2019-08-20

自由には責任が伴う」というのは単なる「現象としての事実」では? 「かくあるべきか、否か」として扱われている限りどちらの言説にも肩入れできないかなぁ。

ところでみんなは未成年自由だと思う?不自由だと思う?

私は不自由だと思う。というのは、未成年というのは良くも悪くも責任を取れない存在から。「責任を取る能力がない」のもそうだけど、それ以前に責任を取ることが立場として許されない。それを自由と受け取るのか、不自由として受け取るのか、評価の分かれるところだと思うけれども。

私が思うに、責任とは自由の根源であるのよな。自由の後に責任が産まれるのではなく、因果が逆。責任があるから自由が産まれる。

ただ世の中には「他人から押し付けられた責任」というのもあって、それは別に果たす必要のないものだと思うけど。それはそれで別の議論じゃないのかなぁ。その時、本題は「その責任とやらは誰の責任なのか?」であって、「彼に責任があるのか?ないのか?」にすり替えるのは議論の大枠からズレてる気がする。

タトゥーを彫った責任」だの、「エログロ表現する責任」だのがそれ。理不尽差別に晒された時、「差別批判する」という責任の果たし方もある。「私にそんな責任はない」ではなく、「お前の責任放棄するな」と返すべきじゃないのかな。

一方で、これは「自由は必ずしも人を幸せにしない」ことも意味してるのよな。子供がなぜ不自由なのかといえば、そりゃ大概の子供は(よほどの早熟でない限り)責任能力に劣るからだ。「責任を求められるくらいなら不自由である方がマシ」という人は、一定割合で常に存在すると思う。

人は自分キャパティを超えた責任放棄したがるし、それに伴う自由謳歌する他人を「不公平だ」と引き摺り下ろしたくなる。キャパティの大きさは人それぞれだし、「大きいか、小さいか」では測れない連続的な量をとると思う。


社会自由であればあるほど世の中は弱肉強食に近づくし、弱者に優しい社会であればあるほど監視社会は間近に迫る。でも強者弱肉強食を望んでいるかと言えば必ずしもそうではないし、弱者だって監視社会の息苦しさに耐えられるわけではない。みんな強者になりたいんだよね。

結局何が言いたいかと言うと、みんな、自分キャパティは大きくとれるようにしような。勉強して力をつけような。強く生きような。自分のために。他人のために。

  • 学力差別。

    • 弱者を手助けすることはできても、それこそが当事者の自由や自己肯定感、満足感、幸福感を奪うこともあるんじゃないのかという話。

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