はてなキーワード: 泥縄とは
辞書的に言えば「市民的公共性とは、ハーバーマスが『公共性の構造転換』(1962)の中で提唱した概念。ホルクハイマーらの『人間の理性が頑張っても幸せにならないんじゃないの? だってナチスとか出てきたし』という悲観に対するカウンターとして提出された。ハーバーマスにとっての公共性は人間が自由平等連帯で幸せになっていくためのベースとして存在している」といった感じ。
~性というのはいかにもベースとして弱そうだが、ドイツ語のÖffentlichkeitは「Public sphere=公共圏」と訳すこともできるというかこっちのほうが適切だと最近は言われている。なので以下では基本的に公共圏で統一する。
それはハーバーマス自身もよくわかっていないようである。その証拠に大学図書館には「公共圏ってたぶんこういうのだと思います(こういうものだったらいいな)」という本が溢れている。たぶん最大公約数的には「まあみんなで議論する場は必要だよね」というあたりで理解されている。
しかし、この「みんなで議論する場」というものが曲者である。人類の大半の歴史上、「みんなで議論する場=公共圏」には男性だったり社会的強者だったりという入場パスが必要だった(今でもそうかもしれない)。しかしそれは今日の価値観から見れば明らかに間違っていたわけで、その間違い(入場パス)と長い間仲良しだった概念を自由で幸せな社会のベースに据えていいのかという問題がある。
ハーバーマスは彼が理想とする市民的公共圏がどういうものであるかは、少なくとも『公共性の構造転換』の中では(たぶんそして今日に至るまで)ふわっとしたことしか言っていないのだが、どういうものでないかはこれ以上ないほどに詳しく論じている。一見いかにも学者らしい無駄っぽく思えるが、「こっちに行ってはいけない」というガイドブックでもなにもないよりはましである。たぶん。
本稿では、「昔の(入場パスつきの)公共圏にはこのような批判がありました」とハーバーマスが論じている部分を検討し、その批判が千田氏の立場にブッ刺さっていることを確認する。その結論として、千田氏の「市民的公共性」という用語の用法がいかに不適当ないしド適当であるかを示す。
以下ではハーバーマス(細谷貞雄・山田正行訳)『公共性の構造転換』の第四章 第一四節「公共性の弁証法によせて――ヘーゲルとマルクス」に基づいて議論を行う。
ヘーゲルは入場パスと公共圏の関係を真っ先に疑った人であった。とはいえヘーゲルも最初からブチ切れたりはしない。「公論(公共圏における論議、もしくは公共圏そのもの)っていいよね、合理的だし」というところから話を始める。でもその合理性って自由主義がベースになきゃ成立しないよね?(みんなが自由に意見を言えることが前提なので)、でもその自由主義って本当に公共圏とそこまで相性いいだろうか?とヘーゲルは問う。考えてみればこの矛盾は明らかである。司会のいない多人数の会議を考えてみればよい。地獄である。間違いなくそこに自由はある。なのに(だから?)地獄である。
このことの地獄性は会議室を超えて社会とか国家とかのスケールになるとより増す。例えば少数者差別を考えてみればよい。これはみんなに「自由に」議論させてるだけではそもそも議題にすら上がらないだろう。そうして公論はきらきらした合理性の賜物から「多数者の主観的私念」という水準へと転落する。公論は「自然に生じた不平等を止揚するどころか、むしろこれらを技能、財産、さらには知的倫理的教養の不平等まで深めていく」。入場パスを持っていない人はより不利な位置に、持っていても少数派の人もまたより不利な位置に、公論によって追いやられる。
まあとはいえ人間も頑張るもので、法治国家とか市民社会とかを作って頑張って公論して私念から理性に支配権を移そうとするのだが、ヘーゲルいわく土台が腐っているのに頑張っても泥縄だそうである。そうした頑張りはむしろ国家に主観的私念を入り込ませる結果になるとヘーゲルは言う。じゃあどうすりゃええのよって言えばヘーゲルは最初から開き直って身分制国家を作れとか言ってそれに対しマルクスがいや社会主義でしょとか言って最後にハーバーマスがいや公共圏を作んなきゃダメだよとか言うのだが、そのあたりは略する。
ともかくにもハーバーマスが描く市民的公共圏というものは、こうした批判をスルーしては論じることができない。ここで重要なのは、ハーバーマスが公共圏をどのようなもの「ではない」と考えていたかということである。以上見てきたようなヘーゲルの理論は最終的に乗り越えられる(ということになっているが詳しいことはやはり不明)のだが、であるからこそ少なくともヘーゲルが批判したそのままのことをやるのがまずいというのはわかっている。
まさにヘーゲルが批判した地獄の公論をインターネット上に出現させようとしているのである。
私自身は「表現の自由」は国家から規制されるべきものではない、とは思う。でもそう思うからこそ、国家から規制されるまえに、「市民的公共性」を発達させないといけないと思うんですよ。
あと表現って、さまざまな他者への配慮のなかでこそ磨かれていくものだと思う。フリーハンドの表現なんてない。https://twitter.com/chitaponta/status/1047451777220501504
市民的公共性の話って、ハーバーマスのつもりだったんですが…。https://twitter.com/chitaponta/status/1047789073471946752
