はてなキーワード: 外国人とは
マスク反対派の人が🍑✈️の親会社の✈️乗ったら、マスクしなくても怒られなかったって言ってたの見かけた。
添乗員に聞いたら常に新鮮な空気を入れ替えてるって言われて、マスクのマの字も言われなかったって。
私は最初は厳格なマスク派だったけど、色んな無理な人やマイノリティがいるのは理解した。
でも、それを考えると外見で差別されたのか?とも思ってしまった。
ほら、一定数いるじゃん。清潔感があるから、マナーを破ってるのに礼儀正しいと思われる人達って。私はマナーは厳格に守る側だからそう言う人たちの存在をいつも見てた。
ちゃんと駐車場所に停めてるのに、なぜか駐禁取られるとか、挨拶してるのに私だけ注意されるとか。歌舞伎見に行った時も、私だけ弁当を食べているのを注意されて前にいる外国人は注意されなかった。その外国人は欠伸して途中で出て行った。
日本では次期総理がどうやら決まり、内閣も発表されたのでニュージーランドの住宅事情について書く。
ニュージーランドのオークランドでは、毎年凄まじい勢いで値段が上がっており、その実態に比べてあまりにも不釣り合いであるということはもう長いこと言われている。だがちっとも問題が解決しないばかりか、どんな掘っ立て小屋であってもミリオンダラーになっており、もはや家を買える人は金持ち下投資家以外にいなくなった。中流といえども家を買うのは簡単ではない。
これについては、ニュージーランドファースト政党のウィンストンピータースが「オーストラリア人や中国人が投資目的で家の値段を釣り上げまくっているから外国人に家を売るべきではない」という議論を国会で行い、家を買うためには永住権が必要になったが、相変わらず住宅価格は値段が上がっている。金持ちからしたらそんな物道とでもなるというのをまざまざと見せつけられた瞬間だ。
価格が釣り上がる原因としては、単に投資家が値段を釣り上げていると言うだけではない。ニュージーランドでは家を建てることそれ自体のハードルが非常に高い。なぜなら行政の許可を取り付ける必要があるし、年間の建築数も厳しく決められているからだ。この許可一つとっても凄まじく長くて複雑なプロセスをクリアしなくてはならない。
住宅価格など家をどんどん建てて供給量を増やせば値段なんか下がるだろうと思うかもしれないが、ニュージーランド経済の好調はこの住宅価格に支えられている側面も大きいので、簡単にはバランスを崩すことはできない。
そして貧富の差によって家を買えない人はひたすら家を借りるしかない上に家賃も上がっていく。今の家賃は月換算で15-20万円とかが普通だ。
そしてオーナーは不動産から十分な利益を得たら他の投資家に売却する。売却するにあたっては住人は6週間程度前に通知を受け取ったら理由のいかんによらず退去しなくてはならない。このルールは非常に公平性に欠けているがそういうルールになっている。
自分たちが買える住宅はない、住宅に住み続けられるかはオーナーの意向次第、という状況がまかり通っているのがニュージーランドの賃貸事情だ。居住権などというものは無い。法律の枠組みの中で出て行けと言われたら立ち向かうすべはない。
ニュージーランドでは不動産の売買にオークションを行うのが一般的だ。要は値段を一番釣り上げられる人が家を買える。
一方で家の中はどうかという話をする。これもとにかくひどいの一言だ。
先程書いた構図を思い出してほしい。
一般人は高すぎて家を買えない、家の供給量が少ないので住む家を選ぶこともできない、なので住民はオーナー言うがままにその家に住み続けるがオーナーに嫌われたら合法的に追い出される。
というようにあからさまにオーナーが強い状況を生み出している。
ではオーナーとは誰か。
家は極限まで安く建てられ、住人からは極限まで高い家賃をとり、住民からの要望は無視し、設備が壊れても直さない。
これは不動産業者もオーナーの利益を優先するために起きているという悪循環でもある。
