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はてなキーワード: 相対主義とは

2013-02-27

http://anond.hatelabo.jp/20130227111231

「議論なんて無理」と言って盲目的に相対主義を振りかざし、議論をしようという相手を馬鹿呼ばわりするんだから、そりゃ民主主義根付かないわけだよな。

2012-12-26

なぜ「幸せに生きる方法」はことごとく挫折するのか?

日本人はとりわけこの傾向が強いのだが成功術や幸福術に対して猜疑的と言えるほどに否定・反発する風潮が広くみられる。

また、より一般的な話になるが現代人に広く見られる傾向として、絶対的価値観に対する無条件の反発のようなものも広くみられる。

ひるがえって、近代科学知識人たちにもたらした仮説思考とは、集めた情報、持ちうる情報から検証を重ねて一定以上の確率で正しいと推論される主張を「さしあたり」支持するというものである

から、何もその主張を絶対的に支持するわけではないが、「さしあたっては」絶対的に支持しているような「素振り」をとっている、と言えないこともない。

そういったものに対しても、「自分の考えを正しいと信じて疑わない」「自分以外はみんな間違ってると思ってるよアイツ」みたいな言い方を平気で出来てしまうのである彼らは。

いわば、絶対性アレルギーとでも言うか、「絶対なんて絶対ない」から感じる滑稽さに近しいものを感じざるを得ない。

むろん、彼らも絶対的に絶対性を否定しているわけではなく、あくまで「素振りである断じてしまうことは簡単である

しかしながら、素振りであるにしても、幸福術に対するアレルギー反応を観察していると、これは人生簡単にいく方法なんてないから簡単な方法を否定しているといった人生構造のものの難しさにだけ帰着できる問題というより、

もはやこれはアレルギー反応を起こす人々に特有な精神性に問題があるのだなあと私は考えるのである

バイト先の近くのローソンに過剰なサービス提供するありがた迷惑な店員がいるのだが、最初それは店側の意向なのかと思っていた。

通常おかしな店員がいれば他の店員が注意したり客が苦情を申し立てたりするはずで、とっくに修正されているはずであるから、店側の方針と考えるのは自然なことである

だが、その店に通い詰めるにつれて、明らかにその店員だけ特殊であることに気づき、これは誰も注意しないだけなんだと判明した。

すると不思議なのが何故注意しないのかである。その店員がおかしいと思っているのは俺だけなのか?いやそんなはずはない。では何故注意しない?

結局導き出された結論は、誰もがそんな些細なことはスルーしているのだ。彼は法をおかしているわけでもなく、あからさまに害を及ぼしているわけでもない。ただちょっとウザイだけである

仕方ないのだ、そういうキャラなんだから。たまには迷惑そうにする客もいるだろう。実際、おかしな顔で彼をにらんでる女性客を見かけたことはある。「なんだこの馴れ馴れしいヤロウは」みたいなw

だが、否定派の俺が見ても彼はイケメンから注意する女性も少ないのかもしれない。結局、ハルヒじゃないが最初は「なんだこいつ」と思う人が多いだろうが

「まいっか」の精神最大公約数的な答えに落ち着いているのだろう。思えば世の中にはGCM計算してくれる既成のプロパガンダプロパガンダ機能を有するサービス機関があふれかえっている。

「こまけーこたぁいいんだよ」とばかりに様々な無数の懸念事項を隅田川勝手不法投棄し、東京の街は成り立っている。

表向きは綺麗に見せかけているが水中では足をばたつかせている白鳥のように、クローゼット突っ込み整理術のように、強引に人々の心のゴミを片付け、夢を見させる。

言うなれば、その延長に絶対性への拒絶反応幸せに生きる方法に対する無条件な否定や猜疑的反発や神経症激怒があるのだろう。

心のどこかでは幸せに生きたいと願いつつも、その思いは叶わないから「ゴミ」であって削除されなければならないのだ。彼らの中では。

そこで手っ取り早くゴミを片付けて(結局それは先送りしてるだけで片付けには成功してないのだが)夢を見させてくれる既成プロパガンダにしがみつく。

そしてテキトーに組み合わせて自分のためのつぎはぎだらけの不格好な体系をこしらえる。それが彼らの声帯なのだ

なぜこれが深刻な問題にならないかというと人々はそれなりに幸せだと思い込むことが出来ているかである。いろいろ不平不満を表面では言いつつも、実は大して彼らは困っていない。

しかし、こうも考えられないだろうか?中には本当に困っている人もいると。あるいはまた、困ってはないがもっと幸せになりたいと願っている人もいると。

から日本に生きる人たちは気をつけないといけない。自分がその該当者だとしたら現実から目を背けてインスタントなツギハギプロパガンダの夢を見るのは得策ではない。

そういった人たちが既成の幸福術を実践したところで、ツギハギプロパガンダの悪影響を強く受けてしまうから失敗に終わることが多いのだ。

そして明日には二の轍を踏むかもしれない人間が平気でそういった人たちをつかまえて、だから無理って言っただろと非難する。そういう構造になっているわけである

科学を篤く信奉する我々は、彼らの永遠なるごっこ遊びを真似してはいけない。毅然とした大人の態度で、GCM計算から一歩置く必要がある。

絶対なんて絶対ないと言いながらGCMトリコになってる彼らとは違う。科学者の言う相対主義とは、仮説思考であり、方程式適用限界の確認である

ほにゃらかほにゃらかだと念仏のようにとなえるだけではだめで、直接話法を使いなさい。「「おっぽれだからほにゃらかだ」と思う」と言わないとダメ。カッコつけずに括弧をつけろと高校数学で習っただろ?