市民的公共性は対話によるものですから、そのことを話し合うことが大切だと思います。
いままさに起きていることが、市民的公共性なのではないでしょうか?https://twitter.com/chitaponta/status/1047810256976269312
まず第一に、専門用語を「」で括って注釈なしに使うのはおよそハーバーマスの「市民的公共性」的態度ではないといえる。なぜならこれこそヘーゲルが批判した「自然に生じた不平等を(略)知的倫理的教養の不平等まで深め」る態度にほかならないからである。
そして第二に、ハーバーマスの議論は上のような「話し合えばそれが公共性」というような安易な理解を拒絶するものであるということを千田氏はまったく理解していない(か理解していても無視している)。上で見たヘーゲルによる公共圏批判からもわかるように、ハーバーマスの議論は「公共圏にはあれやこれやそれや…の批判があるけど、でも、それでも公共圏がなければ人間は幸せにはなれないんだ」というひねくれたものであり、単に「話し合いが重要だよね」と言っているのとは違う。仮に結論は一緒だとしてもやはりそれは違う。その違うものを一緒くたにして、専門外の人に「話し合い=市民的公共性」という理解(そんな人のいい理解をしている人はほとんどいないようだが仮に字面だけ虚心に読んだとして)を植え付けることが、ほんとうにハーバーマス的であるといえるだろうか?
第三に、「思う」根拠が示されてない。少なくともハーバーマスは「国家の規制を前もって回避するために市民的公共圏を発達させるべきである」というような具体的な議論はしていないはずである。であるとすればこれは千田氏のオリジナルのアイディアが含まれているはずであるのだが、それがまったく説明されていないのと、先に述べたようにそもそも専門家間ですら扱い方に差がある「市民的公共性」という単語のせいで、最初のツイートの二文目は全く意味不明なものと化している。原理的に誰にも意味が伝わらないはずのもので炎上しているのはお気の毒というほかないが、であるからこそ千田氏は「市民的公共性」の意味と「思う」理由をしっかりと説明してほしいと思う。
(2021/2/7追記)書きました anond:20210207093448
https://note.mu/chidaism/n/n30420b2066d8
※安倍内閣の対応が適切かどうかは評価・検証していません。あくまで評価基準が違うんじゃないの?という話です
必要な仕事さえやっていれば飲み会してようが関係なくないか?飲み会に参加してようがそこで仕事してりゃいいじゃないか。
評価は
・過去の事例との比較で対応が後退していないか(参考http://www.bousai.go.jp/kaigirep/wg/saigaitaisaku/pdf/dai2kai/shiryou2-3.pdf)
安倍内閣の対応を検証するなら「空白の66時間」が本当に空白であったかの検証が必要ではないか。
"自衛隊を動かす最終決定権は「シビリアンコントロール」に基づき、防衛大臣、総理大臣にあります。そして、この2人が同じ空間で酒を飲んでいたわけです。これでリスクヘッジができていると思える人は、おそらくこの世にネトウヨぐらいしかいないと思います。"
裁量を持つ人間が現場じゃなくても二人揃っていりゃそっちのほうが話は早い。ITが発達した今、どこか特別な場所にいなければ指示が出せないという方がおかしい。
情報量が膨大になるときはやはり大きなスペースや設備が必要になるがそのための省庁ではないか?非常時になるからと言って最初から長が出張る組織ってのは何の備えもしていない脆弱な組織だ。
むしろ安倍総理が鼻くそほじりながら「オーケー、オーケー」と言ってヒマこいてるうちになんでも物事が進んでいくのが理想の組織というものだろう。
組織の長というのは『自分が何もしなくても物事が適切に進んでいく組織』を作るのに日々努力するべきで、非常時に張り切って働くのは泥縄と言うしかない。
"本来なら、すぐさま非常災害対策本部が設けられ、自衛隊を動かし、可及的速やかに人命救助にあたるべきでした。"
災害にはまず地方自治体が対応するし、自衛隊に出動要請をする(参考 http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2006/2006/html/i3251000.html)
(ア)要請による派遣(一般的な派遣形態) 災害派遣は、自衛隊法第83条の規定上(資料75参照)、都道府県知事などからの要請により部隊などを派遣することを原則とする。
(イ)自主派遣 防衛庁長官又は長官が指定する者は、特に緊急な事態で、要請を待つ時間がないときには、要請がなくても、例外的に部隊などを派遣することができる。
私の記憶では発災前に当たる段階で地方自治体が自衛隊に派遣要請を出しているところもあった
政府が地方自治体を飛び越えるような例外的なことを"本来なら"と言っているので評価としておかしい。これは機能不全に陥った地方自治体があることが前提ではないと成り立たない。
"非常災害対策本部を設置したものの、安倍総理ご本人はとっとと家に帰ってお休みしていたのです。"
非常災害対策本部の長は誰ですか?まさか総理大臣とか思ってませんか?
