2019-05-30

死にたいなら一人で死ぬべき」発言の何がよくないのか

NPO代表藤田さんという方が以下のような記事を出した。

この意見には賛否両論あるが、私は賛成の立場である

はじめに

この意見に反対派の人に勘違いしてほしくない大前提として、「死にたいなら一人で死ぬべき」という気持ち自体は正しい。

正論である

無関係な人を巻き込んで自分死ぬ、という行動自体は正しいわけがない。

死ぬ人は少ないほうが良いに決まっている。

犯罪を犯した人は捕まるべきだし、罰を受けるべきである

それ自体藤田さんも否定していないし、分かっているのではないだろうか。(勝手に言って違ってたら申し訳ないが)

じゃあ何が問題

じゃあ何が問題か、というと被害者を責めるだけの話でこの事件が終わってしまい、「死にたいなら一人で勝手死ね」という風潮が日本社会全体に蔓延してしまうことである

少し話が大きくなるが、「他人迷惑をかけるな」という考えが、世界全体としてどうかは知らないが、少なくとも日本には強く根ざしていると思う。

(実際のところは「自分自分の親しい人に迷惑をかけ得る行動はするな」かもしれないが)

でも、この考えって息苦しくない?と、とても思う。

人間も生き物である以上は自分本位だし、自分本位である以上他人と関わる際には迷惑をかける。

本当にダメ迷惑は法で制限されるのだから、多少の迷惑であれば見過ごすべきだし気にしないべきである

しかし、私自身この「他人迷惑をかけるな」という考えに強く縛られており、他人と関わる際に過度に他人迷惑をかけないよう気にしてしまう。

その結果、「他人に頼らず一人でやった方が他人迷惑をかけなくて済むな」という結論に落ち着いてしまう。

そういう人はとても多いと思う。

多くの人がそう思ってるはず(データは持ってないが)なのに、心理的にそうなれないのは、「他人迷惑をかけるな」という考えが日本人に強く根ざしているからだと思う。

個人的には少しずつで良いので「かけすぎなければ迷惑かけてもいいよ」「失敗してもいいよ」という風潮になれば良いなと思う。

運命について

宗教っぽい見出しになってしまったが、話は大きく変わり、私は大学統計学プログラミングを学んだ。

どちらも「どのような状況でどのような結果になるか」を考えることが多いと思う。

プログラミングでは常にそのようなことを考えることになるだろうし、統計学では回帰分析などで特にそういった考えが強くなると思う。

回帰分析では、例えば

ということをする。

ある人の行動を100%予測するのに必要なこの世の全てのものを把握できるわけではないので、予測あくま予測であり、100%完璧分析現在のところはできない。

でも、この世の全てのものを把握できるとしたら?

妥当家賃をぴったり当てることができるし、ある人の次の瞬間の行動を100%的中させることができる。

ということは、それを逆に考えると、「ある人の行動はその一瞬前の世界状態で既に決まっている」ということになる。

ここで、その一瞬前の行動は何で決まっているかというと、さらにその一瞬前の世界状態である

では、そのさらにその一瞬前の行動は...?とずーーーっと遡っていくと、「世界が生まれた瞬間に全ての物事は決まってね?」という結論に達する。

世界が生まれた瞬間ってなんだ?などと思うが一旦考えないことにする。

仮に犯罪を犯した人の育った環境特に父母が悪いとする。ではその父母はどうしてそのような教育をした?というと祖父母まで遡ることになるし、その祖父母はどうして...?と遡っていくと、人類が生まれときには既にその人が犯罪を犯すことは決まってた、ということになる。

全て、この世界が生まれた瞬間に決まっていた現象であるということになる。

運命はあるのかどうかと言えば、むしろ運命しか存在しないし、自由意志があるのかどうかと言えば、自由意志のように見えるもの存在するが実際には全て決定付けられたものしかないし、それは自由意志ではないのではないか、ということになる。

