はてなキーワード: 屋上とは
「パイプとは魚、つまり足はなくヒレで進む魚である。すなわち足で走ることなどは不可能、無理
しかし、今目の前を足が生えたパイプが走っている。どうしてどうしてこうなった?どうして
俺はただバイトをしていた。水槽を泳ぐ魚を逃げ出さないように監視するバイトをだ。
それで突然、魚がこう…ザバッと水槽から上がってきたと思ったら
あ、あ、あ、脚が生えて、すね毛が生えた立派な筋肉の脚がな
俺の横をドシドシ歩いて行きやがった
もちろん、俺は追いかけたさ。逃げたことがバレたら俺はクビどころか損害賠償まで喰らうからな
だが、奴は追いかければ追いかけるほど早くなった。奴はとにかく走る速度が早く、速くなんだ
魚の癖に俺は全然追いつけなくてその
回想してる場合じゃねぇ、目の前のアスファルトを奴は二本の脚で1歩、1歩、踏み進みやがる。
当然、周りも見る。当たり前だ。しかし、止めてくれる奴はまあったく現れやしない。
ああ、もう、腕がないくせにどうしてこうも早いんだ?!ちょっと俺のペースが落ちた内に奴は10メートルも差を広げてやがる!
行先はどこだ?海か?川か?国会議事堂か?
は、はぉ、はぁ…も、もう無理はしれない
水分も取らずに走ってきたせいかもう喉が砂漠みたいにカラッカラだ。足がガクガク震えている
中には女子高生三人組がいた、俺は注文しないでとりあえず給水器からコップ1杯水を飲んだ
「ねーこれ見てぇ、魚が踊ってるぅ!」
「わーイキッてるー変なのー」
その会話を聞き、俺は飲んでた水を全てコップに吐きだした。いや、まだやつと決まったわけじゃないまだ
…絶望だ、奴はもう踊ってイキるまで知能が成長している。「踊ったパイクがイキリだす」ってか
「ねーねー私俳句考えたんだ」
「えー?どんなの?」
「わー!よくわかんけどすげぇ草」
「盗んだ俳句で語り出す」じゃないんだよ
とにかく早くやつを追いかけなければ
そうして走っていると、電話がかかってきた
まさかと思い、電話番号を見るとあのバイト先のおやじだった。俺に監視を頼んだあの
「は、はい…███ですが」
「ま、まだ見てません…」
ガチャッ…
電話が切れた。どう反応していいのか分からず、俺は満点の星空を眺めながら、覚えたてのタバコを一本ふかした
自由になれた気がした███の夜」
「以上、語り手は魚ことノーザンパイプでした」
おわり
母親は神に祈れだの神の勉強しろだの、俺のことを見る気がない。俺の辛さをわかる気がない。
他の家族も、俺を見ているというより、家族が死ぬというのが嫌なだけ。俺のことなんて見ていない。
周りの福祉関係の職員も仕事だから自殺されたら困るから止めてるだけ。俺のことなんて本当はどうでもいい。仕事だから仕方なく構ってるだけ。もし俺が死んだとしても次の日には忘れてる。
他の人もそうだ。どうせ俺が死んでも面倒なやつが死んでくれてせいせいするとしか思わない。
こんな人生を続けるのはしんどすぎる
早く死にたい
長生きしたところで苦しみが長く続くだけだよ。意味がない。誰も俺のことなんて詳しく知らないし、知る気すらない。別にいいけど。俺だって俺に興味ないし。無価値だから早く死ねばいい。人生の消化試合がこのままダラダラと続くくらいなら、まだ若いうちにさっさと死んでしまったほうが儚くていいだろう。年老いて自殺しても醜いだけだ。このままこの苦しみが続くのなら、死んでしまいたい。どうせまともになれないんだから、死んだほうが早い。人とまともにコミュニケーションがとれないゴミは人間社会にとってどう考えても邪魔で、不要な存在だよ。健常者はみんな障害者なんて醜くて汚くて面倒臭くて邪魔だと思ってるだろう。だから税金を障害者に使うのもこれからどんどん減っていく。どのみち社会的に死んでる存在だ。このまま惨めに終わっていくのなら、早く死にたい。
これ以上歳をとって醜くなる前にさっさと死にたい。
これでもまだ誇りを捨てないでおこうという気概が自分に残っていることに少し驚いた。なんでだろう。今の時点で相当終わってるのに。わからない。何気に自尊心がまだ少しは残ってるのかもしれない。俺がまだ高校生なら、もう少し生きていようと思えたのに。もうあの頃には戻れないし、もう完全に取り返しがつかない。全てにおいて終わってる。どうせ人は死ぬんだから、死ぬタイミングは自分で決めたい。自分の納得の行くタイミング、死に方で死にたい。小汚い死に方はしたくない。死ぬなら景色のいいビルの屋上で飛び降り自殺。そう決めてるんだ。こんなに死にたいのに、死にたいはずなのに、死ぬのが怖い。人間の本能というものが本当に憎たらしい。