災害対策基本法第二十五条 非常災害対策本部の長は、非常災害対策本部長とし、国務大臣をもつて充てる。
非常災害対策本部長は国務大臣ですよ。つまり適切な国務大臣を任命すれば後は家に帰って屁をこいててもいいでしょう。むしろ余計な口を出して頭が二人いる状態のほうが害悪です。
外務大臣を任命してたら吊るし上げましょう
以上、「皆が大変だから飲み会やめよう」「皆が大変なんだから残業しよう」みたいな評価や地方自治をないがしろにするような物言いに腹が立ったので書き散らしました。
重ねていいますが安倍総理の対応が適切だったかはわかりませんし、その検証もしていません。
言われる前(言われる前に誰も見ないだろうけど)の追記
Q・他の政党の飲み会はいいの? A・よろしいと思いますよ。行政府じゃないんだから発災時に何ができますか?仕事のフリをするより飲み会の場で情報交換をしている方が有益です
若返り好きなのは方針だから、良し悪しはいいとして、ベテラン差し置いて、
未経験の若手マネージャばかりになると何がおきるのか想像できないのは、情けない。
ベテランが冷遇されるのをまじかでみている若手が、どんどん白けてくる。
何か問題が起きれば、現場の担当者のせいって会話をマネージャ間だけで、こそこそ
やってるけど、そういう会話って、漏れ伝わってくる。
自分で何も判断できないから、必ず、どこかの誰かが悪いって論調に、わかてと呼ばれるマネージャが
発言すると、あ~って、白けてしまう感情は人間だから止められない。
そして人事は、年上の部下とのコミュニケーション研修を、(たぶん)外部コンサルに高い金払って
個人的に縁も思い入れもあるし知人もたくさんいるから心が痛い。
そんでまあ、こんな時にもTwitterをダラダラ眺めてんだけど。
もう原発憎い奴はなんなんだよ。
すでに熊本に震度7なんて、想像だにしない状況になっちゃってる。
でもさあ。
俺今、愛媛にいるんだよね。
今は感じる地震もほとんどないけど、明日はわが身なんじゃないかって、
正直気が気じゃないとこもあるんだよ。
家も、丈夫だけどかなり古い。
もし今回このまま収まっても、
今後いつ近場の断層で同じことがあるのかわからないって気持ちを
抱えてかなきゃならないって覚悟はしてる。
冷静なつもりでいるけど、怖いのは怖いんだよ。
Twitter見てると、原発止めろって話がTLに流れてくるし、
川内原発の震度が報道されないって、原発守るのに必死すぎだみたいな論調とか、
ここぞとばかりに叫ぶアカウントもいる。
それを見ながら思うよ。
この人達は、口を揃えて、
伊方原発の話をするんだろうなって。
伊方の稼働予定をあきらめろって話をしまくって、
忙しい人達にキレられて、
そのことに不平不満を言ったりするのかな、
くらいのことは考える。
俺だって伊方のことは怖いよ。
でも県内の人間として、正直、やれることはやってるように思える。
できることはないと思ってるよ。
あと、そういうのをたしなめてくれる人たちもいるけど、
それはそれで辛いとこもある。
知ってる街並みなんだよマジでキツいわ。
あの時の揺れの恐怖がだんだん蘇ってくる感じもあってしんどいわ。
しばらく余震が続くのは辛いんだよな。
介護ってのは本当に大変だ。(俺が主でやってるわけではないんだが)
詳細は省くが、「この人がいなければ、どうだろう」などと思ってしまう。
比較的重度の人を介護してるご家族は、一度は同じようなことを思うんじゃないか。
ちょっと極端だが、介護が長引くと、介護する側とされる側のどっちが先に倒れるか、という様相だ。
もちろん楽しい出来事が無いわけではないが、楽しみ続ける、というのはさすがに難しい。
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近頃、障害者がタレントと一緒に何かを頑張る、といった映像を時折目にする。
あの手の映像は、本当に同じ障害を持つ「家庭」を元気づけているのか。
テレビの中の障害者と家族に比べ、自分たちは何も出来ていない、と劣等感を植え付けるだけじゃないのか。(特に家族に)
どうにかしたい、という気持ちは、どの家庭にもある。だが、それだけじゃどうにもならない事もある。
でも、どうにもならないと分かっていても、それでも「何もしてやれない」と劣等感を感じるのが家族なんだよ。
まぁテレビなんだから、「嫌なら見るな」と言われればおしまいだし、必要な部分もあるのは分かる。分かるんだけど、ね。
実際はドロドロした、マイナスの感情の中で、それでも「絆」という泥縄につかまってるようなもんじゃないかな。
キレイ事なんて、糞食らえだ。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11251769.html
ワールドカップはおろか、サッカーに関する記事のなかでこれほどまでに無知蒙昧、盲目、的外れのくせに上から目線な記事は初めて読んだ。
全文を読む為には登録しなきゃいけないところをみると炎上商法か?