2012-07-17

常々、寛容であるってすごく難しいことだなあって思う。というか、いまいちわかっていないのかもしれない。

とづまりすこ、相対主義と寛容の両立如何の問題になるんだろうけれど、ウィキペディアでチラ見した程度で、これまたいまいちからない。

それでもジレンマには陥ってしまっているらしい。故に、無関心な態度に落ち着いてしまうのだけれど、それが自分にとって善いことなのか、やっぱりわからない。

そもそも、自分にとって善いこととは何なのか。利己的に捉えて、同時に社会的客観性をも踏まえて判断すべきなんだろうけれど、なんだかわけがからない。

普遍的な善もわからないし、そもそもそんなもの存在しているのか疑問だし、わからいか相対主義に下るのだけれど、そこでもやっぱり善いことは見つからないし。

なんか寛容についての書き出しから善へと移行してしまったけれど、判断とか評価とか論説とか、決定づける行為って難しいなと思うわけで。

優柔不断な人というのは、価値基準の天秤がものすごく繊細で、些細な振動でも目盛が振れてしまうから大変なんだろうなと、どうでもいい結論のようなものに達してみたりする。

何にも考えていないために優柔不断になっている人も多いのだろうけれど。どちらも私がそうだというわけじゃなくて、一般的に。

でも、一般的な傾向を、個人の認識で述べてしまっていいのだろうか。それは本当に一般的なものなのだろうか。

共通認識を口にするとき、それは本当に関係の中で胸中している物事なんだろうか。相手も見つけられずに投げかけ続ける共通認識に、正当性など皆無なのではなかろうか。

当たり前だけど、そのとおりなんだろうな。認識が共有されるためには他者が必要で、共有されたかどうか確認するためには相手の反応が不可欠なんだ。

どうでもいいか。どうでもいいことを表すべきかどうかとか、心底どうでもいいことだものなあ。

脈絡がない脈絡がない。もうやめよう。

2012-01-06

宇野常寛を批判している人によくある無知、もしくは勘違いについて

ポップカルチャー評論家宇野常寛ARBはいかにもな90年代Jロック(キリ」オレ「ARB80年代なんだが」宇野ぐぬぬhttp://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/237067

この人達勘違いしてるよ。宇野氏ポストモダニスト歴史実証主義への深刻な懐疑が

思想形成の根底にある。

 

南京大虐殺捏造か実在か、戦後民主主義虚妄か否か、好きなほうを信じればよい。」

宇野常寛ゼロ年代の想像力』50ページ、

 

何故彼がこんな挑発的な主張をしたかといったら、歴史実証主義が現代ではもう「無力」だからだよね。

ポストモダンフェミニスト上野千鶴子は、従軍慰安婦南京大虐殺論争に加わった時、

なんとウヨク修正主義者を実証的に批判する吉見義明らを批判した。

 

上野曰く「南京大虐殺はなかった」と主張するウヨクも、あったとするサヨクも、実証主義を使って

己に都合のよい史料だけを見て無限自分正当化し続ける。

そんな土俵ウヨク批判に実証主義者は無力すぎる。それを第三者が見たら、

ウヨクサヨクも同様に確からしくない」という印象を持つでしょう。

 

重要なのは過去を生きた人の身になって想像しようとする気持ちと、物言わぬ「痕跡」の声に

耳を傾けるオーラル・ヒストリーでさ。

戦後生まれのアジア人が、日本軍に殺害された被害者の声を想像して代理できるように、

宇野氏も70~90年代当時を生きた日本人として「ARB」を受容し、語ることができる。

 

ARBを聴いて「いかにもな90年代Jロック」「いかにもな「虚構の時代by大澤真幸)」のロック」と感じた

彼の感想は、1個の体験的事実であって、この印象を他人が抹消することはできない。

物知り顔で「あの時代の空気は~」って説教垂れる老人は、自分の感じた空気感が正しいと

独断している事がタチが悪い。偏った体験とセンスを持つ1人でしかなくなんの根拠もないのに。

 

個別の事実よりも、全体として過去がどのような感じであったかを再構築する想像力が重要でしょう。

相対主義世界で、ロックアニメといった個々のコミュニティ正当化せずに、

色んなコミュニティを見て周り、その上でニュートラルであろうとする誠実な意思が必要でしょう。

閉じたコミュニティから偏見剥き出しの批判に意味はないでしょう。

正しさは正しくあろうとした人物を、未来の人々が正しく判断するでしょう。

   

    

