はてなキーワード: 相対主義とは
A.違います。
社会の時間に「言論の自由」について習って、んでもってそれ以上の勉強はしてないふつーの人には、相対主義批判は「言論の自由」に反しているように見えたりします。意見の多様性を認めない、ということだからですね。でもそもそも、「多用な意見を認めない」の「認めない」ってどういう意味だ。
さらに言えば、「馬鹿は口を出すな」は、「非国民は黙っていろ」と被って見える。ほんとは大きく違います。「学」と「愛国心」がまず違う。迫害の有無が違う。ただ、時勢によってこれらは見分けがつかない物になるかもしれません。戦時においては「無知ゆえに非国民」という考え方もあったでしょう。
いろんな文化を認めましょう、というのも相対主義。文化相対主義。宗教だったり食文化だったりに偏見を持つのはやめましょう、っていう考え方。捕鯨だったり、食用犬だったり。どうですか。どう思うよ。どうだ。文化相対主義の理論自体を否定する人はあまりいないけど、テロ、奴隷、虐殺なんかを文化と居直った物を認めるべきか、っていう問題がある。んで、倫理と文化は密接に関わっている物の、そこは別問題だろ、ということになってるらしい。倫理相対主義とか言っちゃったり。
でもね、そもそも相対主義は何かを擁護するためのものではなくて、単に偏見を持たないようにするためのものなわけだ。だから原則論としては、相対主義そのものより、歴史修正主義や疑似科学が相対主義を利用することをこそ、批判するべき。するべきなんだけど、相対主義が歴史修正主義や疑似科学の温床になってるから相対主義そのものを否定しておきたい。ええい、もう相対主義はうんざりだ! 諸悪の根源め! うんざりうんざり! うるさいうるさいうるちゃい!という思いを抱いてる識者や学者は多い。もうピリピリしてる。
彼らにとって、隙あらばこちらに身をねじ込もうとしてくる歴史修正主義や疑似科学(或いは、歴史修正主義を含む疑似科学)に対抗する手段は、「そうは言っても、実際のところはわからないよなー」という意見をも、認めないことなのです。ようするに、「わからないなら、わざわざわからないってことも言うなよ!」なのです。そうすると、議論が混乱しない。理想的ですね。
ところで、この対抗策は現実的ではないですね。馬鹿に「馬鹿は黙っていろ。口を出したきゃ勉強しろ」と言うことはできるけど、でも言うことができるだけ。これは言論の自由の否定でも、言論統制でもない。説教でしかないんです。言論統制なんてできるわきゃないんです。
で、逆に言うと。言論の自由が認められている以上、誰が何を許さなくても、誰が馬鹿を糞の如く罵ったとしても、結局、あらゆる意見が世の中に出回るってことは、容認されてしまう。最近やり玉にあがってる東氏の考えは、それでも暴走しない社会作りをどうすればいいか、というものですね。
で、表現に気を使わない東さん、「勉強不足」や「誤認識」を持つ人間が出ることは避けられないし、彼らを黙らせる有効な手段はないですよねー、どうしましょう、という例に「南京大虐殺」を使ったことで、歴史修正主義者どもにぴりぴりしてる歴史学者さんとかに総叩きにあってるわけですね。「僕も実感がない」とか言っちゃって、「わからないなら勉強しろ、勉強しないなら口を出すな」と言われてるわけです。傍目から見てたら「過剰反応じゃないの……?」って思う人もいるかも知れないけど、さっきも言ったように学者や識者はぴりぴりうんざりだ。
ところでどうすりゃいいんだ。そうだ。そもそも、全ての人間に、正しい歴史認識をちゃーんと教育してやればいいんです。そうすれば、無知な民衆を味方につけようとしている、故意犯的な歴史修正主義者達を孤立させることができます。理想的ですね。
ところで、この案は現実的ではない。たとえば歴史学だけならば、それほど多くの問題はない。いや、歴史学が簡単という意味ではないけど。でも歴史学でよく問題になる重要なことだけを抑える、というなら不可能とは言えないかもしれない。極端な話をすれば、まともな学者とそうでない学者を見分けることができるようになるだけでもだいぶ違う。
でもこれは歴史学だけに絞った話で、全ての馬鹿が、全ての分野において正しい見識を持つのは無理ですね。持つのが理想だけど、無理なわけです。無理なんだよ、よく覚えとけ天才ども。
とすると、無知そのものを批判するわけにはいかなくなる。全ての分野において正しい見識を持つことが不可能である、と論ずる人を批判するのもおかしくなります。そう、全ての分野において正しい見識を持つことが不可能である、という事実を言い訳に、勉強しようともせず好き勝手言う人を批判するべきです。勉強していない分野のことは黙っていろ、という話になります。あ、戻ってしまいましたね。
実際あの手の議論は、この単純な二つの議論を行ったり来たりしてるだけですよね。ねこ大好き。
『文字情報ばかりで構成された世界観など、文字情報によってすぐひっくりかえる』
とは、一見いかにも現実を無視した相対主義的な発想で、歴史学の蓄積を蔑ろにした不届き者の発言である。
しかしながら、ネット上の南京大虐殺を巡る論争は、そもそも歴史学的な手続きに則って行われているだろうか。