以下、興味ある方向けに全文をコピペします。こんなクソ記事読むために登録なんて誰がするか、誰がさせるかクソ朝日。
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サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会が終了した。熱戦続きだったが、「なぜ、開催国ブラジルはドイツに7点も奪われたのか」「なぜ、日本代表はまったく精彩を欠いていたのか」など、さまざまな謎も残った。映画評論と共に、斬新な視点からのスポーツ評論でも知られる蓮實重彦さんに、謎解きをお願いした。
――今回のW杯、特に決勝トーナメントに入ってからは、一部の試合を除き、なかなか点の入らない展開が目立ちました。素人が見てもワクワクするような試合をもっとやって欲しかった、という思いもあります。
「国民や国の期待を背負うと、どれほどスポーツがスポーツ以外のものに変化していくか。それを見せつけられた何とも陰惨なW杯でした。サッカーとは本来『ゲーム』であり、運動することの爽快感や驚きが原点のはずですが、W杯は命懸けの『真剣勝負』に見えてしまう。お互いもう少しリラックスしなければ、やっている選手もおもしろいはずがないし、見ている側も楽しめない」
「『ゲーム』ではなくなるからです。ましてや負けないための真剣勝負など、見ていて興奮するはずもない。前回2010年の南アフリカW杯で、日本代表の岡田武史監督は大会直前、徹底的に防御を重視した『負けないサッカー』へと泥縄的に方針転換しました。確かにそれで1次リーグは突破できましたが、『1点でも奪おう』というサッカー本来の精神からは、ほど遠いコンセプトだった。今回3位になったオランダ代表は、まあ前線にファンペルシーやロッベンがいるからでしょうが、5バックというさらに防御重視の戦術で、まるで『岡田ジャパンのなれの果て』のようにさえ見えました」
「勝ち上がるのを最優先すれば、どうしても『岡田化』が進む。今後はさらに防御重視の傾向が強まるでしょう。しかし、サッカーはどちらかが防御に徹すると、ゲーム自体が成立しなくなる。日本―ギリシャ戦はその典型です。運動の快さを放棄してまで、国が期待する勝利にこだわる。そんな『スポーツの死』には付き合いたくない。W杯はそろそろ限界だ、とつくづく思いました」
「国を背負うとどこか血生臭さも出てきます。その一例が、コロンビアの選手がブラジルのネイマールの背中にひざを入れ、骨折させた場面です。故意かどうかという問題ではなく、国のために死にものぐるいでプレーすると、ああいうことが起きてしまう。他にもずいぶん負傷して血を流している選手がいました。観客の皆さんは、あの血生臭さにもう慣れてしまったのでしょうが」
「ザッケローニ監督は、日本のサッカーのためにある程度までうまくやったと思います。岡田監督とは違い、前々代表監督のイビチャ・オシムが作った流れを壊さなかった。私はオシムが率いていた時代のジェフ市原(現・千葉)の、攻守にわたり選手たちがダイナミックに動くプレーを見て、日本でもサッカーが見られるんだという喜びを感じました。ザッケローニにも『みんなが走り、気持ちよくサッカーをしないと意味がない』という姿勢があった」
「問題はそれを十分に実現できなかった選手の方です。私は前回の日本代表について、岡田監督の急な戦術変更にもかかわらず、選手たちの『運動する知性』が想像以上に高かった、と評しました。選手たちが無言のうちに素晴らしい連係を達成したり、味方をも欺くようなはっとさせる動きを発想したりする知性のことです。前回は、松井大輔からそういうトリッキーな動き方を感じたのですが、今回はみんながまじめすぎた。少なくとも大久保は、もっと不まじめでもよかったのではないか。市原でオシムに鍛えられた前代表・阿部勇樹のように、『失点のリスクをつぶす責任はオレが負うから、君たちは好きにやれ』という人もいなかった。知的な面では退化していた、と言わざるを得ない。それでも、岡田サッカーで勝つよりも、ああいう負け方の方が日本の未来にはよいことだと思います」
――本田の「目標は優勝」という言葉とは、かけ離れた結果でした。
「本田の発言の真意は分かりませんが、多分『そうでも言わなければやってられない』という思いがあったのではないか。『オレたちはどこまで伸びられるのか』ということを意識的に試そうとしている選手が、彼以外にはあまり見あたらなかった。そんな仲間たちを鼓舞しなくてはいけない、と思ったのでしょう。ただ、本田自身も、勝利へのこだわりが動きの柔軟さを奪っていたような気がします。それでも1点を取り、1点をアシストした。彼が日本代表の最低限の名誉を守りました」
――誰もが国を背負い、勝利にこだわりすぎたW杯だった、と。