結局「自殺するな」というのはどこまで行っても他人事で、自殺を止める側の自分勝手な考えに過ぎない。当人の苦しみなんて当人以外にはわからないし、止める側の立場上死なれるのは困るという以上の理由はない。社会の混乱を生むからだとか、残された家族が困るからだとか、結局そういう経済的な理由から自殺予防というのは存在する。結局当人の苦しみなんて関係なくて、「金」の問題でしかない。人の命なんて所詮そんなものだ。みんな社会を維持するために限界まで働かされて、老いぼれになって人生を楽しめなくなってからようやく開放される。人間というのは惨めな生き物だ。所詮社会に使い捨てにされるためだけに存在する。
何が言いたいかというと、人間の命は無価値だからいつ死ぬかも自分で決めていいということだ。止めるのは本人の自由を妨害することに他ならない。
自分の内面の話に戻るが、外に出ると不安で不安で仕方ない。特に何もしていないのに、自分がなにか重大な失敗をしてしまったんじゃないかと不安になる。周りが全員敵に見える。バスに乗ると全員俺を邪魔な存在だと思ってる感じがするし、死ねと思われてそうで死にたくなる。この世界のどこにも居場所がないような気がして、家に帰っても喪失感、虚無感でいっぱいになる。歩いててすれ違う人が俺の容姿をみてバカにしているように感じる。変な奴、気持ち悪いやつだと思われてるんだと確信している。所詮どこにも自分の居場所はないし、ただ暇をつぶすためだけのものがあるだけで、オレの心を救ってくれるものはない。宗教などで救われようとする気力もない。ただ薄っぺらい娯楽で、死ぬまでの時間をダラダラと食いつぶしているだけだ。俺の苦しみなんて価値もないし、誰にも見せる気もないから、ただ一人で苦しんでいくだけだ。所詮人間なんてそんなものだろう。みんな救われたいと思っていても、誰かが救ってくれるわけじゃない。そんなに他人は暇じゃない。この苦しみをわかってくれる「何か」が欲しくて、自殺関連のものを読み漁ったりするが、やっぱりどこか自分と違うし、何か足りない。この苦しみを分かち合うコミュニティがあればいいが、だいたいそういうものはネット上では規約違反になり、「漂白」される。死にたい人間の苦しみなど、世の中の決まりを決めている側にとっては、邪魔でしかないということだろう。
所詮幸せも苦しみも全て過ぎ去っていくなら、さっさと無に還ったほうがいい。諸行無常という言葉のとおりだ。生きる意味なんてないんだ。どうせ人間は一生孤独なんだから、死んでしまったほうがいい。こんな空虚で無意味で無価値な人生など、さっさとおわらせてしまったほうがいい。どうせオレ一人死んだところで何も変わらないし。
世の中の「常識側」にいる人間が嫌いだ。常に自分たちは正義で、間違いなんて犯したことはなく、清廉潔白だと言わんばかりの態度が嫌いだ。その他人の苦しみを屁とも思わないその姿勢が嫌いだ。もちろん悪いことをした人間は糾弾されるべきだが、正義側にいたら罵詈雑言を浴びせてもいいとか、嘲笑ってもいい、嫌がらせをしてもいいというのは違う気がする。人はもっと人に優しく有るべきだ。なんでこんなに人間社会は憎しみと嘲笑で満ち満ちているんだろう。気持ち悪い。もちろん俺もそういったものに参加して、誰かをバカにすることがある。それをやっているうちはちょっと何かに対しての復讐心のようなものが満たされるが、所詮一時的なものでしかない。それを続けていると、段々とその矛先が自分に向くんじゃないかというのが気になっていって、段々と人間不信が強くなり、苦しくなる。そんな醜いことをやっている自分のことも嫌いになっていく。悪循環だ。だが、なかなかやめられない。他人のことを考えていると、自分のことを考えなくて済むから楽なのである。その時だけは苦しみから開放されるのだ。俺はこの自分の癖を、非常に問題だと思っていて、できるだけ早くやめたいが、なかなかやめられない。ゴシップというのは、「何も行動していない」というのが武器になる。なかなかそういった趣味は存在しない。創造的な趣味はだいたい自分が努力していないと駄目だ。創造的な趣味でない場合も、知識が必要になってくる。