否定論者にしろ肯定論者にしろ、彼らのうちの多くは虐殺問題を取り扱った著作や資料にあたったり、グーグルで1ページ、2ページ目に出てきたサイトを読んで得たものを手がかりに議論を行う。
しかし、自分の持っているデータを根拠に議論する、というのは実は「歴史学的な手続きに則った議論」ではないのだ。
東の言わんとしたことは、次のように読み替えられる。
「ネット上の南京問題を巡る議論など、全部個人的な信念や趣味に基づいて行われるものでしかないのだから、
http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html
http://72.14.235.132/search?q=cache:http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html&hl=ja
以下、わかりやすく翻訳しても長くて読みにくいのは変わらないので自分の読み取った結論を3行で書くと。
まあ、2ちゃんねるアニメ板界隈ではそれほど新しい主張ではないな、と翻訳しおわってから思ったけど。
では。
まあ、原作至上主義って言ってもいろいろ視点はあるよね。
「原作至上主義」って、これらの問題が混ざり合って出来てるよね。一応仕事だからこんな話があるのは知っていたけど、正直気にしだしたのは、noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言ったのエントリに煽られたから。日だまりスケッチ×365とかかんなぎとかに関して「原作とアニメのあいだ」とも呼ぶべきものが問題にされていて興味深かった。世の中わかった気がした偉い人が「統計学的な分析」とか「メディアが違うことを無視した分析」してるけど、この人は誰だかわからない、ってことは別にしてとても興味深いよ。
自分なりにまとめると、id:noir_kが「原作至上主義」について言ってることは、
ていうことだよ。
なので、この人の言いたいことはともかくとして、自分もその流れで「原作至上主義」について考えてみるよ。
「批評」って、見る側がするものだと思われがちだけど、作る側もするんだよね。作る側の批評というのは、過去のアニメ作品とかアニメ以外の作品について、「批判」することなんだけどね。ガンダム・エヴァンゲリオンはもちろん、アニメ以外のテレビ番組とか、ネットとか映画作品とかゲームとかコミックとか小説新聞美術作品とか、そのへんを「批判」するってこと。
みんなわかるとおり、今アニメを作る側の「批評」ってこんな感じだよね。
また、この辺が「新房昭之」「山本寛」あたりから始まる、ってのもみんなわかると思う。
まあこのへん「批評的な営み」って言うのかな、これ、
という流れを「忠実に反映」してると思うよ。
ちなみに、引用のうち、実写映画の技法、特に画面の構図とか物語の構成とか色合いとか撮り方編集の仕方に関する演出とか、に関するものは、それ出来るところが先にやったもん勝ち、っていう実情があるよ。
今はメディアミックスの時代だから、アニメ作る側も、原作とアニメを同じものとして作ることが求められている。でも原作とアニメって、片方は印刷したもの、片方は画面で音がついて動くものとして別のものなんだから違うものとして考えようよ、ってid:noir_kが「原作至上主義」に対して言ってることってなかなか良い意見だと思うんだ。
これらは仕掛けとして考えれば同じもので、見る側作る側はこの仕掛けを通じて共犯関係になる。そして「原作とアニメが同じものとして作られるものだという空気」が、これらが、なにかを考えて作られたものだな、とみんなに思わせる目印になっている。この目印を越えて、今のアニメの演出が進むことで、アニメを作る側も見る側も、新しい批評が出来るとわたしは思うよ。
こう書くと、ストーリーって重要な要素を忘れているのではないか、と言う人もいると思う。ただ、ストーリーって編集という演出の産物なんだよね。で、ストーリーは「ある内容」を「どう語るか」にあるわけだけだけど、「ある内容」ってもともと5から20個くらいのパターンしかないから、そこを評価しても仕方がない。「どう語るか」は批評の対象になるかも知れない。ニューヨークの9.11テロを題材にした物語は無数にあるけど、それをどの視点からどのように語るかということが重要だということ。うっとうしく社会学で語ると、これが「批評空間」世代と「東浩紀━宇野常寛・ゼロ年」世代の差異だということ。後者はおもいきり戦略的に「物語論」へと反動的に回帰しているように思われるし。言い換えると、「表現論」派と「物語論」派がいるよね、ということ。
世代が新しくなってるから、「表現論」派の肩身がきわめて狭くなるのは当たり前だよね。現に、自分は「コードギアス 反逆のルルーシュ」が「表現論」的な演出を自粛した作品だと思っているし、そのあらわれとして「物語論」派から支持を集めることに成功してるし。そして、このアニメは2008年を代表しうるアニメだからね。
アニメって、他のジャンルと比べても忘れられる度合いが例外的なほどに高いように思う。半年前のアニメさえ鮮明に思い出せないことの方が多い。これは何故だと思う?
