はてなキーワード: エログロとは
同じ穴の狢って感じ。
他人の「好き」を尊重できないからおまえらはいつまでたっても「キモいオタク」のままなんだろう。その「キモさ」は何もカッコよくないからさっさと卒業した方がいいぞ。
だから萌えオタは寛容で平和的という妙な自己認識になってるわけか。
萌えオタには自分たちが在り方を歪めた側であるという自覚がないのだ。
萌えオタはかつて札束の力で硬派厨を放逐し、今では腐女子により放逐されようとしている。
硬派厨 「売り上げのために安易な萌えやエログロに頼ってはいけないよ」
萌えオタ「売り上げこそ正義!売り上げに貢献しないものに意見を言う資格はない」
腐女子 「じゃあ売り上げに貢献するので意見を聞いてください」
萌えオタ「売り上げのために腐女子に媚びてはいけない。男向けの娯楽に女が口を出すべきではない」
硬派厨 「ようやく分かってくれたか。売り上げがすべてじゃないなら萌えより硬派で」
腐女子 「腐女子の売り上げに頼っているのだから萌えよりもBLで」
萌えオタ「」
ここで萌えオタはなんと答えるべきなのか?
これに関してはフェミや左翼はあいトレの表現の不自由展とはダブスタだなと言う意見には割と同意だけど、そっちは多数の人がどうせ指摘するだろうし、それに関しては一先ず横に置いておくことにする。
速攻読んでて思った事が之だったりした。
わざわざアフィカスのまとめサイトなんて書いている時点である程度察しだし、そもそもtwitterやSNSだと垢の検索傾向や嗜好を判断して、広告を出したりしているのは割と当たり前で今じゃ殆どの人が知っている事だと思うけどね。
ただ以前にこれと似た様な例で、ベトナムで日本語教えているとか何とか言っていた奴が、広告がえちぃだのなんだので文句をつけて自滅した例があるから、案外知らない人も多いのかもしれない。
寧ろ今見たら、そのベトナムで日本語講師しているとやらの人間の日本の広告がえてぃから神経を疑うだのと言うツイートを纏めていたtogetterを見たら、そいつ逃亡したみたいで、ツイートを消した痕跡だけになっていて笑った。
そういう事なんだろうと思うけどね。
でも朝日新聞はわざわざこんな自身の首を絞める様な行為を良くするなと思う。
しかし少し前の日経の記事と言い、今度は広告叩きをし始めたのはどこかから何かしらの圧力やら、工作やらしている団体なりがいるのかなと思ったりもしたりする。
こういう一斉に同じ事を主張し始める時は何かしら、別の目的がある時にやる事が多いからね。
ただ新聞社はこういう事は死んでもかけないだろうけどね。
うむ。ということは、津田大介が開催した「表現の不自由展」はつまり「表現の不自由というテーマに関した作品を並べて沢山の人に見てもらい、それで補助金をせしめるためのイベントだった」ってことで、ここで言う所の「表現者」もしくは「表現」を行ってる人間とは関係ないじゃん。
結果的にというかそもそもが「表現の不自由」ってタイトル背負った芸術作品があればよかっただけの話で、本質的に表現的に不自由な作品かどうかよりも「津田大介が不自由だと思った」作品が並んでるにしか過ぎないじゃん。
「表現の不自由」を展覧することはできても「不自由な表現から表現者を解放する」なんてそもそも目的とされてないよな?