ゴシップというのは他人から競争することから逃れられる数少ない娯楽なのだ。こんな醜い娯楽はさっさと消えたほうがいいが、社会の構造上消えることはないだろう。そういう人間の醜さも嫌いだ。段々と自分が人間であることが嫌になっていき、自己嫌悪で満たされていく。何にも挑戦する気がない人間は、何も得ることができない。匿名でなにかを書き続けたところで、何も得ることはできないのだ。名前がない投稿は、社会制裁を受ける可能性が低い代わりに、得られるものもない。まさに空気だ。存在する価値がない。人を攻撃したところで、何も得られないのになぜ人は人を攻撃するのか。やっぱり人間の本能なんだろう。争うことで人は社会を構築し、進化させていく。本当に気持ち悪い生き物だ。だが、そうするしか方法が見あたらないのも事実だ。だから人間は滅びたほうがいい。俺が人間を滅ぼす方法を実行できるなら、もうとっくに滅ぼしてるだろう。核爆弾を管理する人間がなぜこういった考えにならずに済んでいるのか、わからない。人間社会はどこまでも空虚で、無価値で、醜いのに。
快楽、喜び、楽しみ、苦しみ、悲しみなど何もかもが過ぎ去っていくなら、すべてのものに価値はない。価値がないから、滅ぼしてしまってもいいだろう。俺はずっと昔からこういう考えで生きてきたが、なかなか同じような考えの人間に遭遇しない。なぜなんだろう。俺も周りにこんなことは言えないが。自分では真に迫っていると思うのだが、どうせ世間から見たら愚かで、頭がおかしいと嘲笑されるだけだ。ニヒリズムと言わておしまいだ。でも、合理的に詰めていったら、そういう結論になると思う。「ニヒリズム」というのがおそらくレッテル張りのために存在するんだと思う。社会にとって良くない考え方は、そうして潰されていくんだと思っている。そういう社会を維持することを結論としていて、それ以外の考えは一切受け付けないという風潮も嫌いだ。結論が先に決まっているから、何を言っても無駄だからだ。とにかく俺はひねくれていて、惨めで馬鹿だから、そういう考え方になるんだろう。こういうことを書いていると、早く死ねと思われるんだろうな。そして死んだら、こういうやつは死んでも仕方ないと片付けられるだろう。結局俺は社会に捨てられた存在だし、社会に貢献する気もない。だいたい社会ってなんなんだ。ただ俺は人間として生まれただけだ。社会の一員になると決めたわけじゃない。だがたしかに社会なしには人が生きていくのは困難だが、社会の重圧に耐えて生きていくのも苦しい。人間は欠陥だらけだ。本当に空虚で惨めだ。社会に属さなくてもどっちみち苦しいんだろう。こういうのを完璧主義というのかもしれない。ひねくれすぎて、自爆しているだけなんだろうな。俺はどのみち満たされることはないんだろう。ただ苦しみながら惨めに死んでいくだけだ。アホくさい。俺は変なところで正義感が強い。他人を馬鹿にしたくない、だからバカにしているやつを許したくない。でも結局それは自分に返ってきて、自分が苦しくなるだけだが。誰かの意思を感じると、それに従いたくないという強い意志が湧いてくる。昔からそうだ。逆張り思考なんだ。だから俺には対して意思がない。自分がない。空虚なのだ。昔からそうだ。他人ありきの考え方しかできない。逆張り思考とはそういうものだ。未だに自分が何をしたいか、どう生きたいのか分からない。ただ嫌なことから逃げているだけだ。俺にはなりたいものもないし、やりたいこともない。空虚な人間なんだ。ただ人の反対をやっているだけで、別に強靭な考えのもと行動しているわけじゃない。だからすぐ自分に自信をなくすし、すぐ途中で諦める。惨めな生き物だな。おれはこのままずっと素直に生きられないんだろうな。何重にもひねくれた思考が俺を苦しめてくる。自分で自分を苦しめているんだ。愚かで馬鹿だが、やめられない。癖になってしまっている。考え方を変えるというのは非常に骨の折れる作業だ。俺はそれを成し遂げられる気がしない。だから俺は一生このままだろう。一生惨めなままなんだろう。このまま醜くなっていくなら、今死にたい。25歳というのは一種の区切りの時だろう。俺はそれまでの時間をダラダラと無駄に生きてしまった。もう取り返しがつかない。早く死にたい。損切りをするなら今だろう。これ以上醜態を晒したところで、惨めなだけだ。愚かなだけだ。やっぱり首を吊って死にたい。自殺といえば首吊りだろう。暗く、おぞましい感じがまさに「自殺」のイメージぴったりだ。