ではこのような劣悪な家に住むことになるとどうなるか。
断熱材が入っていないので、夏はひどく暑く、冬は凍えるほど寒い。
どういう物理現象とかでそうなるかは知らないが、夏は外のほうが涼しく、冬は外のほうが温かい。
そしてとにかく湿気る。朝起きると窓枠の下に水たまりができる勢いで湿気る。これによってカビが生え喘息やアトピーなどの症状が出る人もいる。
例えば部屋のドアだ。部屋のドアの用途は開けるか閉めるかしか無いのだが、自然に立て付けが悪くなっていき、悪いときは大人が力いっぱい引っ張ってももはや開かなくなることがある。窓も同様だ。
細かいことを言うと他にもある。
例えば絨毯からは何故か針金が飛び出していて怪我をする、家自体が換気の名目で隙間だらけなので虫やトカゲが入り放題だ。文句を言っても「そういう構造になるようにわざと作っている、あなたの管理が悪い」と言われて終わりだ。
そして、なにか壊れた時に通報する窓口はあるが、対応がとにかく遅い。何か壊れても直るのは2年後何ていうのはザラだ。コンロが壊れても「直さない」と宣言されることもある。だが家賃は普通に取る。
次は間取りだ。
ニュージーランドでは物件価格はベッドルームの数に比例して上がるという慣習がある。家を高く売りたいときはどうするか?ベッドルームの数を増やせばいい。そのため、無意味にベッドルームが多い家ばかりが建てられる。
賃貸情報を見たらどれを見ても5LDK、6LDKしか無いような状況と思えばいい。
そして賃貸価格は跳ね上がる。庶民は家をシェアで借りるしかなくなる。
不動産屋もそこを見越した家を建てるようになっている。全てのベッドルームにバストイレ付きなのだ。もはや何が先で何が後になっているかも狂いすぎていてわからない状況だ。
ここまで読んでみたあなたがもしニュージーランドに移住を考えているのだったら、ちょっと考えてほしい。こういう家も住めば都と思えると考えているならそれは甘い。都は都でもその物件は羅生門だ。
追記:https://nzmasuda.hatenablog.com/ に今後は書くことにした。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/takeshi_tsuruno/status/9136171963650048
10年前の発言を引っ張り出して嬉々として叩いてるのも無茶苦茶気持ち悪いけど、それは今更良い。キャンセルカルチャーとか言われて今まで散々やってる事だから、醜悪ではあるが衝撃的ではない。
つるののバックグラウンドを考えず、差別主義者としてしか認知せずに叩いてるのが気持ち悪すぎる。
2010年ってつるのはまだヘキサゴンに出て、羞恥心というグループとして活動してますよ。当時は彼は現役のおバカキャラで頓珍漢な答えを言っては島田紳助とかからさんざん馬鹿扱いされてる頃ですよ。
彼が外国人のおかしな言い方を笑ったのって、まさにテレビの視聴者が彼にやってたことで、彼はそれに耐えながら番組に出続けて金貰ってたわけですよ。
そういうバックグラウンドに目も向けず、単なる差別主義者としてしか見れない人は、良く言われる「私が弱者として認めてあげる」って態度と同じですよ。
本当にグロテスクだ。
外国人の片言日本語の場合、本人は真面目に喋ってるのにそれを茶化す風になっちゃうのがいけないのかなあ。
僕の片言の英語を殊更に揶揄されたら「ふざけるなよ!?」となるかもしれんし…。
うーん、線引き難しい。
外国人の同僚の語尾が「でちゅ」だったから、それダイワハウちゅじゃんってお局さんがいじったことがあった。役所広司の言い間違いを笑っちゃうのは良いのに、外国人が言ったことを笑ったら差別になる。なぜ…
思想的に権力の後ろ盾が望めそうであるということも大変辛いものがある。