それは、異常なまでに「物語」と「登場人物」(声優とか声優の演技のしかたも含めて)が似ていて、なんか同じものの繰り返しになっているから。
アニメ以外の、コミックとかゲームはよく知らないんだけど、コミックを例に取ってみようか。まあコミックも簡単なパターンで作られているようにみえる。でも、「美術と小説に関して明らかに規範的なテクニックを持っているのにもかかわらず、下手くそな画で馬鹿げた物語を語っている」漫画家が確かに存在しているのね。おまけに、存在しているのみならず人数も多い。
けれども今の時代、経済構造の都合でアニメ業界はそれができない。「原作のないオリジナル作品が作れない」っていう意味ではなく、「オリジナルなものが抑圧される」という意味で。俗っぽい例えだけど、「優れた直木賞」は受け入れられても「中途半端な芥川賞」は抑圧されるということなんだよね。だから、ほとんどの作品が忘れられていくのは当然の事態なの。(より正確に言うのなら、「直木賞」と「芥川賞」の差もなくなっているし、アニメの歴史の問題というより、今アニメを作る人が信念を持って「特化」しようとすると、淘汰されるということかな。でも「特化」なんて言えるようになったのが90年代に入ってからのことなので、奇妙なねじれがあるようにみえるんだよね。この「ねじれ」を作家主義が引き受けたこと、そしてインターネット社会が同時的に誕生したこと、これが、「アニメーションの歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈山本寛の談〉と呼ばれる事態なのかな、とわたしは考えるよ。)
現代のメディアミックス時代における、アニメ作る側の「原作至上主義」、インターネット社会におけるアニメ見る側の「原作至上主義」。
相対主義を標榜するほどナイーブでもないので私見を述べると、どっちも間違ってる。
アニメ作る側がいくら「原作」を「模倣」しようが、メタフィクション・パロディ・引用・自己言及、そして実写の早い者勝ち引用ゲームからは抜けられない。アニメ見る側がいくら「原作とアニメはこんなに似てる」と言おうが、根本的にそれは異なるものだから。根本的に違うものなので、いくら似てると言っても意味がない。それとも、類似点を言っていればヘーゲルの時代に戻れるとでも思っているのかしら。
ヘーゲルは小説のことを「市民社会のブルジョワ的な叙事詩」と定義した。要するにアニメの場合、「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するということ。言い換えればこれが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」を懐かしむことにつながると言うこと。でも、懐かしがって出来た物語は「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかないし、その物語は「売れる=消費される」社会の現状維持的な肯定。果たして、それでよいの?
ひっそりと深夜に放送されるアニメを作るのも見るのもまっぴらごめん、と言う態度は適切だし、ましていい大人、常識的な社会人が、という話なら正しい振る舞いでもある。
ただ、昔の人が反語的に言うような、アニメがステータスシンボル(「オタクのしるし」とか)以上の存在価値を持ち得ないという議論は、あまりにも不毛で、杜撰で、素人じみている。富野由悠季まで戦略なしに不意に言うのを聞くと、断固として反論する必要があると最近思っている。そして逆に、圧倒的な「アニメ≒コミック」表現に関する戦略性(プレゼンテーションと歴史的な文脈づくり)で欧米諸国を震撼させた村上隆のような現代美術家に対しても、最近では諸手を挙げて肯定することは出来なくなっている。
富野のペシミズムと、ペシミズムの盗用により現代美術世界で名だたる作家となった村上隆。
なんにせよ、この2人が、行き詰まっている現状でぎりぎりの戦略をとっていることは胸を打つ。この固有名詞が、アニメにやってくる。決して2人とも現状を抜け出すことには成功していない。2人ともテクニックはあるけれど、状況を突破するほどの何かを示してはいない。
でも、新房はテーマとの暴力的な遭遇(西尾威信の小説のアニメ化)によって現状を何とかしようとしており、山本はアニメ作りと同時に言論活動を展開することで、自己弁明しながらも新しさを模索しているようかのようにみえる。
そして、まちがってもそれらは、『ef -a tale of melodies.』(※監督:大沼心、監修:新房昭之)や『かんなぎ』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。
けれども、「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その恐怖心こそが、富野や村上には見いだせないものであって。
くだらないテーマの指摘とか、原作とアニメが違うだとか、ありふれた技法を指摘するだとか、歴史的にあれと似ているとか、そんな指摘は新房や山本が恥じらいながらも表現しようとしているものにまるで追いついていないのよ。
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10137812924.html
結局、論壇という狭い世界を漂っているなんとなくな言説の「空気」を「世界」だと思っているのよね。
それじゃ読者にはいつかバレるし、どんどんバレればいいと思う。
最近の彼の書くものを見ながらずっと思ってることなんだけど、東浩紀ほどネット上の言説にコミットして、その結果として悩んでいる人間はいないんじゃないかと思っている。
私が「ゲーム的リアリズムの誕生」を読んで一番印象に残ったのは、その注釈の多さだ。ページの半分が注釈で埋まっている箇所さえある。確かに、360度からツッコミが入る環境で言論を戦わせた経験のある人間が、それを踏まえてなお、己の主張を一冊の本に固着しようとしたら、あらかじめ360度の防衛線を張るより他ないだろう(まぁ、それでも矢はガンガン盾を突き抜けていくわけだが)。
少しでもネットで議論を交わした経験のある人間なら分かると思うが、公の場に自分の主張を出すということは、己がコミットするものが、「世界」から見ればワンオブゼムでしかないことを徹底的に再確認させられる作業だ。情報技術の発達は、あらゆる立場のあらゆる人間が己の主張の正当性を信じているということ、それを可視化することを可能にした。たとえ、その主張が本人の誤解や全くの思い込みに基づいていたとしても、だ。そして人には、それを真実であると信じ、仲間と共有し、異を唱える者を「反公共的人間」として糾弾する「自由」がある。
だから、彼が「南京」を例に出しているのを見たとき、そういう現状を極めて率直に語っているのだな、というのが私の感想だった。彼の言っていることは全く正しい。「世界」に対して真に誠実に向き合うなら、あらゆる主張が「ありうる」という事実を認めるほかない。
しかし我々は、徹底的に相対化されうる「世界」の中でなお、それぞれがそれぞれの理由で「偏り」を持った存在であり、それを解(ほど)くために何かにコミットすることを選ばねばならない。たとえ、そのことに絶対的な正当性がなくとも。そして同時に、己の立ち位置の「根拠」の無さを忘れることなく。
東氏も、最終的にはメタメタから降りて、何かに「あえて」コミットする道を選ぶことになるだろう。けれど、上の文を一読して、そんな彼を悪し様に批判してどうするんだろうな、ということを思った。もちろん、それを言ってる本人やその他の人々やそして私が、東氏の言うジレンマを踏まえた上でなお何かにコミットすべく踏み出していくのは勝手だし、いや、むしろとても価値あることだと思う。
しかし、「お前はなぜそれにコミットしないのだ。風見鶏を気取りやがって!」という批判は、直裁に言えばとても気持ち悪い。何かにコミットする、そしてそこに正義がある、というのは今や自明ではない。もちろん、自明でなくてもヤラねばならないことはある。それはそれで正しい。しかし、上記のような批判には、その二律背反に対する躊躇が全く感じられない。そういう躊躇の無さが、批判的な意味で「左翼的」と呼ばれているなら、その感覚には同意する。
「コミットすることの正義」は自明ではなく、しかし、自明でなくとも進まねばならない。この隘路を踏まえずに突き進んでも、全ての言説が相対化されタコツボ化するネット社会において、「利己的な正義」のワンオブゼムとして忘れ去られる以上の成果など残せないのではないか。
東氏が、いつ次のステージに踏み出す気なのかは知らない。我々は、彼の言説を踏まえつつも、それを尻目に黙々と自分の道を歩めばいい。それだけの話だろう。
(追記)
上のエントリが某所で言及されてたのを見て、反射的にコレを書いたんだけど、よく見ると9月の記事だとさっき気づいた。上で「360度」って書いたけど、これは若干語弊があるね。今まさに実証してしまったように、弾は四次元の方向からも飛んでくる。よく、こういう環境で「批評」を、しかもそれを「本」という固着された存在にしようなんて思うよなぁ。
(追記2)
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20081203#p1
んー、そういう「誤った相対主義」の結果として東の発言を捉えるのはミスリードだと思うんだけどなぁ。そもそも例の発言は、デリダの言ったっていう「ユニバーサルな人間理解の可能性」というのは所詮不可能であるし、不可能であることを前提としない民主主義はある意味不健全である、という認識に基づいていて出てきた発言であるように思うので。その辺は、「東京から考える」や「思想地図」を読むと分かると思う。
「絶対平等主義」、各個人の評価の絶対化、価値相対主義とは、彼等にとって不可侵なものだから、従ってこの日本的個人主義は一種の孤立主義となり、その対人関係のあり方は非常に気を遣うものとなる。つまり各個人の価値は全てバラバラかつバラバラなまま絶対的なものだから、それを侵害しないよう――対立しないよう距離の取り方に充分気を付けながら(中略)生徒達は自分の選択した顔だけを使おうとし、それ以外の顔は隠そうとする。従ってお互いに相手がどういう顔を選択しているのかを探り合い、その選択した顔以外には触れないよう気を遣いあう。(中略)それ故、クラスを運営するにあたって、各個人の対立を前提とし、粘り強く話し合っていくという教員からの働きかけは(中略)彼等から最も嫌われる。と言うのも、そのような働きかけそのものが、各個人に対する「押し付け」や「強制」に他ならないと、彼等には感じているからだ。そのように対人関係を全て自分でコントロールしようとする結果、それは非常に表面的なものとなってしまい、生徒自身にも不満を残すものとなってしまう。従ってその不満の捌け口として、ありのままのこの自分を一挙に全面的に受容してくれる存在を見つけようとして、突っ走ってしまう。(中略)つまり、(中略)一挙に自分の全てをさらけ出せる安心感を求めようとするのだ。
