出産後離婚のリスクが減ることは幸せな家庭を作るチャンスを減らさないメリットがあると思うけど、未婚出産の推奨は最初から不幸な家庭を増やすので、同意できない。
30歳ぐらいからニオイに敏感になってきた。
翌日というのはないけど、セックスするときに相手のニオイが気になるし
人によってニオイが全然違ってちょっと受け付けない感じの人もいる。
昔は気にならなかったけど。
あと、汚いとは思ってないんだけど終わったらすぐに手洗いうがいしないと気がすまない。
ほんとに悪気はないんだけど女の子にちょっと悪いなと思ってるからコソコソやる。
なんかおじいちゃんとかでいつでも鼻をスンスンならしてニオイかいでる人がいるけど
年取ると嗅覚がなんかバカになるんじゃない?
別に推奨はしない。
しかし「離婚したからお金なくなったでしょ?貧乏でしょ?ほら子供不幸になったじゃん」
つって不幸な結婚生活を続けざるおえない袋小路に追い込むのは違う。
結婚しない人の何割かは絶対そういうの考えてる。
生命がかかっていれば家族をとるけど、仕事や実生活だとそう単純じゃない気がして
キルラキルはそのアニメーション作画はもちろん色もキャラデも演出もお芝居もコンセプトも他を圧倒し素晴らしく、30分息もつかせぬようなアクションに毎週興奮している。
もちろん世の評価も高く、非の打ち所が無いというか「あれイマイチだよね」と言おうものなら「萌えヲタには解らないだろう」もしくは一周して「何すかしてんだよ」という視線を浴びてしまいそうな程の作品と言おうか。
なのでちょっと言いにくいのだが、自分はこの作品を見ているとどうも引っかかる。作品自体と世の中の評価に。
何を当たり前のことをとお思いだろうが、恐らく皆さん(男性的視点で見ている皆さん)が思っている以上にこの作品は男性向けなんだと思う。
一つ一つ理屈をこねても仕方ないくらい生理的なものだと思うのだが、挙げるとするとまず「視点」。
主人公の流子は強く格好良くて魅力的で、気持ちの良い主人公だと序盤は楽しく見ていた。
ところが戦闘ごとに露出度の高い制服を着せられ、毎回恥らいながら戦闘しているではないか。
今まで彼女の視点で世界を見ていたのに、いきなり彼女が好奇の目に晒されることとなる。
急にお茶の間に引き戻される。悲しい境遇の中でも強く生きる彼女に感情移入して見ていたら、辛い気持ちになってしまった。
この辺りでやっと「ああこういうことを楽しむ娯楽アニメなのか」と気づかされる。
そしてマコの存在。色んな天然キャラは居るがこの天然の感じがどうも不快だ。
理由はこれこそ生理的なものだと思うが、存在そのものがご都合的で記号的で「馬鹿」な「女」を娯楽として楽しむためのものだからだ。
自分はこの笑いのツボを持ち合わせていない。
と、くどくど語っているが別に作品を批判しているわけではない、「こういう作品なんだ」と思っただけだ。
そして萌えアニメと呼ばれる作品以外でこういうお色気作品というのは最近確かに少なくなっていると思うので、そういう意味であえて往年のドラマやアニメのオマージュとして要素を入れているのだろうということも理解している。
気になるのは「こういう作品」なのに、まるで万人に喜ばれてるように、手放しに評価されている点である。
従来からエンターテインメントにはお色気シーンはつきもので、女性もそれを幼い頃から見慣れているため普通に楽しめるようになっているのだろう。
だから多くの女性がこの作品に何も違和感を抱かずに楽しめていると思う。多くのエンターテインメント作品を見てきた(言ってしまうとアニヲタの)女性ほどその傾向が強いだろう。
むしろ頭の固い女だと両側から叩かれるのも目に見えているが、なかなか言う人を見かけないので言ってみました。
こんなことに引っかかっていて、じゃあ男女問わず楽しめる題材と表現を…云々言っていたら娯楽の表現の幅が縮小してしまうのも解る。
そこで思うのは、じゃあこの手の意欲作に、もっと男性的でない作品が増えてもいいじゃないかということだ。
ノイタミナの登場によりそれでもかなり増えたが、世間的に注目される意欲作ではまだまだ男性向けが多く感じる。
もちろん全てを把握している訳ではないが、アニメーションの良作と言われている作品の多くは男性的な作品であるように見える。
戦う少女、(男性的目線での)純愛、不思議な少女、銃声に跳ねる女性の死体、エロ、暴力、メカニック…
どれも面白い題材だが、もう少し幅があってもいいのではないか。
話は逸れるが「東のエデン」についても同じような引っ掛かりを感じていたことを男性ファンに話したことがある。
自分が「ヒロインが好きになれない。女性として感情移入出来ない行動をとる。それでいて女性主人公の恋愛をメインに描くとはどういうことだろう。」
と話したところ、
「そこじゃないでしょ、この作品はー!」
と返された。
そこじゃないのか。
今回のキルラキルの引っかかりも「そこじゃないでしょ!」ということなんだろうな。
そしてそう思う人口の方が多い。
でもそういう風に引っかかってしまう人間も、いるんだよと、頭の片隅に入れていていただけると、一石ならぬ砂利ですが投じた甲斐があります。
お粗末さまでした。
なんで、元増田が 他人のために残業しないで帰る。という話題で
その程度のピンチも助け合わないのか?って突っ込んだら。
自分の主張を通すために、前提条件覆してくるのは良くないよ。
それは単に君がそうだから類友で周りも似たような人間になって、あたかもそれが多数派であるかのように錯覚してるだけじゃないの?
