はてなキーワード: エビデンスとは
内容で勝負してるのに関与人数であげつらわれて、
そこで「数字じゃないだろ」って反論するならわかる。味方出来る。
それで毎度その数字の根拠が怪しかったり嘘だったりして突っ込まれる、
これは単純にずっこくない?
自分達の数字の嘘に突っ込むのは悪いこと、突っ込む奴は悪い奴、って平然と誘導するよね。
突っ込む人に対してレッテルを貼って罵倒・卑下して牽制しようとする。
これ最悪じゃない?
仮に誰も数字に突っ込めなかったら
堂々と「3万人も集まった」って繰り返して事実化したうえに
それを足場にして「民意は明らか」って嘘をどこまでも利用してたよね?
そういう平然と人を騙そうとするやり方を繰り返して
数字への突っ込みに凶暴に応じてる人達ですら「実際に3万人居る」と正面から反論してない。
「数字に突っ込むのは話そらしだ」「右翼だ」という風に話をそらしてる。
自分達が数字で嘘付いてることは全員認識してる。その上で居直ってる。
これがひど過ぎる。
まずその嘘に付いて謝ろう?エビデンスベースで正しく訂正しよう?
そして、なんで嘘付いたのか動機や経緯を総括して再発を防ごう?
そのうえなら「数字ではない本当の本質」の議論にみんなも付き合える。
でも決してそういうことをしない。
「嘘がばれた後に最低限やるべき謝罪・訂正・信用回復手立て」をやりたがらない。
それって嘘付いたことを微塵も反省してないうえに、今後も隙あらば何度でも嘘付くよって予告してるようなものだよね。
「通らば通れ」って嘘付いておいて
嘘がばれたらノーペナルティで「そこは本質ではないし~」「それはそれとして~」って更に自分のターンを継続できると思ってるの
ずる過ぎるし甘過ぎるでしょ。
「3万人いないですよね」「嘘付いてますよね」に対して
「じゃあデモ自体が無かったと言うのか!お前こそ嘘を付いてる!」っていう反撃ね。
もうほんとうに、小学生の口喧嘩でも馬鹿にされるような低レベルなやり口を
「馬鹿じゃねーの」って言われたら
「デモを卑下したな!」「民主主義を軽んじた!」ってまた卑怯な話そらしをする。
http://kawango.hatenablog.com/entry/2018/04/08/193935
これはどちらかというと価値の問題だ。最適化問題を解くことが得意な人にとって、
最適化する目的関数が定義されれば、あとはその問題を解くだけでOKと考えがちだ。
しかし、現実的には目的関数の定義自体がたいへん難しい問題であり、そこは論理的に定義できない場合が存在する。
例を挙げれば、命の価値だ。保険会社を取り上げるまでもなく、人間一人の命の価値は数量化可能だ。
しかし,その数量化された価値は大多数の人間にとってのある人の価値であり、あなたにとってのある人の価値ではない。
あなたの妻の命の価値を保険会社が3億円と算出したとして、そしてそれが論理的でエビデンスに完全に裏打ちされたものとしても,
あなたにとってあなたの妻の価値がそれ以上であることはありうるだろう。
不運にも交通事故にあった場合に支払われる価格がその価格であったとして(そしてそれを悲しみながらも論理的に受け入れたとして)、
では大富豪が3億やるから殺させてくれ、と言われた場合にあなたがそれを受け入れるかというと、それは異なるだろう。
どちらも妻の死と3億円の交換であったとしても。
そのあたりの心理的な折り合いをつけるプロセスが、社会の中では民事裁判などといった形で存在している。
そこでは、原告・被告ともに論理的な議論を行う場であるが、「妻の価値はいくらだと考えるべきか」というその依って立つ前提条件が異なる。
医学部を卒業して初期研修(いろんな専門科を数ヶ月単位でぐるぐる回る)を終えた。
不勉強な学生だったし、研修先は無名病院だったから一般化できる話じゃないけど、もやもやしたこと
簡単のため、一般外来診療に話を絞ってみる。直感だけで、何も考えずに診断をくだしている医者は本当に多い。田舎の開業医が出してるわけわからない薬とか本当にたくさんある。でも慢性期疾患とか適当に薬を出してもすぐに結果が変わるわけじゃないから、漫然と経験を積んでも自分の診療内容を洗練させていくのは難しい。外来診療をちゃんとフィードバックをもらいながら教えてもらえることはあまりないし、適当にやっても結果が大きく変わるようには見えないし、診療内容よりも態度や人柄で患者やコメディカルの評価は決まってくる。だから、高い信念を持ち続けていないと、診療技術を向上していくモチベーションがなくなっていってしまう。
外科医なら下手くそだとメスを置かざるを得ないような圧力がある程度働くかもしれないけど、内科医はそういう圧が働きにくいから、ヤブ医者が自分がヤブであるということに気づくことも排除されることもされないままになっているのかなと思う。
重箱の隅をつつくような基礎医学の試験問題で、留年させていくことに一体何の意味があったんだろう?精神修行?