https://kakuyomu.jp/works/1177354054889611355
これが読者の総意というわけではないだろうけれど、主に紙媒体の硬い小説ばかり読んでいる私には衝撃的だった。
私は幼いころから読書が好きで、いろいろな展開を読み慣れているから、エログロ問わず地雷展開はほとんどないし、大抵の作品は最後まで読む。読めなかった作品は、多分今まで生きてきて、一ケタあるかどうかで、読めなかったのも数年後にチャレンジしている。単純に自分の好きなものに対する嗅覚が鋭くなっているだけかもしれないが、不快なものでもできるだけ読み通してから、どこが好きでどこが嫌いか判断したいのだ。
でも、この作者さんは、自分の好きな展開だけを求めていて、ちょっと気に食わなかったらすぐに切る、そういう読者の存在を明らかにしていて、それが私には驚きだった。
ただひたすら、自分の好みの展開を求めるためだけに、何万円も出してくれる人がいるんだって、とてもびっくりした。
優劣の問題では全くないのだけれど、私にとって読書とは知らない自分との出会いで、だからできるだけ難しそうなものを背伸びして探してきた。けれど、成長とは全然関係なく、ただ気持ちよくなるための読書にここまで大きな需要があるんだって、思い知らされた。
そういう意味では、そうした読者の存在を広め、それを出版業界に取り込んだ小説家になろうとかカクヨムとかは、商業的にすごいし、こうしたサイトで受けなかったらかといって、マスに受ける方向ではないというだけで、つまらないわけではないのだ。
繰り返すが、どっちが偉いかではない。何年も前に、ケータイ小説を揶揄するコピペがあったけれど、なろう系もあれと同じで、読者の願望充足やわかりやすさに特化し、全パラメタを振り分けただけなので、一般文芸とは別の進化をしただけなのだ。
本当に、驚きだ。
「自由には責任が伴う」というのは単なる「現象としての事実」では? 「かくあるべきか、否か」として扱われている限りどちらの言説にも肩入れできないかなぁ。
私は不自由だと思う。というのは、未成年というのは良くも悪くも責任を取れない存在だから。「責任を取る能力がない」のもそうだけど、それ以前に責任を取ることが立場として許されない。それを自由と受け取るのか、不自由として受け取るのか、評価の分かれるところだと思うけれども。
私が思うに、責任とは自由の根源であるのよな。自由の後に責任が産まれるのではなく、因果が逆。責任があるから自由が産まれる。
ただ世の中には「他人から押し付けられた責任」というのもあって、それは別に果たす必要のないものだと思うけど。それはそれで別の議論じゃないのかなぁ。その時、本題は「その責任とやらは誰の責任なのか?」であって、「彼に責任があるのか?ないのか?」にすり替えるのは議論の大枠からズレてる気がする。
「タトゥーを彫った責任」だの、「エログロを表現する責任」だのがそれ。理不尽な差別に晒された時、「差別を批判する」という責任の果たし方もある。「私にそんな責任はない」ではなく、「お前の責任を放棄するな」と返すべきじゃないのかな。
一方で、これは「自由は必ずしも人を幸せにしない」ことも意味してるのよな。子供がなぜ不自由なのかといえば、そりゃ大概の子供は(よほどの早熟でない限り)責任能力に劣るからだ。「責任を求められるくらいなら不自由である方がマシ」という人は、一定の割合で常に存在すると思う。
人は自分のキャパシティを超えた責任を放棄したがるし、それに伴う自由を謳歌する他人を「不公平だ」と引き摺り下ろしたくなる。キャパシティの大きさは人それぞれだし、「大きいか、小さいか」では測れない連続的な量をとると思う。
社会が自由であればあるほど世の中は弱肉強食に近づくし、弱者に優しい社会であればあるほど監視社会は間近に迫る。でも強者が弱肉強食を望んでいるかと言えば必ずしもそうではないし、弱者だって監視社会の息苦しさに耐えられるわけではない。みんな強者になりたいんだよね。
結局何が言いたいかと言うと、みんな、自分のキャパシティは大きくとれるようにしような。勉強して力をつけような。強く生きような。自分のために。他人のために。
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告
さすが津田氏の本業だけあって、文章だと何を考えてどのようなことをしてきたのかがきちんと伝わってくる。普通に危惧されるくらいのことは可能な限り対処してきたのか、とか。これを読んでしまうと津田氏のトークやイベントコーディネートのスキルは文章力に比べて相当劣るように感じてしまう。
この文章で何度も出てくる「検閲」という言葉だが、他人の言葉の引用部分を除くと津田氏本人はかなり慎重に使っている。これは今回の炎上のキーポイントでもある。
辞書的な意味で検閲とは、公権力が表現物を検査し発表を禁止することである。
https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E9%96%B2-60273
しかしながら、図らずも今回あきらかになったように作品展示を中止する要因としては公権力ばかりではない。むしろ現代日本ではそれ以外の方が多いようだ。
(3) キュレーター
(4) アーティスト本人
(5) 一般市民
このうち公権力によるクレームや強制力によって排除されるのが狭義の「検閲」。