飛び降りは少し爽快感がありすぎる。陰湿でジメジメとした感じがほしい。やっぱり首吊りだろう。ただ、首吊りは縄とか、結び方とか、色々面倒なのが玉に瑕だ。飛び降りは高いところから飛び降りるだけだ。これから死ぬというときに、細かいことを考えてられない。やっぱり飛び降りかもしれない。死にたいけど死ぬのが怖い。なんて臆病なんだろう。惨めだ。死にたいのに。この死にたさは本物なのに。外に出ると、空虚で空っぽな感じが加速する。人生に意味がない感じが加速する。誰も俺に興味がなく、みんな俺の命に価値がないと思っているように感じる。透明だ。透明人間だ。限りなく透明に近い存在だ。外に出るのが怖いのは、単純に今の春の空気感が嫌いというのと、それにウキウキしている人間が多い感じがするのが嫌いなのだ。春というのは色々と新しくなる。場所も人間関係も変わる。それがとてつもなく苦痛だ。心が外側に、虚無側に剥がされるような感覚に陥る。昔から、環境が変わるたびに、ひどく精神的ダメージを負っていた。今もだ。俺は環境の変化に敏感で、心が弱い人間なんだろう。生まれつきだから、おそらく治せない。治すとしてもかなり苦労するだろう。この焦燥感に満ち満ちた季節が嫌いだ。非常に気持ち悪い。心が削られていくような感覚に陥って、自分が自分でなくなってしまうんじゃないかと怖くなる。今の自分でさえ不安定なのに、新しい環境にあてられて、更に今の自分が揺れ動いて、消えていってしまうんじゃないかと不安になる。自分というものがハッキリしてないから、自己紹介もうまくできないし、自己PRもうまくできない。新しい環境というのは、俺にとって強風だ。俺はろうそくに灯された弱々しい炎だ。すぐに消えてしまう。消えてもまた炎はつけ直されるが、前の自分に戻りたいという欲求が強く、再び炎が灯っても苦しみは強く残る。前の自分に戻りたいということばかり考えてしまう。俺はいつも過去に生きているんだろう。惨めで愚かだ。だが、前に進むのが怖い。変わるのが怖い。ずっと変わらないでいたい。変わってしまうくらいなら、死にたい。死にたくて仕方ない。もう取り返しがつかないと考えてばかりだ。いつも過去に戻りたいとばかり考えている。最近とかではなく、昔からそうなんだ。小学生の頃は幼稚園に戻りたいと考えていたし、中学生の頃は小学校に戻りたいと考えていた。高校の頃は中学生に戻りたいと考なえていた。大学生の頃は、高校生の頃が苦しかったから、大学生になれて嬉しかったが、大学が苦しくなってくると、小学生の頃に戻りたくなっていった。今も小学生の頃に戻りたい。いい年こいた大人が、何を言っているんだろう。いつまでも過去のことばかり考えて生きているからこうなったんだろうな。今に生きていない。よく、俺は本当にこの世界に生きているんだろうかと不安になる。なにか自分だけ別の世界に生きているかのような、切り離されたかのような感覚に陥る。俺が俺である証明なんてなにもない。とにかく不安感で満ち満ちているんだ。なんでもないようなことにすぐ不安になる。これはもう治すとかいうものではないんだろう。生まれつきの癖のようなものだ。早く死にたい。「死」という絶対的に動かない、固定されたものになりたい。どのみちこの苦痛からは逃れられないんだ。忘れている期間があったとしても、思い出している期間のほうが圧倒的に長い。これで生きていろとなると、中々の生き地獄だ。早く死にたい。不安は人間にとって大切なものだとかいうのをよく見るが、俺にとって不安は苦痛を与えてくる存在でしかない。不安をほんの少ししか感じない人のほうが人生楽しいのは明らかだ。世間から断絶した生き方をしたい。全く他人の顔を伺わずに生きたい。他人という存在は不安を与えてくるほうが多い。人間社会は比較の連続だ。どこまで行っても比較は止まらない。趣味に没頭しようが、比較からは逃れられない。むしろ、趣味こそ比較で苦しみやすい。何かを作り出すと特に比較の対象になる。それ以外でも人間は比較したがる。婚活なんていうのはその極みだ。結局、比べることが人間の本能なんだろう。比べて、比べて、その先にあるのは苦痛だけだ。だからといって勝負を放棄すると、俺みたいに落ちぶれて、何も残らなくなる。なにも持っていないというのは、安心とは程遠い。何も持っていない人間は、環境の変化にとても弱い。真っ先に切り捨てられるとしたら、そういう人間だ。