うむ。ということは、津田大介が開催した「表現の不自由展」はつまり「表現の不自由というテーマに関した作品を並べて沢山の人に見てもらい、それで補助金をせしめるためのイベントだった」ってことで、ここで言う所の「表現者」もしくは「表現」を行ってる人間とは関係ないじゃん。
結果的にというかそもそもが「表現の不自由」ってタイトル背負った芸術作品があればよかっただけの話で、本質的に表現的に不自由な作品かどうかよりも「津田大介が不自由だと思った」作品が並んでるにしか過ぎないじゃん。
「表現の不自由」を展覧することはできても「不自由な表現から表現者を解放する」なんてそもそも目的とされてないよな?
表現の不自由展も「表現の自粛への抗議」なんだから一貫してるじゃん。
「ワシはこの作品でもお金が貰いたい」が趣旨ならともかく、「この表現を表現できないのはおかしい。おちんちんびろーん」なら支援金はゼロでも別にいいじゃん。 金目的でやるなら...
表現するために金がいるんやで。金がないということは表現できないということとイコールやで。
せやろか。手弁当でもいいから表現(おちんちんびろーん)したい人はわんさかおるで。 金の問題ちゃうやろ。
それは補助金制度そのものの意味を否定しとるで。 手弁当やなくても一定の規模の展示ができることに意味があるからやるんやで。
うむ。ということは、津田大介が開催した「表現の不自由展」はつまり「表現の不自由というテーマに関した作品を並べて沢山の人に見てもらい、それで補助金をせしめるためのイベン...
「表現の不自由というテーマに関した作品を並べて沢山の人に見てもらう」の時点でそれは「表現」やろ。
ならばこの場合の「表現を自粛せざるを得ない」は「津田大介が自重する」だけであって真の表現者たる会田誠さんとか氏賀Y太先生とかには一切響かないってことになるわけだが。
津田大介とは関係ない他のイベントでも「ヤバい作品置いたら補助金なくなるかもしれんから断っとこ」みたいなことが起きるかもしれんって危惧しとるんやろ?
そういうのを「烏滸がましい」っつーんだよ。 キュレーションサボっただけの津田大介パターンが他に適用される訳ねーだろバカって話よ。 本来自己責任にならなきゃいけないのを勝手...