はてなキーワード: 食べ物とは
食べ物で当たるってのは不吉だねぇ
見ず知らずの人の食べ物でやる遊びでは無い
前に読んだ食い尽くし系の漫画は、根源は家庭環境の問題だった。
実家がそもそも弱肉強食というか、もたもた食べていると隣の姉や両親にとられるという環境で、「家族の食事は全部俺のものだ!誰にも取られたくない!」って思考回路になっていて、身内にだけその攻撃性が出る。
家の外では誰もそのように自分の食べ物をとらないので、自分もとることがない。安全地帯だと認識ができているから穏やかでいられる。
だから家庭内でだけ問題が表出して、家の外ではわからない。付き合って彼女になったりすると、「身内」になって突然攻撃し始める、という構図。大食いとかと違い、厳密には食欲とは関係がない。
だから事前に満腹にさせておいても、皿の上に残っているもの(食べ残しているのではなく、相手がまだ食べているもの)は自分ものなんだ!!!という強迫観念で食べてしまう。限界超えて気持ち悪くなっても、食べ物を取られまいという気持ちだけで食べる感じだった。認知の歪みを治していくしかない、という話になって、長い時間かけて治すような話だったはず。
否定派ではないにしろ最近は漫画原作多すぎない?というのを思ってもう10年くらいたった気がする
特にこの数年はほどよく人間ドラマで重くなりすぎず食べ物・料理を中心に据えた「ちょうどいい」ドラマになりそうな漫画を制作側があたりをつけて探しているのかな……なんて想像してしまう
しかしばかになんて全然できないもので、今年はちょっといろいろみてみようかなと思って全く期待せずに見た好きな漫画原作のドラマがよくできていた
ドラマ化にあたってエピソードやキャラクターをいったん解きほぐして再構成再構築することによってむしろ原作の方を読んでいるときに感じていたキャラクターのブレや粗やテンポの悪さや画面のガチャガチャ感がうまいこときれいに整えられていて、一部改変されている設定があるにも関わらずそれでいて原作のエッセンスは損なわれてもなくそれぞれのキャラクターがより強固に立ち上がっていてなんか感心してしまった
役者さんもみんなうまいし浮ついたところもなくていい意味で本当に「ちょうどいい」ドラマになっていてあえて佳作って呼びたい滋味のあるドラマになっててとてもいいので続けて見ている どの作品とは言わないけど
一方でどの作品とはやっぱり言わないけどシーズン2でこんなにダメになる……?と個人的に感じてしまうドラマもあったりしてそっちの方がより好きな作品だったので残念
キャラブレというか多分この人はこんなこと言わないんだよなっていうのが複数のキャラクターで連続したのと単純にとても頭がいいはずの人が喋る日本語が急に拙くなっていたりという面でがっかりするのと
どんな事情があったかはなんとなく察しはつくけどその改変はこのドラマでやる意味がないな……その改変にすることでとたんに陳腐にチープになる物語という感じになってしまって
人間ドラマの方を偏重しはじめようとキャラクターにすべてを喋らせるのでさらにそれが加速する……みたいなとこが残念で次話はもういいかな、となってしまった
あと「私物化」っていうくらいすごい演じ方をする人のいるドラマって見るの結構疲れてしまうし
もう一つのドラマは結構がんばってるけど、主人公のお母さんがめちゃくちゃ解釈違いで残念だった
あの主人公のお母さんが普通におしゃれで品のいいマダムではだめだろう、それでは多分あの主人公の内面や現在の人生にはならんだろう、彼女が育たないだろうみたいな部分で冷めてしまう
原作の守らないと物語が180度とは言わずとも90度くらい変わっちゃう部分を変えられてしまうと違和感が出やすくて、そうでないところは大胆に改変しても作品のテーマや人物の芯をとらえていれば根本が変わらないみたいなドラマづくりの巧拙のようなものを感じた2023年の秋冬です
どれがどれとは言わないけど
なおもう一つのドラマは絶対なんかいたたまれない気持ちになりそうで最初から見てない
センセーショナルな要素だけすくって現実の絵面でやるとアクしか出てこなそうで原作の繊細すぎるほど繊細な部分全部なくなってそうで怖くて見れないよ、うまいこと作られてるかもしれないけど私は勇気なくて無理