「サッカーの魅力は『うそのように思いがけないことが、ピッチで起こる瞬間を目撃すること』ですが、今回それを味わわせてくれたのは、オランダ―スペイン戦におけるファンペルシーのヘディングシュートだけでした。決勝戦でのドイツ・ゲッツェのシュートは確かにみごとでしたが、ああいう場面で輝くのは真のスターでなくてはならず、まだスター予備軍のゲッツェが決めても、私たちを驚かせることはできません」
「1カ月も大会を続けていれば、その間に必ず愉快でおちゃめな選手が出てくるものですが、今回はそれも不在でした。唯一、相手選手にかみついたウルグアイのスアレスには一種のかわいげを感じましたが、おちゃめと言えるかどうか。02年の日韓W杯で、ブラジルのロナウドが前髪だけ三角形にそり残した奇抜な髪形でプレーし、優勝トロフィーをさらってしまった。そういう『変な人がおちゃめをしながら勝つ』という楽しさもなく、みんなが必要以上に本気になってしまった」
「一方で『見たことを一刻も早く忘れたい』という瞬間が多すぎました。世界最高GKの1人、スペインのカシリャスはオランダ戦で5失点した。彼があんなによれよれで崩れてしまう、という場面は決して見たくなかった。ポルトガルの対ドイツ戦での惨敗にも目を背けたくなりましたが、極め付きはやはり準決勝のドイツ―ブラジル戦です」
――ブラジルが7失点。目を疑いました。
「あれはもうサッカーではない。ドイツが7点も取ってしまったことは、果たして成功なのか。もちろん、勝利したという点では成功なのですが、『サッカーをサッカーではないものにしてしまった』という点においては、醜い失敗だったとしか思えません。誰かがドイツ代表の精神分析をやらなくてはいけない。どこまで点が取れるのか、面白いからやってみよう、というぐらいの気持ちになっていたと思うのですが、どう見ても7点も取ってはいけない。何かが壊れるし、人の道から外れているとしか思えない」
「サッカーから運動の喜びを奪うW杯という枠組みが、選手たちの精神とゲームそのものを、いかに異様なものにしてしまっているか。それを象徴する試合でした。サッカーは死んだ、と思いました。前回のW杯でも、国を背負うことの問題は至る所に現れていましたが、それでも決勝、準決勝は緊張感のあるいい試合でした。それが今回のW杯では、なくなった。次回のW杯まで私が生きているかどうか分かりませんが、確実なのは『もう、徹夜をしてまでは絶対に見ない』ということです」
■ ■
「実は今回のW杯では、二十数年ぶりに心から応援するチームがありました。ボスニア・ヘルツェゴビナ代表です。1914年に同国の首都サラエボで起きたオーストリア皇太子暗殺事件が、第1次世界大戦の引き金になった。それから100年。20年近く前まで殺し合っていた三つの民族が、オシムの尽力で一つのチームを作り、W杯に参加した。これはもう、応援するしかない」
「最初の対アルゼンチン戦で、敗れはしましたが、イビシェビッチがチーム初得点を決めた時には、わがことのように泣きましたね。最後のイラン戦で初勝利した時にはまさに『オシム流サッカー』という感じの躍動感にあふれた闘いぶりで、その華々しさにまたも涙しました。この年になって真夜中に何をやっているんだろう、とも思いましたが」
――蓮實さんは、スポーツの世界に、スポーツ外の浪花節的な物語を持ち込むことを嫌っていたのではなかったですか。
「いや、これは私個人ではなく、人類の問題なのです。サラエボ事件100年ですよ! そこから来ている代表が民族対立を乗り越え、W杯で初勝利した。その奇跡を、日本と関係の深いオシムが実現させたことを、心から祝福するべきなのです。そしてボスニア・ヘルツェゴビナがオシム流のサッカーをさらに継承し、将来のW杯で魅力あふれる運動感をピッチに行き渡らせる。これは私のロマンチックな願望です。そうなれば、W杯をまた熱心に見ることになるかもしれませんね」
(聞き手・太田啓之、金重秀幸)
*
はすみしげひこ 1936年生まれ。東京大教授、教養学部長、総長を歴任。著書「『ボヴァリー夫人』論」「表層批評宣言」「スポーツ批評宣言」など多数。
大学に入って、飲み会という文化が始まり、相対的に観た自分の社交性の無さをまずいと思い、呼ばれた飲み会はすべて参加し、どんな会話をしているか、どんな相槌を打てばいいかを、ストレスでお腹を痛くしながら勉強した。
社会に出て、目上の人とうまくつきあう方法がわからず、試行錯誤して、人ごとに反応が良かったリアクションを元にコミュニケーション法を研究し、構築した。
職場の飲み会は、大学の飲み会とは違うから、また勉強した。気を使いすぎて気持ち悪くなり、食べ物を受け付けず、空腹に酒ばかり流し込んだり。飲み会からの帰り道は毎日一人反省会。
そんなの普通なんだろうけど、根本的に他人の感情に興味がないスキゾイド人間の泥縄作業だからストレスが溜まるし、アラが出る(気質を言い訳にするのは良くないが)。
そしてそんな風に必死に構築してきた自分を、ある知人に冗談交じりに「コミュ障」仲間にされ、どうせお前の過去は黒歴史の連続だろう、と。
そんなに、私は滑稽か?駄目か?