現に俺は君みたいなタイプとは絶対に仲良くなれない自信があるし(君も俺に対して「死ねこのカス」くらいには思ってるだろうし)ね。
31までじゃないの?
でも、時々キーボードが恋しくなる。
Bluetoothキーボードもいいけど、キーピッチの狭さ、ペアリングの煩雑さ、価格を考えると、イマイチ導入する気になれない。
あと、スマホの画面小さい。小さい文字読みにくい(老眼)。大きい画面使いたい。
だから、私は家に眠っていた旧式ノートパソコンに手を加えて、スマホ・タブレットの代わりに使っている。
1. 用意するもの
ノートパソコン(B5サイズ、1.5kg以下、Win7か8が望ましい)
2. OSのセットアップ
起動時間短縮のため、msconfigのブートオプションで「GUIブートなし」を選択。タイムアウトは3秒。
少しでもキビキビ動かすため、常駐ソフトは極力減らす。
スマホライクに電源オプションを調整。数分で画面が暗くなる(もしくはモニタの電源が落ちる)、スリープ・休止状態になるように設定する。
3. 同期環境の構築
母艦、スマホ、タブレットの環境と同期するようにセットアップする。
このあたりは好み。同期さえできれば良い。
例として、私が使っているアプリケーション・サービスを挙げてみる。
・Google垢: 1つのアカウントで串刺しにされた各種サービスが使いやすい。
・Dropbox: 他アプリケーションとの連携が良い。Web、ローカルクライアント、Chrome拡張機能(EasyDrop)でファイル管理できる点も良い。
・Writebox: Chrome拡張機能のテキストエディタとしては一番使いやすい。Dropboxのファイルを編集・保存できる点が良い。自動でローカルにデータ保存してくれるから、ブラウザが突然落ちても大丈夫。
・Google日本語入力: 賢い。
・Pocket: iPhoneでPocketに放り込んだページを、お家に帰ってからノーパソの大きい画面で見ている。
私が使っていないサービスも挙げてみる。
・Evernote: プレーンテキスト扱えないの何とかなりませんかね。独自形式のリッチとか臍茶。
・Google drive: Google先生、著作権を返して下さい。
まとめると、
B. データはオンラインストレージに保存。
この3点を満たすようにハードとソフト調整して、アプリケーションとサービスを選ぶ。同じ環境が、いつでもどこでも手軽に(スマホみたいに)利用できる。ユビキタス(死語)。
10進法が発達したのは指が10本だからだが
12進法が発達したのは2でも3でも4でも6でも割れるから、ケースを作るのに便利だったからだ。
ちなみに、片手だけで 12まで数える方法はある。16までは片手で簡単に数えられるよ。
お互い30代後半。
理由は分かってる。
というかおそらくこれだろうという予想はついている。
先週結婚が決まった。
元々結婚する予定など無く(ブスだし)、一生独身でいると勝手に思ってた。
相手もそう感じたらしく意気投合。
毎日のように連絡を取り合い終末は飲みに行った。
それでも楽しかったしそれでいいと思ってた。
取引先の社長の息子。
その話を酒の肴にしA子とまた飲んだ。
楽しかった。
その後また会いたいと誘いを受けた。
まあただ酒飲めればラッキー程度に考え誘いに乗った。
久しぶりのエッチもした。
また会いたくなった。
この報告をA子にした。
おめでとうと言ってくれた。
電話番号が変わっていた。
家に行ったが引越し済。
なんだか幻を見てる感じ。
