語表記の負担軽減から生まれた)や、相手への伝わりやすさ・読みやすさという大局的な視点・理由づけからの文章があってもいいと思う。もちろんそうしたなかで語られる「正しさ」も相対的なもので時代の変遷に合わせて変わっていくものだろう。
およそ文章表記の変革期と言うのは、出版事情の革新期と期を一にする。インターネットで気軽に誰でも文章が書けて多くの人の目にとまる時代。新しい文章作法が語られるのが(実は結構出てきていると思う)楽しみでならない。
まるでどこぞの短編小説スレから抜き取ったかのような充実した内容、語彙力に加えて文章表現の豊かな事。
まるで今育児板とかカップル板とかに投稿されてる釣り目的アフィ目的のSSみたいだ。
今やなんJだけじゃなくてここ増田すらもまとめブログ(通称アフィカス)の転載用SSで埋め尽くされてる。
稚拙な文章のホッテントリがあれば、これこそが真実であり、増田発のエントリである事を知らない人が多い。
どうしようもない事にこういったエントリは中々ホッテントリ入りしない。
完成度が異様に高いSSばかりが組織的にブクマ数が増やされる。
ここは初めて書くんだという割に文体に気を付けているわ、改行が巧かったり、ブコメやトラバには即座反応したり(追記入れたり)、
怪しいんだけど、多分2ちゃんねるの住人同様気にも留めてない増田も多いのではないかしら。
食べログですら業者が書き込みを行う時代で、ましてや匿名ダイアリーと銘打ってる以上ステマやアフィがやりたい放題なわけだから、
本人的には会話できてるつもりなんだよ。
でも、文章表現力に難があって、自分の頭の中を整理して吐き出せないから、
後から新事実を持ち出して「俺が正しい」とか言い出しちゃうんだよ。
新事実に根拠がないのも、自説を整理できてないから根拠が頭の中に残ったままってだけ。
自分の頭の中では理屈が完成してるから、否定されるときれるんだよね。
聞いてる方としては、前提条件が足らない状態で判断させられてるから、本人の意図に沿った返事ができないし、
結局、前提条件の吟味がもれてるから、否定するまでも無く足元から崩れちゃうんだよね。
いるんだよねーそういうの。
どうしたらいいかなー。いきなり切るのも忍びない。
日本史学専攻の私に言わせれば、旧かな遣いクラスタの文章表現はだいたいダメ。
単純に漢字を正字に改めたり、昔風の表現にしたり、「ゐ」とかを使っていれば昔の日本語表現になるかと言えばそうではない。
江戸~明治、大正、昭和戦前期と旧かな遣いも段々と変化しているし多分地域的な部分でも違いがある。
新聞の表現、小説の表現、その他公文書の表現など色々あるだろう。
他に中世公家の日記に特徴的な日本漢文とか、本当の漢文と似て非なる文章表現(だからこそ本当に日本的なのだが)とかもあるけど
これらの妙をどこまで感じとれているか。
旧かな遣いクラスタはここんところ全然ダメで、自分のバーチャルな過去への憧憬のみを担保として文章を書いている。
ほとんどの旧かな遣いクラスタがそうだ。いわば言語オナニーだ。
特定の時代の文章表現に通暁して、当意即妙にそれを21世紀の現代に活用できる人間は本当に一握りだ。
しっかり勉強して書かないと、それを少しでも勉強した人から見たら「変な文章書いてるなプゲラ」と思われてしまいますよ、という話だ。
http://anond.hatelabo.jp/20140319082652
学部のレポートや学生実験レベルであれば、東大にもコピペ文化はあった。「コピペされることを前提に手書きでレポートを提出させる」なんていう話があったが、東大でもこれを言っている教員はいた。