それならそれで構わないけど、なぜ私にそれを言う必要があるんだろう。
私のことを嫌っている様子ではない。
私のことをわかっているアピールか?
それとも、親近感を持っていた対象がコミュニケーションをスムーズに取れるようになって面白くないのか?
酒が入って、年下の異性に甘えているのか?
いずれも否定できない。
上記を踏まえると、劣等感を埋める自己愛のための同一化&投影、とかもありそうな感じ。
その人はその人で苦労しているんだろうけど、引きずりこむのはやめてくれ。
これも貼っとくワ。5-6ページ
③2012年10月、CDBは新任の研究室主宰者(PI)の公募を開始した。公募では、特に幹
細胞研究者の採用を掲げていた。11月14 日のGD会議後の公募人事に関する非公式な打合
せの中で小保方氏が候補となり、その結果をふまえ西川副センター長(当時)は小保方氏
に新PIに応募するよう打診した。
④西川副センター長(当時)の打診に対し、小保方氏は応募の意向を示したものの、重要
な応募書類の提出が締切日に間に合わず、選考にあたる CDB の人事委員会のメンバーは
12 月21日の面接セミナー当日、応募書類を受け取った。さらにこの段階では応募に必要な
推薦書が添付されていない状況だった。
このため人事委員会は、事前に過去の論文や応募書類の内容を精査しないまま、また研
究能力についてハーバード大学/ブリガム病院C.バカンティ氏、東京女子医科大学の岡野光
夫教授、大和雅之教授らからの推薦書による確認を経ることなく面接セミナーを行い、小
なお人事委員会は、STAP 研究は秘密性が高いと判断し、小保方氏については、通常 PI
の候補者に対して行っている英語による公開セミナーを省略したが、さらにこれに代わる
また人事委員会は、若山研究室における客員研究員としての小保方氏の研究活動について
も聴取しなかった。
2012年10月いうたら、山中さんのノーベル賞受賞が発表されたときや。
そこへこの泥縄や。
まあ、推薦書が先に来たから言うて、
発展途上国は多かれ少なかれあるらしいが、金持っている家は、金のない両親、兄弟、親類縁者まで援助するのが当たり前っていう助け合いと言えば聞こえがいいが、援助させられる方から見れば「たかり」的なのがひどい場合も多いって聞くが、そんな泥縄で結婚して大丈夫か?何かにつけて援助を求められる事があるって聞くけど。
フィリピンもそういうの多いって聞くけど、本当に冷静に判断できるもんか?
まぁ、日本人だって0とは言わないし、支援を求められる事は(それこそ生活保護の扶養とかそういう感じみたいだし)あるかも知れないが、やっぱり割合は全然違うと思うよ。
100万円賭けてもいい。
今の高齢零細コメ農家が引退ないし死亡し、その子供の多くは非農家で跡を継がない。
「農地が秋田にあって、相続人たる子供が東京」とかだと、子供も兼業できないから、そのまま耕作放棄へ。
政府は「大規模農家が不在地主農地を集約する」と絵空事を言ってるが、
散在している零細農地が複数になったところで効率は上がらない。
農地がまとまっていたら(散在してなければ)多少はスケールメリットが出るが、
「300m離れて零細農地、また700m離れて零細農地」とモザイク状に飛び飛びだと、非効率なママ。
引退農地、相続農地は、政府の都合のいいように「連続して出現」してくれない。
実際には
「2014年には1200m離れた農地が引退で空き、2016年には700m離れた農地が相続で空く」
「自分の隣の農地に空きが出た」のなら、意欲ある農家はその農地も取り込んで規模拡大&効率化するかも知れない。
だが「自分の隣の隣の隣の隣の農地」なんかだと、大して効率上がらないから、積極的に拡大に走らない
逆に言えば、引退&相続農地の「お隣さん」が、若くて積極的な農家だったら借り受けてくれる可能性あるが、
「お隣さんも数年後にリタイア予定」とかだったり「お隣さんも兼業農家で、拡大意思なし」だったら、まず借り受けてくれない
そもそも、相続に発展してしまった場合、相続手続が完了しないと農地貸し出しが出来ない。
相続手続きや登記手続きは義務じゃないから、二束三文の農地の相続手続は放っておく遺族も多い。
農地の経済価値より、相続手続費用の方が高額と言うバカバカしいケースだと、まず放置される
(遺族の中に認知症患者がいて、相続手続きが一向に進まない、というケースも多い)
「ちゃんと遺産分割協議して、相続手続を終えて、更に農地貸し出しに至るケース」の方が少なくなってしまう。
農水省はちゃんと、
零細コメ農家の年齢構成、平均余命、相続手続率などに基づいて、
「2020年/2030年の営農農家数」「2020年/2030年の予測コメ生産高」をシミュレーションしてるのか?
