はてなキーワード: 失言とは
ここ最近の風潮は「悪いやつは総叩き」が主流だ。
暴走運転は叩かれるし、失言は叩かれるし、ヴィーガン過激派は叩かれる。正論があれば叩いていい風潮が存在している。
この風潮の原因とか善悪については特に言うつもりはないが、こんな風潮がある昨今にいて、叩かれない「違法」が存在しているので、それが気になった。
Twitterでアニメやドラマやニュースのキャプチャをツイートしている人が増えている。
結婚インタビューをするニュースの動画、アニメの刺激的なスクリーンショット、漫画のワンシーンを直に写真に撮ったものなど。
これら、ぜんぶ違法アップロードなのに、なんで叩かれないんだ。中には1万RTくらい伸びてるツイートもあるのに、ついたリプライは全て肯定的なもの。
ブラック企業の違法な運営はバッシングされるのに、なんでこの違法アップロードはバッシングされないのか。
個人相手だから攻撃しづらいのか?でも個人のアカウントが炎上することは多々ある。
悪いことをしている意識がない相手だから攻撃しづらいのか?でも当人が正しいと思ってツイートした内容が炎上していることだってある。
・「このシーンが好きな人RT下さい!」(2分くらいのアニメの戦闘シーン動画)
・「この場面本当素晴らしかった」(漫画の感動的なシーンのスクリーンショット)
・「これやばすぎない!!!!??」(海外ニュースの台風情報の動画)
これ全部違法アップロードだ。何ならアニメの一部分を自分でスクリーンショットしてアイコンにしている人も違法だ。
こいつらはなんで叩かれないんだ。なんでリプライをつけている全員が肯定的なんだ。なんで誰も「それが違法アップロード」だと知らないんだ。
1人分作ることに特化してるし、味については別に自分が食えたらいいって話だし、要領が悪くても自分の時間が減るだけだ。平日は簡素過ぎるが誰も怒らない。
それが突然複数人に対応して、味や時間やメニューで相手を満足させる必要が生じる。
他の家事についても同様。
子供がいる人生も悪くねえかもなって思ったんだけどな、これも子供を持つことの苦労を知らないから思えるわけでね。
子供ができたとしたら1日も忘れることなく世話をしなければならない。
面倒とかじゃなくてついうっかり忘れたらどうしようかと思う。これが心配で熟慮の上ペットを飼わない決断をしたぐらいだ。
子供が病気になったら的確に判断して適切に病院に連れて行かないと死なせることになる。
親の失言をずっと覚えて曲がって育っちまうかもしれない。
「誰が過激なことを言えるか選手権」はオタクに限らず全ネットユーザーがやってる
エストニア木野君はそんな仲間内の選手権の果にこういう失言をしてしまったんだ
他山の石とするんだな
妊娠前に「男の子と女の子どっちがいい?」っていう話で盛り上がるのはまだ微笑ましい。
でも、すでに妊娠してる妊婦に「男の子がいい」「女の子がいい」だの言わないでほしい。
妊娠中に「私は男の子(女の子)がいいな」って言える妊婦ならいいけど
妊婦の希望と違う性別の子供ができたらどう思うんだろうなって思う。
我が家は跡継ぎの男の子が必要な家系でもないので、性別なんかどっちでもいい。
妊娠している私以外の親戚の人間どもが「男の子がいい」と言って正直うざい。
そのゼリー使っても100%希望の性別の子供が生まれるとは限らないらしい。胎児の性別を決めようとする発想が気持ち悪い。
「子供を3人産んでください」って言うのは失言になるんでしょ?