もちろん、文字通りコピペというのは単位がもらえないという意識があったし、実際そうした処分を受けた人学生もいた。だから、文章表現を変えて、文の順番を入れ替えるくらいはしたけれど、それすら全員がしていたかは疑問。というのも、そもそも東大には「単位なんて適当で良いよね。きちんと研究してなんぼでしょ」という雰囲気があり、学生も教員もレポートとかあまり重視していなかったところがあったから。全員とは言わないが少なくとも1/3くらいの教員はそうみなされていた。小保方さん並のコピペをして見逃されていた学生もそれなりにいたのではないかと予想している。
ただ、外部に出すような論文や、学位論文レベルになると、話は別で、そこで他人の論文を丸々コピペというのは感覚としてありえない。なので、早稲田大学の学生実験や学部レポートで「コピペが当たり前だったよね」的な話があったからと言って、それをただちに研究のレベルと結びつけるのはちょっと違うのではないかと思う。前者は多少の温度差は別にして、どの大学でもあると思うし、後者は理解不能。
早稲田大学の特定の研究室で、学位論文での剽窃が蔓延していたのなら、
1. それらの研究室に限ったことと考える
2. 早稲田大学に固有の問題だと考える
3 どの大学にもあるのだと考える
3つの可能性があるわけで、1や3の可能性をすっ飛ばして2だけを考えるのはおかしいだろう。
いずれにせよ、大部分の研究者からは理解不能な行為なので、実際にどうかは分からないけれど、今ある情報から、3ではなく2の方がありそうだと考える根拠はなく、そのように思えるのは確証バイアスの一種だと考える方が今のところ蓋然性が高そうに思える。
http://anond.hatelabo.jp/20140228224140
姉の症状、或いは、障害に対する認識が甘いのか、「~かなんかの」という言い草である。
専門的知識がない故の類推的表現であると受け取ることもできるが、「~かなにか」と比べて放り出すような言い方である。
「なにか」に比べ「なんか」には、望ましくないもの、価値が低いものという意味合いを持つ。
(例:お前なんかどうでもいい)
見下した、見放した態度で姉に対する親愛の情の欠如がうかがえる。
それは次の一文でも明白である。
> なんで私の姉はこれなんだ。
こう、という状態を指してはいない。これ、という物扱いである。
人として扱っていない。人として尊重していない。
それが、続く文章の子どもに対する強い愛情と感動に対し、強烈なネガティブコントラストを成している。
こういう姉に対する差別(侮蔑に近い)が読み手の嫌悪感を刺激している。
さらに増田に対して非難的な意見がつくのは、守られたい、愛されたいという自愛的要求のみを書き、
実際には行っていたのか分からないが、権利のみを主張する自己中心的な者特有の「鼻につく態度」のようなものばかりが感じられるからだ。
その人物像は端的に言うと「嫌な奴」である。
こういう嫌な奴の子どもが、そんなに優しくいい子に育つという不可解さもまた、非難を助長しているだろう。
むろん、そういう一面だけが見えて、増田の良い部分が見えていないだけかもしれないが、文章からは以上の印象が全てである。
「支え合わなければいけないものなのか」というコメが散見されるが、ここでは義務ではなく「臭気」の話をした。
自愛傾向の強さに対して愛他傾向の(文章表現の)薄さが一種の臭気となり、不快感を刺激しているのだろうという、
あくまでも「何が悪いのか分からん」層に対して、こういう言葉の取り様によるものだろうという推測を述べた。
元増田も「想像以上の愛おしさだった」と愛情を傾けている様子は伺えるのだが、
それは転句の一文に過ぎず、話題の切り替えとしての弱い表現で終わってしまっている。
人間誰しも主観の中で生き、苦労し、些細な何かに救われたりする。
増田はその救いを書いた。
しかし、その「主観」は丁寧に扱わなければ、「他者の主観」からは歪みにしか見えなかったりする。
(いや、丁寧に扱ったところで歪みにしか見えない場合もあるだろう。主観とはそのようなものだ。)
俺なんかに落とされた人、ご愁傷様と言いたいところだけど、