主催側の立場は「金は出すけど口は出さない」のが理想ではあり今回もわりとそうだった。ただし事業である限り本来の主旨に合わないものやデメリットがメリットを上回る場合は、主催側が展示会の方向性に意見する自由はあって当然。
キュレーターはむしろ何を展示して何を展示しないかの権限を任されているので、それを行使するのが本業。
アーティスト本人の意向。ときとしてキュレーターの意思よりもアーティストの意思は尊重される。ある意味当然だがこれが強すぎると美術展がキュレーターの思惑とズレることがあり得る。そして今回ズレた。
声の大きいのが実は一般市民。ネガティブ、ポジティブに関わらず主催に対して意見を言うことは原則として問題ではないが数が多すぎると窓口業務に支障が出る。
そしてそれが悪い方向にエスカレートすると反社による脅迫になる。
実際のところ多数の一般市民からの苦情や反社からの脅迫が原因で、このままでは来場者やスタッフの安全性が確保できない、という判断を主催側、キュレーターがすることで展示中止となっているものが多いようだ。
「表現の不自由展・その後」各作品の展示中止理由について調べてみた。
https://censorship.social/artists/
ちなみに「《平和の少女像》は正式名称を「平和の碑」と言い、「慰安婦像」ではない」という言葉が津田氏のエントリーにも作品のキャプションにもあるが、これはかなり微妙な言い方で、「慰安婦像」という“名称”ではないものの、慰安婦を表現したものであり、日本政府に慰安婦問題の謝罪を求める目的で作られた一連の像のひとつであることは作者が明言している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E5%83%8F
https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%8F%89%ED%99%94%EC%9D%98_%EC%86%8C%EB%85%80%EC%83%81
https://en.wikipedia.org/wiki/Statue_of_Peace
これらを見ると、多くの場合主催側やキュレーターが公共性や展示会の主旨を理由に展示中止しており狭義の検閲にはあたらないように見える。また、天皇関係のうち3作品は、富山県立近代美術館事件に関するもので、これは反社(右翼団体)による脅迫が契機となっている。
表現の不自由展実行委員会は、表現の自由 vs 公権力による検閲 という構図に見せたがっている。ただ公立美術館や芸術祭の主催自治体は、公権力というよりも主催側という立場であり、中止の判断も現在の体制では安全性が確保できない、公共性ポリシーに反するなどである。
そこを巧妙にすりかえて、「検閲」という強い言葉を使うことにより強大な国家権力に立ち向かうアーティストという演出をしている。
現代日本における検閲らしい検閲といえば、表現の不自由展実行委員会メンバーである永田浩三氏の受けたNHK番組改変問題があり、こういった経緯の作品があれば説得力は増したと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/NHK%E7%95%AA%E7%B5%84%E6%94%B9%E5%A4%89%E5%95%8F%E9%A1%8C
ここからは完全に余談。
津田氏のエントリーには、候補として上がった作品として、会田誠《檄》や、鷹野隆大《おれとwith KJ#2》、ろくでなし子《デコまん》シリーズが挙げられている。
鷹野隆大《おれとwith KJ#2》は男性器が写った写真を展示していたところ、通報されて警察から注意を受けたというもの。明確に違法な図画を作品としてクローズドな場所に展示するのはOKかNGかという議論は見たかった気がする。
https://www-art.aac.pref.aichi.jp/collection/pdf/2014/apmoabulletin2014p54-63.pdf
ろくでなし子作品が展示スペースの都合で候補から落ちたという件、カヌーみたいな大きなものではなく手のひらサイズ(実物大?)のものもあるので、スペースなんかどうにでもなるだろうと思ったものの、慰安婦や天皇がらみの作品のすぐ横にデコまんがあったらそれはそれで別の意味が発生しそうなのでやむなしか。
掲示されていた「年表」にそれらが含まれているか知りたかったがよくわからない。ネットに上がっている写真を見ると「イケメン官能絵巻」の文字が見えるので「年表」にはエログロも含まれているのかも。誰か知っていたら教えてください。
エロゲの嫁画像とかそういうのじゃない。死体の画像みたいな中二病系でもない。単にそういう系のイラストが好き。ちょっとアート志向、だけど、「でもこういうエロゲあるよね」くらいの。(ここだけの話、一回抜いた。)
思春期マーブルってTシャツブランドがあるけど、ああいう感覚。めっちゃオシャレじゃない?まあ、そこはわかってもらえなくてもいい。
別に誰かに見せたいわけじゃない。ただ、ファッションを身につけるって武装なんだよな。やっぱりそれで一日のコンディションが決まるし、俺自身のアイデンティティを形成する重要な柱の1つでもある。
ちょっと視界の隅に入っただけで「ゾーニングしろ」とか言われたらたまったもんじゃない。「勝手に覗くな」としか言いようがない。