胎児の性別についての話題を妊婦にふるのもマナー違反という風潮になってくれ。
跡継ぎ息子が必要で、なんか伝統的なことをやっている家柄で、どうしても男児が必要な家庭ならまだ理解できるんだ。
でも、うちはそういう家じゃないからさ。
元気で健康体ならもうどちらでもいいので。
もちろん、俺は別に曲解はしていないよ。文章として「世界に存在してはいけない」レベルの失言だと最初から言ってるしね。
松本人志は別に差別主義者でもなんでもないだろうし、川崎の問題について個人としては「何にも感じてない」「どうでもいい」が彼のスタンスだと思っている。
まともな人間は「先天的異常を根拠に人を犯罪者扱いすべき」なんて事言わないだろうからね。
が、そうだとしても、前後の文脈を含めようが、松本人志の真意がどうあろうが、口から出た言葉が「世の中に存在することが許されない」レベルの失言だった事は間違いないと思うね。
あれもまあ言い方から「酷い意見だという自覚はある」「本来なら言うべきでは無いが、ホンネ論としては」っていう行間が普通に読み取れるけどね。
前述したけど、俺は行間から読み取ったのは、どうでもいいと思っている事だから言葉に無頓着だったんだろうなぁ、という事だよ。
この意見に反対派の人に勘違いしてほしくない大前提として、「死にたいなら一人で死ぬべき」という気持ち自体は正しい。
無関係な人を巻き込んで自分も死ぬ、という行動自体は正しいわけがない。
死ぬ人は少ないほうが良いに決まっている。
それ自体は藤田さんも否定していないし、分かっているのではないだろうか。(勝手に言って違ってたら申し訳ないが)
じゃあ何が問題か、というと被害者を責めるだけの話でこの事件が終わってしまい、「死にたいなら一人で勝手に死ね」という風潮が日本社会全体に蔓延してしまうことである。
少し話が大きくなるが、「他人に迷惑をかけるな」という考えが、世界全体としてどうかは知らないが、少なくとも日本には強く根ざしていると思う。
(実際のところは「自分や自分の親しい人に迷惑をかけ得る行動はするな」かもしれないが)
でも、この考えって息苦しくない?と、とても思う。
人間も生き物である以上は自分本位だし、自分本位である以上他人と関わる際には迷惑をかける。
本当にダメな迷惑は法で制限されるのだから、多少の迷惑であれば見過ごすべきだし気にしないべきである。
しかし、私自身この「他人に迷惑をかけるな」という考えに強く縛られており、他人と関わる際に過度に他人に迷惑をかけないよう気にしてしまう。
その結果、「他人に頼らず一人でやった方が他人に迷惑をかけなくて済むな」という結論に落ち着いてしまう。
そういう人はとても多いと思う。
多くの人がそう思ってるはず(データは持ってないが)なのに、心理的にそうなれないのは、「他人に迷惑をかけるな」という考えが日本人に強く根ざしているからだと思う。
個人的には少しずつで良いので「かけすぎなければ迷惑かけてもいいよ」「失敗してもいいよ」という風潮になれば良いなと思う。
宗教っぽい見出しになってしまったが、話は大きく変わり、私は大学で統計学やプログラミングを学んだ。
どちらも「どのような状況でどのような結果になるか」を考えることが多いと思う。
プログラミングでは常にそのようなことを考えることになるだろうし、統計学では回帰分析などで特にそういった考えが強くなると思う。
ということをする。
ある人の行動を100%予測するのに必要なこの世の全てのものを把握できるわけではないので、予測はあくまで予測であり、100%完璧な分析は現在のところはできない。
でも、この世の全てのものを把握できるとしたら?