努力してこんなに凄くなりました!」

という成功談も、結局はそういう運命の元に生まれただけで、運が良かっただけだし、

家庭内暴力を受け続け、学校にも行かせてもらえず仕事も見つからず、50になり親もいない今、死ぬしかないと思った」

という悲惨な話も運が悪かっただけということになる。

運命という言葉が運と命という文字で出来ているのも妙に納得できる。

とはいえ、だからといって「すべて決まってるから何もしないでいいんだな」というわけでもない。

成功したいなら努力しないといけない。

自由意志に見えるものはあるのだから、それに従って決断し行動しなければいけない。

罪を犯してしまう人が生まれしまった以上捕まえなければいけないし罰を与えなければいけない。

結局することは変わらない。

この考えは、

「上にいるからといって驕ってはいけない」

「下にいる人を蔑んではいけない」

といったような戒めのようなものしかならないが、そういう考えが今の日本には必要なのではないかと感じる。

もちろん全てこの考えが正しければの話ではあるが。


から言葉で言えば、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉にはこのような考えがあるのだと思うし、情状酌量なんかがあるのだろう。

最近話題になったもので言えば、東大入学式での上野千鶴子さんの祝辞が似たものかなあと思う。

最後

話を戻すが、1人の精神的にやられている人がいるとしよう。

そんな人がネットを見て、「死にたいなら一人で勝手死ね」という言葉が並んでいるのを見たらどう思うだろうか。

なんとも思わない可能性もあるが、少なくとも気分が晴れることはないと思う。

「冷たい社会だなあ」と思ったり、人によっては更に落ち込んで「じゃあ死ぬか...」となるかもしれない。

しかしたら、そこでまともな思考ができなくなり社会を恨み始めて通り魔になる可能だってあるのだ。

ごくわずかな可能性かもしれないが、そのごくわずかな可能性で今回の事件が起きてしまった可能性も否定はできない。

今日ある1人が無差別殺人を犯す確率は低くても、今日ではなく例えばこれから5年間、ある1人ではなく日本人全体のうち誰かが、となると無差別殺人が起こる可能性は100%に近づいてしまう。

殺人はいつか起きてしまうかもしれないけど、せめてこの5年という数字10年、20年にするために、社会をよりよく、暖かくしていこうよ、というのが今回の藤田さんの発言意図ではないかと私は思う。

何か悪いことが起こったとき、その起こったこ自体や起こした人を責めるだけではなくて(もちろんそういう意見もあってしかるべきだとは思うが)、その根本的な原因を考えて改善していく社会になれば良いなと強く思う。

おまけ1

匿名投稿サービス特にTwitterでは多いが、ある一般人失言を何十人、何百人もの人がバッシングしているのをよく見る。

死ね」とまで言う人もいる。

5chで死ね死ね言うのなら確実ではないが本人に届かないのだからまだマシだが、リプライで直接言うのである

正直殺人未遂となんら変わらないと思う。ただのいじめ

特にオタク学校いじめられやすいが、そのオタクTwitterいじめてるのを見ると虚無になる。(もちろん必ずしも、Twitterいじめている人=学校いじめられた人 ではないはずだが)

そろそろ誰かしら捕まってほしい。

おまけ2

ぶっちゃけるが、よく見る「被害者(遺族)の前でも同じこと言えるのか」っていう発言はいかがなものかと思う。

遺族に「これこれこう思ってるんですか?」って聞かれれば正直に「はい」と答えるかもしれないが、何も聞かれてないのに遺族の前で同じこと言うわけがないし、遺族以外に言えと言われて言うわけがない。

サイコパスかよ。そんなこと考える人格を疑う。

友達の間で「おっぱいもみたい!」って言ってたとしても、取引先の目上の女性の前でも「おっぱいもみたい!」って言うか?言わないだろ。頭おかしいのか。

酔ったら北方領土で「おっぱいもみたい」と連呼することもあるかもしれないが。

誰かの前で言えないからと言ってその考えが間違ってるわけじゃない。おっぱいはもみたい。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん