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はてなキーワード: 文章表現とは

2015-08-04

比喩表現理解しない輩

比喩表現を全く理解できない層が生まれてきて怖い。

「まるでトマトのような○○」って書いたら、「トマトじゃないだろwwww」って煽られる。

一見、ごく普通の車に見えるが」って書いたら、「普通の車じゃねえしwww 文盲www」って煽られる。

音楽にこだわる飲食店看板に「音楽を食べるお店です」って書いたら、「音楽は食べられねえしwww」って煽られる。

これなんなの?

比喩一切解さない教なの?

ネタで言ってるのかと思ったけど、本当に理解できてないようなんだよね。

ここ数年、文章表現が本当に難しくなってる。

2015-06-02

http://anond.hatelabo.jp/20150601221647

文章表現でなく、日常での話だっていうなら

「そうですね…」→「貴様意見は求めておらん、ハイと云へ」

「どうすればいいのでしょうか…」→「軟弱を云ふな、無い頭を絞り考えろ」

「だと思うけど…」→「遂行せよ」

「おお…申し訳ない…」→「謝るなら誠意を込めろ」

「昨日やったのですが…」→「言い訳をするな(拳骨)」

「こういうことだと思い…」→「であります、を付けろ」

「気が向いたら見てみます…」→「見るだけかスカタン

「忘れてました…」→「申し訳ありませんを付けろ(拳骨)」

「それは良かった…」→「であります、を付けろ」

「駄目ですしね…」→「貴様意見なぞ求めておらぬ、是か非か」

こういうことですか!

2015-05-04

まんしゅうきつこと青二才、「才能は育たない」という現実

【まんしゅうきつこと青二才

ウェブをずっと見てきてわかったことは、「才能は育たない」というものです。

表現技法を磨くことはできますしかし、面白くない人が、才能を育てていって面白くなるという例は皆無です。

ウェブで出てくる新人はいだって突然、現れます

例えば、まんしゅうきつこさん。彼女は一時期、漫画家アシスタントをしていましたが、結婚して筆は折っていました。何がきっかけかはわかりませんが、あるときブログを書き始めたら、これがウケた。

では、彼女ブログをやる以前はつまらない人間だったのかというと、そうではありません。

彼女はずっと面白い人間で、ただ発信をしていなかっただけです。

このようにウェブでは面白い人間ブログを書き始めて話題になる、というパターンしか新たなクリエイターブロガーは出てきません。

あるいはたまたま見られていなくて、はてブなどで発掘されるパターン

これの特徴は読者が少なかった過去記事も十分に面白くて、本当に「たまたま見られていなかった」というもの

「cityboy.me」がこのパターンに当てはまりますね。

ぼくが「才能は育たない」と確信するきっかけとなった存在が、青二才さんです。

彼は何年もブログをやっています文章表現にこだわっていて、それを磨こうとする意思も感じられます。こつこつとネタを探していて、情報収集をする努力もできます。何より、数年単位で一つのブログ更新できるだけでも、すごいことでしょう。

だけど、彼の文章面白くありません。

彼のブログ話題になるときはいだって「半可通が偉そうに語ってらぁ」とはてブで突っ込まれるというものです。

数年単位でやっていても、面白くなっていかないのです。努力を何年続けても、「面白さ」というコアの部分は磨かれない。これはもう、何をやっても育たないということです。

青二才さんが何年もブログをやった結果、「才能は育たない」ということが証明されてしまいました。

彼にはずっと期待してたりもします。彼が面白い記事を連発するようになったら、ぼくの結論は覆って、「才能は努力によって育つ」と言えるのですから

それは多くの人にとって希望となるはずです。

例えば、今まで映像をやってこなかった人が動画を撮ってみたら、意外なほどの映像センスが発揮された、ということはあると思います

だけど、文章を書こう、面白いものを作ろう、とやってみて、出来なかった人は一生出来ないのだと思います残酷ですが、20年近くウェブを見てきた人間結論です。

2015-02-12

文の書き方

まずはこの文章を見てほしい。

一体、禁酒禁煙とゆーことわ出来るが、節酒節煙わ出来ないと同じで漢字の節減わどーも六かしい。これで、従来の障害お、一洗しよーとゆーことわ、国語教育百年の大計でない。単に過渡時代における一時の方便に過ぎないものである。真に国語教育百年の大計おおもーなら、漢字わ全く廃止して、しまわなければなりません。