妥当な家賃をぴったり当てることができるし、ある人の次の瞬間の行動を100%的中させることができる。
ということは、それを逆に考えると、「ある人の行動はその一瞬前の世界の状態で既に決まっている」ということになる。
ここで、その一瞬前の行動は何で決まっているかというと、さらにその一瞬前の世界の状態である。
では、そのさらにその一瞬前の行動は...?とずーーーっと遡っていくと、「世界が生まれた瞬間に全ての物事は決まってね?」という結論に達する。
世界が生まれた瞬間ってなんだ?などと思うが一旦考えないことにする。
仮に犯罪を犯した人の育った環境、特に父母が悪いとする。ではその父母はどうしてそのような教育をした?というと祖父母まで遡ることになるし、その祖父母はどうして...?と遡っていくと、人類が生まれたときには既にその人が犯罪を犯すことは決まってた、ということになる。
全て、この世界が生まれた瞬間に決まっていた現象であるということになる。
運命はあるのかどうかと言えば、むしろ運命しか存在しないし、自由意志があるのかどうかと言えば、自由意志のように見えるものは存在するが実際には全て決定付けられたものでしかないし、それは自由意志ではないのではないか、ということになる。
「努力してこんなに凄くなりました!」
という成功談も、結局はそういう運命の元に生まれただけで、運が良かっただけだし、
「家庭内暴力を受け続け、学校にも行かせてもらえず仕事も見つからず、50になり親もいない今、死ぬしかないと思った」
という悲惨な話も運が悪かっただけということになる。
運命という言葉が運と命という文字で出来ているのも妙に納得できる。
自由意志に見えるものはあるのだから、それに従って決断し行動しなければいけない。
罪を犯してしまう人が生まれてしまった以上捕まえなければいけないし罰を与えなければいけない。
結局することは変わらない。
この考えは、
「下にいる人を蔑んではいけない」
といったような戒めのようなものにしかならないが、そういう考えが今の日本には必要なのではないかと感じる。
昔からの言葉で言えば、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉にはこのような考えがあるのだと思うし、情状酌量なんかがあるのだろう。
最近話題になったもので言えば、東大入学式での上野千鶴子さんの祝辞が似たものかなあと思う。
話を戻すが、1人の精神的にやられている人がいるとしよう。
そんな人がネットを見て、「死にたいなら一人で勝手に死ね」という言葉が並んでいるのを見たらどう思うだろうか。
なんとも思わない可能性もあるが、少なくとも気分が晴れることはないと思う。
「冷たい社会だなあ」と思ったり、人によっては更に落ち込んで「じゃあ死ぬか...」となるかもしれない。
もしかしたら、そこでまともな思考ができなくなり社会を恨み始めて通り魔になる可能性だってあるのだ。
ごくわずかな可能性かもしれないが、そのごくわずかな可能性で今回の事件が起きてしまった可能性も否定はできない。
今日ある1人が無差別殺人を犯す確率は低くても、今日ではなく例えばこれから5年間、ある1人ではなく日本人全体のうち誰かが、となると無差別殺人が起こる可能性は100%に近づいてしまう。
殺人はいつか起きてしまうかもしれないけど、せめてこの5年という数字を10年、20年にするために、社会をよりよく、暖かくしていこうよ、というのが今回の藤田さんの発言の意図ではないかと私は思う。
何か悪いことが起こったとき、その起こったこと自体や起こした人を責めるだけではなくて(もちろんそういう意見もあってしかるべきだとは思うが)、その根本的な原因を考えて改善していく社会になれば良いなと強く思う。
匿名投稿サービス、特にTwitterでは多いが、ある一般人の失言を何十人、何百人もの人がバッシングしているのをよく見る。
「死ね」とまで言う人もいる。
5chで死ね死ね言うのなら確実ではないが本人に届かないのだからまだマシだが、リプライで直接言うのである。
特に、オタクは学校でいじめられやすいが、そのオタクがTwitterでいじめてるのを見ると虚無になる。(もちろん必ずしも、Twitterいじめている人=学校でいじめられた人 ではないはずだが)
そろそろ誰かしら捕まってほしい。
ぶっちゃけるが、よく見る「被害者(遺族)の前でも同じこと言えるのか」っていう発言はいかがなものかと思う。
遺族に「これこれこう思ってるんですか?」って聞かれれば正直に「はい」と答えるかもしれないが、何も聞かれてないのに遺族の前で同じこと言うわけがないし、遺族以外に言えと言われて言うわけがない。
男友達の間で「おっぱいもみたい!」って言ってたとしても、取引先の目上の女性の前でも「おっぱいもみたい!」って言うか?言わないだろ。頭おかしいのか。