タグARB けいおん! 輪るピングドラム 幾原邦彦 批評評論 ポストモダン

2011-11-26

もはや「真実」の「流行」なんて存在しない

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1679541.html

http://sinseihikikomori.blogspot.com/2011/11/google.html

俺の周りでは、けいおんも、まどマギも、ボカロ

Sexy Zoneも、Not yet流行ってないし、会話ですらその単語を聞いたことがない。

多分、会話にそれらの単語を出すときには説明が必要となるだろう。

それは別に流行ってない訳じゃなくて、そういったのに興味がある奴が俺の周りにいないだけだ。知り合いのツイッターで話題になってないだけだ。

結局流行ってるもの常識とされてるもの普通とされてるものが、それぞれのクラスターで違うってだけの話だ。

俺は去年帰郷して兄弟と会話したときRadioheadとか宇多丸かい単語自体が通じないことに軽く衝撃を受けたが

そういったことはありふれてる。ちょっとくらい前に話題になった「サイコ2割問題」とそう変わらない話だ。

からテレビで「~が流行ってるんですよ」とか聞いても、そりゃどっかで流行ってるのかもしんないなと毎回思う。

ほんとに流行ってんのか知りたくなったら、データをどっかからググって調べるくらいすればいい。

思ったより流行ってたり、流行ってなかったり、意外な層に流行ってたり、やっぱり流行ってなかったりする。

ここ最近韓国関連のことが流行ってますよとテレビで流れると、脊髄反射のかのように毎回ネットでは反発が起きる。

「そんなの流行ってない!」だとか「そんなの普通じゃない!」とか「そんなの常識ってことにするな!」とか。

で、これはマスコミに対するネットからの批判意識として、3%くらいは評価・共感できるものかもしれないが、97%くらいはうんざりする。

流行ってますよなんてそもそも謳うからいけないんだ!」なんて言うのかもしれないけど

逆に、結局この人達マスコミが担っていた「普通」や「流行」や「常識」に対する信頼を持っていた人たちなのかもしれないという気がする。

オーソリティに対する信頼とでもいうべきだろうか。

普通」も「流行」も「常識」も、クラスターによって違うということがもはや「常識だってことはちょっとネットを眺めれば分かるだろう。

マスコミが死んだ」というのは、かなりの程度事実だろう。

それに従って、「普通」も「流行」も「常識」も壊れてしまった。

マスコミメディアが担保していた共同体幻想みたいなもの一億総クラスター幻想がそれらを作り上げていたし、それが崩壊してしまったのだから

じゃあ何がマスコミを殺したのだろう。

一億総中流的なものから格差社会という流れもあるが、当然ネットマスコミを殺した。

つながりあえる環境「真実」を知れる環境、簡単に島宇宙を形成できる環境、それが可視化される環境マスコミを殺した。

かくして、「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も、クラスター別に存在することになった。

それに人間は耐えられるだろうか。

「ほんとう」の「普通」も「流行」も「常識」も「真実」存在しないことに耐えられるだろうか。

多分無理だ。根っから相対主義者だろうと無理だ。

からクラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じて生きることになる。

ニーチェは「神は死んだ」といった。

「お前たちに言ってやろう。我々が神を殺したのだ─お前たちと俺が。我々はみんな神の殺害者だ」と。

「我々が信じていた真・善・美なる価値基準や権威根底において担保していたものは、滅びてしまったのだ」と。

日本人からしたら、「で?www最初から死んでるしwwwつか日本には八百万いるしねwww」ぐらいのもんで

なんで、そんなことに大騒ぎしたのか分からないところがある。

だけど、「メディアマスコミが死んだ」というのはそれくらいの衝撃が日本人にとってはある。

その影響がじわじわと色んなところで見える。

「みんな」が思ってる一つだけ存在する「普通」や「流行」や「常識」が死んだ。

お前が言ってる「みんな」って「普通」って「流行」って「常識」って何だよってことになる。

それこそ一神教から八百万の神への改宗という衝撃が実は起こったんだということがじわじわとわかってくるだろうと思う。

その過程では、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じることにしたり、

そのクラスターにおける「真実」を盲信して他のクラスターを攻撃したり、クラスター別に違うモードを使い分けたり、

クラスターの中で、あるいは他クラスター同士で「ほんとう」を定めるために対話したり、クラスターを彷徨ったり、

反動として、確固としたオーソリティや序列や権威を求めて、何かに忠誠的になったり、他者に攻撃的になったり

すべてのクラスターに通じるものとして「ほんとう」のことを提唱したりすることが、日常的なこととなるだろうし、すでになりつつある。

表面上は、まとめブログによって、youtube再生回数によって、徐々に「大衆」における「普通」や「流行」は担保されていくことになる気はするが

その根底では、価値観を担保していたもの崩壊が徐々に起こっている。

スピリチュアルでも、自己啓発でも、ノマドでも、愛国心でも、ライフハックでも人生の指針となってくれるものを求めている。

これらの価値観でも、宗教でもなんでもそうだが、人生の指針となってくれる価値観を求める欲望は消せないし、否定すべきでない。

すべての価値観クールじゃないと否定したあとに待っているのは、ニヒリズムか退廃と決まっている。

「ほんとう」の価値観を求めて、匿名コメントで殴りあうことがこれからネット上では続くだろう。

それは価値観の衝突とも呼べるかもしれないし、対話とも呼べるのかもしれない。

2011-09-14

うわああああ

やべえええええよく分からんがやべえええ俺YABEEEEEE

自己矛盾がすげえ

逃げちゃ駄目だって価値観と逃げていいっていう価値観がぶつかりまくってる

どっちでもいいのに矛盾する価値観があるから悩みまくる

悩んでると何も出来ないフリーズしちゃう

PCだけじゃなく人間だって固まるんだよ

うおおおおおおおおまじでどうしよううううううううう

働きたくねええええええええええええええええ

働きてええええええええええええええええええ

自分のために生きたあああああああああああい

社会に貢献したあああああああああああいいいいいいいい

<わたし>の比類なさ半端ねえええええええ

同時に俺ほどちっぽけなものはねえええええええ

やべえええええええええええええ死にたい

でも生きたいいいいいい

分からん

分からんことだけは分かる

もうどうしようもない

どうにかしたい

どうにもしたくない

何もしない状況がたまらなくいやだ

でも何かをしようとすると途端に逃げようとする

逃げようとするとそれをとめようとする

止めようとするとストレスが溜まるうううう

やべええええええええええええええもうやべええええええええええよおおおおおおおおおおおお


そういった諸々全部くだらないけどくだらないっていうのも一つのモノサシだ。

価値観なんて糞だ「べき」なんていらないってのもモノサシの一つだ。