食い尽くし系夫、もしかして先天的の障害があるんじゃないかな。
衝動性が勝って目の前の食べ物全てを食い尽くせとか、自他の区別がないので他者の取り分も全て自分のものと誤解して食べ尽くせとか。
絵を描くのって本当にセンスが要るなって思う。
特徴を捉えつついかに描くか、いかに描かないかという取捨選択が難しい。
例えばステーキを描くとする。誰だって見たことはあるだろうから、頭にはなんとなく浮かぶ。
遠近感を意識した皿を描いてみる。これまあ記号的だしなんとなく皿だと分かる。フォークナイフも添えれば尚更。
その上にやや歪んだ楕円ないし四角を描いてみる。皿の上にあるから料理ではあるのだろうけど、これでは全くステーキには見えない。
とりあえず立体感を出すのに、側面との境界に線を引いてみようか。しかし端から端まで描いてしまうと、食べ物というよりはなんか謎の物体っぽい。しかしどこかで線を途切れさせるにも、適切な場所が分からない。
他にステーキの特徴といえば筋繊維のキメか。刃牙みたいに細かく描こうとしても、グチャグチャになって更によくわからなくなる。しかしざっと描くにも適度なデフォルメの塩梅が分からない。
あとは脂身か。赤み部分との線の濃さで脂身だと認識させたいが、これも境界に線を引くべきか否か、引くとしたらどの程度引くのか。試行錯誤しても上手くいかない。
湯気でも立たせてみようか。温泉マークの波線みたいなのを描くと、小学生が描いたウンコのイラストみたいだ。雲みたいなモヤモヤのタイプならまだマシかもしれない。でも湯気の立ち方を無作為にバラすのは難しい。これはまあ湯気を実際に観察するなり、セオリー通りの表現を真似するなりすればまあ……って感じかもしれない。
こういう特徴を上手く表現したりだとか、光沢をつける場所と描き方のセンスだとか、輪郭の線を適度な所で途切れされる感覚だとか、センスが問われるようなあって思う。これは線画?の話で油絵みたいなのだとまた少し変わるのだろうけど。
SNSとかで人の上げた絵の練習見てても、こういうのが最初からある程度出来てしまう人と出来ない人がいる。
まあスタート地点のセンスに差があるのは言わずもがな、これって練習でどうこうなるもんなんだろうかって思う。
上手い人はやっぱりどんどん上達していくし、そうでない人はやっぱりいつまで経っても自由帳の落書きっぽさが拭えない。節々で練習の形跡を感じたりはするんだけど。
彼らは「もうこの地に夜は来ない」という意味の言葉で朝の挨拶を交わしていた。
私がその街に滞在する間、彼らは私と同じ時間に寝て起き、同じ服を着て、同じ食べ物を食べ、同じ腹痛に襲われた。水も私と同じ量を飲み、同じ身長でいようとし続けた。
それは見ず知らずの東洋人である私に対して、彼らが家族のように接した結果だった。それがこの廃墟同然の街を街たらしめる理由であり、彼らにとって家族と呼べるのももはやそのような存在以外になかった。彼らは全員、はじめは私と同じ観光客だった。
ある日、夜中に目が覚めた私は水を飲むために彼らを起こした。最初に起きた二人を連れ添って、私は台所へ向かった。彼らは名前を持たないから、その二人をここでは「赤い男」、「白い男」と呼ぶことにする。由来は伏せる。
私は水を飲んだ。隣に立つ赤い男が水を飲みながらこう言った。
「このまちにはかみがいる」
白い男が続く。
「かみはこのまちと、われわれをつくった」
「なぜおなじようにするのか」
もちろん無駄だった。
「なぜおなじようにするのか」
「なぜおなじようにするのか」
私は性懲りも無くまた尋ねた。
「かみはどこにいるのか」
「かみはどこにいるのか」
「すきま」
赤い男が白い男を驚いたように見た。
その街の教会には長い蛇が巻き付いていた。
処刑は日の出と同時に行われる。彼らによって目隠しを付けられ、広場の中央に連行された白い男は、地面から生えた低い棒に手首を拘束されていた。その間一言も発することなく抵抗も命乞いもしなかった白い男は、少し俯いて正座していた。そして罪人と向かい合う位置に教会がある。表情は見えなかったが、白い男の姿は祈っているようにも、一切祈ってなどいないようにも見えた。