とはいえ、犯人の国籍を公表しなかったり、反省しているから許したというあたりは、本人なりの筋を通しているので、自分が同じ立場になったときに見習うべきだと戒めたい。
つるの剛士が何年も前のツイートを今更掘り返されているらしい。
要約すると「コンビニバイトの外国人の日本語の片言具合が面白くて笑っちゃった」というもの。
外国人の片言日本語「でしゅ」に笑ってツイートをしてしまう事は差別らしく、なるほど、そう言われるとそんな気がしてくる。
ただ自分に置き換えてみると。
語尾に「でしゅ」を付ける人に出会ってしまったら普通に面白いと思うし、僕はその旨をツイートしてしまうと思う。
当然それらの情報はツイの中に入れるとは思うが、相手が特定されるような情報量ではないし、
普段のツイートとなんら変わらない日常の一コマの切り取りの一つだ。
誰だってマックの女子高生の話から拍手喝采が起こったら「マックの女子高生の話から拍手喝采」とツイートすると思うし、そのくらいの話だと思う。
でも何故だろう。
たぶん僕はこの騒動を見て③のシチュエーションに出会ってもツイートしない人間になった。
でも①②だったらツイートすると思う。
差別っぽくないし、たぶん叩かれることもない、というか、日常のツイとして注目もされない筈だからだ。
「でしゅで笑っちゃうのは失礼」とか「Twitter依存しすぎ!」とかもあるとして。
それはそれとして同じ状況において、ある一定の属性の場合に限り何かをしない状況がなんだか差別っぽい。
でもしょうがないよ。
触れるのは危ないから。
社会人になって英語を学ぶ目的がない。会社の上が外国人に変わっても、平の平まで英語で会話せいといい始めることは稀だろうし、スキルアップして海外脱出という野心もないし、外国人の恋人が欲しいとも思わないし、趣味は日本語でアクセスできる範囲で足りてるし。みんな何を目標に勉強しているんだろ。
あーあ、TOEIC800点取ったら、百万円くれるとかならがんばるのになー
と言っても、あれはいつ行ってもできる体験という訳ではなく、天候不順時限定である。
2年ばかり前のゴールデンウィークの最終日の事だった。
時期的に江の島は滅茶苦茶混んでいた。
どれくらい混んでたかというと、江の島の裏側から表側に出ている船が、乗船まで3時間待ちだったくらい混んでいた。
江の島の参道(というのか)は、せいぜい100mかそこらしか長さが無いくせに、そこを歩いて抜けるのに1時間かかるとアナウンスされていた。
それくらい混んでいた。
午後、島の裏側まで歩いた我々は、当初船で戻るつもりだったが、あまりの待ち時間に諦めて歩いて戻る事にした。
江の島は小さい島だが、船を使う以外で裏側まで行こうとすると、一度山の頂上まで上らなければならない鬼畜構造だ。
正直、一度上って裏側に下り、再び上って帰らなければならないのは疲れるが仕方ない。
天候が曇りで、どうにも雲行きが怪しかったから、というのも理由の一つだが、この判断は結果的に正解だった。
あの時、船を待つ判断をした人達はその後の夕立でズブ濡れになっただろう。
その日も帰りに汗を流すために、当初から江の島スパを利用する計画だった。
江の島スパ(正式名称:江の島アイランドスパ)は、料金は通常の温泉や銭湯よりお高めである。普通で3000円以上する。
しかもゴールデンウイークで特別価格だったため、なおさら高かった。確か4000円くらいしたはず。
高いだけあって設備や広さは通常の温泉より1ランク上であり、通常の温泉施設がエコノミークラスだとすると、ビジネスクラスくらいの余裕があった。
通常の男女に分かれる温泉部分のほかに、水着を着る事で入れる混浴部分があり、
その中には半露天の洞窟風呂や、露天プールやらプールサイド的な、まあなんやかんや「外」の海に面したロケーションがある。
ついでに、値段が高いせいで、利用をためらう人が多いらしく、外の歩くのもままならないギュウギュウ詰めとは別世界のように広々していて、客の半分くらいは外国人旅行客だったと思う。