出典『国語教授指南』(明治34年)


これは可愛い現代JC可愛い)がスマホ国語改革案を書いたものではない。明治時代文章表現模索の中で生まれた棒引きかなづかいだ。最終的には採用されなかったけれど、「正しい」表記として文部省教科書表記原案として提出されたものだ。

何が言いたいかっつーと、文章表記の「正しさ」ってのはゆらぐということだ。もしも引用されたような表記が採択されていたら。私たち現在若者表現「あたしゎ」とかを比較馬鹿にしていなかっただろう。句点読点の打ち方、てにをは、語尾…これらは数々の小説家教育者行政議論の上で整備され模索され現在に至っている。

昨今の日本語表記に関する増田とかの投稿を見ていると、こうした文章表記相対性に余りに無頓着でないかと思う。瑣末な「正しさ」に執心し、「これはこう!」みたいなのが多すぎる。もっと書き手負担の減らし方(上記の棒引きかなづかいはいわゆる文語表記負担軽減からまれた)や、相手への伝わりやすさ・読みやすさという大局的な視点理由づけから文章があってもいいと思う。もちろんそうしたなかで語られる「正しさ」も相対的もの時代の変遷に合わせて変わっていくものだろう。

およそ文章表記の変革期と言うのは、出版事情革新期と期を一にする。インターネットで気軽に誰でも文章が書けて多くの人の目にとまる時代。新しい文章作法が語られるのが(実は結構出てきていると思う)楽しみでならない。

2015-02-09

http://anond.hatelabo.jp/20150209095326

機械英語日本語翻訳する」っていうのは完全じゃない。

たとえば「ハロー」を「こんにちは」に変換するじゃない。でもハローこんにちははまったく別物。大まかな意味が似通ってるから、相手の伝えたいことがわかった気になるけど、ハロー意味をわかったことにはならない。日本語に変換して理解しようっていうのがそもそもの間違いなんだけど、教材が文章表現偏重せざるを得ない現状では、そういう勉強法しか採用できない。同様に、方言標準語に変換するのもクソだったりするけどそれはまた別のお話

2014-10-28

ホッテントリする日記の完成度の高い事高い事

まるでどこぞの短編小説スレから抜き取ったかのような充実した内容、語彙力に加えて文章表現の豊かな事。

まるで今育児板とかカップル板とかに投稿されてる釣り目的アフィ目的SSみたいだ。

あんまり完璧すぎるとボロが出ちゃうって分からないのかな。

今やなんJだけじゃなくてここ増田すらもまとめブログ(通称アフィカス)の転載SSで埋め尽くされてる。

稚拙文章ホッテントリがあれば、これこそが真実であり、増田発のエントリである事を知らない人が多い。

どうしようもない事にこういったエントリは中々ホッテントリ入りしない。

完成度が異様に高いSSばかりが組織的ブクマ数が増やされる。

ホッテントリというのは今やビジネスなのかもしれん。

ブクマ数が多ければ多いほど商売は上手く行く。

ここは初めて書くんだという割に文体に気を付けているわ、改行が巧かったり、ブコメトラバには即座反応したり(追記入れたり)、

怪しいんだけど、多分2ちゃんねるの住人同様気にも留めてない増田も多いのではないかしら。

食べログですら業者書き込みを行う時代で、ましてや匿名ダイアリーと銘打ってる以上ステマやアフィがやりたい放題なわけだから

普通よほど気を付けてない限り、このように操作されたホッテントリは常に注目エントリに入り続けるだろう。

それこそが彼らの目的なのだから

2014-05-27

http://anond.hatelabo.jp/20140527205159

えっ?(笑)

釣りって嘘の身分と経歴を騙って人を群がらせる事じゃなくて、本当か嘘かに関わらず文章表現によってより多くの反応を引き起こす事なんじゃないの?(笑)

チラシの裏という漁場には増田という自ら釣られたい魚が溢れかえっているよね!