(「ele-king」34号「お前なんかとひとつになれるか」より)
※友人がオタクについて語った文章が面白かったので、許可を得て増田へ転載。
以下、友人の弁。
オタクが現実の問題について考えるとき・語るときに陥らないよう注意すべき点として、オタクのなかに強く見られる論理と心理の問題を以下に例示する。
これはべつにオタクじゃなくても当てはまるだろうという指摘があるとすればそれはその通りだが、ここで対象をオタクに限定したのは、筆者自身がいわゆるオタクであり、オタクのなかに見られる論理と心理について、ほかの集団のそれについてよりもよく見知っているという理由による。したがってここで例示したものは、あくまでそれがオタクにおいて比較的傾向的に強く見られるという筆者の観察に基づいている。
カッコイイズム
「カッコイイ」ものに対する素朴なあこがれと肯定の心理。ここで言う「カッコイイ」ものとは、たとえば、強さ、正義、純粋さなど、ヒーローものやロボットアニメなどに典型的に表されている価値観。こうした「カッコイイ」という観念は、具体的な作品を通して、実体的なものと結びついている場合が少なくない。典型的には武器・兵器との結びつき。強さへのあこがれと肯定が武器・兵器へのあこがれと肯定になって表れる。とくに男性オタクの場合、幼少期の経験によって、こうした素朴な心理がほとんど所与のものとなっている場合が多い。
こうした心理が現実の問題に適用された場合、非妥協的で一方的な強硬論の主張として表現されることになる(ヒーローはその純粋さと強さでもって有無を言わさず正義を実現する!)。たとえば、オタクが対北朝鮮問題について一方的な強硬論を唱えたり、日本の安全保障について軍拡論(さらには核武装論)を唱えたりする場合、その中には素朴なカッコイイズムの心理(しかも軍事力と結びついた軍事カッコイイズム)が混入していることが少なくない。もっと穏やかな形では、「あんなヤツやっつけちゃえよ」といった言説。自分だけの単純・素朴な心理(しかもしばしば暴力と結びついている)だけでもって複雑な現実を捉え解決しようとする点で非常に問題。
善悪二元論……敵の悪魔化と味方の無謬化
正義と悪の戦いというものの見方。典型的なヒーローものの論理。
敵=悪玉の論理。相手が何か一つでも悪事をはたらけば、事の大小も問わず、責任の限界も取り払って、相手を邪知暴虐な悪の枢軸にしてしまう。相手のすべての行動が邪悪な行動とされ、相手は邪悪なことなら何でも企みうるし、なし得るとされる。敵の悪魔化・万能化。行動が悪なのは人格が悪だからという論理、悪の人格からは悪の行動しか出てこないという論理。さらには、その悪に関係する人、組織、集団や、悪を擁護するものも一律に悪とされる。悪の肥大化。
これと対照的な形で善玉の論理が出てくる。上記のような巨悪を批判・非難する側はつねに正義であり、悪を殲滅するまで徹底的に攻撃を加えるべきだとする論理。結果として、邪知暴虐な悪との対決にはあらゆる手段が用いられ、往々にして敵よりも残酷で非道な手段を用いることも少なくないが、そうした手段は目的の「正しさ」によって正当化される。敵が悪魔化されたのとは対照的に、味方は無謬化される。宗教戦争に典型的に見られる正戦論の論理。
こうした論理が現実に適用されている例は枚挙にいとまがない。犯罪者バッシング、不祥事バッシングのほとんどがこうした論理によって展開されている。
現実はもっと複雑であり、善悪二元論で割り切れるものではないということ。善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるわけではなく、しばしばその逆であるということ。仮に犯罪や不祥事があったとしても、その事実をありのままに観察して論じること。特定の人格、集団、組織にすべての悪を引き受けさせるのは現実的なものの見方ではない。悪をなした側には悪をなした側なりの論理や心理がありうる(一応、オタク文化にもそうした側面に配慮した例外的な作品はある。『逆シャア』など)。単に人格的なレヴェルの問題だけでなく、構造的なレヴェルでの問題を見ること。そうした現実の複雑さに耐えきれず、問題を最初からすべて善悪二元論の鋳型に流し込んでしまうのは、宗教家かデマゴーグの方法。
問題の人格化
肯定・否定問わず、あらゆる対象を大小さまざまに人格化・キャラ化する論理。
これが現実に適用されると、典型的には民族や国家を人格化するようなことが起こる。さいきんでは『ヘタリア』の例。人格化された対象はある一定の本質を持っているように描かれ、ステレオタイプが促進される。
さらに、人格化された対象が実在の特定人格と結びつく傾向もある。たとえば、日韓関係が小泉vs盧武鉉のような形で著しく人格化されて語られた。これを歴史観に反映すると特定の人物に歴史を仮託した英雄史観になり、現実政治に適用された場合には指導者待望論につながる。