甚だ疑問である。
日本が半導体王国・電機王国で、アメリカ相手に貿易黒字を積み上げていた時代に、
「日本の半導体・電機が衰退し、日本は貿易赤字に転落する」と予言したら笑われていただろう。
だが実際はその通りになった。
だが確実に足らなくなる。
20●●年、コメが足らなくなった時点で、農水省はどう対策するのか?
泥縄で農業参入を促進しようとしても、「翌年からコメが取れる」と言う訳には行かない。
工業やサービス業なら、訓練研修時間は短いから、急遽対策できなくもないが、
農業の場合「年に1回しか収穫できない」と言う農業の特性上、急遽対策しても
対策が奏功するのに数年掛かる。
はてブをリングサイドとして、2013年買ってよかったもの合戦が始まった。
後出しのほうが、質は上がっていくだろうから(例えば使っている写真を張るとか)
今あえて最底辺から苦言を呈する。
ブロガーたるもの無知蒙昧な衆愚を啓蒙する高い志を持ってもらいたいからだ。
今よりも高い水準を要求して余りある能力をお持ちだと信ずるからだ。
これはつまり、我儘というやつだ。
アタリマエのことは省いて欲しい
TIPSは血肉があってこそ
「自動車買ったら世界が変わったよ!やっぱレンタカーともタクシーとも違うな!」
どうだろう。
発言した人間との関係性で反応は異なるだろうが、余程でなければ苦笑いだろう。
もちろん、これが電気自動車であるとか、もっと言えば明治時代に馬車から乗換えた元公卿とかなら判らんでもない。
今あえてルンバを出す価値や、MBAを出す価値が有るだろうか。
アタリマエのことの集合体が意味を持つTwitterのさえずりとは違うだろう。
一つ一つのさえずりは小さくとも、バルスの大合唱は世界を揺るがす。
しかし、ブロガーは合唱団の一員ではなく、孤高の演奏家だろう。
大衆に紛れて声を上げる煽動者ではなく、先導者であって欲しい。
余程のことがなければ、それはそっと追記すれば良いだけだ。
そもそもコンナ偉そうなことを書く価値があると感じたのは、このブコメだ。
現物の写真を撮ってるのに他のサイトとかぶってるという指摘すごいなー。独自性を出すためにチョイスを変えるとか本末転倒だし、記事書くためにわざわざ別の何かを買ってくれば満足なのかな。
実に鋭い切り口で本質を見せてくれる。鋭すぎて傷の治りが早そうだ。
オレのリストは他人とかぶってるつまり通り一遍のリストだと婉曲的に表現するときに僕も使いたいと思う。
珍奇なものをワザワザ買ってくれば良いのか?という所が凄い。素晴らしい腕をお持ちだ。
なかなか返す刀で「オレはどうせワザワザ買ってこないと他人と被る普通の感性だよ≒オマエはどうなんだよ」とは言えない。
精進したいと思う。
つまり、買ってよかったものリストというのは、その人間を表すものだ。
なかなか買えない高いものを買ったからレビューしてやろう、というのも人間性だ。
安くてちょっとしたものでも生活が変わったならそれをリストに加えて欲しい。
そうすれば「安くてチョットしてものをリストに加える人」なんだと判る。
他人の本棚を覗くような、その人となりを如実に表すバロメーターだ。
TIZEN特集の雑誌が並んでいようとも、Nokiaの仕様書やMeeGo解説書があればその人への評価を改めるだろう。
高くて良い物を買って高いだけあって良かったと叫ぶのは我々で良い。
2013年を総括する、彼にとってこんな1年だったと示して欲しい。
前半Disったように聞こえると本義ではないため、弁明しておこうと思う。
N-Styles(あれっくすさん)のリストは後半流れるように素晴らしい。
人からモノをプレゼントされる人柄、それに引きづられるように泥縄で増えるグッズ、
さすが老舗、(通称)人間がダメになるソファの写真で如何にもなダメさを魅せつけておいて、
Vitantonio マイボトルブレンダーの写真に、テーブルの角のクッションを映し込む感性。
年会費1万円のアメックスゴールドカードに入っても旧料金法人会員プランがお得なのは、
コレこそがあれっくすさんの2013年を振り返り、2014年を感じさせるリストだと言える。
ルンバが見たいのではない、遅刻しないコツからあれっくすさんを観たいのだ。
「床に物を置かなくなる」みたいなのは、Twitterで我々愚民が呟けば良い。
Amazonのリンクを我々が踏むのは、「まとめ」を見たからではない。
購入を通じてブロガーと一つになりたいという
雨後の筍のごとく2013年買ってよかったものリストがまだ出てくるんだろうが、