釣り師の腕の見せ所だ!

2014-04-14

あー、ただ単に頭が悪い勉強ではなく思考力がない方の頭が悪い

本人的には会話できてるつもりなんだよ。

でも、文章表現力に難があって、自分の頭の中を整理して吐き出せないから

から新事実を持ち出して「俺が正しい」とか言い出しちゃうんだよ。

新事実に根拠がないのも、自説を整理できてないから根拠が頭の中に残ったままってだけ。

自分の頭の中では理屈が完成してるから、否定されるときれるんだよね。

聞いてる方としては、前提条件が足らない状態で判断させられてるから、本人の意図に沿った返事ができないし、

時間を掛けて質問して、完成した理屈を聞いてみても

結局、前提条件の吟味がもれてるから、否定するまでも無く足元から崩れちゃうんだよね。

いるんだよねーそういうの。

どうしたらいいかなー。いきなり切るのも忍びない。

2014-03-19

http://anond.hatelabo.jp/20140319104909

日本史学専攻の私に言わせれば、旧かな遣いクラスタ文章表現はだいたいダメ

単純に漢字正字に改めたり、昔風の表現にしたり、「ゐ」とかを使っていれば昔の日本語表現になるかと言えばそうではない。

江戸明治大正昭和戦前期と旧かな遣いも段々と変化しているし多分地域的な部分でも違いがある。

新聞表現小説表現、その他公文書表現など色々あるだろう。

他に中世公家日記に特徴的な日本漢文とか、本当の漢文似て非なる文章表現(だからこそ本当に日本なのだが)とかもあるけど

これらの妙をどこまで感じとれているか

旧かな遣いクラスタはここんところ全然ダメで、自分バーチャル過去への憧憬のみを担保として文章を書いている。

ほとんどの旧かな遣いクラスタがそうだ。いわば言語オナニーだ。

特定時代文章表現に通暁して、当意即妙にそれを21世紀現代活用できる人間は本当に一握りだ。

しっかり勉強して書かないと、それを少しでも勉強した人から見たら「変な文章書いてるなプゲラ」と思われてしまますよ、という話だ。

http://anond.hatelabo.jp/20140319082652

学部レポート学生実験レベルであれば、東大にもコピペ文化はあった。「コピペされることを前提に手書きでレポートを提出させる」なんていう話があったが、東大でもこれを言っている教員はいた。

もちろん、文字通コピペというのは単位がもらえないという意識があったし、実際そうした処分を受けた人学生もいた。だから文章表現を変えて、文の順番を入れ替えるくらいはしたけれど、それすら全員がしていたかは疑問。というのも、そもそも東大には「単位なんて適当で良いよね。きちんと研究してなんぼでしょ」という雰囲気があり、学生教員レポートとかあまり重視していなかったところがあったから。全員とは言わないが少なくとも1/3くらいの教員はそうみなされていた。小保方さん並のコピペをして見逃されていた学生もそれなりにいたのではないかと予想している。

ただ、外部に出すような論文や、学位論文レベルになると、話は別で、そこで他人の論文を丸々コピペというのは感覚としてありえない。なので、早稲田大学学生実験学部レポートで「コピペが当たり前だったよね」的な話があったからと言って、それをただちに研究レベルと結びつけるのはちょっと違うのではないかと思う。前者は多少の温度差は別にして、どの大学でもあると思うし、後者理解不能。