次に彼らはどこからともなく大量の水を汲んできた。各々の器に水が注がれ、それを持って広場に出る。彼らは広場の縁に等間隔に並び、円をなして白い男を囲むように立った。私は少し離れた場所で水の入ったボトルを持って座っていた。早朝の空気は冷たく、やや湿っており、絶え間なく弱い風が流れていた。
私は水を飲んだ。彼らも一斉に水に口をつけた。白い男に教会の蛇の口から水が噴射された。私はボトルの水を飲み干した。彼らは器の半分ほどを飲み終えたようだった。白い男の体にまんべんなく水が当たっている。私はじっと広場を見ていた。彼らが水を飲み終えるころ、白い男は動かなくなっていた。
あっという間だった。彼らはずぶ濡れの白い男を抱えて教会の中に入っていったが、まだ太陽は昇りきっていなかった。
しばらく経って赤い男が教会から出てきた。近づいてくる私を認めると赤い男は微笑んだ。私は言った。
「もうこの地に夜は来ない」
赤い男は言った。
「もうこの地に夜は来ない」
それから私たちは短い会話をした。赤い男によると、白い男が教えに反した理由には心当たりがなく、あの処刑法は彼らの宗教にしかない特殊な死因を引き起こすのだという。
彼らの宗教については結局わからないままのことが多い。架空の宗教なだけあってその街には聖職者はおらず、教典もなかった。彼らの話から知ることができたのは、儀式を含むいくつかの慣習と断片的な神話のみだった。
その中でも最も多く話をしてくれたのが、街で唯一の老人だった。私は水を飲んでから耳を傾けた。
かみのいばしょはだれもしらない。ふたつのたまごがあって、かたほうだけにかみがはいっている。それをわってもかみがでてくることはない。それをたべてもかみのあじがすることはない。にんげんもかたほうのたまごにしかいない。たまごをくべつすることはむずかしい。にわとりのたまごをしっているか?とてもまぎらわしい。それとおなじだ。
ゆうれいはみずのなかにいる。しろいおとこはみずのなかにいる。すべてのしにんはみずのなかにいる。みずはおまえのなかにはいり、かれらはすきまからわれわれをみる。もっとみずをのめ。しにんのすがたがみえるか?みえるはずはない。みずをのぞくとじぶんのすがたがみえるだけだ。ははははは。
このまちのきたにふかいもりがある。つぎのきせつをしっているか?きせつのめぐりかたは、うまれるまえのこどもたちがきめている。このまちでうまれたこどもがすぐにいなくなってしまうのは、おとずれなかったきせつのうらみをかって、そこへとじこめられてしまうからだ。そこでかれらはみずにとけ、つぎのこどもたちはそれをのんでそだつ。するとすききらいのないこどもになるが、それでも50ねんいじょうおとずれていないきせつがある。
水。水が飲みたい。私は日本に帰らなければならない。もうこの街での目的は果たしただろう。赤い男はまだ私のベッドで寝ている。ボトルはすでにすべて空だが、喉の渇きを抑えられなかった。私は老人の部屋に向かった。
深夜に一人で外に出るのは初めてだった。老人の部屋へは建物の外壁伝いに少し歩くだけで着く。もちろん老人は眠っていて、床にも壁にも天井にも沢山の水があった。私はほとんど無意識にその中の一つに手を伸ばした。
赤かった。だが私はそれを飲んだ。口の中に水の味がすると、老人が寝返りをうった。次の水も赤かった。今度はひどい味がした。その次の水も赤かったが飲んだ。朝になってから気付いたのだが、このとき私はあまりの喉の渇きに手から出血していたのだった。老人は私が水を嚥下するたびに大きく息を吐いたり、うなされたりした。
また水を飲んだ。確かに幽霊は私を見ていた。ちいさな子どもだった。私が一心不乱に壁や天井から水を取って飲んでいるのを部屋の隅から見つめていた。しかし喉を潤さなければまともに怖がることもできない。
また水を飲んだ。彼らはどこから日本の食材を手に入れたのだろう。また水を飲んだ。彼らはどうして一晩で日本語を話せるようになったのだろう。また水を飲んだ。彼らはいつからこの街でこんなことを続けているのだろう。子どもの幽霊はそのすべての問いに対して明確な答えを返した。老人は眠っていたが、子どもの幽霊の回答に対してはすべて首を振った。