相対主義諸悪の根源だ。メタ化は地獄への切符だ。賢いふりして泥沼に嵌るんだ。

2011-03-07

これからの「正義」の話をしよう の話をしよう (読書感想文

日本始球式をすることも決まっている、話題のサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。

シリアスゲーム的な考え方だと思った。押し付けがましくなく、それでいて熱意がある。

ダン・アリエリーの「予想通りに不合理」では、行動経済学として人々の社会規範市場規範に焦点を当て、さまざまな実験を通して規範適用の仕方を検証している。

サンデル教授はこれまで社会規範適用されてきた社会市場規範適用するという最近の風潮を危惧している。

それは、アメリカのみならず、諸先進国においても同様だろう。GDPでは幸福は測れないということだ。

そうした現状で、公正な正義を一人一人が認識しようとすることは社会幸福への試金石になるかもしれない。

宮台真司の推薦文にもある通り、サンデル教授コミュニタリアン共同体主義者)だそうだが、一部のコミュニタリアンにとっては違和感のある呼ばれ方だそうで、その原因は「正義は個々のコミュニティが好き勝手定義したものに過ぎないという相対主義的見方を表しているように思える」からだそうだ。

つまり、コミュニタリアンと呼ぶ側(功利主義自由主義)がコミュタリアンの物語の探求という考え方を見落としているということだ。

NHKの白熱教室を観た方はわかると思うけれど、サンデル教授功利主義自由主義、そして共同体主義を実際に起きた問題や思考実験によって人の正義と自由、正義権利、自由と権利といった問題を焦点に繰り返し問題提議、検証していく。

5章以降のカントの示した人生観ロールズの考える自由は、より具体的で、わかりやすく、刺激的だ。

人生観で特に印象的だったのは、マッキンタイアの「物語の探求としての人生を生きる」という考え方だ。

これまでに生きられたあらゆる物語はある種の目的論的特性を帯びている

自由を追い求める考え方は目的論を独善的とみなす。しかし、現実的には人々は人生という物語解釈している。

自由に選択できることが真の意志の尊重とするが、

選択とは物語解釈から生まれるもので、意志が支配する行為ではな

物語の探求という生き方は、アドベンチャーゲームロールプレイングゲームのようにマルチエンディングのような、または、SF的な多世界解釈に近いと思う。

そして、それは強烈だ。これからの諸問題との対峙する時、コミュニタリアン正義に対する捉え方は安易な自由や平等主義よりも解決への熱意を持っている。

サンデル教授功利主義自由主義共同体主義という選択肢を検証し、最終的にトゥルールートとでもいうように納得させる形で共同体主義への道筋を示した

それが、 これからの「正義」の話をしよう なのだと思った。

実際、目的論的な考えは心理学でも注目されているように思う。

心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱されたフロー体験というものがある。

フロー英語Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。

チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。

1. 明確な目的(予想と法則認識できる)

2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)

3. 自己に対する意識感覚の低下、活動と意識の融合。

4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更

5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)

6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)

7. 状況や活動を自分で制御している感覚

8. 活動に本質的価値がある、だから活動が苦にならない。

フロー経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。

フロー:wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC ])

目的論的な解釈や考え方はフロー体験を促しやすいのではないだろうか。

さらに、自己実現理論も紹介したい。

自己実現理論(じこじつげんりろん)とは心理学者アブラハムマズローが、「人間自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層理論したものである。又、これは、「マズロー欲求段階説」とも称される。

マズローは、人間の基本的欲求を低次から

1. 生理的欲求(physiological need

2. 安全の欲求(safety need

3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)

4. 承認の欲求(esteem)

5. 自己実現の欲求(self actualization

の5段階に分類した

自己超越

マズロー晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(self-transcendence)の段階である自己超越者(transcenders)の特徴は

1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている

2. 「在ること」(Being)のレベルにおいて生きている

3. 統合された意識を持つ

4. 落ち着いていて、瞑想的な認知をする

5. 深い洞察を得た経験が、今までにある

6. 他者の不幸に罪悪感を抱く

7. 創造である

8. 謙虚である

9. 聡明である

10. 多視点的な思考ができる

11. 外見は普通であるvery normal on the outside)

マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能であるマズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。

(自己実現理論 :wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ])

この自己実現理論自己超越という考え方も中々興味深い。

フロー体験や自己超越といった段階は、ただ安易な自由や平等を考える以上に、個々人が社会で生きる目的認識することが重要であることを示しているように思える。

2011-01-11

相対主義好きな人社会的弱者である、という試論

相対主義と言っても学術的な話じゃなくてもっと日常的な意味でね。要するに『人それぞれ』というセリフ好きな人の話。

料理映画ファッションの好き嫌いなど日常レベル相対主義は多いけど、音楽というのも相対主義リアルに実感できる分野だと思う。自分好きな音楽は、徹底的に他人の好きな音楽と一致しない。例えば俺は高校時代にロックにハマったが、比較メジャーなこのジャンルでさえ、クラス音楽の話をできるのは一人しか居なかった。ずいぶん熱心に布教したが、効果は皆無だった(枕に顔押し付けて足バタバタさせたい過去