残念だけど、もう、そういう時代じゃないよ。
物理的な戦争よりも、経済戦争が盛んな時代に、雄々しいなんて価値観はいらん。
女々しかろうとなんだろうと、経済戦争に勝ち残らなきゃいかんのだよ。
人それぞれでしょ。
俺は既婚だけど自分のやりたいこと最優先だわ。
増田はMBTIで言うところのESFJ型かな。
http://www32.ocn.ne.jp/~emina/typebox/esfj.html
俺は全てが正反対のINTP型ww
界隈で喧しく「生産性の概念欠如」が取り沙汰されている。曰く、日本の企業や社会には生産性という概念が欠如しており、これが経済の停滞や労働搾取をもたらしている、
というものだ。多くは企業者の立場からのもので、日本企業の文化的・制度的な生産性軽視を論じている。そうした「文化的背景」や「企業の人事制度」という点は今後も
議論されるべきであろう。、、、だがこのエントリーで論じたいのは、他エントリーで多くなされている下記のような主張が「本当だろうか?」というものだ。すなわち
>生産性を向上させれば、同一のアウトプットに対しより少ないインプットで済む
>従って、生産性の向上は「アウトプット量の拡大…よりよい商品提供」か、「インプット量の減少…余暇の拡大」を生む
>かくして、生産性の向上により、社会の富や厚生の拡大がなされるのだ!
という主張である。一見正しいように思えるし、うん、実際の所間違いではない。
だが筆者は、多くの論で曖昧に付されている点があると考える。それが何かといえば、「インプットは労働力=時間だけど、アウトプットはお金なの?それともモノなの?」
という点だ。生産性の問題を経済の問題として考えるのであれば、そして個々の企業ではなく将来に渡る社会全体の変化を取り扱うのであれば、それが「名目」なのか「実質」
なのかという点を明確にしなければならない。そして実際、この点を明確することでより有益な論点が摘出できる。
そこでひとつ、明確に「生産性」と区別して論じられるべき概念を提案しようと思う。「生産力」だ。
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本論では下記のように用語の定義を行いたい。
・「生産性」:一単位の労働力投下に対し、アウトプットとして得られる「金額」の増加分
・「生産力」:一単位の労働力投下に対し、アウトプットとして得られる「モノの量」や「モノの質」の増加分
簡易な例を提示しよう。
皆さんが田んぼを耕して農業生産を行うとする。一定面積の土地に対し、100の労働を投下し、100kgのコメを生産し、それを100万円で売っている。いまここで新たな技術が
開発され、80の労働で100kgのコメが生産できるようになった。するとどうなるだろうか?
・「生産力」は、100kg / 100労働 だったのが 100kg / 80労働 となった。1労働に対する生産「量」でいうと、1.25倍となったわけだ。
・「生産性」は、100万 / 100労働 だったのが 100万 / 80労働 となった。これも「生産力」と同じ、1.25倍となっている。
かくして我々は 「いままでと同じ量働き、1.25倍の所得を得る」か「いままでと同じ所得で、80%働き、20%を余暇に充てる」という選択肢を選ることになる。
、、、だがここには重要な大前提が存在する。生産力と生産性がおなじ動きをするのは、「コメの価格が変わらない場合に限る」のだ。
ではモノの価格を決定するのは何であろうか?