駄作が残ることはあっても、傑作が落とされることはないって言葉は本当なんだと実感したよ。
その上で感想。
勘弁してくれってパターンをいくつか。
小説の書き方とか応募の仕方なんてサイトに載ってることばっかりだけど。
1.応募規定を読んでいない
問題外。
場合によっては最初からそういうのは下読みにも回されないらしい。
必要なものが揃ってないのは、テストで名前書いてなかったら0点というのと同じ。
逆にプラスアルファされてても、それは規定にない「余計なもの」であって加点対象じゃない。(ぶっちゃけただのゴミ)
設定帳(イメージ画)付属、というのは、登場人物のイメージや世界観などの設定を本編で読者に理解してもらえない、勝負できない作品である証拠、としか見られない。
大抵、物語開始直後から設定説明の地の文が延々入ったりして読む気がしないパターンとセット。
(設定帳やイメージ画がなくてそのパターンのものも珍しくないけど、特に興味のないWikipediaの項目を読まされてるようで苦痛)
誤字脱字とか、てにをはの明らかなミス(修正し損ね)程度はスルー。
そういうのを除外しても本当に多い。
なんで推敲しないんだろう。
応募前に誰かに読んでもらったりしていれば、少しは違うはずなのに。
特に、知らないとか間違っているというものは問題外として、わざとやってるらしい人。
独特の文体、と思ってるのかもしれないけど、文章作法守ってないのは単に知らないだけの人と同類にしか見られないからね。
作者の特徴ではなくただの邪気眼、失笑されるだけと思っておいてOK。
3.文体その1(人称、物真似)
2.と合わせ、「お前、逃げで一人称にしてるだけだろう」ってものが多い。多分間違ってないと思う。
影響を受ける作品はあるだろうし、今時の流行のスタイルを狙ってというのもあるだろう。
でも、異様なまでの似非キョンと似非西尾維新率の高さを見ると、お前ら単に自分のスタイルが出来上がってないだけなんじゃないか、と感じてしまう。
何でも最初は人の真似から入るものではあるけども、それって習作って言うんじゃ?
こっちは~真似てる、こっちは~真似てる、とか。
っていうかさ、三人称で書けないだけだろお前ら。
それから、逆にスレイヤーズのスタイル(テキスト弄り系)を未だに踏襲してる人。
最近出版されているものの中にも、あのスタイルの作品は確かにあるけど、新人賞ではもうありえないってよ。
確かに初見の若年層にはインパクトあるだろうし、テクニックと言い切られてしまえばそれまでではあるんだけど。
スレイヤーズ第一巻(古いほう。新装版は知らない)の編集者コメントだったかなんだかのページでも「やったもの勝ち。このスタイルのものが賞をとることは今後ありえない」と明言されてるのを俺も見たこと覚えがある。
(少なくとも富士見の場合はってことだし、十何年も前の話であることを差し引いても、今は応募作品のスタイルとしてありえない)
4.文体その2(独り善がり)
俺の担当になった応募作品の中にはなかったけど、当たった人から聞いた話。
文章表現に悪い意味で拘ってる(ブンガクしたい)らしい人が時々いる。
単体の文の言い回しに拘り過ぎて、個々の文の見てくれはいいけど、読みづらいだけであることが殆ど。(似非西尾維新もこれに当て嵌まるのかも)
カッコイイと思う文章、芸術性を見出そうとするのはいいけれど、エンターテイメント性を損なってたら本末転倒。
ちゃんとした文章だから一次はまず間違いなく、二次も大方通るだろうけど、三次であっさり蹴られる。
要は文章にしか目が行ってなくて、内容(ストーリー、テンポなど)がつまらないわけだから、他に持って行っても結果は同じ。
自分の文章のほうがうまいのに、何故あいつが受賞するんだ、と言っている高尚厨が必ずいるが大抵このパターン。
大抵同じタイプの人間で群れて他者の文章を貶し、互いのセンテンスを褒めあっている。