感情移入と過度の思い入れ
対象へ感情的・感傷的に没入する。対象と一体化した共感・同情。惚れた状態。マイナス面が見えなくなる。あばたもえくぼ。
現実に適用された例としては、拉致被害者家族会に対する感情移入。「被害者家族はこんなにかわいそうなのに、どうして北朝鮮に譲歩するのだ」という主張。共感・同情・思い入れが唯一の原理になる。没入対象が民族や国家などの場合は排外的ナショナリズムになる。
主観主義・心情主義
主観的心情と客観的現実とを同一視。あるいは、客観的現実を無視。
典型的な形態としては精神論。あきらめず努力すれば必ず夢は叶うという心情(ジャンプ的な少年マンガにも、少女マンガにも共通した心理)。
観念的空想
観念的な空想をもとに話をしてしまう傾向。「あれは??に違いない」「これは??なのではないか」という、根拠の薄い空想や概念操作を前提として議論を展開する。
オタク的な想像力の源泉とも言えるが、現実の問題に適用された場合、「どうせ??だろう」といった非現実的な憶測・陰謀論や、「もしかしたら??かもしれない」といった希望的観測にしかならない。
拗ね者意識、ルサンチマン
オタクがなお社会的弱者であるという現実から引き起こされる心理。潜在的にせよ顕在的にせよ、自分が疎外されているという意識。
こうした疎外感や拗ね者意識はオタク文化が閉鎖的土壌のもとで独自に発展する要因ともなったが、関心が外の現実に向けられた場合、マジョリティ・メインストリーム・既得権益、さらにはほかの社会的弱者に対する引きずり降ろしの心理がはたらく。
また、社会的弱者であることを一種の免罪符としてあらゆる粗暴が肯定され(被抑圧状態の復讐)、ひとしきり気分よく暴れることで欲求不満を一時的に解消しようとする。
「正しさ」信仰による偏向
どこまでも「正しい事実」を追求する態度。オタク文化の創作物のなかには「正しい公式設定」が存在しうるし、作品解釈をめぐってはそうした(しばしば枝葉末節に渡るほどの)「正しさ」が重要な論点となる場合がある。オタクのパラノイア的側面。
しかし、現実世界においては「正しい公式設定」は存在しない。正しい見方、正しい歴史、正しい勢力は存在しない。あらゆることが論争の対象。「正しさ」だけをもって現実を語ることはできない。政府の「公式見解」が時として「正しい事実」に反することには異議を唱えなければならないが、一方でそれが時として「事実上」(de facto)通用するという現実の意味も認めなければならない。現実の複雑で多様な側面に目を配る必要。一方だけの「正しい」主張しか知らないのはいかにも中途半端で偏向している。
中道、無関心への逃避
積極的な主張をするのではなく、むしろ中道や無関心を言うことで、現実の多様性とそこから要請される態度決定を忌避しようとする心理。「人それぞれ」という底なしの相対主義もこの系列。
しかし中道や無関心も歴然とした1つの立場である。これを認識することが肝要。むしろこうした無自覚な中道派や無関心派は、普段から積極的に態度決定する訓練をしていないだけに、イザというとき冷静な判断ができないおそれがある。
議論ずらしと無責任
「ネタ」「ベタ」「メタ」という形で議論のレヴェルをずらす傾向。オタクのスキゾ的側面。
空想や観念の世界に思いをめぐらす議論ならともかく、現実について考える・論じるときにこれをやると、とんでもない無責任な方言、責任回避になる。
とくにネットのような場所では、万人が非常に気軽に意見表明できると同時に、その影響範囲はきわめて広範囲に及ぶ可能性があり、責任は思いのほか重大。他者に責任を転嫁したり、「ネタだから」などとごまかすくらいならば、意見表明などしないほうがよい。
※投稿者としてはこの主張全てに同意するわけではないのだけど(例えば、一口に「オタク」と言っても、北朝鮮への一方的な強硬論や核武装を訴えるような軍オタにはそうそうお目に掛かれない)、こういう傾向は確かにあるかもしれないと感じる。これを見ているオタクの増田諸兄はどう思われるでしょうか。
ニ十数年前にポストモダンはやり始めたとき、「自分の思考=普通」という考えは絶滅すると思ったら、いまだに生き残っているようで、年齢層の高い人で「茶髪は何とかなりませんか」と言わない人間の方が少ない。
「金髪は何とかなりませんか」もひどい。
「金髪は何とかなりませんか」的思考は現代社会における考え方には絶対にそぐわない。若者だけでなく、日本全体で見ても絶対にそぐわない。
以前日本で「茶髪・金髪は何とかなりませんか」的思考をしている人は多かったが、最近は高齢者だけになった。しかし、その数はまだまだ多いようだ。
大体「金髪・茶髪は何とかなりませんか」的思考は今の日本社会にそぐわないだけでなく、世界からひどく馬鹿にされているのを知らないんだろうか。
現代人全般は古い考え方の人は現代人全般の考えが理解できず、自分の感受性こそ正解としたいんだと嘲っています。
「金髪・茶髪は何とかなりませんか」的思考は思想的に相対主義には敵わない。
対抗するとしたら、頭の内容・知性を以てするしかない。
ところが、「茶髪・金髪は何とかなりませんか」と口走るその顔からは、一切の知性が感じられない。