もし「生産力」の拡大が個々の企業のみで起こったのであれば、その企業が他社に比べて競争優位を持つにとどまる。つまりその企業が「今より低い価格でも戦える」ように
なるだけで、価格はその企業の戦略によるだろう。だが検討するべきは、こうした「生産力」向上が社会全体で実現した場合、つまり我々の望む「日本社会の生産性拡大」が
実現しようとした場合だ。
社会全体でみた商品の価格決定は、極めて単純に「需要量と供給量のバランス」によって決まる。つまり「足りなければ高く」「過剰なら安く」だ。そして、、、賢明な読者の
方ならお気付きの通り、「生産力」の向上は「供給量」の増加をもたらし、その供給量に「需要量」が追いつかないのであれば、、、価格は下落し、「生産性」は向上しない。
労働に対する貨幣的評価が変わらなければ、給料(名目賃金)は、上がらない。
もちろん、価格が下がれば需要が増える場合もある。つまり「欲しいけど価格が高くて買えなかった」製品の生産力が向上した場合、価格の下落が需要の上昇を呼び、全体として
収益が拡大、生産性の向上をもたらす。これは成長産業のモデルであり、企業間の厳しい競争と市場の拡大が循環している場合、生産力=生産性の拡大は至上命題となるだろう。
例えば例に挙げた「コメ」。食べ物という商品は、いくら価格が安くなっても食べる量がそんなに増えるわけではない(かと言って不足すると大問題)。コメにしろ野菜にしろ
、需要量に対して供給量が10%上回っただけで、価格は20~30%下落したりする商品だ。つまり農業の「生産力」向上は「生産性」を減少させる。(蛇足となるが、TPPの議論
などで「農業の生産性を上げれば万事上手くいく」と言っている論者には、量と価格の関係を厳密に区別できていない方が多い)
さらに、「需要」が拡大しない産業における「生産力」拡大は、単純に失業者を増やす。なぜかといえば100の固定需要に対し、それを満たす供給量の生産に必要な労働力が減る
からだ。生産力が向上しているから、より多い生産が不要なら、「働く人が過剰になる」。こうした「特定産業における過剰人口」は、本来であれば成長産業に仕向けられる。
成長産業はその需要が満たされるまで労働力を吸収し、その需要が満たされるよう生産力の向上を図る。つまりよく言う「生産性の低い産業から、生産性の高い産業へ労働人口が
移行」するのだ。、、、だがいま見てきたとおり、「生産性の低い産業」とは単に「需要が満たされており」「且つ生産力向上を図り」「過剰人口が発生した」産業も含まれる。
必ずしも努力や工夫の足りない・低レベルな産業ではないということを留意するべきだろう。
さて、今までのところを整理しよう。
1.「生産力」の拡大が「生産性」の拡大をもたらすのは、価格が変わらない場合
2.「需要」が頭打ちの環境下では、「生産力」拡大は「生産性」の縮小をもたらす
3. 社会全体で需要=成長産業がない場合、「生産力」拡大は失業をもたらす
多くの方がお気づきと思うが、今の日本は完全にデフレ経済=需要不足だ。そうした環境下での「生産力」向上がなにをもたらしたのかは想像に難くない。産業の多くが内需に頼る
この国で、デフレ経済を15年ほども続ければ、企業内での「生産力」向上への意欲が毀損されているのは驚くに値しない。むしろ、厳しい雇用規制により失業者が街に溢れかえる
ような状況が避けられていると考えるべきであろう。(もっとも、雇用規制が新たな成長産業の誕生を阻害しているという論者もいるわけで、循環的な問題を紐解くのは一筋縄では
いかないということか。紐を解くのに縄では足らぬとは皮肉なことだ)
また、アウトプットの量が給与に評価されないというのもご納得いただけるのではないだろうか。これは必ずしも労働者だけの問題ではなく、企業自体が「生産力」向上=「生産性」
縮小というジレンマを抱えているのであり、作ったものが貨幣として実現しないという社会全体の問題を内包していると見るべきだろう。
、、、そして、こうした「モノやサービスの実体的生産」が「貨幣としての生産」に結びつかないという問題は、一国の経済においてより根本的な問題として取り扱われる領域でもある。
http://sencha77.blog.fc2.com/blog-entry-338.html
さて、筆者もこの国の根本的問題は少子化にあると考えているし、少子化に限らずいかに「人間の活動」を活発にするかが社会に幸福に直結すると考えている考えている。しかし
これまでの議論を踏まえると、ひとつの疑問が生ずる。
上で「生産性」を金額による評価基準と定義した。しかし子育てはカネを生むだろうか?残念ながらノーだ。いやノーであるどころか、、、子育てはカネを生み出さずむしろ消費する。
つまり「生産性」で見ればマイナスだ。実際我々はそう感じているのではないだろうか?子供を産み育てれば、それだけお金が必要になるではないか、子育てにかかる金額と子供を持つ
ことによる幸福とはどちらが大きいだろうか、と。いや、子育てに限った話ではない。今や恋愛も、結婚も、はたまた地域へのボランティア活動すら、「カネを費やす消費活動」と
化しているのではないか?