私は太陽が昇る前にありったけの水を持って彼らの街をあとにした。
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物を食いにくすぎるよね。
前歯だけ剥き出しなら、前歯で噛みちぎって奥歯で咀嚼とかもできるかもしれんけど、奥歯あたりまで剥き出しになってるキャラとか物を食うの不可能じゃんってなるわ。
いやまぁ十中八九、ただ単に時間経過による体調の回復なんだとは自分でも思うんだけど、理性ではそう思っていてもさ、実感を伴った主観ってあるじゃないですか。
ここしばらく急に背中の筋肉がめちゃくちゃこわばって背中を起点にだんだん全身にその体のこわばりと痛みが広がっていたんだ。
この現象私は定期的あるんだけど、はっきりとした原因がわかっていない。
今回は勝手ながら痛みが発生する前くらいからやり始めた生活習慣の中で0秒チキンラーメンをお湯に溶かして食べるっていうのを疑っている。
そして実際ここ数日、日課として食べていたのをやめたらだんだん痛みがなくなってきた。
まだわからない。これだけではなんとも言えない。
でも、わざわざ疑いのある食べ物を食べ続ける必要もないので。うーん。自分の中ではチキンラーメンはNG食品になったかも。
チキンラーメン食べると頭が痛くなるだのお腹を壊すだのって書き込みはwebでちらほら見かけたんだけど、背中が痛くなるってのは全然見かけなかったな。背中が痛くなるってのは多分内蔵やられてからその拡散痛が影響しているんだと思う。(素人による自己診断です)
チキンラーメン食べると胸焼けが酷くなるっていうのは過去に体験していて、だからこそ0秒チキンラーメンならなんとかならないかなって思って食べていました。
特に最近逆流性食道炎の診断を受けて、治療のために胃酸の量を抑える薬ももらっています。だから胃酸の量を機にせず、毎日チキンラーメン食べられる!0秒チキンラーメンなら塩分控えめだしなんとななるやろ!位の気持ちで挑んだけど、胃酸を抑えるくすり程度では無理だった。
よくわからんのは、割と脂っこいものとかも食べているんだよね。なんでチキンラーメンだけが駄目なんだろうか。
チキンラーメンの油だけ私の体質に合わないってことなんだろうか?そんな事ある?アレルギーとかではないと思うんだけど、良うわからんですね。
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↑安心したわ。
彼らとは頻繁に連絡はしていませんが夜通しゲームをやったり、徹夜でカラオケしたり仲が良い方だと思ってます。
ただ、友人の誕生日プレゼントを送ったことは一度もないし、各友人の好きな食べ物を知らないなとふと思いました。
youtubeで「誕生日プレゼントを送らないなんてありえない。」「好きな食べ物を知らないなんてありえない。」との発言を聞き、上記のことに気づきました。
誰も彼もそうであるとは思いませんが、実は仲がいいと思っていたのは自分だけでこれくらいの関係値なら知人に毛が生えたようなものなんでしょうか?
一般的に仲の良い友人関係には「誕生日プレゼントを送り合う」「好きな食べ物なんて当然知っている」のが当たり前なんでしょうか?
ちょうどいい味付けの料理を作ればいいものを、わざと辛くして米と口内で混ぜ合わせた時の最適化を図っている。
昼食だけ一緒に過ごしている10歳ほど年上の同僚がいるのだが
すべての話を「ウチの息子とダンナはよく食べて大変」に帰結させようとする
最初こそ「大変ですねー」と相槌を打っていたのだが
他の人たちとの会話が成り立たず段々イライラしてきた
いわゆる単価が高めの食べ物(コンビニおにぎりとか)が予算の関係で買えないのはわかる
ところが業務スーパーの○○は安くて美味しくて好きという話をしても
うちは業スーでも〇袋買わないと追い付かなくて…
毎日ちゃんと自炊をしている人に献立とか野菜のやりくりとか大変そうという話題を振ると
うちは買っても買っても足りないからそういう悩みはない、毎日たくさん作るので大変…
今は他の人のターンやろがーーーーー!!!!!
どうしたらいいすか?