早稲田大学特定研究室で、学位論文での剽窃蔓延していたのなら、

1. それらの研究室に限ったことと考える

2. 早稲田大学に固有の問題だと考える

3 どの大学にもあるのだと考える

3つの可能性があるわけで、1や3の可能性をすっ飛ばして2だけを考えるのはおかしいだろう。

いずれにせよ、大部分の研究者から理解不能な行為なので、実際にどうかは分からないけれど、今ある情報から、3ではなく2の方がありそうだと考える根拠はなく、そのように思えるのは確証バイアスの一種だと考える方が今のところ蓋然性が高そうに思える。

2014-03-01

ネガコメ解説

http://anond.hatelabo.jp/20140228224140

> 今ならアスペルガーかなんかの発達障害

姉の症状、或いは、障害に対する認識が甘いのか、「~かなんかの」という言い草である

専門的知識がない故の類推表現であると受け取ることもできるが、「~かなにか」と比べて放り出すような言い方である

「なにか」に比べ「なんか」には、望ましくないもの価値が低いものという意味合いを持つ。

(例:お前なんかどうでもいい)

見下した、見放した態度で姉に対する親愛の情の欠如がうかがえる。

それは次の一文でも明白である

> なんで私の姉はこれなんだ。

こう、という状態を指してはいない。これ、という物扱いである。

人として扱っていない。人として尊重していない。

それが、続く文章の子どもに対する強い愛情と感動に対し、強烈なネガティブコントラストを成している。

貶める意図がなくとも、この露骨な対比はそれに等しい。

こういう姉に対する差別侮蔑に近い)が読み手嫌悪感を刺激している。

さら増田に対して非難的な意見がつくのは、守られたい、愛されたいという自愛要求のみを書き、

家族として支えあったという表現が欠如しているためである

実際には行っていたのか分からないが、権利のみを主張する自己中心的な者特有の「鼻につく態度」のようなものばかりが感じられるからだ。

その人物像は端的に言うと「嫌な奴」である

こういう嫌な奴の子どもが、そんなに優しくいい子に育つという不可解さもまた、非難を助長しているだろう。

むろん、そういう一面だけが見えて、増田の良い部分が見えていないだけかもしれないが、文章からは以上の印象が全てである

  • 追記

「支え合わなければいけないものなのか」というコメ散見されるが、ここでは義務ではなく「臭気」の話をした。

自愛傾向の強さに対して愛他傾向の(文章表現の)薄さが一種の臭気となり、不快感を刺激しているのだろうという、

あくまでも「何が悪いのか分からん」層に対して、こういう言葉の取り様によるものだろうという推測を述べた。

元増田も「想像以上の愛おしさだった」と愛情を傾けている様子は伺えるのだが、

それは転句の一文に過ぎず、話題の切り替えとしての弱い表現で終わってしまっている。

そこから増田像を思うには、言葉があまりにも小さい。


人間誰しも主観の中で生き、苦労し、些細な何かに救われたりする。

増田はその救いを書いた。

しかし、その「主観」は丁寧に扱わなければ、「他者主観からは歪みにしか見えなかったりする。

(いや、丁寧に扱ったところで歪みにしか見えない場合もあるだろう。主観とはそのようなものだ。)