いてもいなくても変わらないどころか、いないほうが都合がいいので、かんたんに切り捨てられる。ゴミ同然だ。早く死にたい。社会のお荷物だという自覚があるからこそ、早く死にたい。人間社会というものがどうでもいいと思っているはずなのに、やはり他人の目というのが強烈に気になってしまう。俺は本当に自分の意志で生きているんだろうか。結局、「社会人とはこうあるべき」という生き方に囚われている気がする。そんなのは俺が一番嫌いなものなのに。不愉快だ。不本意だ。俺は他人の言われるとおりに生きたくないんだ。かといってこうしたいという意志もない。だからただ無能であることに固執している。無能でいれば、他人からどうこう言われないし、他人とあまり比較されることもなくなる。ただ、社会から見放されたゴミとしての扱いになるが。社会のレールから外れると、なにかに挑戦したり、何かを得ようとするのに非常に苦労するはめになる。なにも得る気がない生き方をし続けないといけなくなる。ただ惨めに、無様に底辺を這いつくばって生きる羽目になる。こんな状態から、まともな人間になろうとすること自体が間違いなんだ。何もかも足りていないから、何もかも努力しないといけない。そもそも努力しても補填できない穴もある。アスペがまさにそれだ。コミュニケーションに問題があるのは発達障害だから、どうしようもない。そのどうしようもない穴が、社会で必要不可欠だからとんでもなく苦痛なのだ。どのみちまともになれないなら、死んだほうが早い。俺は根っこから終わっている。それをどうにか隠そうとしたところで、それが露呈するのは時間の問題だ。結局みんな離れていき、誰も残らない。俺には冗談が通じない。馬鹿だからだ。馬鹿だから、面白い話ができない。馬鹿だから、話してて苦痛になる。生きてるだけで邪魔な存在だ。そこにいられると迷惑になる存在だ。馬鹿だから、なにもかもうまく行かない。馬鹿だから、まともに努力できない。ゴミみたいな人生がこのままずっと続くと考えただけで、非常に嫌になる。クラクラする。結局他人に迷惑を掛けるだけで、邪魔にしかならないし、自分も楽しいと思えない。生きてるだけで迷惑だ。邪魔だ。生きてるとどんどん苦しみが積もっていき、呼吸がどんどん苦しくなる。生きれば生きるほど、逃げ場がなくなっていく。段々希望が見えなくなっていくのがよくわかる。待ち受けているのは深い苦しみだ。将来に希望なんてないし、なりたいものもない。もし仮にこのあと頑張ってまともになったところで、別に何かあるわけでもない。俺みたいな人間が受け入れられるとは到底思えない。そもそも他人とコミュニケーションを取るのが怖い。怖いのを乗り越えたところで、アスペは治らない。どっちみち積んでるのだ。俺が誰かに求められるなんていうのは、結局幻想でしかない。俺はどこに行っても迷惑なだけの存在なのだ。邪魔でうっとおしくて、いるだけで空気が悪くなって、気を使わせてしまう。わかってはいるが、どうすればいいんだ?コミュニケーションというものが俺にはわからない。人間社会がコミュニケーションを重要視する以上、俺みたいなのははじき出されるだけだ。俺みたいな人間は一生孤独に生きていくしかないんだろう。ゴミみたいな人生だ。ただ、時間を浪費するだけの無意味で無 Permalink | 記事への反応(1) | 03:08
引き戸の扉を開けると鈴が鳴り、「いらっしゃい」というマスターの渋い声。
はい。と僕。
釣竿を渡され、店の奥へと進んで行く。
扉を一つ抜けると曇り空が出迎え、屋上のような広間に出る。
中央には蓮池がひとつ。丸いような、それでいて歪んだ輪郭をしている。
水は濁っており、中は見通せない。
僕は隅の方へ眼をやり、手ごろな椅子を見つけては、それを手で引っ張り池の前に置く。
そこに座って池へと糸を垂らした。
魚の名は増田。
しかし誰も自分が魚だとは気づいていなんだよ、とマスターはいつの日にか僕に言った。
いつの間にかマスターは僕の隣にビールケースを逆さに置き、椅子として座っていた。
どういう意味ですか?
「…ふぅ。誰も、自分が何者かなんて考えもせずに暮らしてる。それで十分だし、それで十分なんだ」
はぁ、と僕。
「だったら魚みたいなもんだ」
店長は笑って言う。
そういうものなのか…もしれない。
お店の方はいいんですか?
「ああ、今日はどうせもう、店じまいにしようと思ってた」
何か飲むかい?