ところで、友人に話し上手でモテる男がいるのだがその男ノイズミュージック周辺のマニアック音楽をよく聞いてる。ノイズくらいマニアックジャンルは少ないだろうが、彼の周りには彼に影響されてノイズを聴き始めたという女の子が結構いる。俺には結構な衝撃だった。『そんなもの布教して、なんで大丈夫なの!?』初めて路上に出る初心者の運転をハラハラ見守ってたものの、結果的に無事故違反完璧な運転をみせつけられたような、複雑な気分。

しかし今ならば納得出来る。結局、彼が布教に成功したのは布教するのに充分な洗脳力を持っていた、というだけのことなのだろう。それはルックスだったり、表情だったり、声のトーンだったり、相手の話を聞く態度などが関係してるのだ。高校時代の俺はここを誤解していた。こんなに素晴らしい音楽なのだから布教できて当然だ、と。極端に言えば布教できるか否かに音楽自体の魅力は関係ない。成功している新興宗教の教義を手に入れたからといって、演説をした上で何万人もの信者洗脳することは、ほとんどの人にはできないように。

逆に言えば相対主義的な言説の好きな人間は、他者を洗脳する力のない、社会的弱者であるといえるかもしれない。言ってしまえばコミュニケーション力などというものは、いかに他者を洗脳できるかという能力である幸せそうなカップルだって多かれ少なかれ、強者が弱者洗脳してる関係である。だから『人それぞれだから』のような相対的な言説を多用する人は、本当に対象自体がマニアックすぎる場合(例えばスカトロ)もあるが、他者を洗脳する能力に乏しい社会的弱者である、という可能性も多々あるのではないか

2010-10-15

特定の問題を過小に取り扱うことが良識的な立場だと思ってる人達

元増田の姉はどう見たって弟に変な依存をしてるよ

これが「少々動揺してるだけ」って頭オカシイだろお前w


でもお前だけじゃなく結構居るよ、頭オカシイ奴。

ある問題を過小に取り扱うことが良識的な立場だと確信していて

習慣的にそれを繰り返すうちにナンセンスなほどメクラじみた反応が染み付いた人、これが結構いる。

はてなには普通より多いぐらいに居るよね。

元々この手の人達の動機って、

相対主義と言うか

「世間はヒステリックに騒ぐから、それより賢い私達のとるべき反応は~」

っていう視点だったんだろうと思う。

あとは、問題性を指摘することが誰かの欠点や失点の指摘に繋がりかねない場合

「世間は安易に差別性を含んだ声を上げるから、それより賢い私達は~」

ってなる。


政治外交で言えば、ちょっと周辺国家が野心的なこと仕掛けてきた時に

明らかに喧嘩売られてる、もしくは観測気球を上げられてる場合でも、

「相手はそんなつもりはない、過剰反応はよくない」ということを決まり文句のように言う。

これを見て「売国奴」「スパイ」「花畑」って罵る声がよく出るけどそうじゃなくって

彼らは「一般大衆より賢いバランサー」のつもりでやってるだけだったりする。

http://anond.hatelabo.jp/20101015093532

2010-08-08

魔法と見分けをつける

西洋医学による異端審問

http://togetter.com/li/40400

「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。」という言葉があるが、現代の科学医療などが高度に発達しすぎて、素人には因果関係メカニズムなどがつかみにくく、それが文字通り魔法と区別がつかない「悪しき相対主義」に陥る人間が出てくる原因なのだろうか。

例えば小学校で習うような、じゃがいもの青い部分を食べたら体に毒だとか、現代の科学医療もそういう分かりやすい事例の延長上にあるというような感じで道筋をうまく教育できればいいと思うのだがどうすればよいのか。

2010-06-27

http://anond.hatelabo.jp/20100627182058

ポストモダンについてはよくわからないのですが、ポストモダンは「グローバルに『正しい』ことは(ほとんど)存在しない」と帰結するという理解で正しいでしょうか?そうすると、捕鯨のみならず、たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」みたいな問題についても「ほとんど全ての文化において人を殺してはならないとされているから、グローバルにも殺してはいけないように見えているだけだ」という結論になる?

はい。お見事な理解です。少々過激な書き方をすれば、『「正義」なんてものは文化偏見の一種でしかなく、そこに普遍的根拠などというものはない。根拠が無い代物なんだから、「正義」を共有できないのも当然だ』というのがポストモダン以降の現代哲学の立場です。この30年くらいは哲学・思想・倫理といった学問では、ほぼ全ての立場が、この相対主義的な原則を出発点にしちゃっています。

「正しい」ことをもって問題を解決できたらもっと楽でしたね。

政治学では元々マキャベリ以来の伝統があって「正しさ」に宣伝効果以上の意義を認めていなかったのですが、とうとう思想まで「正しさの実現」に肯定的価値を認めなくなっている(「正しさとは何か」とか概念の追求ならOK)のが現代です。政治学と現代哲学においては「正しいこと」と「実現されるべきこと」はあまり関係がない、というのがほぼ常識となっています。この立場は数多の実証研究と厳密な形式論理の展開により支持されているので、学問的には当面揺らぎそうにありません。

2010-06-25

隷属は自由。

暴動は起きない。

デモ行進は退屈で、

革命への呼び声は気狂いの戯言。

知らないうちに身に着いた相対主義ハッピーに生きてく。

どこかのだれかに支配されてるのに。

それにさえ気づかない。

その方が幸せかもしれないとか言うけど、それは違う。

逃げ出す方法も抗う方法も考えないで、秩序と仲良くやってけるならそれもいいけど

愚痴言いながら奴隷やって諦めんの薦めるのはやめてほしいな。

2010-06-10

http://anond.hatelabo.jp/20100610205725

善悪の概念を持ち込んだから矛盾ばっかりの世界になるんだ

哲学はちゃんと(?)そっちの方向に進歩したんじゃないかな?