もし、それが、何か文章を書くブロガーという職業だったとしたら、そんな固定観念にとらわれたブロガーは本物の文章を書くことが出来るわけがないと、私だったら考える。
「茶髪・金髪は何とかなりませんか」的ブロガーが書く物は、泡みたいな物で、二年も寿命がない。
「茶髪・金髪は何とかなりませんか」と書いた段階でブロガーとしては最早負けだな。
古い考え方の人間よ、「茶髪・金髪は何とかなりませんか」と自分の嗜好を披露する暇があったら、その頭の中味を鍛えろよ。
勉強しろよ。世界中の若者は当然のように他社の嗜好に対する許容性を身につけているぞ。
高年齢層の人は昔からの価値観にしがみついて昔の文化にのみ身をまかせていて、自分の物の見方だけが当たり前のだという考え方を改めようとすることがない。
古い考え方は老害になっているだけだ。
「茶髪・金髪は何とかなりませんか」的思考をする人たちを見ると、昔の世代は「くずだんご」の世代だなと悪口を言いたくなる。
とにかく視野が狭い。汚らしい。
「茶髪・金髪は何とかなりませんか」的発言は「私の頭は空っぽです」と宣伝する看板だ。
何度でも強調するが、視野が狭いのだ。
その、視野が狭いことが分からない神経が鈍すぎる。
自分の娘のことで恐縮だが、現代人の女性は私の娘の発言を聞いて「固定観念にとらわれず、多様な価値観を許容できてうらやましい」という。
自分の好き嫌いしか見えていないようでは何もならないと思うけれどね。
アンチばっかのところで誉めたら同じく排除されるよ。
結局のところ多数派、というか声の大きい人たちが、自分たちが気持ちよくなるために場を動かそうとするってだけの話で。
それは2chだけの話でもないと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20080201134741
大元が「好き」「嫌い」って言う感情の話をしていて元増田はその二つは公平だろ?っていう話をとても理論的に語っていると思うけど。
とりあえず、今回はそちらが「両方私憤だろ」と答えてくれたことでようやく話が少しだけ進んで嬉しい。
最初からそういう趣旨の発言だ。それ以上の議論する気なんてねーよ。あとはどっちの私憤に共感するかって話だしそんなもんに興味は無い。俺はどっちが正しいかなんてことに一切言及してない。
やれやれ。
「『両方私憤だろ』というまとめ方がおかしいというか有害だ」という話をした積もりだったんだが、全く通じてないのか。
「どっちが正しいか言及しない姿勢こそが悪い相対主義だ」と。「どっちもどっち」という趣旨の発言をすることこそが、一連の事件に関して梯子の擁護になっているという話をしているというのに。だから最初にタイトルで「切って捨てろ」と主張していたというのに。
「天然には勝ちようがない」という意見には大いに賛同しておく。
話を整理する。
初期から「はしごたんが他人に発する敵意」と同じかそれ以上のレベルの敵意をはしごたんに発している奴らばっかだったように思えるが・・・(1)
この(1)はそもそも「印象論」である。事実を測定する基準も何もない感想(ちなみにTB先の記事は自分の記事ではない)。ただ、こういう「印象論」をここで持ち出すと「梯子も叩きもどっちもどっち」という印象ができあがる。これまで一月ほどの間、梯子擁護者がことあるごとに持ち出してきた「相対化」の理屈やその結果としてのループと同じ流れにウンザリ。こちらが反駁したのはその点。で、コメント。
ここで「一人が一人に向ける敵意と多数が一人をターゲットにする敵意を同列に論じても無意味」ということを言うのに、私憤と(『公憤』という言葉は余り一般的ではないので)義憤、という言葉を使った。これはこちらのミス。で、それに対して上に書いた(2)のポイントではなく「義憤かよwwww」的なレスが来る。
正直(1)の記事で、そちらが何をしたかったのか未だに分からない。「どっちもどっちだ」という主張を導き出したいのかそうでないのかも、未だによく分からない。「義」とか「公」という言葉を随分大層に扱っているが、そちらのイメージするような「義」や「公」などというものはこの世に存在するのだろうか。
「私vs公」と述べたんだったらまずどこが「公」か説明しろっての。
そちらが大層な意味づけをしているのでなければ、上で言い直したように私憤・義憤という言葉を「1対1の怒り」と「多対1の怒り」と言い換えても言い。それらの言葉に大した思い入れもないので、「義憤なんて所詮はその程度のもの」だと思っているし、そう言い換えてもこちらの論旨は全く変わらない。
だが「義憤なんて所詮はその程度のものだ」的な考えを「何もしない」ことの言い訳にすると、何一つ手を出すことも活動することもできないニヒリズムを生むだけで、そういうものは「悪い相対主義」だと私は考える。
「私憤と同じかどうか」ってそんなもん説明したとおりに両方私憤だろ。
たとえばこういう考え方だ。
偽善を恐れて何もしない人間は、何もしないこともまた一つの意思表示であり行動であることに目をふさいでいるだけだ。
付け加えて言えば、どちらかといえば公を「背負っちゃった気になってる」人間の方が、「公を背負うとか馬鹿かwwww」と嘲笑してる人間よりマシな人間だと私は考える。なぜなら歴史上前者は世界を良くしたことはあるが、後者が世界を良くしたことなど一度も無いから。前者が後者よりも危険であることも勿論だが、危険でない後者が前者よりマシだとは全く思わない。よって後者の立場から前者の立場を批判する「そちらの理屈自体が無意味」と書いたが、それはそういう意味。