言葉氷山の一角と言われるように、小さな表現から全体像が想像されるのである

言葉大事だ。

その点、増田不用意な言葉が過ぎたように思われた。

2010-04-05

下読みのバイトした

俺なんかに落とされた人、ご愁傷様と言いたいところだけど、

駄作が残ることはあっても、傑作が落とされることはないって言葉は本当なんだと実感したよ。

その上で感想

勘弁してくれってパターンをいくつか。

小説の書き方とか応募の仕方なんてサイトに載ってることばっかりだけど。


1.応募規定を読んでいない

問題外

場合によっては最初からそういうのは下読みにも回されないらしい。

必要ものが揃ってないのは、テスト名前書いてなかったら0点というのと同じ。

逆にプラスアルファされてても、それは規定にない「余計なもの」であって加点対象じゃない。(ぶっちゃけただのゴミ

設定帳(イメージ画)付属、というのは、登場人物イメージ世界観などの設定を本編で読者に理解してもらえない、勝負できない作品である証拠、としか見られない。

大抵、物語開始直後から定説明の地の文が延々入ったりして読む気がしないパターンとセット。

(設定帳やイメージ画がなくてそのパターンのものも珍しくないけど、特に興味のないWikipediaの項目を読まされてるようで苦痛


2.推敲なし(としか思えないもの

誤字脱字とか、てにをはの明らかなミス修正し損ね)程度はスルー

そういうのを除外しても本当に多い。

なんで推敲しないんだろう。

それとも推敲してもこの程度の作文能力しかないということか。

応募前に誰かに読んでもらったりしていれば、少しは違うはずなのに。

あと、そもそも基本的な作文の作法守ってないとか。

特に、知らないとか間違っているというもの問題外として、わざとやってるらしい人。

そんなところで独自性出そうとしなくていいから。

独特の文体、と思ってるのかもしれないけど、文章作法守ってないのは単に知らないだけの人と同類しか見られないからね。

作者の特徴ではなくただの邪気眼失笑されるだけと思っておいてOK


3.文体その1(人称、物真似)

2.と合わせ、「お前、逃げで一人称にしてるだけだろう」ってものが多い。多分間違ってないと思う。

影響を受ける作品はあるだろうし、今時の流行スタイルを狙ってというのもあるだろう。

でも、異様なまでの似非キョン似非西尾維新率の高さを見ると、お前ら単に自分スタイルが出来上がってないだけなんじゃないか、と感じてしまう。

何でも最初は人の真似から入るものではあるけども、それって習作って言うんじゃ?

複数応募してくる人に特に多い。

こっちは~真似てる、こっちは~真似てる、とか。

自分スタイル確立して、それで勝負したほうがよくないか

っていうかさ、三人称で書けないだけだろお前ら。

それから、逆にスレイヤーズスタイルテキスト弄り系)を未だに踏襲してる人。

最近出版されているものの中にも、あのスタイル作品は確かにあるけど、新人賞ではもうありえないってよ。

かに初見の若年層にはインパクトあるだろうし、テクニックと言い切られてしまえばそれまでではあるんだけど。

スレイヤーズ第一巻(古いほう。新装版は知らない)の編集者コメントだったかなんだかのページでも「やったもの勝ち。このスタイルのものが賞をとることは今後ありえない」と明言されてるのを俺も見たこと覚えがある。

(少なくとも富士見場合はってことだし、十何年も前の話であることを差し引いても、今は応募作品スタイルとしてありえない)


4.文体その2(独り善がり)

俺の担当になった応募作品の中にはなかったけど、当たった人から聞いた話。

文章表現に悪い意味で拘ってる(ブンガクしたい)らしい人が時々いる。

単体の文の言い回しに拘り過ぎて、個々の文の見てくれはいいけど、読みづらいだけであることが殆ど。(似非西尾維新もこれに当て嵌まるのかも)

カッコイイと思う文章芸術性を見出そうとするのはいいけれど、エンターテイメント性を損なってたら本末転倒

ちゃんとした文章から一次はまず間違いなく、二次も大方通るだろうけど、三次であっさり蹴られる。

要は文章しか目が行ってなくて、内容(ストーリーテンポなど)がつまらないわけだから、他に持って行っても結果は同じ。

自分文章のほうがうまいのに、何故あいつが受賞するんだ、と言っている高尚厨が必ずいるが大抵このパターン

大抵同じタイプ人間で群れて他者文章を貶し、互いのセンテンスを褒めあっている。

娯楽小説として面白くないのに気付いてない。


色んな人の作品読めて面白そうだからやってみたい、とか思ってる人、やめといたほうがいいよ。

ストレス溜まるだけだから

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