ニーチェの提起に始まって、道徳的規準についての絶対的価値判断を放棄してポストモダンにいたる、と。

世間の常識は必ずしも哲学の進展に従ってないけど、個人の心のベース相対主義者になれば、世間の「善悪」を気にせず、幸せになれると思うよ-。

2010-06-01

分かってもらえるとは思ってないけど、分かってもらおうとは思って

それが誠実さってことだと思う。

だけどそれがbullshitの引き金になったりして。

最初はこの文章、さよならディスコミュニケーションさよならフランクファート

そして、こんにちわ「人それぞれ」

そう書きだしてみるつもりだった。

だけどちょっと気が変わった。フランクファート読んだことなかったから読んでみることにした。

いくら衒学趣味でもちょっとくらいは真面目なところを見せたのだ。

フランクファートはアメリカ道徳哲学やってる人なんだけど、日本語訳されてるのは、on bullshitって本だけ。

邦訳は、ウンコな議論。

こんなこと議論してても意味ねーよばーかくらいの意味

これは僕の独断。本文中では、おためごかしって言葉が使われてたりするけど、これはちょっと一般的じゃないだろう。

翻訳者山形浩生は、ウンコな議論の具体例として、小泉元首相の、「人生いろいろ」という発言を例にあげている。

ウンコな議論は嘘を言っているわけじゃない。

ここで最初に戻るんだけど、「人それぞれ」もそうなんだ。

嘘を言っているわけじゃない。確かに人それぞれだ。

だけどそれは解答の放棄だ。

正解が何種類あるかはわからないにしても、全ての人が正しいってことはないだろう。

相対主義(つまり、人それぞれってこと)は何も生み出さない。

衝突も、議論も、止揚も、向上も、疑問さえも。

勿論それは日常生活スムーズに送る上では必要なことなんだけど。

だけどその考えがウンコな議論を必要としない場にも入り込んでくるんだ。それはよくない。

言語は思考を規定する。それがビッグブラザーニュースピークを作った理由だ。

つまり、自由と言う概念存在しなければ、人は自由について考えることをしない。

もし仮に誰かが自由について話したとしても、他の人はそれを理解できない。

ウンコな議論だってそうなんだ。ウンコな議論と真の議論を見分けられなければ、ある出来事に対して適切な理解をすることが難しくなるんだ。

ウンコな議論に慣れ過ぎていると、真の議論は乱暴で粗野なものに見えてしまうんだ。

大事なことは二つ。ウンコな議論かどうかを見分けること。

そして、ウンコな議論が適切じゃない場におかれている場合は、それをこれうんこだよって言ってどけてあげることだ。

2010-02-16

そもそもぼくらは野蛮人である

http://anond.hatelabo.jp/20100216195312

「野蛮」って語自体の意味合いはともかく、西洋近代の文脈とは少し離れた文化圏に属するぼくらは

元来野蛮人なわけですよ。そして、西洋人が我々に「野蛮人の国だな」と言ったとしたら

文化相対主義も知らない白豚がなにを吠えてやがる、と笑い飛ばせばいいわけですよ。

いいんですよ、そもそも野蛮人で。

それを海外の基準に合わせようと(それも、海外から来た洋服文化の文脈で)してみたり

挙句の果てに「海外から野蛮人と思われる」なんて危惧してみたり。

本音を言えば、多分スーツ着てるだけで失笑モンだと思いますよ、ぼくらアジアンですから。

でも、白人としてはこれ決していえないんですよ。

黒人差別同様、明確な差別になるから。黒人ダルダルファッションに対しても、白人は決して物申せない。

「だっせえ」と言うか、ちょっと皮肉るくらいが関の山で、それ以上は踏み込めないんですよ。

サベツになっちゃうから。まずこういう前提があることを認識した上で、

服を着崩したヤツが一人出て来たことを考えても、ぶっちゃけ何も起きないですよ。

スーツ着てる時点で彼らからしてみりゃ、おかしいんだから。

我々の国の文化として「着崩しはアウト」と認定するのはまぁ、内輪の問題だからどーでもいいけど

海外との対比で語るときは、そんなシンプルな図式じゃ語れないよねぇ。めんどいね。

もうみんな和服で行こうぜ。

2009-12-04

http://anond.hatelabo.jp/20091204224713

相対主義を批判しながら、身内共々相対主義にはまりこんでいた誰かさんがいたけど。

名前にITがつくとかっこ悪いよねというブーメランをかましていた記憶が…



http://anond.hatelabo.jp/20091205135836

自分体臭には気が付かないとよく言われるが(笑)