とりあえず、今回はそちらが「両方私憤だろ」と答えてくれたことでようやく話が少しだけ進んで嬉しい。
「義憤」という言葉の「義」の字に必要以上にこだわって憤り過ぎてるんじゃないの。誰も「梯子叩き=正義wwwうめぇwww」なんて言ってないじゃん(パワーゲームって言葉みても分かるでしょう)。元記事自体「私」に対して「公」という程度の意味なわけで、ポイントは「二つの怒りは性質の違うものであり比較不能だ」って話。
で、まずそれが「義憤であるか否か」は別として「私憤と同じかどうか」という点についてはどうなの。で、
・同じじゃないつー点に争いが無いんだとしたら「同じじゃないものを同列に比較するのは悪い相対主義」という批判をどう思うの。
・同じだと思うなら、どの辺が同じなのか。
説明希望。
ものすごい擦れ違いがあるので一応説明しとくかな。
俺ははしごたん叩きが「義憤」だと言う人間に対して「それは違うだろ?」と言ったわけよ。
それに対して「ただのパワーゲームだろ」ってお前が言ったってそれは反論にならないしそもそも論がぶつからない。
俺は「パワーゲームだ」とも言ってないが「パワーゲームじゃない」とも言っていないんだよ。それなのに「反論」されても困るわけよ。
俺が「義憤」と言った人に対して「義憤では無いだろ?」と言うことそれ自体がうざい、と言うんだったら言ったとおりに「心の底からどうでもいい」よ。
http://anond.hatelabo.jp/20080127180650
↑で義憤って言葉が出てるから、義憤ではない、って言う理屈を述べました。
俺がしたのはそういうことよ?
義憤と述べたことと↓で述べてることが「繰り返し」にはとても思えないんだけどな。
http://anond.hatelabo.jp/20080127191055
↑は俺の「義憤気取るな」って意見に対して「そういう意見はウザイです」としか言ってないじゃん。
「異なる怒りを同列に比較するのは悪い相対主義」→その違いは私憤と義憤。
に対する突っ込みは十分に
http://anond.hatelabo.jp/20080127181916
でしてるんだよ。義憤ではないだろう?と。
それに対するお前の反論が「そういうの古いしうぜーよ」なんだもん、俺に何を言えとw
だから、そもそもの反論が言いがかりなんだよ、と言ってるわけだが。最初から。
「http://anond.hatelabo.jp/20080127180650」の意見のポイントである「異なる怒りを同列に比較するのは悪い相対主義」ってとこにあんたは全然反論してないだろ。オレはそれを何回も繰り返してるだけ。自分の論のどこが批判されてるかくらい、こうやって指摘される前に自分で気づこうよ。
あんたの主張してるような「オレたちは相互に『自分の正義をぶつけ合』っているに過ぎないんだぜ」的な相対主義世界観は、ヤマトからガンダムくらいまででもう終わりにしてくんねえ?もう充分ですから。あと偽悪趣味とか。そんな発想で「梯子擁護のオレ。超クールじゃねwwww」とか思ってる阿呆が多くてうざいんです。
「一人が集団のanyoneに殴りかかったから集団から数倍にボコられる」…いまそこにあるのはただそれだけのパワーゲーム・ポリティクス。公を殴れば公にボコられる。そんな世界に妙な「相対的正義感」をふりかざし、みんなに説教しようとしてるのはアンタの方だろ。
人生は有限なので詭弁論者に付き合っている暇はない。 ■何でも相対化 価値の妥当性を問う場においては単なる思考停止。大抵、自分に対する批判の無効化や優越感に浸るために相対化をする。 ■価値の押し付け この手の論者は、異見を散々相対化した挙句に自論を押し付けてくるので徹底的に相対化してやる。その結果何でも相対主義者に変貌することがあるので注意。 ■空疎な述語の濫用 ひたすら抽象的なレトリックに終始し、主題を曖昧化する。比喩表現を「なぜか」難解にする。 ex)ポストモダニスト ■己が守れぬ規範を強制 法やモラルに裏付けされているならともかく、恣意的なルールに従う必要はない。発言者が守れないのならなおさらである。 ■倫理的恫喝 一見、「普遍的」な概念を語るように近づき、法的責任のない罪に対し、「個人へ」贖罪意識を迫ってくる。カルトの常套手段なのでまず相手の設定した前提を疑う ex)募金をしないことによる間接殺人
価値の妥当性を問う場においては単なる思考停止。大抵、自分に対する批判の無効化や優越感に浸るために相対化をする。
この手の論者は、異見を散々相対化した挙句に自論を押し付けてくるので徹底的に相対化してやる。その結果何でも相対主義者に変貌することがあるので注意。
ひたすら抽象的なレトリックに終始し、主題を曖昧化する。比喩表現を「なぜか」難解にする。 ex)ポストモダニスト
法やモラルに裏付けされているならともかく、恣意的なルールに従う必要はない。発言者が守れないのならなおさらである。
一見、「普遍的」な概念を語るように近づき、法的責任のない罪に対し、「個人へ」贖罪意識を迫ってくる。カルトの常套手段なのでまず相手の設定した前提を疑う ex)募金をしないことによる間接殺人