取り敢えずで書いたそのリストにはそのブロガーそのものが出るぞ。
心せよ、
編集権は所有者に帰属するというのは新聞社自身の主張だから、子会社の編集物である週刊朝日の件で朝日新聞社が責められた点は橋下側が正しい。
編集権は朝日新聞社にはないから、といった朝日新聞の記者の言い訳は通用しない。
でも、週刊朝日の記事内容を朝日新聞社がチェックしたりなど出来ない、というのももっともな話である。
これは、日本新聞協会が公表している編集権の概念が、泥縄で作られたせいで現実とうまくマッチしていないという問題であるのだから、そこをまず直すべき。
そうすれば、
「朝日新聞社は朝日新聞出版の刊行物の内容までは干渉できない、なのでそれを理由に取材拒否をされる言われはない。ただし、朝日新聞出版が問題のある記事を書きそれが元で週刊朝日が廃刊されたような時には、経済的な不利益は所有者として当然受け入れる」
と堂々と言うことが出来るようになる。
http://anond.hatelabo.jp/20120906173209
不正競争防止法についてはチェックしてませんでした。「知財」関連の法律で見てたので。
不正競争防止法はどっちかと言うと商業としての争いに当たるため、調べたことが無いです。
と言う事で、タイトルに偽り有りでしたね。突っ込みありがとうございます。
まだまだ私も甘いです。反省。
判例漁りは膨大になるので手付かず。法律をざっとチェックしてみました。
確かに2条1項3号
第二条 この法律において「不正競争」とは、次に掲げるものをいう。
三 他人の商品の形態(当該商品の機能を確保するために不可欠な形態を除く。)を模倣した商品を譲渡し、貸し渡し、譲渡若しくは貸渡しのために展示し、輸出し、又は輸入する行為
しかし、不当競争防止法を用いる場合は、差し止め請求権になるんですね。で、第3条が問題となります。
(差止請求権)
第三条 不正競争によって営業上の利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者は、その営業上の利益を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる。
2 不正競争によって営業上の利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者は、前項の規定による請求をするに際し、侵害の行為を組成した物(侵害の行為により生じた物を含む。第五条第一項において同じ。)の廃棄、侵害の行為に供した設備の除却その他の侵害の停止又は予防に必要な行為を請求することができる。
つまり、「営業上の利益を侵害されている」事を証明しないといけない。
しかし、シャドウハンターズは確か今、絶版なわけで、復活のためのあれこれを動いてる状況では、営業上の利益を侵害されたというのは微妙な気がします。
(適用除外等)
第十九条 第三条から第十五条まで、第二十一条(第二項第七号に係る部分を除く。)及び第二十二条の規定は、次の各号に掲げる不正競争の区分に応じて当該各号に定める行為については、適用しない。
五 第二条第一項第三号に掲げる不正競争 次のいずれかに掲げる行為
イ 日本国内において最初に販売された日から起算して三年を経過した商品について、その商品の形態を模倣した商品を譲渡し、貸し渡し、譲渡若しくは貸渡しのために展示し、輸出し、又は輸入する行為
つまり、「頒布行為」を「実費のみ負担してもらっての、譲渡である」と強弁を取った場合、「模倣品の譲渡」として適用除外の可能性があるのですね。同人って(それが建前だとしても)そういうものだと言い張ることで。
ちなみに、21条、22条は罰則の規程です。
この辺りの「営業上の利益」「適用除外」などの閾値判断がどのようになるかについては、過去判例を漁らないと判りません。
しかし、申し訳ないのですが不正競争防止法関連については調べたことが無いので、即座に閾値がどの辺りか判断できません。
一応の私見では、どー考えても「商売」なので、19条の適用除外になるとは思いません。
その上で、「販売を行っていない品物」に対しての複製販売が「営業上の利益の侵害」に当てはめてよいのかどうかが判らないという状態です。
非常に歯切れの悪い内容で申し訳ありません。
何かの参考なり、調べる足がかりになれば幸いです。
http://anond.hatelabo.jp/20120906181733
その通りです。突っ込みありがとうございます。
私もまだまだ甘いです。文章書くのって難しいです。