そもそも論だけど、実臨床で重要なのは病態生理より疫学データじゃないのかなと思ってしまう。
病態生理から色々考えて独自かつ複雑な治療をやっている医者もいるけど、本当にアウトカム改善しているのかなと思ってしまう。
まだエビデンスが無いような専門性の高い領域では考える必要あると思うけど、大抵の患者はそんな複雑な病態じゃないんじゃないかな。
UpToDate通りにやっていけばそれで十分なのではないかなと、むしろ専門家以外がUpToDateから逸脱したことをやるのは悪い方に傾くことの方が多いんじゃないかなと思う。
であれば、基本的な症候へのアプローチを反復させて学習させて、徐々にpit fallを教えていくみたな教育プログラムをやったほうがいいと思う。あったらいいと思う。
不確実性が高い領域なので、結果で評価するのではなくて、決まった診断治療アルゴリズムに沿っているかで評価されるべきだと思う。それって楽しくは無いけどね。機械にやらしとけって気持ちになる。
3.ジェネラリスト厳しいです
基本的なアプローチは定型化していく中で、人間に残されている領域は直感と広範な背景知識かなと思ってしまう。
専門領域を絞らないとどっちも得るのは厳しい。
マルチプロブレムに対処するには専門家じゃ厳しいというのには同意するけど、プロブレムリストたくさんある人はもはや寿命なのではと思ってしまう。冷酷ですかね?
エビデンス大好きで論文オタクみたいな先生はすごいなあと思うけど、論文って嘘ばっかりなわけで。自分が会った基礎系の研究者は、論文を出した研究者やラボが信頼できるかどうか、データが自分の経験から逸脱しているものではないかどうかなど、メタな情報を駆使して読んでた。本当に批判的に読むには近い領域で論文を書いている必要があるのでは無いかと思う。RCTがいくら出ようと結局信頼できるのはエキスパートオピニオンなのではないかな。
ひどい。Windows98みたいなUIしている。電子カルテがまともになったら無駄な時間とエラーをどれだけ減らせるかを考えると恐ろしい。
生活習慣病やほとんど寿命の超高齢者への医療見てると、今の医療ってマクロに見て人を幸せにしているのかなって思ってしまう。野菜食べて運動して自分がやりたいことやって満足な時間の使い方をする、ってことにお金を使ったほうがみんな健康で幸せに生きられるんじゃないかな?そもそも皆さんそんな長生きしたいですか?ぼーっとテレビ見たりゲームやってる時間って生きてる時間ですか?その時間を充実させられたら、その分寿命が縮んでも構わんくないですか?とかね。いってそんな充実した人生を送れていないですが。
「足元がお留守」という一点でヤムチャは弱いとするのはヤムチャ差別ということだな
「女に弱い」「必殺技がショボイ」「修行してもあんまり強くなってない」「戦いから逃げて一般人に混じって野球して優越感を得るZ戦士の屑」と
上野千鶴子の少し前の本なのにもかかわらず今さらちょっと炎上しているやつ、なんか見ていて辛い。
古市くん、社会学を学び直しなさい!という新書を読んでるんだけど、上野千鶴子が「自分に不利なエビデンスはもちろん隠す。それが悪いことだと思ったことはありません。」と述べていてマジ仰天。
これね。
この発言に対して当然のごとくやれ「研究者の風上にもおけん」とかやれ「こんなの活動家じゃねえか」みたいな発言が散見されるし、それを持ってフェミニズム全体をバカにする発言もなされている。まあ、いつもの光景だ。