2009-09-23

http://anond.hatelabo.jp/20090923194831

いや、font-daさんの文章はやっぱりかなり読みにくいと思った。論旨がやっぱり不明確だし、あなたもそうだが、原典を読めばいいというスタンス過ぎる。

前提が多すぎて、カンタンに説明しろと言われても、という感じなのかもしれないが、だとしても、読め、という返しはちょっと、と思うよ。

1 ネオコンみたいな普遍主義も、文化相対主義的な及び腰のリベラルも、対象を「操作の対象」として受け身の客体としてしか捉えていない。

2 受け身の対象として当事者不在で忖度し、勝手当事者を代表して議論している限り、その議論は自己満足的なものでしかない。

3 かといって当事者不在では意味がないという論点が、何もしないことを正当化するのでは、さらによろしくない。

4 だから問題なのは、具体的な当事者との接点を、観念的にではなく構築することと、現にすでに生じている当事者との関係(これから意識的に作る、企画された、是非を論じられている関係ではなく、すでに生じている、現在の、具体的な、進行形の関係)を精査することである。

とか、そういう論点とか、それから踏み込んだ論点とかもあるんだろうけど、こういうふうに要点を書くことはできるんじゃないのか。

あとこういう問題についてはぼくはfreezing pointのひとを信用してる。文化の問題が絡むからイコールではないが、引きこもり問題でも「介入」の問題は重いテーマだ。

文体で分かると思うけど、ぼくは本人ではない。

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/

まるっきりはてサと同じだよね、これ。

街宣左翼ネットサヨクのやってることって岡氏の批判している事と同じ。

http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090923/1253674546

>問題なのは、「普遍人権主義」か「文化相対主義」か、なのでは、ない。このような二項対立的議論を生じせしめるような言説のトポス――他者を表象することで、これを支配したいという欲望が生じるトポス――をこそ、私たちは問わねばならない

2009-09-14

http://anond.hatelabo.jp/20090914153725

矛盾点

ニヒリズムの「真理が存在しない」とする信念に対する批判としては、もし"真理が存在しない"が正しいとすれば、"真理が存在しない"という主張自体が"真理"になり、自己矛盾に陥ることになる、とする主張がある。同じような反論は相対主義論理実証主義における意義の検証可能理論にも浴びせられている。

真理が存在しないに対するより高度な解釈として、「真理は存在するかもしれないが、それは実際には人間アクセスできるものではない」とするのがあるが、この場合、ニヒリストがどうやってそれにアクセスしたかが問題となる。これに対して、ニヒリストは真理に直接的にはアクセスしていないが、「真理は人間の境界内において結局獲得できるものではない」であることを過去経験により間接的に導き出しそのような結論となった、というのは理にかなった答えかもしれない。このように、ニヒリスト達は「真理は人間が獲得できるものではない」という前提から、彼らは真理を求める行為を無益と見なしている。

形而上的な概念である真理とは、その存在が認識されているからこそ存在するものであり、客観的な証明がなされなければ、存在すると言うことはできない。あらゆる真理が相対化される現代においては、少なくとも大多数にとっては真理とは存在しないものであり、ゆえに現代はニヒリズムの時代であるとする主張は多く見られる。

極端なニヒリズムとして、論理的な事柄の真理を人間が知ることはできないとするものがある。この場合、事実としてニヒリズムが矛盾に至ることは問題ではない。なぜならば矛盾は論理を受け入れる者に対して問題となるからである。

wikipediaよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%92%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

これが本当だとしたら、哲学って当たり前なことに無暗に小難しい理屈つけるだけの学問だと思うw

結論も当たり前だし…

2009-05-08

http://anond.hatelabo.jp/20090508193941

日本人感覚相対主義者が多いからなあ。でも、そこは譲っちゃならないラインだよ。

はてサは時々都合よく人権表現の自由とか)を相対化してくるからね。気をつけな。

2009-05-03

http://anond.hatelabo.jp/20090503125840

増田以外のブロ具や2チャンでも見かけるからそうでもないと思う。

両方を批判することで高みに立った気分になってるだけだろ。客観しできる俺様みたいな。

相対主義者がしゃしゃり出てくるのは疑似科学でも修正主義でもいつものパターン

2009-01-06

諸君、私はニセ科学が好きだ

諸君、私はニセ科学が好きだ

諸君、私はニセ科学が好きだ

諸君、私はニセ科学が大好きだ

水からの伝言が好きだ

ホメオパシーが好きだ

ゲーム脳が好きだ

インテリジェント・デザインが好きだ

血液型による性格判断が好きだ

教室で

テレビ

新聞

物理学会

家庭で

この地上に存在するありとあらゆるニセ科学が大好きだ

ゴールデンタイムに「オーラの泉」を見るのが好きだ

剥きになって否定する人間に「たかがテレビだ」と冷たく言う時など心がおどる

数字とグラフ機械が好きだ

パナソニックマイナスイオンをさらに進化させ、「ナノイー」を売り出した時など胸がすくような気持ちだった

極端な相対主義が好きだ

「信じるという意味なら科学医学宗教」と言い捨てる時など感動すらおぼえる

ベストセラーの10冊中3冊を血液型本が占めた時などもうたまらない

根拠もないのに「愛の存在は証明済み」と言い切るのは最高だ

偏狭な科学者がウェゲナーを否定し続けたのを

数十年のときを経て真実で捻じ伏せた時など絶頂すら覚える

AIDSを否定する美しい人妻が好きだ

毅然と抗ウイルス薬を拒み死んでいく姿はとてもとても悲しいものだ

広告を埋め尽くす使用者の感動の声が好きだ

公正取引委員会排除命令を出されるのは屈辱の極みだ

諸君 私はニセ科学を 不実で厚顔無知独裁者様なニセ科学を望んでいる

諸君 私に付き従うニセ科学好きの諸君 君たちは一体何を望んでいる?