そう聞かれて答え損ねていると「ビールだな、今持ってくる」と店長は立ち上がる。
あ、ありがとうございます。
言おうとした手前、竿が大きく撓った。
「大物だな、逃がすんじゃねぇぞ」
竿は唸るように撓り、ゆっくり慎重に糸を巻いていく。
すると増田が僕の前に姿を見せはじめた。
それは大きくて立派な増田で、自分のことを増田であるとは思っていないような増田だった。
その後ハッと我に返り、増田をもとの池に戻してやることにした。
パラ、パラと服が濡れる。
顔を上げると小雨が顔を見せている。
それは次第に大きな雨となり、この池を世界にするかもしれない。
そうすることで僕もきっと、増田になるのだろう。
北海道の味噌バターラーメンとか仙台の牛タンとか、名物として「用意」されてる感を感じるとなんか冷めてしまう。
例えばドラマで会社員が一服してるような、室外機が雑多に置かれた雑居ビルの屋上に上がってみたい。でも百貨店とかの屋上ではその気持ちを満たせない。ベンチなんか置かれちゃったり、芝の上でガキが走り回ってたりして、「ここでゆっくり過ごしてくださいね〜」と言わんばかりに用意され過ぎてるみたいな、そういう……
あとはもっと単純に、土地の差違を楽しみたいのに、楽しむための差違がわざわざ用意されてるんじゃないか?と思ってしまうと冷めてしまうというのもある。
さわやかとかセコマみたいなローカルチェーンが観光地として選ばれるのって、そういう我々が日常生活でファミマに入るが如く「本当にその地域で慣れ親しまれているもの」への欲求を適度に満たしつつ、しかもローカル展開なのでそこでしか楽しめないという欲求も満たせるバランス感みたいなものが決め手になってるような気がする。金沢や小樽で敢えて回転寿司に行ったりするのも然り。
さわやかも今は吉村家並みに混んでるらしいし、そういう点とは別な部分で観光地感(≒おれの言う用意されてる感に近いもの)を感じてしまうかもしれないが……
でもおれはさらにそこで疑ってしまう。それらはホンマに愛されてるんかと。静岡県民は本当に他のファミレスを差し置いてさわやかを選ぶのか。北海道の中高生は本当にコーラよりもガラナを選ぶのか、ごつ盛りよりも焼き弁に手が伸びるんかと。
別にそればかり食べている訳でもなくて、それが選択肢として当たり前に存在するのが馴染まれているという事なんだろうとは思う。でもそこでちょっと肩肘張ってる部分がないだろうかと邪推してしまう。
レモン牛乳は本当に自然体で愛されているんだろうか。栃木といったらこれだよな、という余所者の視点が内面化されて気負いとなってはいないだろうか。
まあ実態なんて分からんし邪推ばかりしていてはパラノイアになってしまうので、程々に収めておくようにしている。と言いつつ関西土産にどん兵衛を買ってきてしまう。ごつ盛りと焼き弁では少々不公平な所があるかもしれないが、どん兵衛(W)とどん兵衛(E)ならそこで確かな土地の差のようなものが感じられる気がする。
今日は「パンティー増田はいつから増田に書き込んでいるのか?」の調査結果について発表します。
皆さんは「パンティー増田」をご存知でしょうか。増田番付で見たことがあるという人もいるかもしれませんね。
では、実際の番付の講評を読んでみましょう。
関脇
パンティー
残念ながらあまり参考になりませんでしたね。ちょっと真面目に解説するとこんな感じでしょうか。
脈絡もなく「パンティー」の文字列が含まれる短文エントリを投下していく増田。単独エントリ形式もトラバ形式もあり。
クンニ増田、市民ミュージカル増田などのように「短文エントリにワンフレーズを仕込む」タイプの投稿もあれば、
本文なしのタイトルに含むタイプ、今夜もカレー増田やアンタナナリボ増田のように一言エントリだったりと捉えどころのない存在。
■
■ 探しものはなんですか 見つけにくいものですか カバンの中も 机の中も 探したけれど見つから
パンティー
■ ノストラダムスのパンティー
スキャンティーを被る為に
さて、本題に移ります。一体パンティー増田はいつから増田で活動しているのでしょうか?
はてなブログタグには「パンティー」ではなく伸ばし棒なしの「パンティ」が登録されています。同単語が含まれるエントリを集計すると以下の結果となりました。
2006 1
2007 15
2008 16
2009 15
2010 18
2011 3
2012 5
2013 12
2014 26
2015 46
2016 67
2017 1,168
2018 1,821
2019 2,423
2020 2,408
2021 2,788
2022 1,596
2017年前後にブレイクスルーが起こっているようです。もう少し遡ってみましょう。
増田に現存する最古の「パンティー」を含むエントリは、2006年12月5日の「最近見る、思う話題」というエントリです。
■ 最近見る、思う話題
はてなちゃんのパンティー
有名ブログの本紹介→その本(アマゾン)のブックマークが増える
この期間は残念ながらパンティーを含む短文エントリはあまり見られません。それどころか(伸ばし棒を含まない)「パンティ」で検索しても2011年には年間3件しか確認できませんでした。
パンティー冬の時代といえる中、以下のように現在のパンティー増田の祖先と呼べるかのような投稿が見られるのは興味深いです。
■
表記が伸ばし棒を含まない「パンティ」ですが、センスを感じる投稿もありました。
■ あ・な・た
真っ赤な薔薇と
白いパンティ
子犬にまたがる
あなた、誰?
2012年に入っても、増田はパンティーはまだ話題に上る機会は少ないようです。
■
風で飛んだのか…
そんな中、2014年6月3日にパンティー界を揺るがす、とあるエントリが投稿されます。
■ 私のパンティーが、おじさん達の手に渡ってしまいました!
今あたしが住んでいる部屋はマンションの4階で、ベランダは隣の小さな印刷会社の屋上と同じ高さなんですヨ。ベランダと隣の屋上の距離は3メートルくらい。パウエルやルイスなら軽々飛び越えられちゃうだろうなって、借りる時に少しだけ気になったんですが、ここ日本だしまー大丈夫だろ!って思ってこの部屋にしたんです。安かったですし、お風呂がツルツルだったので…。
タイトルを含めると12回「パンティー」が出現している怪作です。なんと245ブクマを獲得してしまいました。
これ以降、今まで注目されていなかった「パンティー」というワードに、増田たちが関心を抱き始めます。
以下の3エントリはいずれも中・長文ではありますが、注目エントリ入りするパンティーが増えてきたのもこの頃からです。
この時期から「短文に仕込む」タイプのパンティーが目立つようになります。
■ いでよ、神龍。
とはいえ、2015年時点のパンティーはまだ増田を席捲しているとはいえず、同年4月の増田ではこれ以降出現することはありませんでした。
次に確認されたのは2015年5月9日。以下の2エントリとなります。
■
■ http://anond.hatelabo.jp/20150509203012
上のパンティーはどうすればいいでしょうか
注目すべきエントリです。前者では「パンティー」という語の安易な使用に警鐘を鳴らしていることから、他にもパンティーに関する投稿があったことが示唆されます。
一方、後者のエントリではトラバでパンティーについて言及しています。
残念ながら参照元のエントリは削除されているようですが、パンティー語りをしていた増田がほかにも存在した可能性があります。
2016年頃からは短文エントリが増え始めます。現在のパンティー増田に通じる特徴であるシュールぶりはこの頃から垣間見えます。
■ インデペンデンス・デイ: リサージェンス☆☆
パンティーが見えなかったので星2つです。
■ ナウシカもパンティー履いてない可能性
■
最近は便利な世の中になったようで、
2017年2月8日、「パンティー増田」という文字列が初めて増田に出現します。この頃から一個体として認識され始めたようです。
■ パンティー増田へ
Amazonに『Panties』っていうクッソくだらない英語の短編小説集があってKindle Unlimitedならタダで読めるよ
無駄に二巻まで出てるよ
そして、2017年3月23日。パンティー増田の運命を決定づける1件のエントリが投稿されます。
■
パンティー
これ以降、本文に「パンティー」とだけ書き込む謎のゴリ押しが増田で盛んになります。
■ 犯人は
パンティー
■ 非暴力主義を貫いた
パンティー
■ いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえて
パンティー
■ ガチャピンとムックの
パンティー
以下の投稿なんかもはやマルチポストです。規制は大丈夫だったのでしょうか。
https://archive.md/O0yGn(魚拓:2017-05-14の投稿に注目)
■ ”ダイナマイトなパンティーでもいいんじゃない”
2 件 (0.37 秒)
■ https://anond.hatelabo.jp/20170617180332
こんな便利なものがあったのか。
■
そして、ついには初代増田のやべーやつ番付に掲載され、パンティー増田は確固たる地位を築くに至ったのでした。
■ 増田のやべーやつ番付(修正)
病的な男叩きの人
絵の下手な奴はの人
電車嫌いの人
幕下 女が悪いの人
パンティー増田は2016年頃に増田に出現し、2017年にブレイクしていた!!
番付の人の寸評は手抜きではなく、パンティー増田の特徴を端的に捉えたものだったんですね。さすが増田の生き字引。
パンティー
少子化が言われてもう何十年も経つけど、街では妊婦や子連れをたくさん見かけて、いったいどこが少子化なんだと思うけど、よく見てみればそんな子供達よりもお年寄りの方がよっぽど多くああこれが少子高齢化なんだと思ったりする。
団塊の世代が子供であった時、いったいどれほど街に子供があふれていたんだろうかと思う。騒がしいどころではなかっただろうし、そりゃ学校も荒れることが多々あるだろうな。彼らが成人になれば日本の労働力が満ち満ちていていくらでもなんでも作れただろう。旅行に行けばどこも満員、そりゃ団体ツアーでしかさばけないし、温泉旅館は大部屋で機械的な対応にもなるし、海やプールは人であふれて水面が見えないことにもなるよな。デパートは連日混雑し、レストランは常に満席、屋上まで人であふれただろう。
・見途中
・シーズン2最終話の屋上〜ノーベル賞巨人の星クリパの流れがよすぎたのでいったん書く
光の照らし方もすごいいい…
見たいけどU-NEXT高いわ
・双子妹と兄も段々回が進むにつれスキルが発現してきとる…正直最初らへんのシェルドンだけ異能持ちでお母さんが特に気にかけてる描写がかつてきょうだい児だった自分を重ねてみてた所があるので少し寂しい気持ちがありけり
やっぱり特殊スキル持ってた方がはいいよね感がさみしみいやエンタメとして面白いし好きだけど
・生徒会長になれた理由(相手の都合)が「地域性?こわ…」ってなる
・
・
・
・
ネトフリ配信分は全部見た
途中から失速感は否めないが流し見にちょうどいい
え?お隣さんとお父さんマ?うそやろ
これはミスリードだね!!