いやまあ当然その誹りを上野は引き受けなくちゃいけないとは思うんだけどさ、それでも、なんていうかあまりにも学校の先生的に現代の「アカデミック」というのを価値観の頂点においた一方的なマウンティングなんじゃないかと思えて、ちょっと気持ち悪い。
そりゃ学校の先生は「学校に登校するべきだ」と言うわけだけれども、それは学校という規範の中でしか通用しないわけで、その「学校行くべき」というお叱りは学校の中でしか通用しない。
「白河の 清きに魚も 住みかねて」じゃないけど、社会科学として事実と向き合って誠実に着実に知見を出して行くなんていうのは一個の価値観でしかなくて、社会と向き合うっていう側面を大事にして価値判断と微妙に結びついたり結びつかなかったりしながら語って行くっていう人がいてもいいんじゃないの(*)?
フェミニズム及びジェンダースタディが社会運動の側面を持って入るのも紛れもない事実だし、現代社会はその社会運動の成果によって支えられて入る部分もあるんじゃないのかなと。社会科学が、その性質上その側面を切り捨てることの方が欺瞞だと思うけれど。
偶々今のアカデミックが「エビデンス」とやらを重視するという機運が高まっているだけで、上野が活躍した時代に「エビデンスがー」とか言っていていても「目の前の不正義を看過するんですか?」って言われておしまいでしょう。
私は某漫画が好きだった。
男が多数、しかも同性愛じみたシーンがあるということで、BL界隈で爆発的な人気を得ていた。
私もそのひとりで、特に好きだったのがA×B。
Aが原爆でBを屈服させるのも愛ゆえと変換する創作が一部にはあった。
さすがに原爆という言葉は使われないが、大怪我を負ったBという構図で受け手は理解できるようになっている。
けど、「表現の自由だ」「フィクションだ」「Bの重症描写が原爆の暗喩でAの動機も愛からだとお前が勝手受け取っているだけ」と、
抗議者に言い返すことはなかった。
もし(絶対にないが)、この二次創作が実写化されて、被爆者やその子孫が消極的なのに目に触れるようになったら。
反対していただろう。
他にも、私には、法に触れないように児童ポルノやグロ画像を見る趣味がある。
これを、合法だから阻止するな、と批判者を、ポリコレ棒だと開き直って叩くことはできない。
そんな私でも、いつかは、表現の自由戦士のように
「あなたがそう読み取っているだけだ」「フィクションだ」「エビデンスは?」と、
言い返せるようになりたい。
こういうの全部レッテル貼り。
私は痴漢でもなければ、いじめっ子でもない。むしろいじめられっ子だった。
自衛はしていたが。
このエントリのあほらしいところは、私の言ってもいないことを拡大解釈してるところ。
「痴漢にあったのは被害者のせい」と言っていない。「自衛せよ」と言ってるだけ。
鍵をかけずに泥棒にあった。悪いのはもちろん泥棒だが、カギをかけていれば避けられた。
ここで「痴漢被害者に自衛をさせるなんて!」と憤る人は鍵をかけないのか?
私が叩いてるのは、他人に過剰な負担、配慮を強いる「加害者」。
なんだろう、嘘つくのやめてもらっていいですか?
こういう「女がー!」とかいう言い方をした上で「自衛しろ」「被害者が悪い」て言ったら
そりゃぁ怒ってより一層「もっと被害にあわないものを!」って自衛をしようとするだろう。
女性専用車両は自衛にあらず。無実の他人に過剰な配慮・協力を強いている。
「自衛」がきいてあきれる。
そうやって作ってもらった女性専用車両に乗って、特権面してるのもおかしければ