我々が入館してほどなく・・・30分くらいしてからだろうか、江の島は夕立に見舞われた。
我々はタッチの差で事無きを得たのだが、これがまー最高だったのだ。
雨がドバドバ降ってたので、屋外のプールサイドみたいな施設は利用できなくなったのだが、
我々は、他の外国人観光客の人達とその洞窟風呂につかりながら、外の海に降り注ぐ雨を眺めていた。
気が向くと洞窟から出て行って、温泉の水面に波紋を散らす雨に頭を打たれながら露天のオーシャンビューに浸った。
正直、雨の中でみんなで温泉に入りながら海を眺めるのがこんなに楽しいとは思わなかった。
目の前には湘南海岸が広がってるわけだが、時折その海面を魚が跳ねたりしていた。
そのうち雷が鳴りだした。
はっきり言って露天風呂のオーシャンビューは視界が広い。晴れてれば富士山まで見えるらしい。
その広い視界の中、遠方の海上や陸上の山の方角に稲光がバシバシ光った。
ひっきりなしに海の上に落ちる稲妻を遠く眺めながら、我々は温泉に浸って雷鳴を聞いていた。
やー、最高だった。
多分、あの時一緒にいた観光客の江の島好感度はMAXまで振り切っただろう。
(一方、そのころ島の裏側で船を待っていたであろう人達の好感度は神のみぞ知る)
サウナに入ったり、ジュース飲んだりして時間を潰し、もう辺りも暗くなりかけた頃、我々は施設を出て帰路についた。
その時もう雨はやんでいた。
またあの体験ができるなら、4000円は全然惜しくないのだが、よく考えるとタイミングがかなり難しい。
「もうすぐ夕立が来そうだな」くらいのタイミングで行って、運が良ければ体験できるかも、というレアなイベントだ。
そんなわけで、今日みたいに天候不順な日が来ると、
つるの氏が犯人を外国人であると推定したことが、外国人=犯罪者であるとの偏見を助長しかねないとの指摘がなされ、
それを軸に、町山氏などのいわゆるラディカル左翼が、つるの氏への大バッシングキャンペーンを実施した。
ツイートを眺めていると、事の顛末の検証もそこそこに、「つるの氏は差別主義者である」という大前提のもと、
国を憂いてみたり、人権だの歴史だの一見アカデミックに見えるよな事を論じている気になってみたり、そんな投稿が目に余った。
そもそもつるの氏がなぜ外国人が犯人であると推定したのか、彼は真に差別主義者なのか、たった彼が投じた2,3のツイートから解明できるはずもないのに、
判別できないからこそ足りない部分は、既に自分が用意した結論に都合がよいように脳内補完して、
「差別主義者」のレッテル張りによる罪人認定を行い、自分が満足するまで非難・攻撃を行って。
しかも、そういった攻撃は正義の鉄槌であると信じて疑っていないのがまたやっかいだ。
自分の思想をさもこの世の条理であるかのように、ちょっとアカデミックを気取った書きぶりで、さも自分は常に正しい事しか発言しない知識人であるようにふるまっている。
結局、
②自らが正義を行使していると思い込む事による全能感、自己満足
③同じ思想を持つものと一緒になって行動する事による高揚感、孤独の解消
これらが蜜の味を味わいたいがために、他害行為を正当化しようと、罪人であるとのレッテル張りを行っているのだ。
でも本人にその自覚があるはずもなく、あくまで自分は絶対的な正義の執行者であると思い続けている。
本来すべての人のすべての発言には(私一個人の意見です)という注釈がついているはずなのに、
自分が正しいと思った事は、普遍的に正しいと思ってしまっているのはなんで。
どうして、民意によってえらばれた多数の人の意見の上成立した、政治上の「正しい」を疑うことはできるのに、自分一人が感じた「正しい」を疑ってみようと思わないのかな。
差別が悪い事だとは分かっているのに、人を差別主義者だと一方的に認定して攻撃する事は正しいなんて、そんな理論が正しいってどうして思っていられるのかな。