東京には文化があるらしい。美術館や博物館、企画展、立派な図書館、大型書店、映画館、百貨店、各種イベントの開催。
おれは絵には興味がない。
科博と東博には上野散策ついでにたまに行く。展示物への関心というよりは、博物館の空気を吸うのが楽しい。ボーッと突っ立ったりフラフラ歩き回り続けても許される、異常者にならない空間なら別に博物館でなくたっていいかもしれない。
欲しい本があればネットで買う。そもそもあんまり本は読まない。
映画は割と観るけれど、イオンシネマでもやってるような、どこでも観られるようなビッグタイトルや話題作ばかりだ。ミニシアターで観たのは『音楽』と『のんのんびより ばけーしょん』だけ。
百貨店に行って買い物をする事はない。普通のもんを買うならわざわざプロパーで買う事もない。限定品とかを追うほど金が余ってはいない。屋上でボーッとするのは好きだ。バカだから高い所が好きなのかもしれない。服は試着せずにネットでサイズ詳細の数字を見て買う。
イベントにも縁がない。ライブとか行ってみたいな〜とは思うけど、音楽を聴くだけならスタジオ盤でいいんじゃねとか、密集した人の群れが嫌だとか、色々理由をつけて行かない。
東京とは言っても23区ではないので、都下は東京じゃねえみたいな人からはグチグチ言われるかもしれない。ガチ田舎の人からも東京は東京だろと、角が立つかもしれない。
何にしても、トーキョートーキョーと騒ぎ立てられるものの正体はなんなのか、おれはあまりピンとこない。挙げられる代表例を体験していないのだから当然だ。文化資本が云々みたいな、無自覚に享受してるものはあるかもしれない。
おれの生活の文化レベルが低いのだろうか。出費として無視できないほど頻繁に、また珍しい本を買い、かつ美術館と博物館に足繁く通い、かつマイナーな映画まで網羅し、かつイベントへの参加も欠かさないという人はどれだけいるだろうか。どれか一つ、あるいはいくつかを満たすなら、別に東京ではなくても良い気もする。
違うと言えば違う。
四方を見渡しても山がある。スーパーまで遠い。駅前徒歩1分でも土地はタダ同然。
でもAmazonが届かないことはない。イオンシネマもある。話題作は観られる。イベントがあれば山を隔てて真隣の東京へ行けばいい。毎週毎日ライブやら何なやらへ行くわけでもあるまいし。
無性にバーキンが食べたくなった時には困る。ベッドタウンほどではないにしても家が建っている場所は割と集中していて、夜中に絶叫出来るような場所は近くにはないかもしれない。
祖母は近所のゴシップに熱心だ。中野の育ちだと言うので、田舎の問題なのか世代の問題なのかは謎だ。何にしても無視すればいい。ムラの習慣に付き合わないと村八分を食らうガチ田舎もあるかもしれないが、そればかりでもないはず。勝手な想像に過ぎないけれど。
長期的に住んだ事は無いから、もっと詳しい事情はあるかもしれない。給料安いとか。
おれはあまりトーキョーを感じる事はないけれど、唯一実感するのが散歩している時だ。
都心を歩くと楽しい。文化を感じるとか、そういう事ではない。理屈抜きにしてただただ歩いていて楽しい。
単に慣れない街を歩いているからか。武蔵境や国分寺辺りを歩いていても30分かそこらで飽きる。うっかり中心市街から外れれば延々と続く住宅街か、車のディーラーやファミレス、コンビニがセーブポイントのように点在する国道が繰り返される。無間地獄だ。
日野を歩き回るのは中々楽しかったけど、それは夕闇通り探検隊補正が多分にある。この聖地巡礼もまた東京の文化とやらの一つなのかもしれない。
都心を歩いていると、なんとなく町ごとの雰囲気というか、特色のようなものを感じる。フラフラと歩いて景色の移り変わりを楽しんで、そして景色が移り変わり続けて尚も駅前のように華やかな景色がずっと続く。
神田と上野の間辺りを歩いてると、特にそう思う。市ヶ谷の神田川?沿いも、聖橋の辺りとかすごくトーキョーだな〜って思う。それが文化かどうかは分からないし興味もないけれど、歩いてるとなんだか楽しい。