更なるニセ科学を望むか 

糞の様なニセ科学を望むか?

高潔で人の心を大切にし、祈るだけで地球上すべての問題を解決できる絶対者のようなニセ科学を望むか?

ニセ科学!! ニセ科学!! ニセ科学!!

よろしい ならばニセ科学

だが、2ちゃんねるのようなひどいインターネット科学教信者の猛烈な批判に耐え続けて来た我々には

ただのニセ科学ではもはや足りない!!

ニセ科学を!! 一心不乱の大ニセ科学を!!

我々はわずかに小数

納豆ダイエットがやらせだっただけで「騙された」などと手のひらを返す連中に比べれば物の数ではない

だが諸君は一騎当千の真のビリーバーだと私は信じている

ならば我らは諸君と私で総兵力100万と1人の善意のMLM集団となる

我らを忘却の彼方へと追いやり、他者の価値観を口うるさく非難する科学狂信者を叩きのめそう

髪の毛をつかんで引きずり下ろし 眼(まなこ)をあけて思い出させよう

連中子供いじめられるのは奴らが父親を嫌いなせいであることを思い出させてやる

連中ランドリーリングを使えば洗剤は必要なく地球に優しいことを思い出させてやる

ニセ科学には奴らの哲学では思いもよらない現代科学では説明のできない力がある事を思い出させてやる

1000人の真のビリーバーの集団で 世界フォトンベルトゼロ磁場で埋め尽くしてやる

目標 ユニットバス

マコモ風呂 featuring EM菌」作戦 状況を開始せよ

征くぞ 諸君



http://anond.hatelabo.jp/20081228112256

http://wids.net/lab/HELLSING/

2008-12-22

http://anond.hatelabo.jp/20081222203922

相対主義って言ってみたかっただけ(満面の笑みで)

http://anond.hatelabo.jp/20081130144046

でも、浮気や行きずりも含めて、一生のうちにたった1人の男

としかセックスしない子なんて滅多にいないわけで。


どうでもいいはなしだけど、うちのオカンは(いまのところ)明らかにそう。オトンがはじめての相手で彼氏

80年代半ばに交際をはじめたようなんだけど、曰く、当時はいまほど男女交際が乱れていなかったと。

さすがにオカンのような例がメジャーではないとしても、付き合っても3,4人とかそれくらいで、なによりもセックスにまでおよぶカップルもそう多くなかったと。

こういうのって時代とか地域差がすごく大きいものだから、どこぞの社交界かキリスト教コミュニティあたりの例外的な話に思えるかもしれないけど、舞台地方都市郊外大学が密集する学生街。もっとヤリまくっててもよさそうなもんだけど、そうでもなかったらしい。

80年代ってポストモダン全盛でみんな差異に戯れってたんじゃないの、とか勝手想像してたんだが。

あれかね、恋愛資本主義(笑)の完成にはバブルの到来を待たなければならなかったのかね。まだ恋愛が多少なりとも慎み深かった(?)時代の最後の徒花、とか。

以上、そんな母親に育てられたからかは知らんけどこのまえヤラハタ達成した童貞談。

ついでに。

 アフリカの某部族の女子割礼(幼児のうちにクリトリスを切り取る

 史上最悪の儀礼)って、それが目的だし。


史上最悪の儀礼とか調子乗って断言しちゃってるけど、それはあくまで今日的観点からのおはなしね。

女子を交換可能な財、として見なすなら決して間違っちゃいない。

http://d.hatena.ne.jp/Britty/20081217/p2

こことか読むとわかりやすい。性の悦びを知らなければ浮気する可能性は低減できるわけで、結果として血族の純潔性はいっそう高まる。

日本でも明治以前は、程度の差はあれこうだったわけでしょ。政略結婚とか。もちろんさっき書いたように時代・地域差があるけど。夜這いしまくり江戸自体の一部農村とか。

そんでそういう発想の極北として女子割礼はあるのだけど(いやあ人間知恵って恐ろしいねえ最初に思いついた某部族の父祖は偉大だよある意味)、西洋近代価値観とは当然衝突するよね、と。

どんな文化にも独自の価値観があるわけで、それを尊重するのが文化相対主義なんじゃないの、と。それでも普遍的な倫理は成立しうる、という立場もあって、まあどうしても衝突するわな。

話がそれたけど、要は他のものさしを知れ、と。枝葉末節だがな。

いちおう断っておけば、俺個人としては女子割礼はナシだけど、それは俺が現代日本の文化に馴染み育ってきたからであって、よその文化がそういうことをしていることについては口出ししないよ、というのがスタンス

……これって処女うんぬんの議論にも適用できんじゃないの? どんだけ罵りあったところで、結局は個人の内面の問題、「人それぞれ」としか。

それがなんでこんなにも気持ち悪く盛り上がっているのかといえば、実際のところは「処女厨きめえ」という罵倒の欲望だよね。ただ「きめえ」じゃ頭が悪いから、もっともらしく現実の例とか学問とかを引っ張り出してそれらしく見せてるだけ。

あと万人の万人に対する恋愛観の闘争。俺(私でも僕でもワシでもなんでも)はこういうふうに恋愛してきて学習しました俺なりのテツガクがありますだからおまえの恋愛観はおかしい、と。

金銭感覚とか習慣とかもいい話のタネだけど、話題がことセックスまわりになるとどうもおかしくなるよなあ、とは思う。

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