本質的に我々の社会を豊かにするのは「生産力」のはずだ。モノを作り、サービスを生み出し、それを社会の成員と分かち合うことで世の中が豊かになる。しかしそういった「生産活動」
の中には、「貨幣経済」を基に置くものとそうでないものとがある。「貨幣経済」に基を置く活動、一般に我々が「仕事」と呼ぶものは、すべからく貨幣=金額によって評価され、その
評価によってより効率的な生産を志向し、新たな生産物を生み出し、社会全体に流通する。一方で「非貨幣経済」貨幣によって評価をされない活動、例えば家事や、友人との交歓や、
恋愛から結婚まで、お金にはならないが社会に欠かすべからざる活動が行われている。
「貨幣経済」(あるいは市場経済・資本主義)は、あくまで「生産力の発揮」をより効率的に行うのに資する存在であって、それ以上でもそれ以下でもない。事実これまで見てきたように、
社会全体として需要がある限り「生産力」向上が図られてきた。、、、では「非貨幣経済」の効率性はどうだろう?結論を言えば上昇した。家事を例に取ればわかりやすいが、すべて
手作業でやっていた時代から、炊飯器・洗濯機・システムキッチンなどなど「生産力」の向上は著しい。しかし、しかしだ、こうした「非貨幣経済」の活動を支える機械や設備が増加した
ということは、それの購入や維持により多くのカネがかかるということだ。しかし「非貨幣経済」の生産活動自体はカネを産まない。
つまり、「非貨幣経済」においても、「生産力」の拡大は「生産性」の縮小、、、というよりマイナスへの増進を意味する。そして「貨幣経済」においては失業者が生み出されたが、
こちら「非貨幣経済」においては、マイナスとなったカネの補填が絶たれるが最後、単純にその活動自体が萎縮し、消滅する。
さて、話が随分と大きいところに来てしまった。
上記のような問題を如何に解決するか?については意見がないことはないが、本来の話題から外れるのでここでは省略しよう。ここで主張したいのは、「生産性」を考える上では「カネ」と
「モノ」を厳密に区別するべきということだ。そして「モノ」の生産は必ずしも「カネ」として実現しない。それは「貨幣経済」においては「需要」(…同じく「モノ」単位としても観測
されるべき)との関わりのため。そして「非貨幣経済」においてはもともと「カネ」でその活動を評価していないためだ。従っていかに社会を豊かにするかを考えるときは、まず「モノ」的な
個人的には、貨幣経済がなくなることはないだろうし、資本主義に限界が来たとも思っていない。しかし、それらはあくまで社会全体の機能の一部として位置づけられるべきものであり、
その一部にすぎないセクターの「カネ」という評価基準をありとあらゆる部面に適応させるのは、おそらく「非貨幣経済」の縮小で見たとおり、我々の生活を徒に貧しくするだけに終わる
だろうと思うのだ。
なるべく短く、平易にまとめたため、こうした分野を専門に取り扱っている人なら「なんて適当な内容なんだ」と思われること請け合いの論となっている。例えば価格下落は実質賃金の上昇を
もたらすとか、失業者の増加は人件費を引き下げ新たな均衡をもたらすとか、はたまた供給は需要を作るから需要不足は社会的に起こりえないとか?
また私個人としても、未だ考えのまとまっていない領域が多くある。「質」の向上は「生産性」に結びつくか?社会的に見て「余暇」と「失業」は何が違う?海外貿易による影響は?貨幣に
とはいえ、一般の方々へ思考の枠組みとして「生産性」と「生産力」の区別とその必要性は明快に提示できたと思う。また、単一企業視点にとらわれず、マクロレベルで「生産力」と「需要」を
見なければ、我々が抱く本質的な課題には接近できないこともご理解いただけると思う。筆者個人としては、後半の「貨幣経済によらない生産活動」というところをもう少し掘り下げたいが、
私的にまとまっていないこともあり、簡易に付した。当論がネット界隈の皆様方にとって有益であればありがたい限りであるし、私個人としても皆様の様々なご意見・反論を得たいという気持ちに
溢れているということをご提示し、筆を置きたいと思う。
もうすでにそうなってるから、どうにもならんだろうね。
ほんと、真面目な話どうにかしてよとはおもうよ。
東電とかがそうだけど、中間世代がごっそりいないなんて揶揄されるのがなぜかといえば、そういうこった。
がんばっちゃいけない、努力しちゃいけない国なんて珍しかろうに。
いや、家族を守るために、友人を見捨てるなら